“理想の死に方”について

1) 生の結末が死である。 生があるから死が訪れるわけで、そういう意味で生死は一体のものである。良い死に方をするということは、良い生き方を全うするのと同じ意味を持つ。 日本語では「死生観」という相応しい言葉があるが、死をもって生が成就するのである。

 人間誰しも、良い死に方をしたいと思っているだろう。 眠るがごとく大往生を遂げるというのが、大方の人の願望だと思う。病苦の激痛に苛まれて、七転八倒して悶死するような死に方はしたくない。 誰でも安らかに死にたいと願っているはずだ。

 私のように還暦を過ぎると、そろそろ死に方のことが気にかかってくる。 家族や周囲の人にも、出来るだけ迷惑がかからないように安らかに死にたいものだ。 そういう意味で、安楽死尊厳死にも関心が増してきた。

 自殺は良くないというのが、一般的な考えだ。これは社会的通念である。 またキリスト教でも仏教でも、多くの宗教は自殺を否定している。 しかし、よく考えると、安楽死(尊厳死)というのは、広い意味で間接的に自殺するものと言ってよい。 自ら首を吊ったり、飛び下り自殺をするわけではないが、自分の命をもうこの辺で断ち切るという意味では、間接的な自殺なのである。

 安楽死(尊厳死)の是非をここで論じるつもりはないが、これも死に方の問題の一つなので取り上げたまでだ。 私がまず提起したいのは、自殺の問題である。自殺は是か非かというところから、「死生観」を探究していきたい。

2) 社会的通念では、自殺は良くないし好ましくない。 これは大方の人が思っていることだろう。 しかし、自殺というのは、万物の中で人間だけがなし得るものである。好ましくはないが、逆説的に言うと人間にのみ与えられた“特権”みたいなものである。

 私はここで、自殺を積極的に認めたり肯定したりするものではない。 日本だけでも、年間3万人(実数はもっと多いはずだが)もの自殺者を出していることは、極めて悲劇的である。 社会的には、自殺者はもっともっと減少すべきである。 しかし、私が問題にするのは、死に方(生き方)における自殺のことである。

 例えば、突拍子もない話から入ってみたい。「武士道」では自殺(自害、殉死など)は名誉なこととされていた。 江戸時代の佐賀藩で生まれた有名な『葉隠』では、「武士道とは死ぬ事と見付けたり」とある。

 歴史書や歴史小説を読めば、主君や藩のために命を投げ出す武士は大勢出てくる。それは大方、潔く美しく記されている。 武士だけではない。明治以降も、国家や天皇のために命を投げ出す軍人や国民のことが、数多く登場してくるのだ。

 左翼の革命家・荒畑寒村は自伝で、乃木希典(日露戦争の悲劇の将軍)が明治天皇の大喪の時に夫人と共に殉死したことについて、深い感動を覚えたと記している。 およそ、社会主義の革命家が感じたということに違和感を覚えるが、潔く美しいものは人類共通のもののようだ。

 武士道や軍国日本の話だと、時代錯誤も甚だしいと非難されそうだから止めるが、人類の歴史においては、崇高な理想や大義、気高い信仰などに自己を犠牲にした人達は大勢いる。 それらの話は、後世においても多くの人達を感動させるものだ。

 これらの事実は何を意味するのだろうか。 これらの美しい“自殺行為”は、何百年も千年以上も人々の間に語り継がれ、殉教者や英雄の後継者を現代においても輩出しようとしているのだ。

 こうした人類の歴史を見ていると、“追い込まれた自殺”は哀れであり、また醜かったり好ましくないが、自己犠牲の精神で自ら死を選ぶものは、美しい“自殺行為”として人々に感動を与えているのだ。 こういうことは、人間以外の動物には有り得ないことである。

3) 自殺については、動機が重要である。 借金を苦にしてとか、リストラされて自殺すれば哀れで好ましくない。なんとかならなかったのか、と誰もが思うだろう。 しかし、革命の理想や気高い信仰などのために、自ら命を犠牲にすることは、人間だけに与えられた“特権”である。 それは英雄的で崇高な自殺と言えるだろう。

 自己犠牲の精神は尊いものだ。 勿論、それを他人に強制することは出来ない。また自分自身に強いることも無理である。 しかし、個々人が自発的にそう思うことは自由である。 なにも理想や信仰のためだけでなく、愛する子供の命を守るために、母親や父親が自らを犠牲にすることはいくらでもある。

 生命の尊厳というのは、単に命の尊さだけでなく、生き方の尊さも含まれているはずである。 安楽死(尊厳死)の中には、当然そうした意味合いが含まれているのだ。 誰でも“野垂れ死”はしたくない。“犬死”もしたくない。 生きていればこそ、堂々たる納得のいく死に方をしたいものである。

 そのように考えてくると、自殺そのものを悪いとか好ましくないという議論は、むしろ副次的なものに思えてくるのだ。 自然死であろうと自殺であろうと、生の集大成である死に方の意義が、一番重要だと思えてくるのである。

 はっきり言わせてもらうと、病苦に苛まれて七転八倒して死ぬのは、ほとんど“野垂れ死”に等しいのではないか。 医学の驚くべき進歩で、人は「植物人間」になっても長い間生き続けることが出来る。 しかし、それがその人や家族にとって幸福なことだろうか。否、むしろ不幸なことだろう。 これも“野垂れ死”と一緒である。

 末期ガンの患者が、最期までガンと闘って死ぬのは当然かもしれない。 私自身も末期ガンで死ぬかもしれない。 しかし、これはあくまでも、個々人の幸か不幸かの問題である。願わくばそうならないことを、個々人が思うまでである。

4) 人間の死に方について若干述べてみたが、医学や科学が発達すればするほど、我々は生死の問題をより真剣に考えなければならない。「クローン人間」などが可能となってきたこと自体、逆に死生観を最も厳しく問われる時代になったと言えるのだ。

 クローン人間の善し悪しは別として、現代においては死に方=生き方をもっと真剣に探究しなければならない。 そうした観点に立つと、私は「自殺」を一概に悪いものと断定することは出来ないと思う。

 崇高な使命感や目的のために、また純粋な愛のために人が自ら死を選ぶということは、人間にしか与えられていない“特権”であろう。 もとより私もそうだが、人間は誰でも自殺などはしたくないはずである。 しかし、人間の尊厳のために、自ら死を選ぶ自由と権利を人類は保有しているはずだ。

 大往生が遂げられれば、これほど良いことはない。 しかし、前述したように人は様々な死に方をする。それならば、死に方についても、人それぞれの自由と権利があっていいはずだ。 安楽死(尊厳死)についても、もっと自由な立場から各人が考究していくべきである。

 従容とした死に方、潔い死に方などについては、古来多くの人達が讃美してきた。 逆に生にしがみつくあまり、不様で醜い死に方をした者には、侮蔑と嫌悪の情が示されてきた。これは人間本来の感情であろう。

 死に方は各人の自由だが、たとえ刑死するとしても、ソクラテスや吉田松陰らのごとく、誇りを持って堂々と死のうではないか。 そして人間の尊厳死の中には、動機の優れた自殺も当然含まれるということを、ここで指摘しておきたい。 (2002年9月6日)

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