第4幕
第11場ーA[11月9日午後、南佐久郡・野辺山原の高原。 追跡してきた高崎鎮台の吉野大尉、前川中尉の率いる兵隊、並びに警官隊が、困民軍の一隊を追いつめている。]
前川 「中隊長殿、敵は戦う気力を無くしたようですね」
吉野 「うむ、我々が執拗に攻撃を繰り返したからな。ここで息の根を止めてやろう」
前川 「ご覧なさい、人夫どもが荷物を放り出して逃げ出していますよ」
吉野 「駆り出された百姓達だろう、先ほどの銃撃で肝を潰して逃げているんだ。あいつらには用はない、中ほどの白い旗を持った奴らが暴徒の主力だ。そこを狙って、総攻撃をかけよう」
前川 「これで奴らも完全に終りですな」
吉野 「我々の任務も終了する。 全員、銃を構えろ!・・・よし、撃てーっ!(ダダダダーン、ババババーンという一斉射撃の音が鳴り響く) 突撃ーっ!」(鎮台兵が突撃していく)
第11場ーB[同時刻。 菊池、坂本、伊奈野、藤吉ら困民軍側。]
伊奈野 「駄目だ、これ以上は無理だ、もう逃げるしかない」
坂本 「よし、逃げよう!」
菊池 「諸君は良く戦ってくれた、感謝するぞ。バラバラになって逃げるしかないが、絶対に捕まるな。今度又どこかで会いまみえることもある、達者でな」
伊奈野 「総理もお元気で、いろいろ有り難うございました」
坂本 「藤吉君、足の怪我は大丈夫か? 一緒に逃げよう」
藤吉 「ええ、怪我は大したことはありません。それより、僕と一緒にいると、かえって“足手まとい”になるでしょう」
坂本 「何を言ってるんだ、君とは秩父の時以来、ほとんど一緒だったではないか。捕まるなら一緒に捕まろう」
菊池 「いや、一緒に逃げるのは良いが、絶対に捕まらないでくれ」
坂本 「ええ、気を付けます、何とか逃げ延びますよ。 それでは、総理もご無事で。皆さんもお元気で!」
藤吉 「また会える日を楽しみにしています。皆さん、さよなら」
伊奈野 「俺も逃げるぞ、皆さんも達者でな」(全員、三々五々に逃げ落ちていく)
第12場[11月10日午後、東京の内務省。 内務卿室に山県内務卿、大迫警視総監、乃木参謀長がいる。]
山県 「長野の騒動は、もう完全に治まったのか?」
大迫 「はい、現地の岩村田警察署からの報告によりますと、暴徒は南佐久郡一帯で完全に壊滅したということです」
乃木 「高崎鎮台から先ほど入った連絡によりますと、第3中隊が長野県警の協力を得て、暴徒をせん滅したとの報告が上がっています」
山県 「うむ、結構だ。双方の被害はどうだろうか」
大迫 「暴徒の方は少なくとも10数名が死亡したほか、多数の負傷者が出ているもようで、当方は警察官2名が銃撃によって重傷を負い、うち1名は重体とのことです。 他に、農家の主婦1名が流れ弾に当たって死亡したと聞いています」
乃木 「鎮台兵には、これといった被害は出ていないようです」
山県 「そうか、犠牲は最小限に止めた感じだな。残るは暴徒の逮捕だが、どうなっているだろうか」
大迫 「これも鋭意行なっていまして、埼玉、長野を中心にすでに200名以上を逮捕しましたが、日を追って逮捕者は増える見込みです」
山県 「そうだろうな、これほどの暴動を起こしたのだから、徹底的に召し捕らなければならない。二度とこのような事が起きないように取り締まってもらいたい」
大迫 「はい、全力で摘発に当たっています。暴徒の生き残りや逃亡者は山梨を始め東京にも潜伏する者が多く、すでに数多く逮捕しています」
山県 「うむ、こういう連中を野放しにすると、また何を仕出かすか分からない。せっかく自由党が潰れたというのに、過激な連中がますます“はびこる”ことになる。とにかく、徹底的にやってほしい」
大迫 「承知しました」
山県 「陛下も、今回の騒動には殊(こと)のほかご心配のようだ。明日もまた、私が参内してご説明しなければならない」
乃木 「陛下がそんなに心配されているのですか」
山県 「うむ、なにしろ憲兵隊や鎮台兵が出動したからな、西南の役以来の一大事と思われているらしい。乱は鎮圧したが、いろいろ御下問されたいのだろう。従って、警視総監、事後のことは逐一私に報告してもらいたい」
大迫 「承知しました。ご宸襟(しんきん)を悩ますことのないよう努めます」
第13場[11月中旬、山梨県・北巨摩郡の大泉村。 農家の土蔵の中で、坂本宗作と日下藤吉が休んでいる。]
坂本 「藤吉君、足の怪我はだいぶ治ったようだね」
藤吉 「ええ、痛みはまだ少しありますが、この家の人達のお陰で随分良くなりました」
坂本 「親切な人に匿(かくま)われて良かったな。警察の追跡が厳しいというのに、こうして我々の世話をしてくれる農民も大勢いるのだ。心から感謝したい気持だ」
藤吉 「本当にそうですね。この家の人も、税が重いだけでなく“働き手”の息子さんを兵隊に取られて、政府を怨んでいるのです。こういう農家は他にも沢山あると思いますよ」
