秀吉異聞 鬼子嶽城悲話 ()


プローローグ             

 唐津から西へ十数粁のところに、北東から西南の方向に、南東向きの海抜約三百米、切り立った鬼子(きし)嶽山(だけやま)がある。南東の向かい側には、小高い山々と少しの平地を挟んで、高さ約二百米の日向地山(ひのこうちやま)があり、その裾を、源を有田(ありた)(ごう)、黒髪山に発する松浦川が、流れている。この狭い村が、佐里村で、上部落と下部落とに別れていた。北東側には、(とく)須恵(すえ)川を挟んで、北波多村があり、こちらの村は、佐里村より広く、徳須恵、(たけ)(あり)行合(ゆきあい)()など九つの部落からなっていて、支流の徳須恵川は、千々賀のところで、松浦川と合流する。
 鬼子嶽山からの眺望はよく、東に作礼山、その奥に天山があり、その間から朝日が昇るさまは絶景だ。東南の方角には、有明海の不知火(しらぬひ)が望めるという、標高約八百米の八幡岳がある。
 目を転じて、北東側には、領巾振りの松や佐用姫伝説で名高い鏡山が、摺り鉢を伏せたような形で行儀よく横たわってい、その鏡山の麓を河幅を広げた松浦川が、唐津湾に注ぎこんでいる。
 この山に十二世紀の中頃、波多(たもつ)が築城し、十六世紀末まで四百余年間、波多氏の居城として、北波多村、佐里村は栄えていた。
 鬼子嶽城は、松浦川とその支流徳須恵川に挟まれた山城で、鬼子嶽山の麓に小高い山々が連なっていて、ほとんど平地はなく、松浦川と徳須恵川の流れに沿って、わずかな耕地があるだけである。その狭い平地にわずかに広がっている田圃は肥沃で、天災さえ少なければ、一反から獲れる籾は、他の村々より多く収穫することが出来た。だが、この村は、台風の常襲地域で、毎年雨と風に悩まされる。
 春の麦の取り入れの時期に洪水に襲われ、水に浸かった麦は、芽を出してしまい、収穫が皆無という年もある。しかし、百姓はそれにも負けず裏作の麦を作り続けた。
 田植え頃になると梅雨が始まり、その雨で洪水になることが多い。この時期の洪水は、すぐに引いてくれれば、稲への影響はほとんどないが、秋の出穂の頃に、何回となく台風がやって来る。この時期に洪水になったりすると、稲が実らず収穫は皆無となってしまう。
 このように台風や雨に悩まされることが多いのだが、この地域は日照りがつづくと、川の側だというのに、旱魃(かんばつ)で田圃が地割れてしまうのである。どちらにしても、百姓は被害を受けることが多く、貧乏暮らしを余儀なくされていた。
 この旱魃の被害を少しでも少なくするために、山の多い佐里村では、谷の入口の狭くなった部分に堤防を築き、いろは堤と言われるほど、大小の溜め池を作らせた。持は、この大事業を実らせた。水害を守る手立てはなかったが、この溜め池のおかげで、旱魃の被害は、最小限に留めることが出来た。
 こうして内なる備えは、整ってきたが、農業や林業の他に何か産業を興さなければ、この貧乏から抜け出すことは出来ない。
