6)初めてのデモ
翌日以降も連日、行雄は大川から教えられたマルクス主義の文献を読んでいった。 彼はみるみるうちに、自分が確固としたマルキストになっていくのを自覚した。 そして、十月三十日の全学連統一行動が近づくにつれて、行雄はみずからアジビラやポスターを書くことを思いつき、わら半紙やノート用紙に全学連のデモに結集するよう、激しい調子の文章を書き込んでいった。
行雄はまるで不滅の信仰に目覚めた信徒のように、自分の体内に、何ものにも屈しない不思議な力が湧き上ってくるのを感じた。 頭のてっぺんから爪先まで、マルクス主義・社会主義に貫かれた自分を見い出す時、彼は全身に新たな力がみなぎってくるのを覚えるのだった。 そして、おのれのこの信念の前には、何ものも恐れるものはないことを知ったのである。
そんなある日、行雄が帰宅すると、久乃がニコニコ笑いながら「敦子さんから、あなたに手紙が届いていますよ」と知らせてくれた。 彼は思わずハッとしたが、同時に喜びが込み上がってきた。 実は行雄は、大川と話し合ったあの運命的な日から、敦子のことをほとんど忘れていたのだ。急いで自分の部屋に戻ると、机の上に彼女からのエアメールが置かれている。
どんなことが書かれているのだろうかと、期待と不安に胸をときめかせながら封を切る。不安とは、行雄が先に、敦子を罵倒した手紙を送ったことへの危惧なのである。 それでも彼は、高ぶる気持を感じながら手紙を読み始めた。 敦子らしい伸び伸びとした字体が目に入る。
「その後、お変わりありませんか。アメリカへ来てからもう一ヵ月半がたちました。 その間、貴方にお手紙を書かなくてはと思っていましたが、本当に忙しくてその暇もありませんでした。 英語の学習にも追われ、とても骨が折れました。
ようやくシカゴの生活にも慣れてきて、シニア・ハイスクールの学業にも溶け込んできたところです。 私がお世話になっているジョーンズさん一家の人達や、ハイスクールの先生、クラスメートの皆さんはとても親切にしてくれ、私は充実した毎日を送っています。健康の方も大丈夫です。
アメリカの人達は皆さん率直で、また陽気な人が多く、おつき合いしていてとても楽しいのです。英会話の方もなんとか慣れてきました。 この前の休日に、ジョーンズさん一家の人達に連れられて、ナイアガラ瀑布へドライブしてきました。
ナイアガラの壮大さには本当に目を見張りましたが、アメリカは日本にくらべて、何事もけた違いに広く大きいのには驚きました。 道路も幅が何十メートルもあり、高速・ノンストップで車を飛ばすことができます。 こんなに大きくて素晴らしい国にこれて、私は幸せですし、外国を見ることはつくづく勉強になるものだと思いました。
とても充実した楽しい毎日を送っているのに、ただ一つ残念なことは、貴方がこの前の手紙で、私のことをエゴイストとか、冷血漢などと書いてきたことです。 私は本当に忙しく慣れないことばかり多く、また気持の整理もつけられなかったので、なかなか貴方に手紙を出すことができなかったのです。 私がエゴイスト、冷血漢などと見られるのは心外です。
貴方に冷たいと思われるかもしれませんが、私はこれから、こちらの生活や勉強に専念していかなければなりません。 貴方もそちらでの勉強や、日々の生活に励んで下さい。お互いにそれぞれの場所で努力していくことが、一番大切なことだと思います。
それではまた暫くの間、お手紙を出すことができないかもしれませんが、お元気でどうか頑張って下さい。 最後におじ様、おば様によろしくお伝え下さい。 さよなら 敦子より」
手紙を読み終えると行雄はほっとするとともに、この前彼女に、あんなに乱暴な文章を書いたことを申し訳ないと思った。 同時に、アメリカで充実した幸せな毎日を過ごしている敦子がうらやましく思えたが、日本に比べて、アメリカをことさら美化しているような文面に反発を感じた。
そんなにアメリカが良いのか・・・資本主義の牙城ではないか。 そのアメリカの極東軍事体制の中に、いまや日本は組み込まれているのだ。アメリカは、日本を軍事基地として自由に使っているではないか。 アメリカ帝国主義の好きなように、日本が手先となっていることを敦子は知らないのか。
行雄は大川から教えられた、全学連の反米と日米安保条約破棄の主張が、むらむらと胸に込み上がってくるのを覚えた。 それならば、敦子に返事を書いてやろう。自分がマルキスト、社会主義者になったこと、そして日米安保条約改定阻止のために断固闘う決意を書いてやろう。 彼女はきっとびっくりするだろう、と行雄は思った。
彼は万年筆をとると、まずこの前、敦子に対して「エゴイスト」などと罵倒したことを謝り、次いで自分がどういう経緯で全学連の主張に賛同し、マルキストになっていったかを説明した。 そして、搾取され虐げられているプロレタリアートを解放するため、自分は社会主義革命に命を捧げる決意であることをつづっていった。
そして最後に、行雄は次のように書いた。「君と僕との、いま置かれている境遇はあまりに違ってしまったのです。 君は勿論、アメリカで頑張って下さい。僕も全学連という新しい場において、全力を傾けて頑張るつもりです。
お互いに自分の信ずる所で努力していけば、たとえそれがどんなに違った方向のものであっても、それで良いのだと思います。 忌避すべきことは、なんの目標も信念も思想もなく、ただ毎日ぶらぶらと意味のない生活を送ることです。 君も僕も、そのような唾棄すべき生活はいま送っていないはずです。
お互いに自分の進む道について、誇りを持ってやっていきましょう。 今度また君に手紙を書く時には、僕はもっと変わった、もっと社会主義に徹した人間になっていることでしょう。 それでは、お元気で。 行雄より」
敦子への手紙を書き終えると、行雄は爽やかな気持になっていた。 彼女に自分の真実を知らせたし、それで彼女と隔たりができても納得がいくように思えた。 むしろ今、彼女から自分が遠ざかっていくことに、甘酸っぱい“メランコリー”を感じていた。
