イエス・キリストと「山上の垂訓」

1) 私はクリスチャンではないので、キリスト教のことはよく知らない。 しかし、「山上の垂訓」といわれるイエス・キリストの言葉(教え)は知っている。 この言葉は、人類が発する言葉の中では、二度と現われることのない高貴なものであろう。 人類が滅亡するまでに、このような言葉は決して現われないだろう。それほどまでに、崇高なものであると思う。

 多分、この言葉の中に、イエス・キリストの教えの全てが凝縮されているのではないか。 故遠藤周作さんの文言を借りれば、「おそらく人間にはなすことの不可能な愛の呼びかけ」(『イエスの生涯』遠藤周作著・新潮文庫)だったと思わざるをえない。

 「もし、誰かがあなたの右の頬を打つなら、他の頬をも向けてやりなさい」「下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい」「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」「人々の過ちを赦すならば、あなた方の天の父も、あなた方を赦して下さるだろう」「何事でも人々からして欲しいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ」等々。 これは最早、人間の言葉ではない。神の言葉である。

 そのとおりにせよと言われても、私のような普通の人間には完全にそう思い、そうすることはとても無理である。 だから、私はとてもクリスチャンにはなれないと思う。 マザー・テレサのような人達は可能であろうが、大方のクリスチャンでも、そのとおりにすることはなかなか難しいのではないか。

2) イエス・キリストの言葉(教え)は、まさに神性そのものである。至高、至純、至愛そのものである。 これは人間界では、ほとんど不可能と思われるものだ。仮に個人同士の間では実現可能だとしても、国家間では絶対に不可能なことである。

 カトリックとプロテスタントの間の宗教戦争では、愛や寛容どころか、血なまぐさい殺りくが至る所で繰り広げられた。 また“キリスト教”国家である西欧その他の諸国が、どれほどの侵略、征服、殺害、略奪などを行ったかは、歴史を見れば明らかである。 とても“キリスト教”国家とは思えない事実である。

 また、人間個人も欲望が強くて深い。イエス・キリストの教えのようには、とてもいかない。 だから、ほとんどの人は罪の意識を持っているし、大なり小なり罪を犯している。これは避けられないことだ。 キリスト教では、イエス・キリストが人間の罪を一身に負うことにより、罪深い人間は赦される(救われる)ことになるのだろう。

 キリスト教でも仏教でも多くの宗教は、人間がいかに救われるかということが最大の命題になっていると思う。 人間が「救われる」ものでなければ、キリスト教を始め宗教は存在しえないだろう。

3) 「山上の垂訓」にある絶対無私の愛というものは、人間にとって永遠の理想なのだろう。これが極めて困難であるがゆえに、なおさら絶対の理想ということになる。 実現不可能なものこそ、絶対の理想ということだ。ということは、人間に与えられた「」でしかないと思う。

 我々にとって夢でしかないものを、イエス・キリストは示された。我々の心の奥底にさえないものを、キリストは示されたのである。 「山上の垂訓」を聞いた時、人々はどう受けとめただろうか。 はっと我にかえった人もいただろうが、大多数の人は呆然としてしまったのではなかろうか。

 イエスに、ユダヤ民族の救世主(メシア)になって欲しいと願っていた人達は、呆然とすると同時に“裏切られた”と感じたのではないか。 地上の王国を願っていた人達にとっては、天上の王国を示されたので、面喰らうと同時に失望したにちがいない。「山上の垂訓」のあと、多くの人達がイエスのもとから離れていったと言われる。

 遠藤周作さんの『イエスの生涯』によれば、この時「群集は動揺した。彼等は今はじめて、イエスのはっきりとした拒絶の答えを聞いたのである。 自分たちの民族的な叫びにたいし、イエスからこのような答えがかえってくるとは思いもしなかった群集は幻滅した」とある。

4) それほどまでに、「山上の垂訓」は高貴なものであった。 同じ言葉の中に「聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。 おそらく彼等はそれらを足で踏みつけ、向き直ってあなた方に噛みついてくるだろう」とある。 まるで、その後のイエスの運命を暗示するかのような教えである。

 ローマ帝国に征服され、ユダヤ民族の自由と独立を願っていた人達(愛国者)にとっては、イエスの言葉はあまりにも期待外れのものであった。幻滅以外の何物でもなかったろう。 「敵(ローマ)を愛し、迫害する者のために祈れ」などと言われても、どうしてできようか。 ユダヤ民族の自決こそ、現世での理想だったのである。 そこに、政治と宗教(信仰)の大きな乖離を見ることができる。

 ゴルゴタの丘で無惨な十字架刑に処せられ、イエスの魂は天に上った。 天上の王国(神の国)を目指したイエスの活動は、わずか3年で終止符を打ったのである。 しかし、その後の「復活」によって、イエスは“神の子”として弟子達の中に蘇ったのである。 それがキリスト(救い主)の誕生である。

5) 「山上の垂訓」と同じように、イエス・キリストのような人は二度と現われないだろう。 宗教家はいくらでも現われるにちがいないが、イエスのような人は空前絶後である。 しかし、万一現われたらどうなるか。 間違いなく、イエスはまた処刑されるだろう。

 このような類いまれな美しい心を持った人は、現実の人間界では生き延びることは無理である。 もし、このような人がまた現われたら(イエスの再臨)、現在のキリスト教の教会を否定してしまうだろう。 地上に王国を築いた教会を認めないだろう。 なぜなら、イエスはあまりに純粋だからである。 間違いなく、異端となってしまうだろう。

 ドストエフスキーの小説『カラマーゾフの兄弟』の中に、有名な「大審問官」のくだりがある。 15世紀、スペイン(カトリック教国)のセビリアにイエス・キリストが再び現われるという物語である。 人々はイエスが現われたと知るが、枢機卿である大審問官はただちにイエスを捕らえ、牢獄に閉じ込めてしまう。

 大審問官はイエスに対して、「なぜ、我々を邪魔するために来たのか。 明日には異端として火あぶりにするぞ。 もう二度と来るな、出て行け」と言って、イエスを追放してしまう。 イエスは黙ったまま立ち去っていくという物語だが、ここで長々と小説の中身を紹介する時間はない。

 簡単に言ってしまえば、「現世では人類にパン(物質的幸福)を与えているのだから、お前はもう必要ではない信仰は我々カトリックに任せておけ」というのが、大審問官の言わんとする趣旨である。 イエスと大審問官は、お互いに相手を認め合った形で別れている。

 この『大審問官』のくだりは、実に意味深いものがある。 大審問官による政治(教会)と宗教(信仰)の絶妙のバランスを表わしているように見える。 もし「山上の垂訓」に見られるような、至純至高のイエスが現われたらどうなるか。教会による秩序は崩れ去ってしまうのではないか。 ユダヤ教の指導者や律法学者がイエスを排斥したように、既成の教会の指導者は、再臨したイエスを除去しようとするだろう。

 以上、イエス・キリストと、人類から発せられた最も美しい言葉「山上の垂訓」について考えてみた。(2002年4月6日)

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