 このころ九州、中国地方の豪族は、李王朝と契約して、歳遣船貿易を行なっていた。波多氏もその中にあった。歳遣船貿易は、李朝の世宗が対馬の宗氏を介して始めたもので、一年間に一ないし三艚の交易があった。貿易港として朝鮮南部の塩浦(えんぽ)蔚山(うるさん)の郊外)釜山(ぷさん)()(釜山港)(せい)()(こも)川浦(がいほ))の三港が開かれた。このように朝鮮との交易は活発であったし、朝鮮や中国では盛んに陶器が作られていて、それが経済を潤していることを持は、聞き知っていた。貧乏から抜け出すための産業として、陶器の生産を鬼子嶽でも出来ないか、日夜腐心した。佐里村も、北波多村も山が多く、陶器を焼くための薪に不自由はしない。後は陶土をどうするかである。持は、陶土を探させた。その結果、陶土についても、目処がたった。持は、朝鮮から流れついた陶工に教えを請い、手始めに稗田の地に窯を開き、帆柱窯と名付けた。
 築城の殿、(たもつ)の志は、代々受け継がれて、先代(ちん)の頃から軌道に乗りはじめた。長年の間に、陶工たちの技術の進歩は著しいものがあった。(はん)(どう)(かめ)(かま)では、土灰釉(どばいぐすり)、長石釉、叩き釉、鉄釉などの技法で、陶器が作られはじめた。土灰釉は還元(かんげん)(えん)焼成(しょうせい)青磁風(せいじふう)に、酸化焔で黄褐色になる。鉄釉は光沢のない茶褐色で、鉄釉の上に土灰釉をかけると真っ黒な天目釉となる。
 幾何学紋の絵をつけたり、箆で印刻彫絵も出来るようになった。こうして、甕、壷、摺り鉢、片口、徳利などは叩き作りで作り、茶碗、皿、向付(むこうづけ)、盃などは、水引きで作った。
(みち)納屋(なや)(たに)(かま)では、水草、(すすき)()()など文様も付けるようになった。鬼子嶽では、轆轤(ろくろ)をを足で蹴って回しながら水引をする方法、()轆轤(ろくろ)を回しながら粘土のより(・・)紐を積み上げて、水引する板起こし方、積み上げたより紐を叩く方の三つの方法で作られるようになっていた。  
 こうして出来た陶器は、千利休の目にもとまり、福井県の一乗谷にまで届くようになった。有名になってきた陶器は、次第に売れ行きもよくなっていった。こうした陶工たちの地道な努力と、殿の手厚い保護もあって、帆柱窯で始まった窯が、鬼子嶽山の山麓に、帆柱窯、飯洞甕窯の上窯、下窯、道納屋谷窯、大谷窯、皿屋窯、平松窯と七窯が出来上がった。
 七つの窯が十分に働きだすと、陶器の材料となる土を掘る人、それを()ねる人、陶器を形作る人、焼く人、荷造りする人、荷造り用の菰を作る人等など、多くの人の手を借りなければならない。貧しかった村人たちは、こうして豊かな暮らしが出来るようになっていった。  
 鬼子嶽城では、陶器の生産は欠かせぬものとなり、重要なものとなった。親の時代になると、いままであった薪炭奉行を改め、薪炭を含む窯奉行として発足し、鬼子嶽城の経済を潤し、村人へ豊かさをもたらす重要な役割となったのである。
 この重要な役割を仰せつかった孫四郎は、大曲(おおまがり)部落(ぶらく)の土郷の次男坊で、子供の頃(ずい)巌寺(がんじ)で共に学び、山や川を駆け巡って遊んだ竹馬の友、又次郎を差配として起用した。又次郎は、日夜を分かたず、陰日向なく役職をこなしていった。
 重要な役についた亀井孫四郎は、よく働くと同時に、役職を鼻に掛けるようなことはなく、瑞巌寺の和尚に教えられた和を重んじ、人の心をわが心として、人を立てて行った。
 このような真摯な人柄が人望を得、城内では尊敬され、慕われていた。これらのことは、城内に留まらず、出入りの業者の中にもすぐに広まり、業者の中でも、孫四郎は、誠実な人として、信頼を受けるようになった。
 何事にも研究熱心な又次郎との組合せは、絶妙な陶器を生み出し、陶器の名声はあがる一方であった。