坂本 「まったくだ、農民の気持を無視した国の強引な政治に怒っているのだ。そういう意味で、我々が起こした戦いは間違いではなかった。これからも、自由や暮しの向上を求める民衆の戦いは後を絶たないだろう」
藤吉 「そうですとも。しかし、坂本さん、十石峠で無抵抗の巡査を惨殺したような行為は許されませんよ。 権力側だって、無差別に我々を殺すわけではない。捕まえた人間を裁判にかけてから、処置するのですからね」
坂本 「君の意見は分かるが、その話しはもう止めよう。戦闘の真っただ中にいると、人間は激情にかられて何をするか分からないものだ。私もあれは“まずかった”と思っているが・・・」
藤吉 「そう・・・僕だって激情にかられて高利貸しを斬りましたからね、生意気なことは言えない立場かもしれない。 それで、坂本さんはこれからどちらに行くつもりですか?」
坂本 「特に当てはないが、秩父の方へ戻るかもしれない」
藤吉 「秩父は危ないですよ」
坂本 「しかし、田代さんや加藤さんらがどうしているのか、その安否ぐらいは知りたいものだ。それに、どこへ行っても危ないのは同じだろう。君はどうするつもりだ?」
藤吉 「僕は東京の方へ行ってみようかと思っています」
坂本 「ふむ、いずれにしろここでお別れだな・・・私は田代さんらの安否を確認した上で、自分の処し方を考えたい。今はそれ以外のことは考えられないのだ」
藤吉 「ええ、僕もどうして良いのか分かりません。ただ、井出さんなどは捕まっていなければ、たぶん東京に潜伏するのではと思っているのです。 どうなろうと運が良ければもう一度、井出さんに会えるのではないかと・・・」
坂本 「うむ、井出君なら東京に行ってるかもしれないな。 よし、それではお別れだ。君のような素敵な若者と別れるのは辛いが、達者でいてくれよ。決して捕まらないように」
藤吉 「坂本さんこそ捕まらないように。元気にやって下さい」
坂本 「ありがとう。それでは、この家の主人に挨拶して秩父の方へ行くよ。くれぐれも達者でな」
藤吉 「ええ、ありがとうございます」(二人は手を握り合う。この後、坂本が土蔵を出てゆく)
第5幕
第1場[11月中旬、東京・下谷(したや)区内の住宅街。 松本カヨが“借家住まい”している平屋に、友人の山中ハツが訪れてくる。]
ハツ 「こんにちは、カヨさん。お久しぶりです」
カヨ 「ハツさん、ずいぶん待ちましたよ」
ハツ 「ごめんなさい、東京は初めてなので何度も道に迷いました。怒っていらして?」
カヨ 「ええ、とても、ホッホッホッホッホ。いえ、あなたに会える楽しさで、今か今かと待ちくたびれたのですよ。お元気そうな様子を見て安心しました」
ハツ 「本当にごめんなさい。わたし、昔から“方向音痴”なので皆さんに迷惑をかけます」
カヨ 「東京は広くて家が沢山あるでしょ、誰だって道に迷うわ。さあ、座って下さい」(ハツが“ちゃぶ台”の側に座って、風呂敷から土産を取り出す)
ハツ 「ありがとう、そう言っていただいて。これ、秩父のお饅頭です」
カヨ 「まあ、久しぶりだわ、ありがとう。早速、お茶を入れましょう。(茶を入れてハツに差し出す) それで、ご両親やお兄さんは、あなたが東京で勉強することに賛成してくれたの?」
ハツ 「父と兄が反対だったけど、結局、母が賛成に回ってくれたので、しぶしぶ認めてくれたわ。でも、なかば勘当扱いみたいで、母が当座のお金を工面してくれたの」
カヨ 「わたしと同じね。これからあなたは、生活費を得るために働きながら勉強していくのね」
ハツ 「ええ、その覚悟は出来ています。働きながら東京女子師範を受験して、一日も早く教師への道を進みたいと考えているのよ。 それで、あなたは女医さんになるために、いま頑張って勉強しているのでしょ?」
カヨ 「ええ、手紙でお伝えしたように、今この近くの好寿院という私学校で勉強しています」
ハツ 「女子師範と違い、学科が多くて大変でしょうね」
カヨ 「でも、自分で決めたことなので頑張るしかないわ」
ハツ 「女が医者になるというのは珍しいので、いろいろ“嫌がらせ”などがあるのでしょう?」
カヨ 「そう、同じ学校の男子生徒からいろいろな妨害や嫌がらせがあります。でも、そうした中で、妻沼村(めぬまむら)出身の荻野吟子さんという人は見事卒業して、いま女性として初めて医師国家試験を受けている最中なの。 荻野さんは私らよりもはるかに酷い妨害を受けていたのよ。それを考えれば、後輩の私達が挫折することなんか許されません」
ハツ 「あなたは意志の強い人だから、途中で挫けることなんてあり得ないわ。頑張って下さい」
カヨ 「ありがとう。 ところで、秩父の騒動は治まったけれど、その後もいろいろ大変なのでしょう?」
ハツ 「ええ、警察の手で、事件に関係した人達の逮捕が続いています。自首した人も入れるともう何百人も捕まったというのですよ」
