政治とはもともと次元の低いものだ

1) 我々が「政治」にいろいろの事を期待し、また善いものであって欲しいと願うのは当然のことである。 政治は我々国民の生活、安全、生存にとって重要な要素となっているからだ。 しかし、政治に“幻想”を抱くのは止めよう。 何故なら、政治の根本とは“利害得失”だけであり、国内政治においては“税金の分捕り合戦”と言ってよいからだ。

 対外的には「国益」という言葉をよく使う。 これも、他国との関係の中で、自国の利益や権限を守ったり、それを追求することを意味しているものだ。 根本は他国との間の“利害得失”ということである。

 古来、善政とか徳治とか、理想の政治についていろいろ言われてきた。 これは大体、人民(国民)の側から見て善い政治かどうかということである。 要するに、人民の利益・福祉に叶うものが、善政とか徳治政治などと呼ばれてきた。

 これを逆に言えば、人民の利益・福祉に反するものが悪政であり、虐政ということになる。 その場合、人民にとっての利害得失だけが、善政か悪政かの尺度になるのである。 そういう意味で、政治を評価する基準は単純であると言ってよいのだが、現実は複雑な様相を呈してくる。

 つまり、人民の中にもいろいろな階層、集団、組織、グループ等があるので、あとは“税金の分捕り合戦”ということになる。 その場合、ある階層・集団にとって善い政治は、他の階層・集団にとって悪い政治となることは、いくらでもあることだ。 階層や集団によって、善い政治か悪い政治か分かれてしまうのである。

2) 政治とは、宗教でも道徳でもないし、哲学でも芸術でもない。 最も卑近な生活、安全、生存に係わるものである。最も現実的で物質的なものである。それ以上でもそれ以下でもない。 だから、政治に美しい幻想を抱くのは止めよう。 政治とは最も生臭いものであり、“権謀術数”的な要素が強いのである。

 かつて、首相を務めたこともある日本の有名な政治家が、「政治とは最高の道徳である」と言ったことがあるが、これはまったく間違った見方だ。 政治家は、政治への国民の信頼をつなぎ止めるために、往々にしてそういう言い方をする。 しかし、そういう言い方は、単に政治を粉飾し、立派に見せかけようというものでしかない。

 16世紀初頭に、「君主論」を著したイタリアのニッコロ・マキアヴェリは有名である。 彼は権謀術数主義の権化のように言われたが、“政治の本質”を洗いざらい暴露し、それまでの政治への幻想を打ち砕いた人だ。

 当時の政治は、宗教(キリスト教)と道徳の風下に置かれていたようだが、マキアヴェリはそういう幻想を打ち砕き、宗教や道徳の世界から政治を独立させたと言われる。 つまり宗教などの粉飾を取り払って、現実主義の立場から政治を冷厳に見直したのである。

 マキアヴェリによれば、人間とは欲望の塊(かたまり)であり、それを大前提にして、彼は現実的、合理的に人間を統御する政治のあり方を追究していったのだ。 彼によれば、宗教などは政治の道具でしかないということになり、このため「君主論」はローマ教会によって禁書となり、彼は聖職者から「悪魔の代弁者」と罵倒されたという。(自由国民社の「世界の思想の名著」を参考)

 しかし今日、マキアヴェリは近代政治学の基礎を築いた人として高く評価されている。 これは当然のことで、人間の本性を見据えた上での政治学でなければ、なんの意味もない。 いかに麗しく粉飾しようとも、人間の本性は変わりようがないのだ。そういう意味で、マキアヴェリは「性悪説」の人と言えるだろう。

3)「衣食足りて礼節を知る」という言葉があるが、生活が豊かになって安定しなければ、道徳心などは育たない。これが人間界の通例であり常識だ。 政治とは、根本的に人間の衣食住(生存と生活)や安全を司るものである。それ以上でもそれ以下でもない。 だから、これっぽっちも美しいものでもないし、崇高なものでもない。「政治は必要悪だ」と言う人さえいるのだ。

 政治と金の問題が跡を断たない。 残念ながら「政治」がある限り、これは永遠に続くだろう。 現実の政治が税金の分配、つまり税金の分捕り合戦を主軸にしている限り、決してなくならないだろう。

 政治家の汚職は、紀元前から営々として行われてきた。そんなことは歴史を見れば明らかである。 汚職を少しでも減らそうというなら、制約と罰則を強化する以外に何もない。 こればかりは、古代ギリシャの昔から変わっていないのだ。

 往々にして、有能と言われる政治家がよく汚職をしている。現代の日本でも、そういう傾向があるようだ。 しかし、「人間の本性」を代表しているような政治家であれば、これは当然のことだろう。 収賄とか斡旋利得だとか、政治家がらみの汚職を断つには、ただただ規制を強化する以外に方策はない。「倫理、倫理!」と叫んでみても空しいのである。

4) 政治の本質は“権力”である。 権力がなければ、どのような政治も成り立たない。 偉大な社会改革、崇高な革命を実現しようとすれば、なおさら権力が必要となる。そして、“権力”そのものは極めて悪魔的なものである。

 政治における権力闘争は、正に「食うか食われるか」という非情なものである。 現代においては、革命や暴動、クーデタを除けば、政治家の生命はおおむね保障されているだろうが、ひと昔前までは、権力闘争で政治家の生命は保障されていなかったことが多い。 正に「生きるか死ぬか」の闘いだったのである。

 権力をめぐる闘争は、政治がある限り永遠に続くだろう。 無政府主義(アナーキズム)というのがあるが、これは政治権力そのものを否定しようというものだ。 しかし、政治がある限り、また人間の本性が変わらない限り、残念ながらそういう思想は“夢想”でしかありえないだろう。

 闘争とは「勝つか負けるか」ということである。 政治権力をめぐる闘争は、ふつう衆人環視の中で行われるから、最も注目されるものだ。 闘う政治家は猛烈にヒートアップするだろう。これは見ている方でも、非常に興味をそそられるものだ。 まるでコロセウム(円形闘技場)で剣闘士の戦いを見ているようなものだ。

 政治における権力闘争というのは、かくも生臭いものである。 現代においては随分カムフラージュされてきているが、本質は2000年前のものと何ら変わらない。 大昔に比べて残虐さは減っているが、情報操作が発達している現代では、巧妙で陰湿な政治闘争が昔よりずっと増えている。

 週刊誌や新聞、テレビ、インターネットなどを駆使した現代の政治権力闘争を、読者は十分に知っているだろう。 そのために“政治生命”を失っていく政治家も多い。中には自殺に追い込まれた政治家もいるのだ。 権力闘争とは、かくも過酷で非情なものだ。

 従って何度でも言うが、政治の本質とは最も生臭いものなのである。決して次元の高いものではない。 そのことを十分に銘記しない限り、我々は政治の“幻想”に振り回され、いつの間にか騙され続けていくことになるだろう。 我々は政治の“裏”を見ていくように、もっと努力しようではないか。 (2002年6月28日)

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