1)「首相公選制」の話しが近ごろ相当な関心を呼んでいるようだが、マスメディアの世論調査では、公選制の導入に賛成の意見が圧倒的に多いようである。 但し、この問題は憲法改正にも大きく関与してくるため、事はそう簡単に進むものではない。
小泉首相は就任早々、公選制の導入について問題提起をし、平成13年6月「首相公選制を考える懇談会」を内閣に設置、1年がかりで報告書がまとめられている。 専門的な話しをここで詳しくやりだしたら切りがないので、この問題をどう考えるべきか、大局的な立場から私の意見を述べるだけに止めたい。
現在の「議院内閣制」では、国民は首相(行政府の長)を直接選ぶことはできない。そこで40年以上も前から、首相を国民の直接投票で選ぼうという運動が繰り広げられてきた。 日本の事実上の“ナンバーワン”を自らの手で選ぼうというのは、民主主義国家では当然の要求である。
しかし、現在の憲法では「国民投票」の制度はあっても、首相公選は認められていない。そこにジレンマと苛立ちが生じるわけである。 公選制の導入に賛成の意見が圧倒的に多いということは、その現われではないのか。
2) 実は私は、首相公選制は理想的だが、時期尚早だという考えを表明してきた。(以下の文を参照して下さい。) しかし、今やこの考えを撤回したい。公選制は“時期尚早”などという次元のものではなく、民主主義国家の根幹に関わる重要な問題だと考えるからである。
私は前の小論で、首相公選制は危険な要素が多く、ヒトラーや横山ノックのような人物を容易に選んでしまう恐れがあると述べた。 しかし、現在の議院内閣制でも、無能で破廉恥な人間や、独善的で見識のない者が行政のトップに就任することはいくらでもあり得るし、現にそういう事態は起きてきた。
こうなると、国民は自らの手で首相を選べないだけに、政治不信は一気に高まるのである。 もちろん、不信任案が野党から提出されて内閣が倒れるということはあるが、与党も巻き込んだ政争に発展したりして、国民の手に届かない“永田町劇”で終ってしまうことが多い。
だいたい今の「政権」というのは、与党内の勢力争いや派閥の駆け引きで決められており、仮に与党の党首(この人が首相になる)が“選挙”で選ばれたとしても、それはあくまでも党内選挙(自民党総裁選など)によるものであり、国民には全く与り知らないことである。
こうして選ばれた首相(政権党首)が民意に沿うものかどうかは、極めて疑わしい。 国政選挙で多数を占めた政党のトップだから民意は反映されている、それでいいじゃないかと言う人も多いかもしれないが、この首相は国民が直接選んだものではない。 それどころか、派閥同士の合従連衡で決まったり、時には前総裁や副総裁の意向(裁定)で決まったこともあるのだ。(もちろん、この後は議会で首班指名選挙が行なわれ“追認”されるわけだが。)
従って、よく永田町の“密室政治”と言われるわけだが、これでは仮に有能で見識のある人が首相になっても、どうしても不透明で、納得できない要素が付きまとってしまうのだ。 まして、こういう形で無能・破廉恥な首相が誕生すると、国民はただやり切れない思いになるだけである。
3) 国民が直接、自己責任において国政のトップ・首相を選ぶのが良いと思う。そうすれば、政治への関心がより高まるし、国政への連帯意識がより強まるに違いない。 また、議院内閣制よりも、首相公選制の方が民主主義を更に徹底させることになる。
首相公選制に慎重な人達は、この制度が人気投票になりやすく、選ばれた首相の権限が強化されて独裁化する恐れがあるなどと指摘するが、もしそれが心配なら、憲法改正の時に「議会との関係」を充分に配慮すればよいではないか。 国会が首相の暴走(?)を食い止める法的措置を講じるようにすればよい。(他にも、リコール制度等が考えられる。)
議院内閣制との関係についてもいろいろな考えがあるようだが、そうした専門的、具体的な検討は今の私には興味がない。 それよりも、首相公選制の将来について展望することが、21世紀のわが国にとって重要であると思うので、そちらの方を考えていきたい。
結論から言うと、首相公選制の行き着く先は『大統領制』ということである。 国民の直接選挙で選ばれる首相は、世界各国の大統領と同じようなものなので、よく大統領型の首相と言われる。 私は21世紀の遠くない将来に、日本は必ず大統領制の問題に直面するし、また、それを実現していくだろうと予測する。そして、そうあってほしいと願うものである。