敦子が自分から離れていこうとも、それは革命の大義の前には忍ばなくてはならないことだ。これでいい、と行雄は考えた。 不思議なことに、彼はクラスメートや学友を全学連に引きずり込みたいという欲求は強かったが、敦子を自分の考えに共鳴させようという気持はほとんどなかった。
彼女に対しては、むしろ自分の思想に変化があったことを弁明するような態度であり、また開き直った姿勢という趣きだった。
敦子から手紙が届いたことで、久乃が皮肉な口調で「敦子さんは敏子おばさんに、行雄ちゃんの“生意気”な鼻をへし折ってあげるような手紙を書きます、と言ってきたそうだけど、どうだったの?」と尋ねてきた。
行雄は母になにも答えなかったが、「生意気な鼻をへし折る」というわりには、彼女の手紙は穏やかなものだったと感じつつ、彼はそんなことを言っている敦子がとても可愛らしく思えるのだった。
十月三十日の数日前になって、行雄は大川に、全学連の統一行動に学友を動員するため、アジビラやポスターを書いたことを打ち明けた。 行雄は学友を動員するためと言ったが、全学連のデモに高等学院の生徒を少数でも連れていけるとは思わなかった。 それよりも、早稲田精神の一片もなく、ふにゃけてしまったような学院生に喝を入れてやりたいという衝動で、アジビラなどを書いたのだ。
大川は行雄が急速に変わり、自分達の運動に積極的に参加しようというその熱心さに、半ば満足するとともに半ば驚いていた。 どちらかと言うとクラスメートから離れがちで、孤独を好んでいたこの大人しい学友が、自分が狙いを定めてオルグしたとはいえ、突然、大胆で力強く、確信に満ちた学生運動家に変身してしまったからである。
十月二十九日。 行雄はいつもより遅く上石神井駅に着くと、午前中の授業をサボって、学院に通じる道路の電柱などにアジビラやポスターを次々と貼っていった。
「高等学院の諸君、明日三十日の全学連統一行動に参加せよ!」「日米安保条約改定、絶対反対!」「岸反動内閣を打倒せよ!」「自民党内閣を粉砕し、労働者・農民の手による社会主義政権を樹立せよ!」・・・
はては「早稲田の在野精神を奮い起こして立ち上がれ!」「ロマン・ロランは言った、“革命によって平和を”と。諸君、革命に決起せよ!」「早稲田の先覚者・大山郁夫先生に続け!」などと書いたものを貼っていったのである。
行雄は大山郁夫のことをよく知っていたわけではなかったが、この際、早稲田に関係のある人物を引用して、少しでも早稲田の在野精神、反逆精神を呼び起こしたいという気持になっていたのだ。
道行く人達が不審そうに、あるいは興味深げに行雄を見ながら通り過ぎていったが、彼はまったく平気だった。 いやむしろ、これがわが学生運動における初めての活動だと思うと、誇りと優越感を覚えながらビラなどを丁寧に貼っていった。彼は完全に英雄的な気分に浸っていたのである。
行雄は午後の授業には出たが、やったぞという快感と興奮に酔いしれていた。 放課後、彼はクラスメートが姿を消してから帰路についた。それは、ビラなどが破られるのではないかという心配があったからだが、ビラは元どおりのままになっていた。
翌朝、行雄は母に、今夜は遅く帰るとだけ言って家を出た。 あいにくの天気で小雨が降っていたが、今日は生まれて初めてのデモ参加ということで、彼は朝から武者震いする思いであった。 学院に着くと大川が、微笑みながら「君のビラは相当扇動的だね」と語りかけてきた。 やや皮肉を込めた口調にも聞こえたが、彼の表情は満更でもないという風に見えた。
十月三十日。 この日は全国で、全学連の「安保改定阻止、岸内閣打倒総決起大会」が開かれた。 夕方になって行雄は大川とともに、日比谷の野外音楽堂での決起大会に駆けつけたが、午後いったん止んでいた雨がまた降り出してきた。
しかし、野外音学堂には続々と学生達がつめかけ、赤い自治会旗が林立し、会場に入りきれない学生が音学堂の外にもあふれるようになった。その総数はおよそ一万人に達するかに見えた。
決起大会は、喚声や拍手が入り交じる熱っぽい雰囲気の中で進められ、各学生自治会の代表が、壇上から激しい口調で安保改定阻止や岸内閣打倒を訴えた。 行雄は身体中に緊迫感を覚えながら、大集会への参加に酔いしれていた。
素晴らしいではないか。 これほど大勢の学生が同じ目標の下に結集し、闘志を燃やしているのを目の当たりにするのは初めてのことだ。 学生歌や労働歌をまとめた小さなパンフレットが配られ、集会は最後に決議を採択したあと、全員で「インターナショナル」を合唱した。
「立て 飢えたる者よ 今ぞ日は近し 覚めよ我がはらから 暁はきぬ・・・・・・いざ闘わんいざ 奮い立ていざ ああインターナショナル われらがもの」
歌声が野外音学堂の内外にこだまし、それが大音響となって耳を聾するばかりである。 学生達は次々に隊列を組んで、いよいよデモに出発する。 雨脚が一段と強まってきたが、デモ隊の人いきれと熱気で、そんなものは消し飛んでいくように感じられた。
がっちりとスクラムを組む。 両脇の学生が誰なのか知らないが、行雄には昔からの同志、戦友のように思えた。 規制に当たっている機動隊の装甲車、隊員達のヘルメットが暗闇の中で雨に濡れ、不気味な光を放っている。
デモ隊の喚声が上がった。出発だ! よーしっ、やるぞーっ、腹の底から闘志が湧き上ってきて、スクラムを組む両腕にも思わず力が入る。 一万人に上るデモ隊は、日比谷公園から続々と街頭に繰り出していった。
「安保条約 絶対フンサーイ!」「岸反動内閣を倒せーっ!」「われわれは 最後まで闘うぞーっ!」「全学連は 断固闘うぞーっ!」 学生達のシュプレヒコールが、雨の降りしきる夜空にとどろく。行雄も声を限りに叫び続けた。