カヨ 「あなたのお父さんも暴漢に斬られて大怪我をされたと聞きましたが、その後のご容体はどうですか?」
ハツ 「だいぶ回復したのですが、大変な衝撃だったようで、金貸しの仕事はもうやりたくない、質屋に“店替え”したいなどと話しています。兄もそれが良いだろうと言っていて、これ以上、農民達の怨みを買うのは御免だという感じです。 わたしも貪欲な高利貸しの仕事は嫌で堪らなかったので、今度の事件で父や兄が変ってくれたらと思っているのです」
カヨ 「そうなるといいですね。あなたも嫌だと言いましたが、申し訳ないけど、わたしも高利貸しの振舞いには憤りを覚えていました」
ハツ 「娘の私でさえ義憤を感じていたのですから、本当にそうですよ。でも、兄は父を襲った暴漢は決して許さないと怒っているのです」
カヨ 「犯人の心当たりはあるのですか?」
ハツ 「ええ、警察も追っているのですが、上吉田村の日下藤吉さんと言う人が犯人らしいというのです」
カヨ 「えっ・・・」
ハツ 「カヨさんも何か心当たりがあって?」
カヨ 「いえ、何も・・・」
ハツ 「わたしも二、三度その人と会ったことがあるような気がするのですが、その人のお父さんが私の父から借金をしたことが原因で、首を吊って亡くなったのを怨んでの犯行だというのです」
カヨ 「まあ、そういうことですか」
ハツ 「兄はその藤吉さんと言う人を絶対に許さないと言っていますが、わたしは父を始め金貸し業者が本当に酷い仕打ちをしていたのを知っていますので、その人のお父さんが自害なさったことに心から同情しているのです。父や兄にはそう言ってはいませんが」
カヨ 「そうですか・・・でも、“その人”はきっと秩父事件に巻き込まれたのでしょうね」
ハツ 「多分そうでしょう、負債農民の多くが事件に加わっていましたから。 あら、ちょっと長居をしてしまったかしら、こんな話しはもう止めましょう。わたし、これから下宿先を探さないと」
カヨ 「まだ時間は十分にあるでしょ」
ハツ 「いえ、早く下宿先を決めて落ち着かないと、その後のことが“はかどらない”のよ。 女子師範はお茶の水にあるから、その近くの借家がいいわね」
カヨ 「借家は沢山あるわ、より取り見取りよ」
ハツ 「それでは、これからお茶の水の方へ向いますが、家庭教師などの良い働き口があったら教えて下さいね。わたし、カヨさんが頼りですから」
カヨ 「ええ、良い働き口があったら直ぐに知らせます。下宿先が決まったら、また遊びに来てね」
ハツ 「ありがとう、本当にカヨさんだけが頼りですから。わたしのお姉さんみたい(笑)」
カヨ 「何を言ってるの、同じ年じゃないの。東京では女同士が助け合わないと、なかなかやっていけません」
ハツ 「ええ、それでは又、失礼します」(ハツ、一礼して立ち去る)
カヨ 「ああ、藤吉さんがハツさんのお父さんを斬ったとは・・・」
第2場[11月下旬、東京・芝の菊池藤助の家。 訪れた日下藤吉が菊池と話し込んでいる。]
藤吉 「何ということだ、井出さんがすでに逮捕されていたとは」
菊池 「そう、残念なことだ。 ここに匿(かくま)っていた時は何とか無事だったが、近くの宿に泊った折りに捕まったのだ。もっと遠くへ行っておれば良かったのに」
藤吉 「僕は井出さんと会えることだけを楽しみにして、東京に出てきたのです。以前から、同郷の貴方のことを聞いていましたので、こちらにお邪魔すれば井出さんに会う機会があると思っていました。残念です」
菊池 「日下君、わが家は警察から目を付けられている。君が密かに訪ねてこれたのは、運が良かったのだ。この後、どこに潜むかを考えた方がいい」
藤吉 「ええ、潜伏場所はこれから考えますが、田代さんや加藤さんら、それに井出さんまでが逮捕されたとなると、逃げ延びる気持も萎(な)えてきます。 いっそのこと、警察に出頭しようかと思ったりもするのですが・・・」
菊池 「何を言うのだ。君はまだ若いのだから、いったん逃げ落ちて再起をはかるべきだ。 いずれ世の中が変れば、君が活躍できる時が来るかもしれない。それまでは、身を隠すなりして雌伏の状態に耐えるしかないだろう」
藤吉 「いずれ、そういう時が来るでしょうか」
菊池 「罪を犯しても、大赦や恩赦で刑罰が無くなることがある。例えば、何年かして憲法が発布されたりしたら、恩赦が行なわれるだろう。そういう時まで潜んでおれば良いのだ。 また、たとえ捕まったりしても、恩赦で刑が減免されるのを待てばいいだろう」
藤吉 「それは分かりますが、捕まった田代さんや加藤さんらは死刑を免れないでしょうね?」
菊池 「これだけの大騒動になったのだ、首謀者は死刑を免れないだろう。しかし、君のような人達まで処刑されるはずはない。とにかく、逃げられるだけ逃げるのが一番だよ」