 

       商談成立

 

        一

 

 竜造寺家、平戸の松浦家の御用商人で、唐津の豪商と言われる松浦屋は、店は唐津の中心部から少し離れた坊主町にあったが、居宅は、現在城内と言われている地域より、少し北側の海辺の閑静な場所にあった。広大な敷地を持ち、青い海に浮かぶ鳥島や高島の自然を借景に築山が造られていて、豪壮な屋敷であった。見事なまでに完成された築山の見える屋敷の広間に、孫四郎は通された。この大広間で、松浦屋の主人松浦富蔵と差向いで、一献酌み交わしながら、茶碗、皿、摺り鉢、徳利などの大量の注文を受けた。注文を受けたのも大変な喜びであったが、豪商の富蔵が、これからも宜しく、と頭を下げたのである。
 この日、鬼子嶽城の窯奉行に任じられてから、初めての大量の注文を受けた亀井孫四郎は、興奮のあまり何処をどう歩いたかよく覚えていなかった。            
 気がつくと、城の西側にある武家屋敷の通りを過ぎ、商家が立ち並ぶ通りに出ていた。陽は西の空にかかり、町には灯が燈り始めている。山深い鬼子嶽城下と違い、陽が落ちたとはいえ、町には人の通りが絶えなかった。
 我に返ると孫四郎は、宿に待たせている窯差配の又次郎の許へ急いだ。七窯には、差配が六人いた。又次郎は、その中でもいま一番の売れ筋になっている飯洞甕下窯と上窯の差配をしている。一番の売れ筋になったのも、又次郎のアイデアと焼き物に対する普段の研究と努力の為せることであった。研究熱心な又次郎は、下窯、上窯で作ることになった今度のこの吉報を喜んでくれるに違いない。そう思うと、自然に急ぎ足になっていた。
 松浦屋は、鬼子嶽城下にある七窯で焼かれている焼き物の最大の得意先である。この度も松浦屋から大量の注文があるから、急ぎ来るように連絡があったのが、一昨日のことである。
 孫四郎が、窯奉行を勤めるようになって一年、毎年売り上げは上がっていく一方であった。それは、松浦屋の主人である、松浦富蔵と会ったからであった。松浦屋の主人富蔵は、孫四郎をいたく気に入ったようで、それまで主に取引があった瀬戸焼き(加藤四郎左衛門景正が一二二三年京都の深草に興聖寺を建てた僧、道元に従って宗に渡り、製陶技術を習得し、一二二七年に帰国した)や織部焼き(一五七二年〜一五九二年古田織部の指導により創始された美濃系の陶器、青織部、黒織部志野織部などがあり、形、文様の斬新さで知られている)を少しづつ減らしていき、孫四郎を通じて唐津焼きを商い始めたのである。
 人は苦しいとき、辛いとき、悲しいとき、顔も沈みがちになり、言葉数も少なくなり、動きも自然に鈍くなるものである。長い間続いてきた辛く苦しい暮らしから、少しづつ抜け出してくると、北波多村の鎮守の社波多八幡神社も、佐里村の鎮守の森の青幡神社の春秋の祭りも、お盆の送り火も盛大に行なわれるようになって、村人たちの顔にも笑顔が戻ってきた。城主の願いが、家臣たちの努力もあって、報われたのである。
 父が下級武士であった孫四郎の家でも子供の頃は、母が少しでも家計に足しになるようにと、菜園をせっせと耕していたことが頭の隅に残っていたが、今ではその記憶も薄らいでしまっていた。 晴れ渡っていた空には、星がまたたきはじめ、東の方、摺り鉢をふせたような鏡山の端に昇った下弦の月が、うすく足元を照らしている。自然の雰囲気は、孫四郎に嬉しいときには、辛い苦しいときの思い出を誘い、辛く苦しいときには、過去の楽しいひとときのことを思い起させることが多かった。
 松浦屋からの大量の注文を受けた喜びが、孫四郎に母との苦しかった子供の頃の思い出を蘇らせている。だが、孫四郎の身体の中からは、喜びが溢れ、思いに耽っているものとは、正反対の行動が現われていた。満天の星に見守れながら孫四郎は、定宿相知屋で待ちくたびれているだろう又次郎のもとへ急いだ。
 定宿としている材木町の相知屋に孫四郎が着いたのは、陽もとっぷりと暮れた六ツ半を少し過ぎていた。
「お帰りなさいませ」
 女中の声に迎えられたが、孫四郎は、
「ただいま」と気もそぞろに答えて、あてがわれている二階の部屋に急いだ。入り口の襖に手を掛けようとしたとき、襖は中から開いた。
 