デモ隊は交差点に来るとジグザグ行進や渦巻きデモを繰り返し、規制に当たる機動隊と激しくもみ合った。 そのあとに駆け足行進、そしてまた渦巻きデモ、ジグザグ行進・・・行雄は脚が棒のように疲れ、呼吸も乱れてきたが必死に頑張った。 これがデモだ、これが闘いなんだと自分に言い聞かせた。
学生達の吐く大量の白い息か、デモ隊の熱気で雨が水蒸気になったのか、林立する赤旗の波が“もや”に包まれて見えた。 その時、地鳴りのように突然湧き上がる「国際学連の歌」・・・
「学生の歌声に 若き友よ 手をのべよ 輝く太陽 青空を 再び戦火で乱すな・・・闘志は 火と燃え 平和のために闘わん 団結固く 我がゆく手を守れ 我がゆく手を守れ」
歌声は夜中の繁華街にとどろき渡り、他の全ての音を圧殺した。 行雄も野外音学堂で配られた歌集を見ながら、声も嗄れよと歌い続けた。 一万人のデモ隊は、まるで凱旋部隊のように意気揚々と、解散地点の土橋に到着した。そしてまた「インターナショナル」がとどろき渡る。
行雄は、学生服もズボンも靴の中までも雨水でぐっしょりと濡れ、疲労を感じていたが、初めてのデモ行進をやり遂げたことで爽快な気分になっていた。 一万人の“大部隊”が解散すると、さすがに皆腹が減ったので、行雄は大川ら数人と近くのラーメン屋に入った。
四十円のラーメンの味と暖かさが、胃の中に染みとおるようだ。「今日のデモは盛り上がったな」「このままいけば、俺達の力で岸の訪米だって阻止できるぞ」「十一月にまた、ドカンとやってやろうじゃないか!」「それに比べると、代々木(共産党)のデモは冴えないな」「今度はもっと動員するぞ!」
威勢のいい言葉が、ラーメンをすする仲間達の口からぽんぽんと飛び出してくる。 行雄は黙って聞いていたが、空腹感が満たされるとともに、なんとも言えない充実した気持になっていた。 今日のデモに参加できて、本当に良かったではないか。
これで俺も全学連の闘士、活動家になったのだ。もう怖いものは何もない。 こうやって、全学連の仲間と一緒に徹底的に闘っていくこと、これが俺の進むべき道なのだと、心の中で誓いを新たにするのだった。
7)全学連
十一月に入ると、行雄の決意と行動はますます明確なものになっていった。 その月の中旬には、高等学院三年生の修学旅行が予定されていたが、彼はこれをまったく意味のないものと考え、旅行を拒否することにした。
大川にも自分の考えを明かすと、彼も行雄に同調して修学旅行をボイコットすることになった。二人で旅行ボイコットの文書を作成すると、行雄がそれを持って担任の船山教師に提出した。 船山教師は渋い顔をして、ボイコットを思いとどまるよう繰り返し行雄を説得したが、彼の意志が極めて固いことを知ると、諦めざるをえなかった。
自分が担任しているクラスからこうした生徒が出てくるのは、教師にとって辛いことだったに違いない。 しかし、行雄にとって修学旅行などは、学生運動や革命運動にとってまったく意味がないばかりか、無駄なものでしかなかった。 まして、ぬるま湯につかっているような学院生活の締めくくりの旅行など、馬鹿々々しくてとても参加する気持になれなかったのだ。
そんな旅行に行くぐらいなら、貴重な時間を少しでも利用して、まだ読んでいないマルクス主義の文献を、どしどし読まなければならないと思っていた。 そうしたある日、大川が行雄を誘ってきた。
「今日は君を、非常に優れたマルクス主義者のところへ案内したいんだ。 黒田寛一(ひろかず)という人だが、僕らはクロカン、クロカンと呼んでいる。 とにかく面白い人だから、ぜひ一緒に行ってみよう。きっと参考になると思うよ」
行雄がクロカンとはどういう人かと聞くと、大川によれば、黒田氏は若い頃、皮膚結核などに冒されて旧制高校を中退したあと、独学でマルクス主義を研究してきたということだ。 今では日本共産党を離れて、革共同・革命的共産主義者同盟を創立し、活動しているとのことだった。
「村上君、この革共同というのが、このまえ説明したように、共産党やスターリニズムを乗り越え、新しい前衛党として、日本の社会主義革命を推進していく母体となるべきものなのだ。 とにかく、僕がいろいろ説明するよりも、まずはクロカンのところへ行ってみよう」
大川に強く勧められて行雄も同意した。 その夜、二人は高田馬場駅で降りると、早稲田大学の近くにある某蕎麦(そば)店の二階に赴いた。表向きは大学の「近代文学研究会」の集まりという形で“クロカン・ゼミナール”が開かれており、三十人ほどの学生達が出席していた。
その場で行雄は、黒田氏の著作である「社会観の探求」という本を買わされ、講義を聴くことになった。 黒田氏は登山帽をかぶり、黒いサングラスをかけていた。大川に聞くと、彼は皮膚結核の影響でほとんど視力がないということであった。
しかし、黒田氏の声は明るくて弾んでおり、なんの屈託もないという様子だった。 目がほとんど見えないためか、何人かの学生が代わる代わる「社会観の探求」の一節、一節を読み上げていく。
すると黒田氏は、「これはだなあ、マルクスの『資本論』の○○○ページの四行目に出てくるくだりを、分かりやすく書いたものなんだ。 つまり、マルクスはここにおいてだなあ、×××ということを言っているんだよ。 はい、次を読んで」といった調子で、楽しそうに講義を進めていく。
ドイツ語や難解な用語がやたらに飛び出してくるので、行雄にはよく意味が分からなかったが、この人が日本の社会主義革命の新しい“教祖”だというので、耳をそばだてて懸命に聴き入った。
黒田氏は最後に、「今日はこれで終りだ。 何度も言うようだが、その本の序文に書いてあるように、結局は『マルクスに帰れ』ということだ。 マルクスの原点に帰れば、日共・スターリニストどもが、どれほどインチキで間違っているかがよく分かるはずだ」と結んだ。