藤吉 「田代さんら首謀者が死刑になるなら、僕は黙ってはいられない。 皆が自由で公正な社会をつくろうと、正義の戦いに立ち上がったのです。それを弾圧したのは政府だ、軍隊まで使って弾圧したのは政府だ。その張本人・責任者は山県内務卿だ。僕は山県を殺(や)るしかない!」
菊池 「ちょっと待て、早まるな。 テロで山県内務卿を殺したからといって、今の政府が倒れるわけではない。テロの時代は終ったのだ。君がたとえ山県を殺(や)ったとしても、それは単なる“復讐”でしかない。政府はびくともしないだろう。 そんなことより、これからの新しい自由民権運動を建設的に考えていく方が、時代に即したものになるはずだ。 君は自分の命を大切にしながら、新しい日本を築いていくことに努めるべきではないのか。早まったことをしても、何も良いものは生まれてこないだろう」
藤吉 「そうですか・・・しかし、僕は今の政府が許せない、そのやり方が許せないのです。 民衆や農民に重税を押し付けて、富国強兵を図ろうとしている。つまり民衆を搾取し、民衆の犠牲の上に立って国づくりを進めようとしている。だから、末端の高利貸しまで法外な利息を取って、貧しい人達を苦しめているのです。 こんなことでは、本当に豊かな日本を築くことはできません。だから、僕達は決起して世直し、世均(なら)しを実現しようとしたのです。 しかし、僕らの戦いは弾圧されて失敗した。どこに怒りをぶつけたらいいのですか・・・ごめんなさい、こんな“繰り言”を菊池さんに言っても仕方のないことです。これ以上、話すのは止めます」
菊池 「君の正義感と真情は良く分かる。しかし、先ほども言ったように、早まったことはするな。これから暫くは、隠忍自重の時だ。 何年後に憲法が出来るかは知らないが、日本は確実に新しい時代を迎えようとしている。君はそういう動きを良く見極めながら、若い自分を生かしていってほしい。 いま、私が言えるのはそれだけだ。井出君らも捕まってしまったが、いずれ刑期を終えて、彼らも社会に復帰してくるだろう。 その時を待とう。もっと長い目で世の中を見ていこうじゃないか」
藤吉 「失礼しました。僕のモヤモヤした気持をぶつけてしまって、菊地さんを困らせてしまったようですね。自分なりに気持を整理していきます」
菊池 「焦ることはないよ、日下君。 君を匿いたいと思うのだが、ここは官憲に目を付けられている。他にもっと安全な所はないだろうか・・・出来れば遠い所へ行った方がいい。とにかく、捕まらないことが第一だ」
藤吉 「はい、気を付けて行動します。ここで捕まったら、菊池さんにも大変なご迷惑をかけます。 本当に有難うございました。また、お会いできる日が来ると嬉しいですね」
菊池 「うむ、達者でね。いずれまた会える日がきっと来るよ」
藤吉 「ええ、それではお元気で。これでお暇(いとま)します」(藤吉、深く頭を下げてから立ち去る)
第3場[12月上旬、東京・下谷にある松本カヨの借家。 カヨのいる所に日下藤吉が訪ねてくる。]
藤吉 「カヨさん、こんにちは。お元気ですか」
カヨ 「まあ、藤吉さん・・・びっくりしましたわ、ご無事だったのですね。どうしてここが分かって?」
藤吉 「ずいぶん探しましたよ。 下宿先が変ったというので、あなたが以前住んでいた下宿の大家さんに聞いたりして、こちらに住んでいることが分かったのです」
カヨ 「そうですか。さあ、どうぞお上がり下さい」(藤吉、座敷に入って座る)
藤吉 「突然のことで驚いたでしょ」
カヨ 「ええ、藤吉さんとは小鹿坂峠で別れて以来ですから。あれから4ヵ月以上たちましたね、お元気だったのですか?」
藤吉 「ご存知のように大変なことがありましたが、こうして無事でいます。 カヨさんは私学校で医学の勉強を続けているのですね」
カヨ 「ええ、何とか頑張ってやっています。でも、藤吉さんはお父さんが亡くなったり、秩父事件に巻き込まれていろいろご苦労があったのでしょ?」
藤吉 「巻き込まれたのではなく、自ら積極的に参加したのです。しかし、それを話すと長くなるので止めますが、僕はいま“お尋ね者”の身なのです。つまり、秩父事件で警察から追われているのです」
カヨ 「やはり、そうですか。 それで、これからどうなさるつもりですか?」
藤吉 「どうして良いのか、まだ見当が付きません。ただ、東京は広くて人が大勢いるので、潜伏するにはそれほど困っていません」
カヨ 「でも、生活費とかお金のことも大変でしょ?」
藤吉 「独り身だから何とかなりますよ。それに、働き口は土木作業とかいろいろあります。後はあまり言いたくないのですが、困民党の幹部から頂いた“軍資金”の残りもあるので、困っていません」
カヨ 「それで、今どちらに住んでいるのですか?」
藤吉 「木賃宿などを転々としています。でも、カヨさん、そんなことは心配しないで下さい。 それより、あなたが元気に勉学に励んでいる様子なので、僕はとても嬉しい。ところで、一つ頼みがあるのですが、聞いてもらえますか」