孫四郎はちょっと驚き、入り口から咄嗟(とっさ)に一歩後へ下がった。
「お帰り、驚かして申し訳ない。貴公の足音がしたので出てみたのだ」
 又次郎は笑顔で迎えた。
「孫四郎殿、首尾は上々だったようだの」
「又次郎殿、分かるか」
「わからいでか、貴公の顔にちゃんと書いてあるわ」
「わっはははッ」
 二人は、笑い転げるようにして、部屋に入った。部屋には、又次郎が日頃可愛がっている人夫頭の為造がいて、二人の会話を聞いていたのか、にこやかな顔でお茶を入れていた。
「又次郎、帰ったら忙しくなるぞ。すごい量の注文を承ってきた」
「おう、それは何よりの首尾じゃ。ご家老もお喜びになり申すぞ」
「孫四郎さま。上々の首尾なようで、おめでとうございました」
「為造、これから忙しくなるぞ。夜を徹することがあるかも知れぬ、頼み申すぞ」
「はい、お任せください」
 大男でがっしりした身体、厳つい顔に似ず、心優しいところがあり、窯場では人望が厚い男であった。そんな為造を又次郎はすごく可愛がり、何処へ行くにも側に置いていた。
「明日は早立ちで帰ることにするが、又次郎祝杯じゃ、お頭つきで一杯いくとするか」
「よかろう」
 そう言うと、又次郎は手を打って、女中を呼んだ。しばらく待たせられたが、三人分の会席膳がしつらえられ、酒盛りが始まった                       
 又次郎は、大曲部落の土豪、彦造の次男坊で、妻を(めと)り屋敷内に新居を構えている。子供の頃は、瑞巌寺の和尚のもとで、共に学んだ学友である。がき大将であった二人は、皿や茶碗を職人たちが造る手仕事を見るのが好きで、悪ふざけをしたあとは、良く窯場に遊びにいったものだ。その行き帰りには、魚を捕ったり、栗を拾ったり、あけびを取ったりの楽しみもあった。片や武士の子、片や土豪の子ではあったが、子供にはそんなことは関係なかった。又次郎は、仕事をせずとも楽な暮らしが出来ていたが、孫四郎が窯奉行になって、子供の頃から焼き物に興味があった又次郎に助けを求めた。竹馬の友が窯奉行になり、城の周りにある七ツの窯場を受け持ち、忙しさに駆けずり回っているのを見て、又次郎は孫四郎の求めを快く受けたのである。この二人のコンビは、益々売り上げをあげ、鬼子嶽城下を豊かにしていった。

 

       多忙を極める

 