原点に帰れということか。 行雄は“クロカン節”に目が回るような思いだったが、もっと多くのマルクス主義の文献を読破していかなければならないと痛感した。 黒田氏の講義が終ると、リーダー格と見られる数人の学生が、現実の学生運動や労働運動の報告と情勢分析を行なった。
この中で、ひときわ雄弁で、自信に満ちた態度の男が行雄の注目をひいた。 「あの人は、なんていう人なの?」行雄が傍らにいる大川に聞くと、彼は「ああ、あの人は本多延嘉さんといって、革共同の書記長さ。 議長の黒田さんと一緒に革共同を支えている人だ。早稲田大学新聞を編集しているのも本多さんだよ」と答えた。
本多さん・・・がっちりした体格で赤ら顔、目がギョロリとしていて見るからに貫禄があった。 後日、歴史の皮肉と言おうか、黒田氏と本多氏が革マル、中核両派の指導者となって、血みどろの抗争を繰り広げるとは、この時、行雄は勿論のこと誰も想像もできなかっただろう。
のちに1975年(昭和五十年)3月、行雄がFテレビ局の報道記者をしていた時、その本多氏が革マル派の手によって惨殺されるという事件が起きた。 この事件ほど、行雄を震え上がらせたものはなかった。
当時、中核、革マル両派の内ゲバは日常茶飯事のように受け止められていたが、双方の殺りく戦がそこまで及ぶとは信じがたいことであった。 特に行雄にとっては、革共同という極左団体から離れて十数年もたっていたため、記憶に残っている人と言えば、黒田氏や本多氏ら十人程度しかいなかった。
その内の一人、本多氏が、手斧で頭を割られ血まみれになって惨殺されたことは、中核派も革マル派もない“古き良き時代”を知っていた行雄にとって、身も心も震え上がる衝撃的な事件だったのである。
中核、革マル両派の血みどろの内ゲバが拡大していくにつれて、そんな陰惨で醜悪な抗争は早く無くなればいいのにと平凡に思っていた行雄にとって、本多氏の虐殺事件は、そうした期待がいかに浅はかなものであるかを、嫌と言うほど思い知らせるものであった。
中核、革マル両派の抗争は、もはや救いがたいところにまで来ていたのである。 同じ社会主義革命を目指し、「反帝国主義・反スターリニズム」という同じ理念の下に行動している“同根”の両派が、どうしてここまで近親憎悪のように争わなければならないのか。
双方の戦略・戦術論、組織論など、相容れない部分があることは分かっていても、その徹底的な憎悪、敵意には驚き呆れるものがある。 何がそうさせたのか。人間性の欠如なのか。論争が始まった時点で、なんらかの妥協や歩み寄りはできなかったのか。
しかし、両派の対立、抗争は日一日と深刻なものとなってゆき、ついに決定的な分裂を起こしたのである。 そうした分裂の過程で、破局をなんとか食い止めようという努力が、当事者の間で十分に行なわれたのだろうか。
相違点よりも一致点に希望を託して、大同団結をなんとしても保とうという、真面目な努力が行なわれたのだろうか。 革共同の大分裂という悲劇的な進行の中で、人間性のあふれる論議、本当に建設的な論争が展開されたのか。
そうした点について、行雄は部外者だったから何も知らない。 しかし、1959年(昭和三十四年)11月の段階においても、黒田氏と本多氏の間に微妙なニュアンスの相違があったことは、それとなく感じられた。
その頃でも黒田氏は、「あんな街頭行動などに、君達は行かなくてもいいんだ。なによりもまず勉強だ。マルクスに帰って勉強することだ」とよく言っていた。 こうした発言こそは後年、中核派が革マル派のことを、大衆蔑視の上に立ったセクト主義、非実践的な理論物神崇拝と攻撃する背景にもなっているように思われる。
しかし、黒田氏の方から見れば、やたらに派手な街頭行動ばかりしたって、主体性のあるマルキストになれるわけでもないし、 革命のための前衛党建設には少しも役に立たないという風に思えたのかもしれない。 さらに当時、全学連の過激な行動をリードしていたブント・共産主義者同盟への対抗意識が、黒田氏にあったことは明らかである。
それに比べると、本多氏の方は当時から、学生運動や労働運動の現状報告、情勢分析を絶えず行なっていたから、実践活動への配慮という面では、黒田氏より気を使っていたに違いない。
いずれにしろ、当時の革共同は、マルクス主義の理論面を黒田氏、実践活動の面を本多氏がそれぞれ統括する形で、上手くまとまっていたと思われる。 そうした中での“クロカン・ゼミナール”というものは勢い活気があって、若い学生達を刺激するには十分な魅力があったようだ。
初めての“クロカン・ゼミ”への出席が終ると、行雄は大川に、またぜひ連れてきて欲しいと頼んで家路についた。 夜もとっぷりと更け十一月の風がやけに冷たく感じられた。しかし、夜空に散らばっている星々はキラキラと白い光を放ち、彼の心を清々しくしてくれる。
俺は今、たしかに理想を見つけたのだ。 この理想は、あの星々のように美しく俺の心の中に輝いている。革命・・・俺はそれ以外に生きる道はない。 行雄はふと、何ヵ月か前に敦子の家から帰る途中、夜空の星を仰いで歓喜の絶頂に浸ったことを思い出していた。
しかし、あの時の星と今の星は違っているように思えた。 あの時は愛の星だったのだろうが、今は理想の星なのだ。そして、今の星の方が、より美しく輝いているように思えてならなかった。
十一月中旬になると、高等学院の同期生達は九州へ修学旅行に出発していった。 行雄と大川はその間、補習授業を受けることになった。 その授業に出てびっくりしたのは、修学旅行用の積立金を遊びに使い果たした放蕩な生徒達が、十数人も一緒にいたことだった。 彼等と行雄達が共に授業を受けているのは、教師にとって異様な感じがしただろう。
授業は午前中だけで終り、午後になると行雄は大川に連れられて、全学連書記局や駒場の東京大学教養学部などへ出向いたりした。 二人にとっては先輩である全学連の闘士達と話し込むのは、とても有意義であり楽しいことだった。