カヨ 「何でしょうか」
藤吉 「僕は秩父に帰れない身なので、これから妹のハルに手紙を出すことにしています。そこで、妹からの返事の宛先を、このカヨさんの所にさせてもらいたいのですが」
カヨ 「ええ、もちろん結構です。お母さんやハルさんはお元気なのでしょうか?」
藤吉 「詳しいことは分かりませんが、秩父事件や僕のことできっと苦労していると思います。警察からもいろいろ取り調べを受けているだろうし・・・」
カヨ 「そうですね、私も心配です」
藤吉 「出来れば、妹や母を東京に呼びたいと思っているのですが」
カヨ 「東京に?」
藤吉 「ええ、秩父に残っていても、お尋ね者の家族ではずっと苦労が続くでしょう。僕がこれからどうなるかは別として、妹達は東京へ出て来た方が勤め口も多いし、気苦労も減って何かと気楽になると思っているのです」
カヨ 「そうですか、それが良いでしょうね」
藤吉 「勝手なお願いをして、すみませんでした。それでは、これから妹に手紙を出しに行きますが、宜しいですか?」
カヨ 「どうぞ、そうして下さい」
藤吉 「ありがとう、助かります。 では、今日はこれで失礼しますが、10日ほど経ったら又お伺いしたいのですが」
カヨ 「ええ、どうぞ。でも、もっとゆっくりされたらどうですか?」
藤吉 「いえ、妹に早く手紙を出さなければ。急いでいてごめんなさい、それでは又」(藤吉が立ち上がる)
カヨ 「気を付けて下さいね。 藤吉さん、あの・・・」
藤吉 「何か・・・」
カヨ 「いえ、また今度お話しします」
藤吉 「では、失礼します」(藤吉、カヨの借家から出ていく)
第4場[12月上旬、秩父・大宮郷にある日下ミツの“実家”。 ミツと娘のハルが、藤吉からの手紙を読んでいる。]
ハル 「兄さんが無事に過ごしているので安心したわ。一日も早く会いたい」
ミツ 「私も藤吉に早く会いたいけれど、お尋ね者の身では秩父に帰って来れないし、困ったものだね」
ハル 「兄さんは私達に東京へ出て来たらと言っているけど、母さんの気持はどうなの?」
ミツ 「私はあまり行く気にはなれないけど」
ハル 「でも、ここにいては肩身が狭いし、思い切って東京へ行くのもいいのじゃないかしら」
ミツ 「そうね、お前は若いから、そう思うのも無理はないでしょう」
ハル 「それに、警察から追われている兄さんが心配なの。また、とんでもないことを考えたりしたら大変よ」
ミツ 「ええ・・・それなら、お前が先に行って藤吉と話しをつけなさい。母さんは行く前にいろいろ後片付けをしておかないと、秩父をすぐに離れるわけにはいかないよ」
ハル 「そうね、親戚の人達にも挨拶をしておく必要があるし、私が兄さんと会ってメドが付いたら、すぐに母さんを呼ぶことにしましょう」
ミツ 「そうしておくれ。せっかく東京に出ても、藤吉が警察に捕まってしまったら、何のために上京したのか分からなくなってしまう。 お前が大丈夫だと判断したら、すぐに母さんを呼んでおくれ」
ハル 「分かったわ、そうしましょう。 とにかく、私は一日も早く兄さんに会いたいの。このままでは他に頼れる人もいないし、不安だけが募ってしまう。東京へ出れば、後は何とかなるような気がするの」
ミツ 「父さんを亡くし、家が破産してしまったから、お前の不安は良く分かる。母さんも悪かったと責任を感じているよ」
ハル 「何を言っているのよ。母さんは悪くない、ご時世が悪いだけよ。 では、私はカヨさん宛てに手紙を出して、兄さんと会う段取りをつけることにするわ。それで、近いうちに東京へ行くことにするけど、いいわね」
ミツ 「ええ、そうしておくれ」
第5場[12月中旬、東京・下谷にある松本カヨの借家。 カヨと日下藤吉が話し合っている。]
カヨ 「ハルさんが上京することになって、良かったですね」
藤吉 「ええ、このあと妹と相談して、母も呼ぶつもりです」
カヨ 「お母さまやハルさんと話し合えば、藤吉さんも今後の身の振り方が決められると思いますよ」
藤吉 「そうですね。でも、僕は追われる身だから、良い考えが浮かぶかどうか・・・」
カヨ 「いえ、お二人の考えを聞けば、藤吉さんは無理のない道を選ばれると思うのです」
藤吉 「無理のない道とは?」
カヨ 「ええ、差し出がましいことを言うようですが、より安全な“潜伏”の方法を選ぶということです」
藤吉 「潜伏か・・・僕はもうずっと潜伏してきた。いい加減、それに疲れているのです。これ以上、潜伏しても何か良いことでもあるのだろうか」
カヨ 「では、どうするというのです? まさか、また何か事件を起こすのではないでしょうね」
藤吉 「そういうつもりはないが、しかし・・・僕と一緒に戦った人達が捕まり、誰か処刑される人が出てくるようなら、黙ってはいられないのだ。その場合は、何かしないと・・・」
