1) 今年もいろいろあったが、前半はサッカーのワールドカップ(W杯)、後半は北朝鮮問題が大きな関心を集めたと言ってよいだろう。 ワールドカップについては、共催国である韓国の話題も賑やかに取り上げられ、年末の韓国大統領選挙も注目されたため、今年は「朝鮮半島」がキーワードのような年であった。
国内的には、デフレスパイラルによる経済不況が深刻さを増し、政治も国会議員の刺殺、逮捕、辞職などが相次ぎ暗い世相という感じだった。 唯一明るかったのは、小柴昌俊さんと田中耕一さんのノーベル賞のダブル受賞ぐらいで、あとはアゴヒゲアザラシの「タマちゃん」に歓声をあげた程度だ。
20世紀末からの“世紀末現象”が、そのまま続いている感じだ。なんとなく活気がなく、暗くて気だるく混迷している。 失業率の増大などジリ貧の経済環境もあろうが、犯罪の増加、安全神話の崩壊(検挙率の急減)、止まるところを知らない少子化など、どうも明るい展望が見えてこない。
小泉首相が「改革、改革」と叫んでも、金融改革一つ取ってみても迷走を続けている。 自民党という与党が“野党化”する一方で、本物の野党が四分五裂の症状どころか液状化現象を呈してしまって、まるで緊迫感がない。 どこかダラけてしまっているのだ。(年末に終わった臨時国会などは、“無気力”そのものという感じだった。)
2) この気だるくて、暗い混迷状態はいつまで続くのだろうか。当分続くような気がする。 それは例えば、我々が使う日本語の中にも現われているようだ。今年は日本語という言語が、まったく輝きを示さなかった。 要するに“ボキャ貧”ということである。
言葉については、12月4日の読売新聞の「編集手帳」に面白い記事が載っていた。 今年の新語・流行語大賞に「タマちゃん」と「W杯」が選ばれたという。他にも特別賞で、たしか「ゴジラ(巨人軍の松井秀喜選手)」というのがあった。 しかし、これが新語・流行語とは情けない。「W杯」も「ゴジラ」も昔からあったし、「タマちゃん」も今年限りの言葉だ。
「編集手帳」によれば、今から丁度50年前(1952年)の流行語で、「プー太郎」「エッチ」「恐妻」「PR」「火炎びん」などがあったそうだ。 これらの言葉は、いまだに生命力を持っており、辞書にも定着している。つまり、言葉に輝きがあったのだ。
こうした言葉が、今年は全くない。言葉は人間そのものであり、生命そのものである。 今年は、輝くような言葉が全くないのだ。50年間も使われるような溌らつとした新語が、生まれてこないのだ。 言語の面を見ても、日本は今年“停滞と混迷”の中に眠っていたと言ってよい。
3) 新語・流行語のことに触れたので、ここで、今年最も多く使われたはずの言葉を出したい。 それは「拉致」である。この言葉こそ、日本人にとって今年最大のキーワードではなかったのか。
北朝鮮による拉致犯罪ほど、我々に深刻な問題提起をしたものは他になかっただろう。 テレビ、新聞、週刊誌等で「拉致」の言葉がない日はなかったはずだ。この言葉ほど今年(2002年)を象徴するものは他にない。
もう一つ「不審船」というのがあった。 拉致も不審船(工作船)も、北朝鮮による犯罪行為であることが明白になったのである。これは9月17日、小泉首相と会談した金正日がはっきりと認めたのである。
今年の最大のニュースは、やはり小泉・金正日会談だっただろう。 拉致被害者8人は既に死亡したという北朝鮮側の発表に、大方の日本人は衝撃を受けただろうし、“平和ボケ”していた多くの日本人は目が覚めただろう。
そういう意味では、北朝鮮は今年、日本人にとって格好の“反面教師”になったのだ。反面教師とは、独裁統制の金正日体制に対する批判、嫌悪、憤激、憎悪となって我々の心の中に生まれてきたということである。(連日のテレビ、新聞等の報道を見れば明らかである)
このような衝撃で善し悪しは別として、国家・国民という意識がやや顕在化してきたと言えるだろう。 ワールドカップで日本の選手を応援するという形でなく、拉致被害者、及び被害者の家族への同情、共感、連帯という感情が芽生えたと言ってよい。
4) 私は先程、50年前の輝かしい流行語の件に触れたが、1952年というのは日本が独立を回復した年である。 そんなことは、若い人達は知らないと思うし、また関心もないだろう。 しかし、現実は第2次世界大戦の後、日本は連合国軍の“占領下”にあったのである。(従って、1952年というのは今と違って、きっと新鮮で溌らつとした年だったのだろう)
独立回復50周年の今年、日本人はようやくと言うか、奇しくもと言うか、国家・国民の意識を持たざるをえない事態になったのだ。 それも、北朝鮮という“反面教師”のお陰である。 これは少しも喜ばしいことではなく、むしろ皮肉な結果である。
偏狭で盲目的な愛国心(ショービニズム)は良くない。こういうものは歴史を腐敗させるものだ。 しかし、国家とか国民という意識に欠ける人達が、どうして民主主義国家・日本を育成していくことが出来るだろうか。
日本が、北朝鮮のように社会主義国家になれば良いと考えるなら別だが、そう思う人は多分少ないだろう。(但し、北朝鮮は本当の意味での社会主義国ではない。単なる独裁統制国家である) 自由と民主主義を重んじる日本の体制に、改めて意義を感じたとすれば、停滞し混迷した今年も決して無意味ではなかったと考える。
私自身の経験から言えば、9月17日の日朝首脳会談の結果、これまでにない“屈辱”を感じた。その屈辱は決して忘れないだろう。 その屈辱感とは、多分「日本国民」であることに由来するものである。
日本人、日本国民であることをどう思おうが、ある“反面教師”によって国家・国民の意識を嫌でも持たされたということは、今年が無駄な年ではなかったと、個人的に総括するものである。 (2002年12月27日)