        一

 三月の半ばとはいえ、朝晩はまだまだ底冷えのする日が続いていた。唐津から帰った孫四郎は、良い報告は少しでも早い方が良いと考えた。家老の家までは優に一時(いっとき)はかかる、又次郎とも相談して、明けの六ッ半には家を出た。
 鬼子嶽城は、切り立った山の頂にある山城だ。家老の家は、その山城の中腹、断崖絶壁を背にした北波多村に面したところにある。
 家老の家にたどり着くには、北波多村徳須恵から、だらだらとした坂道を半時以上も歩く。道の両側には、猫の額のような段々畑が点在してはいるが、人家らしきものは一軒もない。偶に野良仕事に出たときに、休息を取ったり、農具を仕舞っておくための小屋が見られるだけである。それを過ぎると、家老の家に続く道は立派なものではあるが、急な坂道の両側は、鬱蒼とした椎や櫟の林があるだけの淋しい道だ。それを四半時以上もかけて登らなければならない。山の頂から吹きつける風は冷たかったが、額にはうっすらと汗が滲んできた。       
 家老の屋敷に通じるこの峠は、家老の屋敷が出来るまでは、人がやっと通れる(そま)道であった。(男の持ち物おもこする)と言うことから、この峠を通称(金玉こすり)と言うようになったのだ。いまでは頂上に、茶屋が出来ている。そこから道は二股にわかれ、真っすぐに行けば佐里村の下部落に通じる。北波多村から来て右折すれば、家老の屋敷に通ずる道である。この峠の茶屋で、又次郎が待っているはずだ。孫四郎は、額に滲む汗を拭き拭き、曲がりくねった坂道を急いだ。
 木の葉越しに、茶屋の屋根が見えてきた。佐賀方面に旅をする人たちだろうか、近付くにつれ、茶屋付近に人影が見えてくる。あの人影の中に又次郎がいて待っているかもしれない、そう思うと孫四郎の足は早まった。
「又次郎殿、待たせてすまなんだ」
 奥の長椅子にかけ、茶をすすっている又次郎の姿を見付けると、孫四郎は声をかけた。
「やあー、孫四郎殿。儂も今着いたところだ。まあー、一服しましょう」
 そう言いながら又次郎は、かけている長椅子の端に寄り、孫四郎に掛けるようにすすめた。
「おう、かたじけない」
 孫四郎が長椅子に着くと、少し腰が曲がりかけた老婆が、お盆に茶をのせて運んできた。長椅子にかけてしばらくすると、汗が急に引き、肌寒さをおぼえた。老婆が運んできた茶を口に含むと、熱いお茶が身体全体にいきわたるようで心地よかった。
 茶屋の東側は、展望が開けていて、佐里村から相知の村が見渡せ、その向こうに八幡岳、左手に作礼山、その遥か彼方に天山の雄姿が望めた。
「孫四郎殿。大量の発注を受けてきたことをご家老に報告すると、ご家老もお喜びになるだろうな。満面に笑みをたたえているご家老の顔が見えるようだ」
「うん、ご家老も若いときから、貧しい城下の人々が、どうすれば豊かになれるか、殿とご一緒に辛酸をなめていられるからな」
「殿や家老のご苦労もさることながら、孫四郎殿の活躍があったればこそ、と言う面もいなめませんぞ」
「又次郎殿がそう言ってくれるのは有り難いが、父の代から下級武士だった家を、ご家老に取り立ててもらった。その恩に報いなければ、人の道に外れる」
「貴殿のそのようなところが、ご家老の目にとまった。それが貴殿を今の地位まで押し上げたのだ」
 中肉中背で、どちらかと言えば優形の亀井孫四郎は、武術は苦手であった。下級武士だった父は、長男として生まれた孫四郎をいたく可愛がった。武士の子として生まれた孫四郎が、ひ弱く、武術に不向きな子であったせいかもしれない。いつも膝の上に抱いては、 (父は出世することもなく、このまま終わるだろうが、お前は何としても出世しろよ。その為には、人よりずば抜けた力を持たないと、下級武士の子は中々出世できない。それでも無理かもしれないが、武芸に励み、その方が得意でなければ、学問に励め、そして人より数倍も努力して抜きん出よ)と言って、貧しい中から、波多家の菩提寺(ずい)巌寺(がんじ)の和尚のもとに勉学に通わせてくれた。その竹馬の友が又次郎である。
 父の死後、登城するようになると、孫四郎は、父の教えを守り、その時、その時の仕事に全力を尽くし、人一倍働いた。その甲斐あって、薪炭と七窯の支配方、窯奉行に任ぜられた。
 薪炭と七窯、これは鬼子嶽城の経済の屋台骨になっている。この城の経済を担うようになった孫四郎は、良い陶器を生産するにはどうすれば良いのか、その生産された陶器をどうすれば大量に販売することが出来るか、昼夜を分かたず考え、それを実行に移していった。同時に、朝早くから七窯を回って督励し、炭焼き小屋にも時々顔を出した。
 炭や陶器の生産をあげるように督励すると同時に、北波多村の鎮守の神、波多八幡神社の境内や佐里村の青幡神社の広場で市を開いたりして、陶器や薪炭商人を手厚く保護してきたのである。こうした地道な努力が報われたのか、孫四郎が窯奉行になってからは着実に実績が上がっていった。「ご家老の屋敷までは、もう一息だ。さあー、出掛けようか」
 二人は、茶屋の支払いをすますと、茶屋の前で三叉路になっている道を、佐里村の方へはとらず、鬼子嶽山の中腹に沿った道を歩き始めた。その道に一歩足を踏みいれると、道の両側には、欝蒼(うっそう)と椎や樫の木が繁り、昼でも暗いほどであった。その間に少し陽が差すところには、小さな可憐な花を咲かせている植物が目につく。落葉を踏みしめながら歩いていると、あっ、と驚くような羽音を立てて鳥が飛び立つ。どこかで、ケーンケーンと山鳥の声がするかと思うと、ギャ、ギャとけたたましく鳥が鳴く。その森の喧騒の中をしばらく歩くと、視界が開けて家老の屋敷が見えてきた。その奥には、殿の館や奥方様の館があるはずだ。
「ご家老の屋敷が見えてきたね、やはりちょっと緊張する。だけど、松浦屋からの大量の注文を受けたことを聞けば、ご家老もきっと喜び、殿にも言上なさると思う」
 しばらく話が途切れていたが、孫四郎は、又次郎の緊張した表情を見て、話しかけた。
「孫四郎は、殿の覚えもめでたいからな。きっとお喜びになる」
 二人が家老の屋敷を出てきたのは、半時を過ぎた頃であった。二人の表情は明るく、少し上気して見えた。
 よほど嬉しかったのだろう、金玉こすり峠を足取り軽く歩く二人の姿があった。

