1) 靖国神社への参拝について、小泉総理大臣は「“A級戦犯”のために参拝しているのではない。多くの戦没者に敬意と感謝の意を表したいからだ」と述べているが、誠にごもっともな発言だと理解する。
総理の心情は誰でも分かると思う。しかし、残念ながらこれは、個人の一方的な意思表示でしかない。 なぜなら、参拝を受ける靖国神社としては、一般の戦没者が相手なのか、A級戦犯が相手なのかといった区別はつかないからである。
靖国側から見れば、参拝は246万余の全ての英霊に対するものと理解するだろうし、そう受け止めて当然である。 一緒に祀られている祭神を、個人の意思でどうやって区別できるのか。参拝する時に「A級戦犯を除く」と言っても、神社側では区分けのしようがない。
また、いわゆる“A級戦犯の分祀”についても、靖国神社は教学上「あり得ない」と言っているし、神社本庁も「不可能」という見解を発表している。 従って、参拝時にA級戦犯を除こうとしても、それは宗教的にも論理的にも、まったく無理なのである。
しかも、“A級戦犯”の認識について小泉総理は、国会で「戦争犯罪人である」と答弁している(6月2日の衆議院予算委員会)。 このため、総理の個人的な心情がどうであれ、靖国に参拝すれば結果的に、A級戦犯にも敬意と感謝の意を表することになるのだ。
2) ここで私は、靖国神社ができることで、国民全体がほぼ納得する唯一の方策を提案したい。 それは「霊璽簿(れいじぼ)」からA級戦犯の名前を削除することである。これは、前項(「靖国神社よ、御霊を拉致・監禁するな!!」を参照)でも指摘しているように、事務的に簡単にできるのだ。
靖国の教学上の説明から言えば、“霊璽簿から名前を消しても、個別の御霊(みたま)は「座」から取り除くことはできない”というのだから(コップの水を水槽に注いだ後、同じ水を取り出すことはできないという理屈と同じ)、その御霊には何の損傷も起きないことになる。
御霊に何の影響も与えないのなら、それこそ気軽に、霊璽簿から名前を削除することが可能ではないか。 目に見える形で納得する一般人の認識と、神道を奉じる宗教家の認識は、根本的に違うのだ。その違いを活用することによって、双方が納得すれば、それに越したことはない。
「政治」とは一般人の認識を基にしている。それは宗教家のものとは違う。 霊璽簿からA級戦犯の名前が削除されても、その英霊は残っているという宗教家の認識があるなら、かえって好都合ではないか!! 事務的に名前を消すだけである。(蛇足・・・言うまでもないが、「遊就館」にあるA級戦犯の遺影も取り除くこと)
政治や外交、経済、社会といった現実の世界は、全て目に見える(可視)ものを基にしている。これに対して、宗教は目に見えない(不可視)霊界や霊魂、信仰の世界を対象にしている。 従って、A級戦犯の名前が霊璽簿から消えれば、現実の世界はそれで無くなったと認識し、宗教家(この場合、靖国神社)は「そうではない。御霊は残っている」と判断するのだ。
3) 以上のことから、靖国神社に合祀されたA級戦犯の御霊は、何があっても永久に靖国に残る。それならば安心して、A級戦犯の名前を霊璽簿から削除しようではないか。 但し、この点については、戦犯の遺族から反対の声が上がるかもしれない。
“御霊は不滅”という靖国の説明があっても、遺族は我々と同じ一般人だから、名前が抹消されることに抵抗を感じるだろう。 しかし、A級戦犯問題に“ケジメ”をつけること、また将来にわたって靖国神社が国民全体から支持されるためには、ここで英断が必要である。
靖国が英断を下せば、政治家も国民も外国人もほとんどが、何の“ためらい”もなく参拝することができるだろう。天皇陛下も参拝を復活されるかもしれない。 それらのことは全て、靖国神社にとって良いことである。
現実の世界は宗教界とは違うので、霊璽簿から名前が除去されれば(加えて、遺影も撤去されれば)、目に見える形でA級戦犯は居なくなったと判断せざるを得ない。 たとえ靖国側が、「それでも御霊は残っている」と言おうとも。
これに反して、靖国が英断を下せず何もしようとしないなら、もはや相手にならない。軍国主義礼讃の“象徴”として、自滅の道をたどるしかない。 そうなれば、靖国に代る国立の「戦没者追悼施設」の建立を急ごうという気運が盛り上がるだろう。
重ねて最後通告としよう。 靖国神社は自らが生き残るために、英断をもって“A級戦犯”の名前を霊璽簿から削除すべきである。加えて、遺影も撤去すべきである。 それが現時点で、靖国問題を解決する唯一の方策だと考える。 (2005年6月16日)