1)「核保有国」になった北朝鮮
今年は何と言っても、北朝鮮が10月に実施した核実験が最大の出来事だったと思う。北朝鮮はそれより先の7月にも、ミサイルの連続発射実験を行ない近隣諸国に強い衝撃を与えた。 日本海を挟んだ隣国の北朝鮮がこのように軍事力を誇示したことは、日本国民にも深刻な影響を及ぼした。
北朝鮮への経済制裁が始まり、国内では日本の「核武装」論議が云々される事態となった。しかし、わが国には「非核3原則」が国是としてある以上、簡単に核武装するわけにはいかない。核武装論議自体をタブーにすべきだという意見も依然として根強くあるのだ。
しかし、こうした状況がいつまで続くのだろうか。 おかしな話しがある。アメリカや韓国は北朝鮮を「核(兵器)保有国」と認めないというのだ。日本政府も同様の見解を示している。地下核実験を行ない、続いて2度目の実験をも視野に入れていたという北朝鮮が、どうして非核保有国と言えるのだろうか。
軍事的にいろいろな理屈があるようだが、自ら核兵器保有を堂々と宣言し、それを証明するかのように核実験を行なった国を「核保有国」ではないと決め付ける根拠がどこにあると言うのだろうか。 要するにアメリカも韓国も日本も、北朝鮮を核保有国として認めたくないのである。
何故か。 もし、北朝鮮を核保有国と認めたならば、これまでの「6カ国協議」は何であったのかという疑問が生じてくるからだ。北の核武装・ミサイル増強に歯止めをかけようという6カ国協議は、失敗に終わったという結論しか出てこないからだ。それに北を核保有国と認めれば、韓国も日本も“重大な政策転換”、つまり自らの核武装への是非を迫られるからだ。
米韓両国も日本も、北の核武装阻止に失敗したことを認めたくない。従って「北朝鮮は未だに核保有国ではない」と強弁するしかないのだ。 しかし、これは真実ではない。自らの外交面での失敗を覆い隠そうという魂胆が見え見えである。(年末に開かれた6カ国協議も、何の成果もない“茶番劇”に終わり、北朝鮮をめぐる情勢はむしろ悪化している。)
白を黒と言い、黒を白と言いくるめる詭弁はもう止めよう。北朝鮮がインドやパキスタンと同じように堂々たる「核(兵器)保有国」になったことを率直に認め、その上に立って次の対応策を真剣に議論していくべきである。それを怠ることは、危機をますます増大させるだけである。
2)「非核3原則」とNPT体制は崩壊へ
わが国の「非核3原則」は、もはや有名無実となっている。そのことを国民ははっきりと認識すべきだ。「核を持たず、つくらず、持ち込ませず」という3原則は、アメリカの“核の傘”に入っている日本には有り得ないことだ。
米軍が日本の領海内に密かに核兵器を持ち込んだり、又はそれを持って通過しているのは事実であろう。だからこそ、日本はアメリカの“核の傘”に入っており、アメリカの「核抑止力」によって安全と平和が保たれているのだ。もし、そうでなかったら、核武装した北朝鮮によって日本は更なる脅威にさらされるはずだ。
「非核3原則」は沖縄が日本に返還される際に、当時の佐藤内閣によって定められたものだ。(唯一の被爆国である日本の事情に配慮して「核抜き、本土並み」の返還が必要になったということ。) いらい、非核3原則は国是となったが、米軍による日本への「核持ち込み」はラロック証言、ライシャワー証言などによって明白となっている。(これについては、先に筆者が書いた「日本の核武装を真剣に論議せよ」を参照してほしい。)
だから、はっきりと言っておこう。米軍の核兵器を「持ち込ませる」ことによって、核武装した北朝鮮の脅威を少しでも緩和させることができるのだと。 もし、米軍の核兵器を持ち込ませないのであれば、日本は自国の安全と平和を守るために、自ら核武装をせざるを得なくなるだろう。これが現実というものだ。
さて、NPT・核拡散防止条約についても一言触れたいと思う。この条約が極めて不公正で差別的な内容のものであることは、すでに前項(「国際正義に反する、不条理なNPT・核拡散防止条約」を参照してほしい)で明らかにしたところである。
私はその中でNPTの“改廃”を訴えたが、これは核保有国と規定された5カ国(米露英仏中)が核軍縮を推進しようという姿勢を一向に示していないからだ。これでは何のためのNPTなのか! 核廃絶の方向を打ち出せないNPTならば、インドやパキスタン、北朝鮮に続いて更なる核保有国が次々と現れても何ら不思議ではないだろう。
NPT体制はもはや崩壊の危機に直面している。それはわが国の「非核3原則」が消滅の危機を迎えているのと同じように、確実に一歩ずつ全世界に波及していくだろう。「核抑止力」というものが現実に存在する限り、それは避けて通れない“宿命”のような感じがするのだ。
3)アメリカの「日本核武装奨励」論
ここで私は、最も注目すべき論文が10月10日付けのニューヨーク・タイムズに載ったことを紹介しようと思う。 10月10日とは、北朝鮮が核実験を実施した翌日のことだ。この論文はブッシュ米大統領の元補佐官であるデービッド・フラム氏が寄稿したもので、私は国際的ジャーナリストである古森義久氏のコラム(日経BP社・10月13日公開。題名は「『日本に核武装』ー米国から出た初めての奨励論」)から知ることができた。