ただ行雄が困ったのは、家に帰ると父母や兄が、修学旅行のボイコットについてうるさく詰問してくることだった。 あんな旅行は意味がない、それより他にすることは沢山あると言って彼は矛先をかわしていたが、最後にはとうとう、自分は全学連の運動に専念することになったと白状せざるをえなかった。
父や兄は、政治のことは政治家に任せて、高校生は学校のことだけを考えていればいいのだと、繰り返し行雄を説得した。 しかし彼は、全学連が学生の組織であり、自分はまだ高校三年だが、年が明けて大学に入れば自動的に全学連の一員になると、理屈をこねて抵抗した。
父達は、それなら少なくとも大学に入るまでは、全学連の運動に参加しなくてもいいではないかと反論してきたので、ついに行雄はやむなく、日本には社会主義革命が必要なのだと、本心を明かしてしまった。
すると父達は、革命なんか必要ではない、現在の体制こそ自由で民主的なのだと逆襲してきたので、議論は平行線をたどったまま延々と続くのだった。 父は最後に、それではもう来年から学費などは出さないぞと脅してきたので、行雄が、大学なんか行かなくてもいい、革命的労働者になって働いていくと抗弁すると、父は物凄く怒った。
「お前は親不孝者だ! 親の心子知らずとは、お前のことだ」と怒鳴り出した。 “明治生まれ”の国義はいたって頑強なのである。いつまでたっても埒(らち)が明かないので、行雄はとうとう「よく考えてみるよ」と言って、その場を取り繕った。
しかし、彼は自分の部屋に戻ると早速、十一月二十七日の全学連の統一行動へ向けて、またアジビラを作ったり、マルクス主義の文献に読みふけったりしていたのである。
そういう日々を送っている時、九州へ修学旅行に出かけた同期生の一人が、旅先の宮崎で首を吊って自殺するという事件が起きた。 その生徒はどうして自殺したのだろうか。原因はもちろん行雄には分からなかったが、そのような悲劇的な旅行に参加しなくて良かったと彼は思った。
自殺した生徒は何を思い悩んでいたのだろうか。 その生徒は“生きがい”を見つけ出せないまま、あの世へ行ってしまったのか・・・行雄はあれこれ考えてみたが、自分には革命という理想がある、大義がある、そのために“生きがい”のある日々を送っているのだという自負の念を新たにした。
九州の修学旅行から、高等学院の生徒や教師は暗たんとした気持で東京へ戻ってきた。 それに比べて行雄は、燃えるような闘志を抱いて来るべき闘争に立ち向かおうと、意気軒高とした気持になっていた。
丁度その頃、早稲田祭が大学で行なわれていたが、行雄はある日「時事問題討論会」を傍聴しに出かけた。 数十人ほどの学生が、当時最も関心を集めていた日米安保条約改定問題をテーマにして議論を闘わせていた。
ほとんどの学生が安保条約とその改定に反対していたが、どのように改定を阻止するかという方法論と戦術については、いろいろの意見が出ていた。 ある者は、社会党などを中心とした国会内の闘いで阻止すべきだと言うと、他のある者は、総評を中心とするゼネストなどで院外闘争を盛り上げるべきだと主張した。
全学連の果たすべき役割についても、千差万別と言っていいほどいろいろな意見に分かれていた。 学生達の議論を聞いているうちに、行雄はなんとも言えない“もどかしさ”を感じてきた。こんな議論をいくら繰り返していても、仕方がないではないか。 要は行動だ、行動が必要ではないのか。
行雄はたまり兼ねて挙手をし発言に立った。 「僕はまだ高校生でしかありませんが、これまでの議論を聞いているうちに空しさを感じてきます。 安保改定に反対であるなら、われわれ学生は自分達のできる範囲で、反対の意思をはっきりと行動で示すべきだと思います。
社会党や総評の行動については、彼等の判断ですれば良いのであって、われわれ学生は、自分達のできることを最大限にやればいいではありませんか。 つまり、大学では授業放棄のストライキをやり、学外では全学連の統一行動に参加していけばいいと思うのです。
二十七日には、安保改定阻止の第八次統一行動が行なわれます。 われわれはそれに積極的に参加し、全学連として力一杯の闘いを繰り広げようではありませんか。もうここまできたら、あとはわれわれが国会に突入し、安保改定阻止の断固たる決意を全国民に知らしめるべきだと思います。
全学連としては国会に突入するしかありません! それがわれわれにできる最大限の闘いだと思います。 もういくら議論をしていても仕方がありません。要は行動です。行動が必要なんです! われわれは断固国会に突入しましょう!」
アジ演説をしているうちに、行雄はだんだんボルテージが上がってきて、自分が興奮気味になってきたのを覚えた。 傍らでニヤニヤ笑いながら聞いている学生の姿を認めたが、彼は訴えたいことを全て言い切ったと思うと、爽やかな気分で討論会から退席した。
十一月二十七日。 この日も行雄は、午前中に高等学院に通じる道路の電柱に、アジビラやポスターを貼っていった。 夕刻になって彼は、中学時代からの友人である都立K高校生の斎藤正裕を誘って、安保改定阻止統一行動に参加した。
国会正門近くのチャペルセンター前にやって来ると、路上にはすでに何千人という労働者、学生が集合して決起集会を開いていた。 社会党の淺沼稲次郎書記長、総評の岩井章事務局長らが次々と挨拶に立って演説していた。
やがて全学連の代表も挨拶に立ち、「われわれは今日こそ国会構内に突入し、安保粉砕の決意を日本中に知らしめようではないか!」などと、激烈なアジ演説をぶった。 行雄は先日、早稲田祭の討論会で自分が行なったアジ演説を思い出し、一瞬身が引き締まるのを覚えた。
「本当に国会の中へ入るのかい?」隣にいた斎藤が行雄に尋ねてきた。 「知らないよ。だけど、全学連が先頭に立って入ろうと思えば、できないはずはないさ」と行雄は答えた。 チャペルセンター前の路上には、さらに多くの労働者、学生が集まってきて、その総数は一万人を優に超えているようであった。
