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イチョウ 舞い散る頃 page1 |
=1= ■今日はタダシさん38回目の誕生日です。と言っても、祝ってくれる恋人がいるわけでもなく、帰宅して玄関を開けるなり「パン!パン!ハッピーバースディ!パパ」なんて子供や奥さんからのクラッカーなお出迎えがあるわけでもなありません。 ■照明の入った304号室の四角い窓の中で揺れる影はひとつだけ。それはいつもとなんら変わらないコーポメルデソンの光景です。 ■「38か…」と、タダシさんはテーブルの上の今朝の呑み掛けのままのインスタントコーヒーが入ったマグカップに溜め息と共に零しました。 ■どちらかと言えばポジティブで明るい性格のタダシさんでも、溜め息の気持ちも分かります。こんな誕生日がもう何年も続いているのですから。それに今日は部下のミス(タダシさんは会社では係長なのです。)のお陰で、課長や部長から御咎めを受けたとなれば余計です。 ■そして、季節は銀杏の葉が舞い散る冬の入口、人肌恋しさにより一層の拍車がかかるというものです。 ■これは男も女も関係ないのです。やっぱりみんな一人は淋しいのです。よからぬ思いに取り付かれても不思議ではありません。 =2= ■誕生日の時には、誕生日ケーキを中心にテーブルには恋人の手料理が所狭しとなべられ、304号室の四角い窓にふたつの影が揺れたなんて事もありました。でも、今はひとり。それが現実です。 ■あっ、タダシさんは飲み残しのままのインスタントコーヒーの褐色の水面に、今話してた何年か前に別れた昔の恋人を思い浮かべちゃってます。 ■{ヨーコは今頃どうしてるんだろ?} ■褐色の水面に浮かんで揺れてる昔の恋人ヨーコさんは、38歳になったタダシさんと違ってなにも重ねていない、ショートヘアで、両方の耳たぶにはタダシさんがプレゼントした小さな星の形のピアスを着けている”あの頃のまま”のヨーコさんです。 ■それは当然の事ですね。何年前かの”あの頃”別れてから一度も会ってもいないし、電話で話してもないのですから。おそらく耳たぶに着けてた星の形のピアスは取り外され、別のピアスに変っているでしょうし(もしかしたらもうピアスなんかしなくなって耳たぶに開けた穴も知らないうちに塞がっちゃったかも知れませんね。)、ショートヘアだったヨーコさんも、今はロングを靡かせているかもしれません。そういうものです。 ■タダシさんの思考は直に、その浮かぶ”あの頃のまま”のヨーコさんに、”あの頃”ふたりで過ごした楽しかった情景を重ねあわせています。 ■褐色の水面は甘いクリームを入れたようにセピア色に変わりました。タダシさんの思考は完全に過去への扉を開け放ち、セピア色に変わった水面に飛び込もうとしています。 ■『位置についてヨーイ・・・』 ■と、その時です。突然、過去への扉がピシャリと閉まりました。フライング気味に飛び込んだ一部の思考を残して。 =3= ■タダシさんは弁当の入ったコンビニのビニール袋をクシャクシャ言わせながらマグカップの横に置き、ネクタイを緩め少し恨めしくその原因に向かいました。 ■『トゥルルル… トゥルルル…』 ■受話器を上げるその一瞬、ベルに押し出されるようにショートカットのヨーコさんが浮き上がって来ました。それはフライング気味みにセピア色の水面に飛び込んだ一部の思考が、持てる全ての思考で浮き上がらせたものでした。 ■「もしもし…」 ■タダシさんは少しドキドキしながら受話器を上げました。 ■しかし、受話器からガヤガヤと喧しい音と一緒に飛び出して来た声で、タダシさんのそのある種のドキドキは落胆に変わり、”持てる全て”で浮かんだヨーコさんはしゃぼん玉のようにはじけ、それと同時に残された一部の思考も、セピアの水面に波紋もたてず沈んでしまいました。現実なんてこんなもんです。 ■『係長ッスかぁ?ガヤガヤ…』期待外れのその大きな声に、タダシさんは静電気に驚くみたいに思わず受話器を耳から離してしました。『今日はスイマセンでしたぁ。ガヤガヤ…』 ■相手は今日 仕事でミスをしてしまった部下さんでした。そして部下さんはかなり酔っ払ってるようです。どこかの居酒屋で出来上がって、その勢いで電話して来たのでしょう。 ■耳から離れた受話器からは、水量を間違えたシャワーのように、ずぶ濡れに酔っ払った無数の部下さんが飛び出しています。タダシさんは嘲笑を浮かべました。その光景を思い描いたのです。そしてタダシさんはしかたなしにそのシャワーに撃たれるように受話器を耳に戻しました。 ■『もしもし〜ガヤガヤ…聞いてますぅ〜ガヤガヤ…』 ■「あぁ聞いてるよ。酔ってるみたいだな?」 ■『でもねぇ係長〜ガヤガヤ…ボカァ課長の言った通りガヤガヤ…やったんッスよ〜ガヤガヤ…』 ■酔っ払いは人の問い掛けを聞く耳なんて持ってません。ただただ自分の丈を飛び散らすだけなのです。そうとびっきりの独裁者なのです。 ■部下さんはどしどし課長への不満を吐き出します。タダシさんはその不満のシャワーに撃たれたり一時避難したりして、届かない相づち・・・ ■と、こんな感じの一方的なやりとりが5分程続いた頃、突然何かの破裂音が課長への不満をまくしたてる部下さんの声を遮り、タダシさんの耳に飛び込んで来たのです。そして、その直後、部下さんのうめき声とも悲鳴とも思える奇妙な声が届き、チューニングのあってないラジオのようなノイズにそれは変わり、それが少し続いた後、ノイズも消え、唐突に電話は切れてしまったのです。タダシさんの耳に届いてくるのは、唐突に止められたシャワーからポタポタこぼれる水滴のような機械音だけでした。
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