1) たまには女房と紅葉見物でもしようと、先日、1泊2日のバスツアーで香嵐渓(愛知県)と寸又峡(すまたきょう・静岡県)に出かけてみた。 ところが、今年は寒波が早く来たせいか、どちらの紅葉の名所も見頃が過ぎていて、極彩色のモミジは僅かしか見られなかった。
仕方がないので、あとは散策などで時間をつぶしていたが、寸又峡でふと、金嬉老(きんきろう)事件の現場が見たくなった。 この事件は、もう35年近くも昔の1968年(昭和43年)2月に起きたものである。しかし、非常に印象的な事件だったので、いまだに忘れることができない。
金嬉老という在日2世の朝鮮人が、静岡県清水市で暴力団員2人(「稲川一家」の組員)を射殺してから車を乗り回し、この寸又峡のF旅館に押し入って、ライフル銃やダイナマイトで武装し、宿泊客、旅館の店主ら16人を人質にして立てこもった事件である。
当時、テレビ局の報道部員だった私は、事件記者として警視庁記者クラブに配属されて間もない頃だった。 すわっとばかりに事件現場へ行かされるものと思っていたら、新米記者では頼りにならないと見られたのか、先輩記者が次々と寸又峡へ行くことになり、私は警視庁の“留守番役”にさせられてしまったことを覚えている。
寸又峡のF旅館に金嬉老が立てこもったのは2月20日の深夜だった。 それから、24日の午後に彼が逮捕され、人質が解放されるまで事件は丸5日続いた。その間、この事件は日本中の注目を集めたのである。
2) インターネットなどで調べてみると、金嬉老は在日朝鮮人として戦前、幼児の頃からさまざまな差別、侮辱、圧迫、嫌がらせ、イジメを受けて育った。 これは多分、在日朝鮮人でなければ分からない苦悩、苦痛であったろう。
彼は人一倍、気性が激しく直情径行の人間だったので、この日本社会に対する敵意、憎悪を募らせて成長していったようだ。 父親を早く亡くし、貧困のどん底に喘ぎながら食うものも食えず、ささやかな食料を盗んでは警察に補導されることもあったという。
その屈辱感、そのうっ屈した気持がこの時爆発したのだ。 金銭トラブルがもとで、朝鮮人であることを馬鹿にされた金嬉老は、暴力団員2人を射殺した。 そして、寸又峡の旅館に人質と共に立てこもった時、彼はおそらく“全日本”を相手に立ち上がった気分だったろう。
彼はライフル銃かダイナマイトで、自決する覚悟だったようだ。 自分の決意と覚悟を日本中に知らしめたかったのだろう。それからの金嬉老の要求は極めて強硬であり、また根の深いものだった。 まず、かつて自分を朝鮮人という理由で侮辱した清水警察署のK刑事に対して、謝罪するよう求めてきた。 さらに、暴力団「稲川一家」の実態を社会に公表するよう、警察に求めてきた。
警察は必死になって金嬉老の説得に乗り出した。K刑事はNHKを通じて謝罪するし、警察署長も地元の静岡放送を通じて「金さん」と呼びかけ、何回も謝罪した。そして、人質の解放と自首を求めた。 しかし金嬉老は、それらの謝罪などでは手ぬるいとして応じなかった。こうして、事件は長期化の様相を呈してきたのである。
3) あらゆるマスコミがこの事件を報道するうちに、金嬉老はテレビ、ラジオ、新聞を巧妙に利用するようになった。 彼はしばしば記者会見を開いて、自分の主張を日本中に知らせることを意識的に行なった。
日本中の関心が寸又峡に集まり、NHKも民放テレビ局も電話で金嬉老にインタビューした。犯人の生の声がお茶の間に伝わり、ワイドショーの視聴率は一挙にはね上がった。 その中で彼は、在日朝鮮人の苦しい立場を訴え続けたのだ。金嬉老を支持する「文化人グループ」なるものまで出来たほどである。
凶悪な人質立てこもり事件は、こうして一気に、“在日朝鮮人”の問題をクローズアップさせるという異常な展開を見せてきた。 金嬉老は、在日朝鮮人の“ヒーロー”になった感さえあった。彼(ライフル銃で武装していた)に群がるマスコミは、まるでヒーローインタビューをしている感じであった。
取材にきたヘリコプターの方へ向かって、金嬉老はわざとライフル銃を撃った。 一部のテレビ局が、そうしてくれと頼んだという話しもある。ライフルを発射する映像が、どこのテレビ報道にも出てきた。 英雄気取りの金嬉老は、少し気分を良くしたのか幾人かの人質を解放した。それにしても、この事件はなにか“奇怪”な様相を見せてきたのである。
24日の午後になって、事件はようやく解決の方向へ動いた。 人質の1人を解放してやると言って出てきた金嬉老を、記者団に紛れ込んでいた10人近くの警察官が、寄ってたかって彼を取り押さえた。その時は、記者達も金嬉老の足を払ったりして協力した。 こうして丸5日間、日本中の関心を集めた「金嬉老事件」は終止符を打ったのである。
4) この事件は、2つの大きな影響を社会に与えたと思う。 一つは勿論、在日朝鮮人の問題である。これ程、この問題を日本社会に突き付けた事件はなかっただろう。 金嬉老の決死の思いと、その雄弁が日本国民の心にグサリと突き刺さったのだ。だから、この事件は、単なる「人質立てこもり」という凶悪犯罪の枠を越えて、「民族対民族の問題」という次元で捕えられた側面があったと思う。
もう一つは、マスコミの報道姿勢とその影響力である。 金嬉老が縦横無尽にマスコミを利用したため、多くの国民がテレビ等に釘付けになったと思う。 それは仕方のないことだが、テレビ局が金嬉老に、わざとライフル銃を撃ってくれと頼んだことがあったとすれば、その姿勢を問われて当然である。(金嬉老は後に法廷陳述でそう語り、マスコミへの不満をぶちまけたという。現代風に言えば「やらせ」問題ということになる。)
35年前に起きたこの事件は、在日朝鮮人の問題やマスコミの報道姿勢という、最も今日的なテーマを日本社会に明示したのだ。 そういう意味で、実に意義深い事件だったと思う。 紅葉見物に出かけても、金嬉老のことが頭にこびりついてくるというのは、マスコミ出身者の哀れな性(さが)だろう。つまり“風雅な心”に乏しいのだ。“雪月花”の魂が薄いのだ。
しかし、あの時、先輩記者達が次々と極寒の寸又峡へ取材に行ったというのに、自分は警視庁に取り残されていたという思いがどうしても心によぎってくる。これはどうしようもないことだ。 寸又峡は静かな佇まいを見せていた。事件の現場となったF旅館も改装されたとはいえ、往時を偲ばせる姿をとどめていた。 私は妻と共にバスに乗り込み寸又峡をあとにした。 (2002年12月2日)