小春日和の暖かい残照を受けながら、決起集会は次第に熱気を帯びていった。 やがて、デモ行進に出発する時刻になった。行雄は斎藤としっかりとスクラムを組む。 高校生グループは大学生達の後に付いていくことになっていた。 今日は国会をぐるりと回るデモコースの予定だったが、国会正門付近で、早くもデモ隊と警察の機動隊が激しくもみ合う音が聞こえてきた。
罵声が飛び交ったり、規制に当たる警察のマイクの音がスピーカーからやかましく響いてきた。 デモ隊の群集がひしめいているので、前方の状況がどうなっているのか分からなかったが、行雄達の高校生グループはまたたく間に国会正門の方へ押しやられた。
ふと見ると、何百人というデモ隊がすでに国会構内へなだれ込んでいるではないか。 行雄や斎藤が唖然とするうちに、後ろからのデモ隊の圧力で、高校生グループも国会正門から構内へやすやすと入ってしまった。 なんと簡単な国会突入だろうかと思っていると、その後も、まるで漏斗(じょうご)に水を通すように、労働者達のデモ隊が続々と国会構内に入ってくる。
機動隊は構内のはるか遠方に退いてしまったので、デモ隊は誘導されているように楽々と構内に入ってくるのだ。 国会突入がこんなに容易にできるとは行雄には信じがたいことであった。 警察がわざと入れたのではないかと思われるくらいだ。
行雄はなんの緊迫感もなく、斎藤達とスクラムを組んで広々とした国会構内を練り歩いた。 次から次に構内に侵入してきたデモ隊の数は、すでに二万人に達しているだろうか。赤旗が林立し、それらが取材に来ていた報道陣のライトに映え、見るも壮観なデモ行進が続いた。
やがて、構内でも決起集会が開かれたが、社会党の淺沼書記長や総評の幹部は、これでわれわれの国会請願デモの目的は達せられたから、解散しようと呼びかけた。 しかし、学生達は「沼さん、若い頃に帰れ!」「われわれはここに座り込んで闘うぞ!」「全学連の大抗議集会を開け!」などと、喚声をあげて解散しようとしない。
全学連の清水丈夫書記長らがマイクを取ろうとすると、社会党、総評の事務局員らが体を張って必死にそれを妨害した。 国会突入デモは、社会党・総評幹部の思惑をはるかに越える事態になっていたのだ。
結局、全学連の代表は演説することができず、学生達はまたスクラムを組んで、国会構内をデモ行進した。 その頃にはもう夜の帳(とばり)が降りて、取材のテレビカメラのライトが眩しいほどにデモ隊を照らし出していた。
学生達は、固く閉ざされた国会の正面玄関の前にたむろしていたが、総評傘下の組合員達は続々と国会の外へ流れ解散していったので、構内に残ったのは全学連の学生だけとなった。 彼等は「インターナショナル」などの革命歌、労働歌をうたい、暫く気勢を揚げていたが、すでに目的を十分に達したということで引きあげることになり、新橋駅へ向ってデモ行進することになった。
行雄は斎藤と終始スクラムを組んで行進したが、新橋駅に着くと、斎藤は総括集会を避けるようにして先に帰ってしまった。 駅周辺で開かれた集会では、全学連のリーダー達が次々に立ち、今日の国会突入デモの成果を誇らしげに総括していた。 それが終ると、行雄は大川達と一緒に、例によって四十円のラーメンを食べて帰宅した。
翌朝、行雄は新聞を見てびっくりした。 昨日の国会突入デモを伝える記事が、写真入りで各紙の一面を大きく飾っているではないか。なんの苦もなく楽々と国会に侵入できただけに、新聞がどうしてこうも大げさに報道するのかという驚きが、第一印象であった。
しかし各紙とも、国会突入デモを「乱入」と表現し、非常識な行為と決めつけて批判的に報道していた。 それと同時に、社会党、共産党、総評なども、全学連の行動を遺憾であると非難していた。 彼等によれば、全学連の国会突入デモは“跳ね上がり”であり、安保改定阻止国民会議の統制を乱すものだということだ。
しかし、行雄にとっては、そうした既成政党やマスコミの批判はどうでもよいように思えた。 それより、やる気になれば国会突入でもなんでもできるという自信と、新たな闘争心が込み上がってきた。 俺達が力を合わせて闘えば、安保改定なんぞ吹っ飛ばしてやれるという思いであった。
それから数日して、斎藤の手紙が行雄に届いた。「君達のやっていることは、よく分かる。岸内閣の反動性と闘っている君達の闘争は、正義の戦いだと思っている。 十一・二七国会突入デモの時、社会党、共産党、総評は、全学連の燃え上がるような闘争を自らの手で抑圧しようとした。
全学連のリーダーがマイクを取ろうとして、逆に押さえ込まれたあの時の情景は、涙の出るほど悔しいものであった。 僕は、国会構内での指導部と大衆との間のあの亀裂を、決して忘れることはないだろう。 しかし、僕は見ていたが、君達の学友の何人かは、あの国会の正面に小便をかけたり、唾を吐いていた。
あのような行為が果たして許されるだろうか。 国会は、われわれ国民の意思を表明する、神聖で権威ある場所ではないのか。 君達の安保改定阻止の気持はよく分かるが、全学連の闘争そのものは、なにか無法なものに流されていくような気がしてならない。
そうした無法な闘争方針が、果たして目的のために正当化されるだろうか。 僕にとっては、はなはだ疑問だと言わざるをえない。 よって、僕はもうこれ以上、君達の闘争についていくことはできない」
斎藤からの決別の手紙だった。 行雄には成る程と思われる点もあったが、彼がやや些細なことに囚われているような気もした。 しかし、斎藤は斎藤であり、自分は自分でしかない。彼の正義と自分の正義は、違うとしか言い様がないのだろう。それは仕方のないことではないか。
行雄は斎藤の手紙を気にはしなかったが、残念には思っていた。 しかし、彼はマルクス主義の理論をすぐに思い起こし、国家というものは自らの暴力を警察や軍隊によって正当化し、その他の暴力を無法にしているが、これは権力者の勝手な“こじつけ”であると考えるのだった。