カヨ 「一体、何をしようというのですか? 無謀な考えは止めて下さい」
藤吉 「あなたの意見は正しいのだろうが、理想を掲げて一緒に戦ってきた同志達が無残に処刑されるようなら、何もしないというのは“卑怯”そのものではないか」
カヨ 「あなたの正義感は分かりますが、政府に復讐することだけが正しいと言えるでしょうか。人それぞれ、生きる道がいろいろあっておかしいとは思いません。 藤吉さんは以前、代言人になりたいと言っていたではありませんか。あなただったら、必ず立派な代言人になれます。代言人となって、被害を受けている人や弱い立場の人達を助けることも、社会正義に沿った立派な仕事ではないですか。 あるいは、いずれ憲法が発布されて政治活動が自由に出来るようになれば、その時こそ、民衆の側に立って議会政治に邁進することも出来るのです。 女の私達にはそれは許されないでしょうが、藤吉さんにはそれが可能なのですよ」
藤吉 「君は将来について良いことばかり言うようだが、政府がいま作ろうとしている憲法がそんなに良いものだろうか。 伊藤博文達が考えている憲法が、本当に“人民主権”の素晴らしいものになるだろうか。そうなるとはとても思えない。 あの連中は『華族令』を作ったばかりじゃないか。貴族という特権階級を周りに置いて、天皇を中心とした絶対君主制を強化しようとしているだけだ。そんな連中の作る憲法なんて、自由民権の立場から言えば人民を抑圧する道具でしかないだろう」
カヨ 「あなたの言うことは、難しくてよく分かりません。ただ、御一新によって時代は徐々に良くなっていると私は思うのです。 女だって、教育を受ける機会を与えられたではありませんか。私だって、周りに古くて無理解な人達がいても、女医になるための勉強が出来るようになったのです。時代は少しずつ良くなっています。そうは思いませんか?」
藤吉 「僕にはそうは思えない。確かに、文明開化で良くなった面はあるが、富国強兵の名のもとに徴兵制が施行され、若い労働力は無理矢理国家に吸い上げられ、農村を始めとして民衆の生活は重税に喘ぐようになった。 国が強くなることは必要かもしれないが・・・」(その時、カヨの借家に突然、山中ハツが入ってくる)
ハツ 「こんにちは、カヨさん・・・あら、お客さまですか?」
カヨ 「まあ、ハツさん」
ハツ 「下宿先が決まったので、お知らせに来たのですが・・・まあ、この方は以前お見受けしたことのある日下さんでは?」
藤吉 「ええ、日下藤吉です。どなたですか?」
ハツ 「・・・」
カヨ 「何としたことでしょう・・・藤吉さん、はっきり申し上げますが、この方は山中ハツさんと言って、上吉田村の貸金業・山中常太郎さんの娘さんです」
藤吉 「えっ」
カヨ 「あなたが襲った山中さんの娘さんです」
藤吉 「・・・」
ハツ 「こんな所でお会いするとは、思ってもみませんでした。カヨさん、わたし帰りましょうか」
カヨ 「・・・」
藤吉 「いえ、ここに居て下さい。ちょうど良かった、僕からも申し上げたいことがある」
ハツ 「申し上げたいこととは?」
藤吉 「どんな理由があろうとも、あなたのお父さんに大怪我を負わせたことを謝ります」
ハツ 「・・・」
カヨ 「ハツさん、とにかくお上がりになって」(ハツが怖ず怖ずと座敷に上がり、カヨの側に座る)
藤吉 「大変、申し訳ないことをしました。(藤吉、ハツに対して深々と頭を下げる) いま、僕は決心がついたようです」
カヨ 「決心って?」
藤吉 「ハツさんと言いましたね、あなたと共に警察に行きましょう。僕は出頭します」
ハツ 「・・・」
カヨ 「藤吉さん、待って。あなたが出頭するなんて」
藤吉 「カヨさん、先ほども言ったように、僕は潜伏することに疲れたのです。この先、どうすれば良いのか分からず、ただ悩み苦しんでいるだけです。それもあって、母や妹を東京に呼び、話し合って身の処し方を決めたいと考えていたのです。 そこに偶然とはいえ、ハツさんと会えたことで悩みや迷いが消えて無くなる感じがしたのです。出頭すれば、全てがすっきりとします。 秩父で共に戦った田代さん、加藤さん、井出さんら多くの人が捕まり獄に繋がれているのだから、僕も獄に繋がれて当然でしょう。その方が潔いのです。後は天命を待つだけです」
カヨ 「そんな・・・あなたはまだ若いのです。それに、逃げている人も大勢いるのですよ」
藤吉 「そう、逃げている人も大勢いる。しかし、僕は自分の“運命”を自分で決められないでいる。それが悩ましいのだ」
カヨ 「だからと言って、あなたが敵としている薩長の“国家権力”に、自らの運命を委ねるというのですか。それで良いというのですか?」
藤吉 「僕は国家権力に屈するのではない。僕はいま、ハツさんを目の前にしてそう感じただけだ。だから警察に出頭する。 ただその前に、母や妹が上京しそうなので、一目だけでも会わせてもらいたい。そうすれば、全てがすっきりするのだ」