 

        二

 

 家老に報告に上がり、家老の喜ぶ姿を見、誉めの言葉をいただいた又次郎は、帰城する孫四郎と別れて、その日のうちに窯場にかけつけた。
 これだけの大量の品物を作るのは、久し振りである。又次郎は興奮を抑えることは出来なかった。窯場の仕事場に着くとさっそく、陶土の量や人夫の数、窯炊きする薪の量、荷造り用の菰等など、どれほど用意しなければならないか、人夫頭の為造や陶器職人の頭たちを集めて話し合った。みな手慣れた者たちばかりである、話し合いは一時ほどでまとまった。あとは手配をするだけとなった。
 土の手配、人夫の手配、薪の手配、荷造り用の菰の手配等など、今度の大量受注に見合うだけのものを整えるよう為造に指図した。 
 人夫頭の為造は、
「手配の方は、あっしに任せてくだせい」と窯場を飛び出していった。
 この窯場で親の代から人夫頭を務めていて、それを引き継いだだけあって、又次郎の手配の指図に為造は、心得たものでその夜遅くならないうちに、手配が整ったことを報らせてきた。
「為造、わしはいい人夫頭を持って幸せだ」
「なーに、こんなことは造作もないことで。お褒めにあずかるようなことではござんせん」
 それでもまんざらでもないのか、為造は、子供のように頭を掻きながら、ぺこんと頭を下げた。「さあー、明日から忙しくなるぞ。お前も今日は早く帰って女房孝行でもしてくれ」
「そうさせてもらいやす」
 
