1) 戦没者や国家のために犠牲になった人々を慰霊することは、その国の大切な行事であり誰も異論はないだろう。また、そのための施設や記念碑などがあって当然である。 慰霊や追悼によって、現世に生きる我々は、亡くなった方々と一体感を有することができる。こうした鎮魂の儀式は尊いものであり、我々も死者の霊と共に心が浄化されるだろう。
靖国神社(宗教法人)への参拝は極めて貴重なものである。それ自体には、まったく異論はない。 しかし、ここに来て、靖国参拝がまた大きな問題になってきた。我々一般の国民が参拝するのは、個人の自由だから何ら問題はないが、政府の閣僚ら公人がする場合は、政教分離の原則等から見て問題視されることがある。
さらに、閣僚参拝での公人か私人かの資格の問題だけでなく、端的に言って、A級戦犯が合祀されていることへの疑問が付きまとっているのだ。 この問題は、中国や韓国など外国からの非難だけを言っているのではない。日本国内にも、依然として厳しい批判や、許されないという声が存在しているのである。
私はここで、論点を整理したい。 靖国問題は基本的に国内の問題である。国内の問題だから、外国からとやかく言われる筋合いはない。従って、外国の圧力で靖国問題が左右されるならば、それは内政干渉と言わざるを得ない。 この意見に反対の人も多いかもしれないが、私は一日本国民としてそのように考える。
2) そこで、国内問題としての「靖国問題」を考えていきたい。 まず、正直に言って、政教分離の視点や、閣僚等の参拝が公式か否かといった事にはあまり関心がない。玉串料や献花料を私費で払ったとか、公用車を使ったとか(使わない方が良いが)、礼拝の仕方に宗教色があったかどうかなどは、枝葉末節の議論に思えてくるからだ。
公人と私人の関係、政教分離の問題などに関心のある人は、他の場所で大いに究明して頂きたい。私がここで究明していきたいのは、最大の関心事である“A級戦犯の合祀”問題である。(B,C級を含めれば“戦犯合祀”の問題となるが、ここではA級戦犯に絞りたい。)
インターネット等で調べると、靖国神社は昭和53年(1978年)10月17日、東條英機らA級戦犯14人を、「昭和殉難者」として遺族にも知らせず密かに合祀したという。 この事実は翌54年の4月19日になって、初めて新聞報道で一般に知らされた。
まるで“こそ泥”のようなこうした陰湿なやり方が、不快な印象と違和感を一般国民に与えたようである。 善い事をしたと思ったなら、なぜ合祀した直後に正々堂々と発表しなかったのか! 昭和天皇はこの件を御不快に思われたらしく、合祀以後はまったく靖国神社に参拝されなくなったと聞く。
私はもとより右翼ではないが、あえて右翼的な立場から見れば、天皇の御意志に逆らってまで合祀を強行したのなら(その説が有力だが)、とんでもない“不忠”の行為と言わざるを得ない。 また、今上天皇も勿論、A級戦犯が合祀された靖国には参拝されていない。
しかし、合祀は靖国神社の一存で決められることだし、法律違反でも何でもないから、たとえ陰険なやり方とはいえ訴訟を起こしたりはできない。それは立派な(?)宗教的判断だったのだろう。 宗教的には立派でも、しかし、それは大きな禍根を残すことになった。
3) 私はいま、宗教的には立派と言ったが、それはこういう事だ。「罪を悪(にく)んで人を悪(にく)まず」とか、「死者に鞭(むち)打つな」とか、「死ねば皆、仏になる」とか、「善人なほもって往生をとぐ、いはんや悪人をや」といった仏教的な意味である。(小泉首相も同じ趣旨の発言をしている。)
こうした宗教的な情念が日本には伝統的にあるから、A級戦犯であろうとなかろうと、国家のために犠牲になった人を神社に祭るのは、当然だという意見が広く出回っている。 また、合祀するしないは靖国神社の勝手だから、文句を付けるのは良くないという意見もある。
しかし、東京裁判(極東国際軍事裁判)でA級戦犯に決まった人達を、国のために本当に犠牲になった善良な人達と、なぜ一緒に祭らなければならないのか。 これでは“ミソもクソも一緒”ということになる。私はこの点に非常な疑問を抱く。
東京裁判を認めないという考えがあるが、日本はサンフランシスコ講和条約を結んで国際社会に復帰した時、条約の第11条で東京裁判の受諾をはっきりと明言しているのである。 勝者が敗者を裁くことはおかしいとか、アメリカにも人道上の戦争犯罪(原爆投下など)があるとか言い出したら、昭和天皇の戦争責任も当然問い直さなければならなくなる。