カヨ 「・・・」
ハツ 「いえ、日下さん、あなたは出頭しないで下さい」
藤吉 「えっ、僕を逃がすと言うのですか?」
ハツ 「そうです、どうぞ逃げて下さい」
藤吉 「僕の罪を許すと言うのですか。どんな理由があろうとも、僕はあなたのお父さんを斬ったのですよ。僕は犯罪者なのだ」
ハツ 「それは分かっています。でも、あなたのお父さまはうちの父からお金を借りたために、法外な利息の取立てにあって自害されたと聞いています。悪いのはうちの父です。 父が貪欲な“高利貸し”でなければ、このような悲劇は起こらなかったはずです。謝らなければならないのは、むしろ私の方でしょう。 でも、日下さん、許して下さい。父は高利貸しを止めることになりました。止めて質屋に店替えをすると言っています。ですから・・・」(ハツ、涙にくれて絶句しカヨにもたれ掛かる)
カヨ 「ハツさん・・・もういいわ。(ハツを抱きとめながら) 藤吉さん、ハツさんはあなたを許すと言っているのです。ですから、出頭などはしないで下さい。お願いします。 この後のことは、お母さまや妹さんとじっくりと相談してもらえればいいではないですか。そうして下さい」
藤吉 「ええ、しかし・・・」
カヨ 「藤吉さん、きょうはもうお帰りになって下さい。 ハツさんの気持は分かって頂いたと思いますので、妹さん達とよく相談されてから、また来てもらえませんか」
藤吉 「そうしましょう、それでは又」(藤吉が立ち去る)
カヨ 「ハツさん、あなた立派だわ。あの人もきっと感じるところがあってよ」
ハツ 「本心を言ったまでです。あの方が立ち直ってもらえれば、カヨさん、あなたも安心されるでしょう」
カヨ 「ええ、ありがとう」
第6場[12月中旬の某日夜、東京・上野にある木賃宿。 日下藤吉のいる部屋に、妹のハルが訪ねてくる。]
ハル 「兄さん、無事で本当に良かったわ」
藤吉 「ハル、お前は少し“やつれた”ようだが、母さんは達者で暮しているの?」
ハル 「ええ、でも、最近はちょっと老け込んだみたい」
藤吉 「うむ、それは仕方がない。父さんも亡くなり、いろいろ苦労したからな。 寒くなってきたぞ、火鉢の所に寄れよ。(ハルが火鉢の側に寄り、藤吉と向い合わせに座る) 暫く会わない間に、ハルも大人びた感じになったな。いろいろ大変だったろう」
ハル 「兄さんこそ危険な目に遭って何か人が変ったみたい。隠者みたいな感じがするわ」
藤吉 「仕方がないさ、逃げ回って隠れているんだもの。ところで、お前は東京で暮す気持になったのか」
ハル 「ええ、秩父にいても犯罪者の妹のように“白い眼”で見られているようで、居心地が悪いの。だから、思い切って東京で暮す方がいいと思うわ」
藤吉 「そうか、お前にも迷惑をかけたな。母さんはどうなのだろう」
ハル 「私達が東京に来てほしいと言えば、来ると思うわ。独りではきっと寂しいでしょう」
藤吉 「うむ、そうだな、近いうちに母さんも呼ぼう。 それで、秩父の方はその後どうなんだ?」
ハル 「事件に関係した人達が、相変らず次々に逮捕されているわ。でも、つい最近、良い話しを聞いたの」
藤吉 「何だ、良い話しとは」
ハル 「これは、事件に関係した確かな“筋”から聞いたのよ、警察はまだ何もつかんでいないわ。井上会計長がある人に匿(かくま)われているんですって」
藤吉 「えっ、井上さんが?」
ハル 「そうよ、これは確かだわ」
藤吉 「そうか、それは素晴らしい。井出さんの他に坂本さんらも捕まって、ガックリしているところだったのだ。 井上さんにぜひ一度会ってみたい。あの人なら、そのうち巧く逃げ延びるだろう」
ハル 「ええ、だから兄さんも上手に逃げる手立てを考えて」
藤吉 「うむ、そうしようと思う。 ハル、実は先日、思わぬ人に会ってしまったのだ」
ハル 「思わぬ人って?」
藤吉 「カヨさんの所で、山中常太郎の娘にバッタリ会ってしまったのだ」
ハル 「えっ、兄さんが襲ったあの高利貸しの娘に?」
藤吉 「そうなんだ。僕は自分のことでずっと迷っていたから、観念して警察に出頭すると言ったら、ハツさんというその娘は何と言ったと思う? 出頭しないで逃げてくれと言うのだ。そして、僕が謝罪したのに対して、謝らなければならないのは自分の方だ、あなたのお父さんを自害に追い込んだのは、うちの父だと言って逆に許してほしいと言うのだ。 僕はその言葉に呆然としてしまって、返す言葉も無かった。僕はそのままハツさんと別れたが、人の心というものは何と不思議なものかと思ってしまった。 彼女は僕に怨みを抱いて、警察に届け出て当然なのだから」
ハル 「そう、そんなことがあったの・・・それで、カヨさんはどう思っているの?」
藤吉 「カヨさんは、やはり逃げてほしいと言うのだ」