古森(こもり)氏の文を引用すると、フラム氏は「米国は日本に対しNPTを脱退し、独自の核抑止力を築くことを奨励せよ。第二次世界大戦はもうずっと昔に終わったのだ。 現在の民主主義の日本が、台頭する中国に対してなお罪の負担を抱えているとするバカげた、見せかけはもうやめるときだ。核武装した日本は中国と北朝鮮が最も恐れる存在である。(中略) 日本の核武装は中国と北朝鮮への懲罰となるだけでなく、イランに核武装を思いとどまらせるという米国の目標にも合致する」と述べている。(注・朱色は筆者が付けたもの)
私はこの文を読んだ時、衝撃を受けると同時に目が覚める思いがした。フラム氏の論文について、古森氏は「今の米国ではもちろん超少数派の意見」だとしながらも、「同氏の主張で注目されるのは、米国にとって日本は核兵器開発を促せるほど信頼できる同盟国だとみなしている点であろう」と指摘している。
ブッシュ政権を支えてきた元補佐官が、日本はNPTを脱退し、独自の核抑止力を築くよう勧めるとは“重大な発言”である。これはアメリカの一識者の意見ではあるが、東アジアをめぐる国際情勢が劇的に変貌していくことを予見するような発言だと考える。 私はもともと、日本が将来仮に核武装をするとすれば、まずアメリカの了解と同意が必要だと考えていた。フラム氏の論文はそれを裏付けるようなもので、日本の核武装の可能性に大きな展望を開くものだ。
真理とか真実は、初めはごく少数の人にしか理解されない。「それでも地球は動く」と言ったガリレオ・ガリレイがそうだ。しかし、時が経つにつれて真理と真実は人々の心の中に溶け込んでいく。 科学的真理と国家的政策は全く次元の異なるものだが、初めは“超少数派”の主張・意見でも、やがて公然と認められるようになる道程は同じである。
そう考えると、古森氏が紹介したフラム氏の論文は今後、わが国の非核3原則の是非や核武装論議に多大の影響を及ぼすことは間違いないと考える。 北朝鮮の“核武装”は今年最大の出来事であり、来年以降もそれをめぐる議論がいっそう活発になっていくに違いない。
4)悠仁親王のご誕生と皇室典範
9月6日、秋篠宮家に悠仁(ひさひと)親王殿下がお生まれになったのは、非常に喜ばしいことであった。皇室には約40年、男子がお生まれになっていなかったため大変な慶事だったと言える。 これによって、皇位継承に関する皇室典範の改正問題はひとまず“棚上げ”された形となった。
皇室に男子ご誕生となれば、現行の皇室典範をすぐに改正しなくても当分は安心して推移を見守ることができる。女性・女系天皇がどうだとか、日本はずっと男系天皇でやってきたとか、“Y1染色体”がどうだとかといった騒々しい議論は、当分の間しなくても良さそうだ。
約40年間、女子しかお生まれにならなかった皇室を見ていて、多くの国民はヤキモキしていたに違いない。国民の“端くれ”である不肖・私も深く深く憂慮していた。 しかし、悠仁親王のご誕生によって、垂れこめていた暗雲はすっきりと払いのけられたのだ。多くの国民が晴れ晴れとした気持になったはずである。
女性・女系天皇を認めよといった意見や、どうしても男系天皇でなければならぬといった議論は、宮家の創設やその在り方の問題とともに後日に検討されることになった。 一人の男子の誕生が、これほど大きな意味を持ったことは滅多にない。
5)“いじめ”問題と「生命の尊厳」
2006年を最も良く象徴する漢字は「命」になったという。これは悠仁さまのご誕生だけでなく、今年後半に大きな社会問題になったイジメによる生徒の自殺が連続して起きたからだろう。 イジメは良くないということは誰でも分かっている。しかし、イジメが原因で自ら命を落とした生徒が何人もいた。これまで以上に、生命の尊厳が問われた年だったと言って良い。
イジメとは直接関係ないが、公式データで年間3万人もの自殺者を出している日本の現状は嘆かわしいものだ。非公式の分を含めると、自殺者の数は更に増えているだろう。 人はなぜ死に急ぐのか。もとより、いろいろな事情があることは承知している。病気、不安、借金苦などの経済的理由、過度の疲労、孤独、人間関係の破綻などいろいろあるだろう。
私は尊厳死、あるいは安楽死を否定するものではない。自殺は人間の権利かもしれない。しかし、人は自殺する前に「生の尊厳」をどれほど考えているのだろうか。いや、生の尊厳を真剣に考えないから安易に死を選ぶのだろうか。 インターネットで知り合った若者同士が、集団で“練炭自殺”するケースなどを聞くと本当に嫌になる。
私のホームページの掲示板にも今月、精神疾患症状が続いているという24歳の女性から「自らを救えない弱者であり、生きることから逃げ出すための死を望んでいる」との投稿が寄せられた。彼女の症状がどのようなものかは分からないが、私は「単なる自殺は絶対に認めない。生の尊厳をぜひ追求してほしい。人間は生きるために戦っているのだから、なんとしても『生』に挑戦してほしい」という趣旨の返事を書いておいた。
イジメ自殺問題に限らず、親子同士の殺人事件や幼児の殺害など、生命を軽んじる無惨な事件が今年も相次いで起きた。 一方で「美しい国造り」や「国家の品格」が叫ばれてはいたが、全ての根元は「人の命」である。生命の尊厳なくして、美しい国造りも国家の品格もあったものではない。
今年を振り返ると、つくづく「命の大切さ」というものを考えざるを得ない。 ある高名な作家の言葉で「生きるために生きる」というのがある。私はこの言葉の意味を「自分の生に挑戦する」ことだと解釈している。 人生は戦いである。誰もが強い心を持って、勇気を奮い起こして自分の生に挑戦し、新しい年を迎えてほしいと願うものである。 (2006年12月27日)