いそいそと帰り支度を始めた為造は、
「奥様が待ってなさるし、明日から旦那もお忙しくなりなさるだろうから、早くお帰りになって下さいまし、では、お先に」と言って帰って行った。
 
城下は、鬼子嶽城を挟んで、東側が佐里村で、北側が北波多村、東北側に坊中(ぼうちゅう)部落と()田部(たべ)部落がある。これらの村々をつなぐ道は、金玉こすり峠と八峠がある。八峠は、鬼子嶽城の西側の中腹を通って、北波多村と佐里村を結ぶ杣道である。鬼子嶽城下の北波多村と佐里村を結ぶ道路は、一つは遠回りにはなるが、北波多村から鬼子嶽山の麓を通り、牟田部の部落、久保部落を経て佐里村に達するもの、この道は平坦なので楽ではあるが、他の二つの峠越えより三倍くらいの時間がかかるため、荷車や馬車等で荷物を運ぶときなどに使われるが、身一つのときには、金玉こすり峠を越え、八峠の峠越えをするのが普通であった。
 仕事が忙しくなると、窯場に寝泊りして窯焚の現場指揮にあたる。窯の温度の微妙な変化にも気を配らなければ、良い焼き物が完成しないからだ。
 職人たちは帰り、為造も帰ってしまい、次第に陽が落ちてくると、奥深い山の傾斜を利用して作られた半地上割竹式登窯の飯洞甕下窯の周辺は、昼間の喧騒とは打って変わり、恐いほどの静寂が襲ってくる。仕事に夢中になっているときは、何の寂寥感も湧いてはこないが、小鳥のさえずりや虫の音に耳を傾け、一人物思いに耽ったりしていると、山鳴りの音に、またバサバサ、ガサガサ、という鳥の羽撃く物音に驚かされることもある。
 又次郎は立ち上がると、作務衣(さむえ)に似た作業着を脱ぎ捨て、帰り支度をはじめた。いよいよ明日からは忙しくなる、おそらくこの窯場に泊まり込みになることが多くなるだろう。又次郎は、一杯引っ掛けたい心境になってきた。一杯やろうと思うと、孫四郎の顔が浮かんでくる。又次郎の頬に笑みが浮かぶと、足は自ずと孫四郎の住む徳須恵村に向いていた。 二人は暮れの五つ頃から、徳須恵村の料亭「喜楽」の奥まった座敷で、大量の注文を出してくれた太っ腹な松浦屋の主人や家老、同僚の源八郎などの話を魚に遅くまで飲み、七窯の将来について語り明かした。

 

大工の与吉は、苗床つくりや田植えと忙しくならないうちにと、行合野の繁造に頼まれいた小屋の普請に出かけようとしていた。                    
「お前さん。昨夜、為造さんからの使いが来たから、わたしゃ今日から飯洞甕の下窯に働きに出るよ。少し遅くなるかもしれないので、お前さんよろしく頼んだよ」      
 徳須恵の長屋暮らしの与吉は、家を出しなに女房のはるに声をかけられた。     
「ほう、お前も仕事に出るのかよ。どうした風の吹き回しだ」            
「窯奉行の亀井さまが、松浦屋から大量の注文をおとりになったんで、各窯が大変な忙しさらしいんだよ」                                
「そうか、焼き物さまのおかげで、わしたちの暮らしも楽になった。これも殿のこころづかいの御蔭だべ。お前も頑張って働いてくんろ」                   
そう言うと、いつものように大工の道具箱を肩に、通りへ飛び出していった。徳須恵から行合野は歩いて四半時くらいだ。                       
「おはよう」
 
良く仕事を頼まれる繁造の家は、勝手知った家でもあり、仲の良い友達でもあった。母屋へ声をかけると、与吉は昨日から始めていた小屋の雨漏りをなおすため、小屋から梯子を出そうとした。「おーい、与吉さん。お茶でも飲んでゆっくりしなせえ」
 