ハル 「兄さんは幸せね。どんなに辛い目に遭っていても、そうして支えてくれる人がいるのだもの。それに比べると、私は寂しい。誰も支えてくれないわ。ね、そうでしょう?」
藤吉 「・・・」
ハル 「それに、兄さんが東京から逃げていったらどうなるの? 私は独りぽっち。母さんがいても、母さんを支えるのは私よ。私を支えてくれる人はいないわ」
藤吉 「お前には悪いが、僕のいない間は、母さんを大事に見てあげてほしい。どこへ逃げようとも、いずれ僕はお前や母さんのいる所に戻ってくるのだから」
ハル 「ええ、それは分かっています。でも“いずれ”って何時なの? いずれと言ったって、何時になるか分からないじゃないですか」
藤吉 「何時になるかは分からない。しかし、必ず戻ってくる」
ハル 「母さんや私は不幸ね。秩父には居づらくなるし、東京に出てきても兄さんとじきに別れなくてはならなくなる。先のことは全く見当もつかないし・・・」(ハルが涙声になって、うなだれる)
藤吉 「ハル、本当に悪いと思っている。しかし、仕方がないのだ」
ハル 「兄さん、わたし寂しいの、寂しくてどうしようもないの」
藤吉 「・・・」
ハル 「お願い、わたしを抱いて!」(ハルが藤吉の胸の中に倒れ込む)
藤吉 「何だ、どうしたのだ・・・」
ハル 「兄さん、わたしを抱いて」
藤吉 「お前は“妹”じゃないか」
ハル 「構わないわ、わたしは“女”よ。寂しいの、抱いてちょうだい」(ハル、藤吉にしがみつく)
藤吉 「こら・・・でも、お前がかわいそうだ」(二人は抱き合ったまま横になる)
第7場[12月下旬の某日深夜。 秩父・下吉田村の関耕地にある斎藤新左衛門方。その土蔵の二階に隠れ住んでいる井上伝蔵の所に、日下藤吉が訪ねてくる。]
藤吉 「お久しぶりです、井上さん。お元気ですか」
井上 「おお、日下君、無事でいたか・・・」
藤吉 「ええ、何とか逃げ延びています。今は東京に潜んでいますが、井上さんもご無事で何よりです」
井上 「うむ、それにしても良く来てくれた。警察の目を“ごまかす”のも大変だったろう」
藤吉 「いえ、深夜ですからね、大したことはありませんよ。それより、井上さんが自宅からこんなに近い所に隠れ住んでいるとは思いませんでした」
井上 「いや、ここの主(あるじ)の斎藤さんは昔からの友人でね、私が秩父自由党にいた頃にも大いに助けてくれた人なのだ。こうして土蔵に匿ってくれて、何かとお世話になっている。世の中の動きも逐一教えてくれるのだ」
藤吉 「良かったですね、これでは警察も“まさか”と思って気が付きませんよ。灯台下(もと)暗しとはこのことだ、ハッハッハッハッハ」
井上 「ハッハッハッハ、そのとおり、私の運もまだ繋がっているようだ。ところで、君はこれからどうしようと考えているのかな」
藤吉 「あれこれ考えていますが、これと言った名案はありません。とりあえず母と妹を東京に呼びましたが、後は迷っている最中です」
井上 「それは仕方がないだろう、当分はじっと潜伏していることだ。焦ってはいけない、そのうちきっと何か良い機会が訪れるものだ。 君は若いから血気にはやるかもしれないが、残念ながら、秩父革命は終ってしまったのだ。“暴発”だけはしないように心掛けてほしい」
藤吉 「はい、そのように気を付けます。井上さんに言われたのですから、守らなければなりませんね。それにしても残念です、田代さんや加藤さんら大勢の人が逮捕されるとは」
井上 「うむ。しかし、私らの他に菊池さん、落合さんら多くの同志は捕まっていない。皆、それぞれの道を歩んでいくだろう」
藤吉 「井上さんは、これからどうなさるつもりですか?」
井上 「当分は匿ってもらうつもりだが、いつまでもという訳にはいかないだろう。万一にも斎藤さんにご迷惑がかかってはいけないし、いずれどこかへ逃げ落ちようと思っている。それも出来るだけ遠くの方へね」
藤吉 「そうですか、僕も出来れば遠くへ行きたいものです」
井上 「うむ、お互いに家族を抱えているが、仕方がないだろう。そういうことを考えていると、どうしても気が滅入ってくる。 久しぶりに日下君に会えたのだ。今日ぐらいはどうかね、パッとやろうじゃないか。斎藤さんから旨い“地酒”をもらっているのだ」
藤吉 「いいですね。僕はまだあまり飲めない方ですが、井上さんに会えたのだから、こんなに嬉しいことはありません。秩父の旨い酒をいただきます」
井上 「よし、憂さを晴らそう。今夜は飲み明かそう、君はここに泊っていけばいいのだ」(井上が立ち上がり、土蔵の奥から地酒の瓶と茶わんを持ってくる)
井上 「さあ、飲み明かすぞ、いつも一人で侘びしかったのだ。今夜は君がいてくれて本当に嬉しい。積もる話しをしよう」(井上、酒を茶わんに注いで藤吉に渡す)
藤吉 「いただきます」(二人が“茶わん酒”を酌み交わす)
《未完。2006年5月14日》