4) 共和政体における大統領とは、国家元首である。 もし日本に大統領制が施行されたら、「日本国大統領」は国家元首なのか。然りである。 それならば、いま対外的に“元首”と言われる天皇はどうなるのか。そこが最大の問題になってくるだろう。
首相公選制に慎重な、またはこれに反対する人達は、この「元首問題」に最も懸念を抱いているようだ。 従って、来るべき憲法改正においては、天皇を「日本国元首」と明記したいと考える人もかなりいるようだ。 しかし、私はこういう“反動的”な考えに反対であり、そんなことにはなりえないと思う。なぜなら、日本は国民主権の民主主義国家なのだから。
元首とは、一国を代表する、国家の最高機関または行政府の首長をいう。君主制国家では君主が元首であり、共和制国家では公選された大統領が元首となる。 民主主義体制を取る日本で、天皇が元首になりえるわけがない。 首相公選制は、大統領制への第一歩である。公選された首相自体が“事実上”の国家元首だと言ってよいだろう。
憲法改正が行なわれる場合、その実態はより民主的、進歩的なものにならなければならない。反動的であってはならない。 改正点はいくらでもあり、その内容は既に筆者のホームページでも再三指摘しているので省略するが、国民意識の面では、この“元首問題”が最大のテーマとなってくるだろう。
5) ご承知のように、現行憲法では、天皇は日本国と日本国民統合の“象徴”となっており、象徴天皇制は国民の間に充分に定着してきたと思う。私も象徴天皇制に賛成である。(そして、その地位は主権の存する日本国民の総意に基く、となっている。)
天皇制は、日本の歴史とは切っても切れない重要なものである。「日本の伝統」を象徴で表わそうとすれば、まず「天皇」であろう。 「日本」というイメージの象徴としては、個別的に「富士山」や「サクラ」「神社」、古くは「刀」「城」「侍」「芸者」「浮世絵」「歌舞伎」「相撲」などがあるだろうか・・・
話しが少し逸れてしまったが、天皇制ほど日本人の心に深く浸透しているものは、他にないと思う。現在の皇室も、テレビ等マスメディアを通じて、国民の敬愛の的になっていると信じる。 そして、一部の人を除いて、大多数の人が天皇制は続くものと思っているだろう。
不肖・私自身も十数年前、歴代天皇125代の名前を全て暗記したことがある(戦前はそれが当たり前であった。今の若い人達は呆れるかもしれないが)。 私自身も、天皇と皇室には深い愛着と尊敬の念を抱いている。
しかし、それと天皇の“元首”とは全く別の問題である。 先程も述べたように、国民主権の民主主義国家・日本では、天皇は元首にはなりえない。天皇は「日本の伝統」を象徴するものであっても、国政上の地位である元首には相応しくないのである。(従って、私は「君が代」の国歌に反対し、新国歌の制定を主張している。なお「君が代」については、天皇と皇室を敬愛する歌として当然残す。別稿を参照)
6) 日本の民主主義が更に発展し、進化していくことを願わずにはいられない。 おそらく、近い将来に行なわれる憲法改正は、日本を活性化するだろう。条文がどのようなものになろうとも、主権在民、基本的人権の尊重、平和主義の精神は一層貫かれるに違いない。
私は40年以上も前(学生時代)から、日本の大統領制についてあれこれ考え夢想してきた。首相公選制が現実の課題になってきた今日、これはもはや“夢想”ではなくなってきたと思う。 道州制の導入問題と並んで、大統領制も21世紀前半の現実の課題になりつつあると思う。
以上、憲法改正や天皇制との関連で元首問題を考えてきたが、将来、公選の首相あるいは大統領が誕生するとしても、天皇制自体は微動だにしないと考える。 現行憲法が制定された当時(今から58年ほど前)、憲法の生みの親と言われる担当国務大臣・金森徳次郎氏は、天皇は日本国民にとって“あこがれの中心”と説明したという。(参考文献・「憲法改正」山崎拓著 生産性出版発行)
もし「公選元首」に不安を抱く人達がいるとすれば、私はこう言いたい。 天皇制は微動だにしない、民主主義と調和して生き続けるだろうと。 なぜなら、天皇と皇室は日本人にとって“心のふるさと”なのだから。(2004年1月16日)