護憲派は一言でいって「守旧派」である。 現行憲法の3大原則である基本的人権の尊重、国民主権、平和主義は絶対に守られなければならない。どのような憲法改正が行われようとも、この3大原則は磐石のものでなければならない。 その点では、護憲派は勿論正しいし、大いに「守旧派」であって良い。
しかし、現行憲法では安全保障を始め実に多くの点で、時代遅れになっているもの、現状にふさわしくないもの、また現実に対応できていないものが数多く見受けられる。そういった不備を改正しようというのが、改憲派の考えであり、従って改憲派は「改革派」と言って良い。
現行憲法が制定された第2次世界大戦の直後から、すでに半世紀を優に超える歳月がたった。その間、我々国民を取り巻く社会情勢や諸々の価値観、文明、科学技術などは大きく変化した。また日本を取り巻く国際情勢も激変してきた。 これは半世紀以上もたてば当然のことであり、諸々の変化や進歩は人類の歴史にとって当たり前のことである。
そうした中で、国の『最高法規』である憲法といえども、時代に適応しなくなってくるのは不可避なことである。世界中のほとんどの国が、50年以上の間に自国の憲法を改正しているのは当然であり、また極めて自然なことである。 ドイツにいたっては、50回近くも憲法改正を行ってきた。これは余りに極端なので、好ましい例とは思えないが、現状に即して常に憲法を見直すという姿勢は評価したい。
ところで我が日本国の場合は、55年間一度も憲法改正が行われずに今日に至っている。これはまったく異例のことと言わざるをえないが、どうしてこのような「異常性」が続くのだろうか。旧憲法の「万世一系の天皇」ではないが、「万世不易の憲法」と言うのだろうか。
現状に対応できない憲法が続くと、国民の意識というのは次第に膠着してゆき、やがて活力を失ってしまう。憲法に限らず、どのような組織どのような国家でも、現状に対応できなくなれば活力を喪失していくのだ。
半世紀以上も前には、予測もつかなかった諸々の問題、課題が今の日本には起きている。安全保障のあり方だけではなく、環境問題、知る権利、アクセス権、プライバシーの保護、参議院のあり方、犯罪被害者の権利、緊急事態への対応、地方自治のあり方、憲法裁判所の設置や首相公選制の是非等々、数え上げればきりがない。 こうした問題や課題には、現行憲法の枠内では対応のしようがないものが多い。従ってこの際、早急に憲法改正を前向きに議論すべきである。
しかるに、護憲派と呼ばれる人達は、前向きに憲法の問題を考察しようとしているのだろうか。残念ながら、ほとんどそうした姿勢が見えてこない。財政改革や行政改革、構造改革等については議論をしても、憲法問題については、これを「タブー」として触れない姿勢が一貫して続いているのだ。 従って私は、護憲派の人達を総称して「守旧派」と呼ぶ。
繰り返して言うが、憲法とは国家の『最高法規』であり、聖書でも教典でもない。聖書や教典は変えようがない。しかし、憲法は時代に即応して姿を変えていって当然である。いや、時代に対応して変えていくべきものである。それをしないのは、正に怠慢と言うほかはない。
現行憲法を改正するにしても、決して変えてはならない原理、原則があるはずである。冒頭で述べたように、基本的人権の尊重、国民主権、平和主義の3大原則は絶対に変えてはならないものである。その上に立って、現状に即した憲法改正の議論を進めていくべきだと思う。
「不磨の大典」という言葉がある。聖書や教典は不朽のものであっても、憲法は不朽ではない。聖徳太子の17条憲法以来、時代々々に即して最高規範や諸法度は変わってきた。 戦前は、「大日本帝国憲法」が「不磨の大典」と思われていただろう。しかし、大日本帝国の崩壊によって、今の憲法に変わってしまったのである。
護憲派の人達は、現行憲法を「不磨の大典」だと思っているのだろうか。もし、少しでもそう思っていたら、時代錯誤もはなはだしい。ドイツのように50回近くも憲法を改正するのは、いかがなものかと思うが、時代の変化に対応していくためには、20年ぐらいに一回は見直さないと、憲法も陳腐なものになってしまうのだ。 そして、戦前の日本のように、「大日本帝国憲法」にしがみついているうちに、国家が崩壊の道をたどっていったように、今の憲法をただただ後生大事と思っているうちに、国家は衰退の道を歩んでいくだろう。 時代に対応できない国家、国民は次第に活力を失い、やがて気が付いた時には、「時すでに遅し」ということになるのである。
日本国民の活力を取り戻し、日本政治の活性化、民主主義国家の発展のためにも、21世紀に入った今日、今こそ憲法改正に積極的に取り組むべきだと思う。 (2002年1月20日)