奥の方から声をかけながら、お盆に湯呑みと急須をのせて表に出てきた。あれ、奥方様はいなせえのか」                         
「奥方様なんて、なにいってるだ。女房は、飯洞甕が忙しくなる、と例によって、為造さんから呼び出しがかかったんだ」
「そうか、うちの女房も出かけたよ。日銭を稼げるってありがてえこっだ」      
「与吉さんとこも、二人で日銭を稼いで、しこたま溜め込んでいると聞いたぜ」    
「何言ってんだ。繁造さんこそ、食うものは買わずにすむし、溜め込んでいるんでねえか」
「いや、溜め込んではいないが、今年こそは田植え前に、浜崎のお諏訪さまに、泊まり掛けで詣でるつもりだ。これも焼き物を始めて下さった殿様の御蔭だ」         
 唐津や松浦郷の百姓たちは、田植え前になると、唐津から東へ二里(約八粁)程のところにある浜崎の諏訪神社に詣でる。この神社では、お札や砂の袋を売っている。百姓たちはこの砂の袋を買い求め、田圃の畔道に砂をばらまく、ばらまいた砂の効能で、一年中(まむし)に噛まれることがない。そう信じられている。田植えが終わると、近郷の百姓たちの男女でお諏訪さまはにぎあうのである。諏訪神社に詣で、帰りには、浜崎名物のケーラン(米の粉で練り上げた皮で、中にあんこが入ったもの)を買って帰るのだ。若い男女は、連れ立ってお諏訪さま詣でに行けることを楽しみに、田植えに励んでいるとも言われている。
「そうよな。それが出来ない者は、窯場で働かせてもらえるし、みんな喜んでいる」
 
しみじみした口調で、繁蔵は語った。
「さあー、仕事に掛かるとするか」
 抱えていた湯呑みを盆に返すと、与吉は立ち上がった。              
「じゃ、わしも苗床にする田圃でも耕してくるか。留守にするけど、与吉っん頼んだよ」
 
牛小屋から牛を曳きだすと、鋤を肩にかけて出て行った。一日かかって、雨漏りの修理を終えても、まだ、繁造は、田圃から帰って来なかった。この村では、家を空けても、泥棒などが入る気遣いはない。与吉は、暮れ六つ少し前に繁造の家を辞した。家の前まで来ると、中から魚を煮るいい匂いが漂ってくる。(ほう、女房の奴久しぶりの稼ぎで、滅多に口にしない俺の好きな煮魚ときたな)優しい心遣いのはるの気持ちが嬉しかった。                 
「ただいまお帰りだよ」                                  剽軽な声をかけながら、立て付けの悪い引き戸を勢い良く開けて、中に飛び込んだ。なんだね、お前さん。何かいいことでもあったんかい」               
 
半ば驚いた顔で、はるは与吉を迎えた。                     
「そんないいことが、度々あってたまるかい。でも、焼き物の注文が大量に入ったとかで、繁造さんの女房殿も働きに出てたよ。繁造さんは、女房も日銭を稼いでくるんで大助かりだ、と喜んでいたよ」                             
「そうだよ。先々代のお殿様から、今の殿様までご苦労なさった甲斐があったって、窯場でも、殿様のお陰だとみんなが笑顔で働いているよ」                
「そうさな、いい殿様がいると、われわれも大助かりだ」             
「さあー、お前さん。そこでいつまでもゴチャゴチャ言ってないで、こちらにいらっしゃいよ。いいあら(・・)かぶ(・・)(かさご)を魚正さんから仕入れたので、一本つけましたよ」   
「おゝ、そいつは有りがてえ」                          
 
一本あると聞いて、与吉は、相好を崩しながら卓袱台に着いた。少しでも豊かな生活が戻ってくると、心のゆとりも出来てくるのか、村人たちの間に殿を敬い、慕う気持ちがはっきりと現われていた。                              



                                            
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