「国家主権」を放棄した日本国憲法

 日本国憲法の前文は実に格調の高い文章である。平和の理念を高らかに謳いあげた文言は、正に「平和憲法」の名に恥じないものである。 我々日本国民は第2次大戦後、一貫してこの「平和憲法」のもと、誠実に世界平和の実現と戦争放棄の努力を実行してきた。その点はまことに立派であったと自負できると思う。

 しかし、現行憲法では「国民主権」や「基本的人権」を最大限に尊重しているものの、「国家主権」については極めてあいまいであるばかりか、それを厳しく制約している面がある。

 憲法前文では、「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」とある。 これはまことに崇高な文章である。

 しかし、よく指摘されているように、われらの安全と生存が、諸国民(他国民)の公正と信義に委ねられているだけで良いのだろうか? 諸国(他国)が公正と信義を重んじる国であれば問題はないが、残念ながらそうでない場合は、われらの安全と生存はどうやって確保されるのだろうか。 この点は絶えず指摘されていることだが、答えは何もないのである。ただただ諸国民(他国民)の公正と信義に信頼しておれば良いというのである。

 そもそも国家の憲法というのは、分かりやすく言えば、国民の生命と財産、安全、権利等を保障するものであって、それ以上のものでもなければ、それ以下のものでもない。 従って、特に「安全保障」については、最大限の配慮をすべきである。 憲法は哲学でもなければ宗教でもない 前文にある「人間相互の関係を支配する崇高な理想」とは、文言通りに読めば、人間個人間のことを言っているのであり、その理想を国家の憲法の中に組み入れるというのは、憲法の性格上、ふさわしくないものである。

 人間個人間の理想は、宗教であれ哲学であれ良いと思う。「愛」も「慈悲」も「仁義礼智信」も良いだろう。そして、「無抵抗主義」も人間個人の理想としては良いだろう。 しかし、そうした個人間の理想を憲法の条文に組み入れるというのは、憲法の性格上、まったく馴染まないものである。 ましてや国民の安全と生存を、諸国民の公正と信義に信頼するだけでは、「あなた任せ」もいい所であり、我々は不安になるだけである。

 聖書では、イエス・キリストは「右の頬を打たれれば、左の頬も出せ」と教えているが、個人の信仰なら問題はないとしても、国家がそのように対応したら問題である。 キリスト教徒の多い欧米諸国でも、「右の頬を打たれる」攻撃や侵略が他国からあった場合、「左の頬も出して」攻撃や侵略を甘受する国が、一体どこにあるというのだろうか。 国民の生命と安全と財産を守るために、国家は当然「自衛権」を発動して武力を行使できるし、また国民のためにそうしなければならない責務がある。

 現行憲法には「国民主権」はあっても、「国家主権」が存在しないのではないかと疑いたくなる。「安全保障」という最も重要なことが見えてこないのである。その点は、憲法9条でさらに明白になってくる。

 あまりにも有名な憲法第9条は、第1項で「国権の発動たる戦争(は)・・・永久にこれを放棄する」とあり、第2項では「・・・国の交戦権は、これを認めない」とある。 戦争放棄を絶対視するあまり、「国家主権」を完全に放棄した内容となっている。 

 これでは、もし日本が他国から侵略や攻撃を受けた場合、どうすれば良いのか。無抵抗主義で対応しろと言うのか。「右の頬を打たれれば、左の頬も出せ」と言うのか! 個人の場合は、その人の思想、信条で無抵抗主義も良いだろう。しかし、国民の生命と財産、安全を守ることを責務とする国家が、最低限の抗戦(交戦)もできないというのは、あまりにも無責任ではないのか。 ただただ頭を下げて、「どうぞ許して下さい」と侵略国に哀訴するだけなのか。 冗談ではない。そんな国家なら要らない! そんな国家なら、属国か保護国になるしかない。

 「国家主権」がこれ程までにないがしろにされている独立国が、他にあると言うのだろうか。 護憲派の人達は、この点について一体どう考えているのか。責任ある答弁を聞きたい。単に自衛権という視点からだけでなく、「国家主権」の立場からも憲法9条を見直さなければならないと思う。(2002年1月10日)

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