『援助交際』とは、良い意味なのか?

1) 「援助交際」という言葉が、やたらに使われている。週刊誌や民放テレビなどに氾濫している。 一体、この言葉はいつ頃から使われるようになったのか。私にはよく分からないが、何年も前から聞くようになった。

 最初に聞いた時は、なにか良い感じがした。「援助」も「交際」も悪い意味ではない。「援助交際」という語感は、“人道主義的”で素晴らしい印象を与える。世事に疎い私は、これは良いことだと初めに直感した。 ところが、これは『売春』や『買春』を意味する言葉だと知って、愕然としたのである。

 世の中は、悪いことでも“善”であるように取り繕おうとするのだろうか。もしそうなら、それこそ悪しき虚飾である。 ところが、この「援助交際」という言葉はその後、平気で使われるようになった。マスメディアでは、堂々たる現代用語になっている。

 現代の日本ではこういうものかと諦めたが、私は何年も複雑な思いがしてならなかった。 「援助交際」という人道主義的で洒落た言葉には、なにかこれを奨励するような響きを感じる。なんにも悪いイメージが湧いてこないのだ。むしろ、善行といった印象を受ける。 しかし、実態は売春、買春以外の何ものでもない。

2) 2〜3年前、私が東京の某テレビ局に勤めていた頃、大分県の某テレビ局が、この「援助交際」という言葉を使わないことに決めた。 理由は、売春や買春を“美化”するような印象を与えるからだろうが、私は極めて妥当な判断だと思った。

 ところが、その後も、東京のキー局を始め大多数の民放テレビ局は、この言葉を平気で使っている。なんら恥ずかしいとは思っていないようだ。 私に言わせれば、破廉恥とか厚顔無恥とはこのことだと思う。 なぜ、はっきりと「売春」「買春」と言えないのか! まさか、売春や買春を奨励しているのではないと思うが。

 世事に疎い子供達は、「援助交際」という耳障りの良い(?)言葉を聞けば、きっと善い事だと思うに違いない。世事に疎い大人の私自身が、最初にそう感じたのだから。「援交」をする“いかがわしい男”は、まるで「足ながおじさん」のような素敵な人を連想させる。

 これこそ虚偽であり“まやかし”である。虚飾以外の何ものでもない。臭気ふんぷんたる汚物を、綺麗なものだと表現しているようなものだ。 これほどまでにミソもクソも一緒にするならば、敢えて言わせてもらおう。現代のマスメディアは、汚いクソを美味しいミソやカレーライスと言っているようなものだ。

3) 表現の自由は尊重されなければならない。 私も“もの書き”だから、いわゆる「言葉狩り」には大反対である。むろん、差別用語などは良くないし、その点については十分に気を付けなければならない。 しかし、過度の「言葉狩り」は真実を隠蔽しかねない危険があり、「言葉狩り」を好んでする人は嫌いである。

 マスメディアは、なによりも真実を明らかにする責務がある。従って、表現の自由は最大限、保障されるべきだろう。否、むしろ、表現の自由を拡大していって欲しいと思うのだ。 しかし、表現が“真実”と異なっていたらどうなるか。それは虚偽、まやかしと同じものになってしまう。

「援助交際」という言葉は、悪を善にすり替えるような表現である。一部のテレビ局がすでに使わなくなったのは当然だろう。 一体、誰がこんな破廉恥な用語を発明したのだろうか。「援助交際」を好ましいものとして、推進しようという下心があったのだろうか。これが現代風だと思って、悦に入っていたのだろうか。

 先日、小学6年の女の子4人が、渋谷でいかがわしい男に騙され、赤坂のマンションに数日監禁されるという事件が起きた。 4人は幸い無事(?)保護されたが、この事件の関連で、渋谷の「少女売春」の問題がマスメディアに大きく取り上げられていた。

 その後、あるテレビ局(某キー局)の夕方のニュースを見ていたら、堂々と「援助交際」という名のもとに、売春の実態が報じられていた。 勿論、テレビ局は少女売春を批判的に報道していたが、なぜ「援助交際」という“美名”を使うのか。

 なぜ「売春」「買春」とはっきり表現できないのか。真実を覆い隠そうとでもいうのか。 私は直ぐにそのテレビ局に電話を入れ、「援助交際」という馬鹿げた言葉遣いは止めて欲しいと陳情した。 表現の自由は尊重すべきであるから、どうしても「援助交際」という言葉を使いたいなら、その後に誤解のないように、( )付きで「売春」「買春」と書いて欲しいと陳情した。

4) 売春する女を俗に売女(ばいた)とか、淫売と言う。従って、売春少女も売女であり淫売である(これこそ表現の自由である)。売女!と怒鳴りつけてやりたいくらいだ。 テレビのコメンテーターも憤慨した面持で「大人が怒鳴りつけてやればいい」と述べていたが、いかんせん、「援助交際」などと美しい言葉を使っていては、示しがつかないだろう。

 表現の自由も、真実を覆い隠すようなものになれば、なんの意味があるのだろう。悪を善にすり替える表現の自由なら、そんなものは無い方がマシだ。 いくら現代でも、例えば誇大な広告や宣伝は注意されることがある。それは国民や消費者に誤った判断を植え付けるからだ。

 それと同じように、ミソもクソも一緒くたにしたような馬鹿げた表現は止めてもらいたい。 マスメディアは芸術や文学とは違う。“真実”を最も重要な指針としている仕事のはずだ。芸術や文学では問題がなくとも、マスメディアでは許されない場合がある。 マスメディアの猛省を強く促すものである。 (2003年7月24日)

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