安保改定阻止国民会議は、その後の統一行動について、全学連に対し厳しい態度で臨むようになった。 十二月十日の第九次統一行動で、全学連はやはり国会デモを行なおうとしたが、国民会議によって参加を拒否され、やむなく日比谷野外音学堂で決起集会を開いたあと、街頭デモをするしかなかった。
この日、十一・二七国会突入デモを指揮した理由で、全学連の清水書記長らが逮捕された。 安保反対闘争は、年末にかけて一時的に下火となってきたが、こうした状況の中でも、行雄自身はマルクス主義によって“理論武装”し、闘争心は日増しに強まっていった。
全学連が国民会議から疎遠にされ、斎藤のような友人が自分から離れていっても、革命への信念は確固たるものになっていったから、彼は少しも寂しいとは感じなかった。 相変わらず“クロカン・ゼミ”に出席したり、社会主義の文献を読みあさる毎日が続いた。 こうして行雄にとっても、彼の同志達にとっても、来るべき激動への不気味な胎動を秘めたまま、一九五九年は幕を閉じていったのである。
8)安保闘争
一九六○年の元旦を迎えた時、行雄は、この年が自分にとって計り知れないほど、意義深い年になるだろうと予感した。 満十八歳になっていた彼は、大いなる希望と期待感に満ちあふれていた。
日米安保条約改定については、これを粉砕できるかどうか自信はなかった。 しかし、今後盛り上がっていくであろう安保闘争を通じて、全学連をはじめ自分達の進めている運動が、必ず大きく広がっていくという自信はあった。
いや安保改定だって、先の警察官職務執行法改正案と同様に、潰すことができるかもしれない。 警職法改正案は一九五八年十一月、革新陣営の猛反対で廃案になったが、この時の岸内閣の後退ぶりを見ていた行雄は、やればできるのだという希望を持ったことがある。
もちろん、安保改定と警職法改正とでは次元の違う問題だが、同じ岸内閣が、革新陣営の猛反対を押し切って強引にやろうという姿勢には変わりがないのである。 従って、警職法改正と同じように、安保改定も粉砕できるかもしれないという期待があった。
行雄にはもう一つ別の期待感があった。 それは、アメリカに行っている敦子がこの年の夏に帰国し、彼女と再会できるということだった。 敦子からは一週間ほど前、クリスマス・カードを受け取り彼は上機嫌になっていた。
行雄は、いずれ敦子に自分の気持が分かってもらい、自分達の運動に共鳴してくれるだろうという期待があった。 ただ、彼女はいまアメリカで勉学に励んでいるから、すぐに分かってもらおうと思っても、それは無理だと感じていた。
行雄が全学連に傾倒していくのを知って、敦子がびっくりし、彼女の両親に注意を促す手紙を寄越してきたことは、母の久乃から聞いている。 その話しを伝えられた時、彼は敦子の可愛さがおかしくなって笑いが込み上げてきた。 彼女はやはり自分のことを思ってくれているのだ、と行雄は感じたのである。
一方、行雄の父や兄は、相変わらず彼に対して、全学連運動への参加をちくちくと批判してきた。 しかし、行雄は楽天的で大らかなものであった。間近に迫っている大学進学も、学生運動のためと割り切って考えれば、素直に納得できた。
どこの学部でも良い。学生運動のやりやすい所ならどこでもいいではないか。 そう考えれば文学部、それも仏文科あたりがいいかもしれない。 サルトルもカミュも、ロマン・ロランもアンドレ・ジッドも、たっぷり勉強できるのだからと、行雄は楽しい思いに耽っていた。
そうした日々を送っているうちに、岸信介首相が、いよいよ日米新安保条約調印のため渡米する日が近づいてきた。 岸首相の一行は、予定を急に繰り上げて一月十六日早朝、渡米することになった。反対運動をかわそうという狙いがあったからである。
全学連はあわてて動員をかけ、十五日夜から羽田空港の国際線ロビーに座り込みを始めた。 首相訪米阻止のため結集した学生は約七百人となり、彼等はロビー脇の空港食堂に立てこもり、椅子やテーブルなどを引っぱり出してバリケードを築いた。 このため、警視庁は二千人の警官を動員し、十六日未明、バリケードを解除して食堂内に突入、不退去罪で学生達を次々に検挙した。
十六日朝、このニュースをテレビで知った行雄は、恥ずかしさで気が滅入る思いだった。 彼は十五日の午後、ずっと高田馬場の古書店や喫茶店をほっつき歩き、夜遅く帰宅して、全学連の学生が羽田空港に集結し始めていることをテレビニュースで知ったのだ。
その時、今から羽田に駆けつければ間に合うかなと思ったが、同時に、今から行っても岸首相の渡米阻止に、どれほど役立つだろうかと自問した。 それに正直なところ、浦和から羽田は遠過ぎた。電車を乗り継いで行っても二時間以上は優にかかるだろう。
行雄はめんど臭くなって羽田に行くのを諦め、そのまま寝てしまった。 彼が寝ている間に、羽田では全学連の先輩達が次々に検挙、逮捕されていったのである。 目が覚めてからそのニュースを知った時、行雄は自分の恥ずべき怠慢さにやり切れない思いになった。
俺は卑怯者だ! 俺は安保改定阻止に熱心ではないのだ。自分が眠っている間に、同志達が次々に逮捕されていったではないか。 自分はどうしてこれほど、卑怯で間抜けで汚いのか。 行雄は恥ずかしさで自分という人間がほとほと嫌になり、その日は一日中、悶々とした気持で過ごすことになった。
こんなことではいけない。 これからは絶対にやらなければ・・・絶対に名誉を挽回しなければならない。行雄は自責の念で一杯になった。
数日後、大川を中心に高校生だけのサークルを持った時、彼は激しい口調でこう述べた。「この中には僕も含めて誰一人、羽田の首相訪米阻止闘争に参加しなかった。こんなことでいいのだろうか! 僕も厳しく自己批判するが、マルクス主義の勉強も大事だけれど、現実の国家権力との闘いをサボっていては、少しも現実を変革することはできないではないか!