東京裁判に異議を唱えるのは結構だが、それはまったく別の次元の問題であり、アメリカの戦争犯罪や昭和天皇の戦争責任などを究明したいのなら、靖国問題とは別の所で大いにやってほしい。 いやしくも、日本政府が調印し国会が批准した条約に基づいて、私は考えを進めていくのだ。
このように、国内的にも国際的にも認知されたA級戦犯を、なぜ靖国神社に合祀したのか。 そこには何ら“ケジメ”というものがない。宗教的な情念だけが突出していて、政治性も国際性も一般的な常識も欠落している。こんな靖国神社なら、天皇陛下でなくとも、誰が参拝なんかに行ってやるものかと思ってしまう。
4) 中国や韓国からの抗議は別として、日本政府もこれまで靖国問題の対策に苦慮してきた。6年前には時の官房長官・野中広務氏が、A級戦犯の分祀と靖国神社の特殊法人化の考えを打ち出し、前の官房長官・福田康夫氏も、靖国に代る国立の追悼施設を新設する方向で、私的懇談会を開いて検討した経緯がある。
野中・福田両官房長官の目論見は頓挫した形になっているが、将来を見据えたその前向きな対応ぶりを高く評価したい。 野党側からも、千鳥ヶ淵戦没者墓苑との絡みで「国立戦没者墓地」等の構想が出ていると聞く。
政府や与野党が、戦没者追悼施設のあり方を真面目に検討しているのに対し、旧態依然とした頑迷固陋な連中は一体、何を考えているのか。 靖国神社だけを至上のものと固執し、政治性も国際性も一般常識も全て失って、日本の「文化」と称して靖国参拝だけを賛美しているのだ。 こんなことでは明日は開けない。戦後60年の節目の年を迎えて、我々日本国民は今こそ靖国神社のあり方、新たな追悼施設のあり方を考えるべきではないのか。
そこで、一国民である私は呼びかけた責任上、自分の考えを表明したい。 靖国神社がA級戦犯の合祀を変えないならば、戦没者追悼のための新たな国立施設を直ちに建てるべきである。 もし、神社が合祀を改めるなら、246万以上の英霊が眠る靖国を(法人のあり方の問題は措くとして)、国民的な慰霊の施設にして当然である。
その場合、A級戦犯になった人達も、(独善的とはいえ)それぞれが愛国の至情から行動したことは間違いないのだから、有志が集まって別に慰霊塔なり追悼施設を建立すれば良いではないか。それは、その有志達の判断次第である。 何よりもまず、私は靖国神社の祭神からA級戦犯を撤去するよう求める。もし撤去されないなら、靖国神社の存在理由に大きなマイナス材料となるだろう。
5) 先程も述べたように、「罪を悪んで人を悪まず」とか、「死者に鞭打つな」といった宗教的な思いだけで、この世が全て治まるものではない。 政教分離の原則ではないが、政治や社会常識と宗教の理念とは相容れない、両立しない面が多い。
ましてや、これが国際問題などになると、極めて厄介な様相を呈してくる。 私個人は戦後の平和教育の中で育ったせいか、63歳になっても靖国神社への戦犯合祀に強い疑問を持っている。B,C級は除くとしても、戦争指導に責任のあったA級戦犯の合祀については、絶対に納得できない。
もとより、これは中国や韓国からの抗議を受けて言っているのではない。靖国問題は純然たる国内問題であり、“内政干渉”は断固として排除すべきである。 我々日本国民が自主的に判断すべきものだ。
宗教的観念が政治の領域に入ってきたら、それは「祭政一致」の危険性を生じる。古代の日本ならいざ知らず、理非曲直を明らかにすべき現代においては、政治と宗教は峻別されなければならない。“ケジメ”というものが必要なのだ。 サンフランシスコ講和条約を受け入れたわが国は、その責任を全うしなければならない。
もし、東京裁判も、それを受諾した講和条約も不適当だと考える人達がいるなら、日本政府をして国際司法裁判所に提訴させるなり(個人の提訴は認められていない)、国として条約の破棄を真剣に考えるべきだろう。
国際軍事裁判や国際条約というのは、それほど重い意味を持つのだ。戦後60年の節目を迎えて、我々は「靖国問題」を、もう一度根本的な次元から問い直す必要がある。(2005年5月29日)
付記・・・祭神の「分祀」と「撤去」では意味が違う。 分祀とは「分けて祀る」ことで、撤去とは「取り除く」ことである。