僕らは高校生だということで、“甘えている”部分が多いと言わざるをえない。その点は、率直に反省すべきである。 僕らが立ち上がらなければ、他の高校生の誰が闘争に参加してくるだろうか。
実践を通じてマルクス主義を確かなものにしていくことが、われわれの課題ではなかろうか。 そういう意味からも、今後の闘争、特に全学連の闘争には、積極的に参加していかなければならないと思う」 大川の演説はグサリと行雄の心を貫いた。彼はまったく同感だと思い、自らの怠慢を反省しながら「異議なし!」と叫んだ。
その後、行雄は大川らとともに、どんな小規模な集会やデモにも積極的に参加するようになった。 それも、デモの時には隊列に隠れるようにではなく、次第にデモ隊の先頭に加わるようになり、横に倒した旗竿を何人もの学友とともに握りしめ、「ワッショイ、ワッショイ」の掛け声も勇ましく先陣を切るようになった。
そして、旗竿を奪い取ろうとする警官隊と激しくもみ合う中で、闘う自分に誇りを感じ満足するようになっていった。 ただ困ったことは、座り込みをしている時に警官隊が行雄達のグループに気がつき、「高校生の諸君は早く退去しなさい!」と言われることだった。
警察は、大学生と高校生を明らかに区別して臨んできた。 これが行雄達を困らせたが、あと一、二ヵ月もすれば大学に進むのだから、高校生だからという“差別待遇”もあと僅かだと自分達に言い聞かせて我慢したのである。 そして、警官隊というこの「国家権力の手先」に屈してたまるか、という決意を胸の奥深く固めていった。
四月。桜の花が鮮やかに咲き誇り、暖かい日差しが全ての人達をほのぼのと包む頃、行雄は早稲田大学第一文学部仏文学科へ進学した。 両親や兄はとにかく彼が大学へ進学したことで、ほっと胸をなで下ろしていた。 行雄は合格点すれすれの成績で、ようやく高等学院を卒業して進学できたのである。
敦子の両親も彼の大学入学を喜び、お祝い金を送ってきてくれた。 行雄はその金で真っ白なダスターコートを買い、いつもそれを着て通学するようになった。 敦子の父・森戸徹三はその頃、共栄銀行の神奈川第一支店へ転勤を命じられ、与野市から横浜市へ転居することになった。
徹三夫妻は息子の徹郎と信二を連れて、行雄の両親にお別れの挨拶にやって来たが、その席で、行雄の全学連運動への参加を心配して、いろいろ話し込んでいった。 その後、父の国義が行雄に、全学連もいいがほどほどに行動するよう念を入れて注意してきたが、行雄は適当に受け答えするだけで聞く耳を持たなかった。
四月の大学キャンパスは、新入生が大勢入ってくることで活気と華やいだ雰囲気に包まれるものである。 クラブ活動への勧誘やアルバイトの斡旋、安い下宿先の紹介などが重なり、キャンパスは賑やかな“たたずまい”を見せていた。
そうした中で、行雄は仏文科Bクラスに編入されると、付属高校出身の経歴を利用して直ちにクラス委員に立候補し、無投票で当選してしまった。 もちろん、全学連の運動に有利になるよう、クラスを引っ張っていく目的があったからである。
しかし、仏文科に入ってきた学生は、おおむね自己中心的なタイプが多く、政治問題にはほとんど関心がないようであった。 行雄はコンパなどを通じて、学生運動への賛同を得ようと試みたが、大多数のクラスメートの反応は鈍く、むしろ冷ややかなものがあった。デモに誘っても、ついてくる学生は数える程しかいなかった。
こんな状態で、果たして全学連の安保闘争は盛り上がっていくのだろうか。 行雄は疑問を抱いたが、とにかく、やるだけやってみるしかないと、自分に言い聞かせるしかなかった。
この頃、革共同がブント(共産主義者同盟)の学生組織・社学同(社会主義学生同盟)に対抗して、マル学同(マルクス主義学生同盟)を結成したので、行雄はすぐにこれに加盟した。
当時、全学連の主導権を握っていたのはブント・社学同であり、革共同・マル学同はこれと共闘していた。 “共闘”していたというのは、共産党系の民青(日本民主青年同盟)の勢力に対抗していたということだが、マル学同は自らの組織を拡大していくため、同じ過激派路線の社学同の学生をオルグしていく必要があった。
社学同は、社会主義に関心がある学生なら誰でも加入させていたから、行雄達は社学同にも名前を登録し、内部からマル学同への同調者をオルグしていくことになった。 これを革共同・マル学同は「加入戦術」と呼び、二重登録の中から自らの組織を拡大しようとしていった。 組織論的に見ると、マル学同は極めて柔軟な戦術を取ったと言えよう。
こうして行雄達は、デモの時には社学同の学生達ともスクラムを組み、同じ行動をしながら、近い日に彼等の組織を“蚕食”していこうと考えていた。 ただし、同じ行動を取っていても、マルクス主義や革命への意識という面では、彼等よりわれわれの方が上だという自負を持って闘ったのである。
ブント・社学同の闘争方針は、国会突入戦術など極めて過激である。 これを“一揆主義的”と批判する革共同の人間もいたが、行雄はそうは思わなかった。 革共同は本来、革命の主体は労働者という考え方が強かったため、学生だけの暴発的な行動を批判的に見る傾向があった。
しかし行雄は、学生にできることは何でもしなければならないと思っていたから、ブント・社学同の闘争戦術に容易に馴染むことができた。 また彼は、人間にとって“純粋さ”が最も貴重なものであると考えていたから、過激で極端であればあるほど、人間の純粋さが発揮されていると思っていたのである。
従って、安保闘争が高揚期を迎える一九六○年の前半は、行雄は“クロカン・ゼミ”にはあまり行かなくなり、もっぱら過激な運動や大衆闘争に腐心するようになった。 理論よりも、まず実践を重んじる状況になっていたのである。
行雄達は、いかにクラスメートを全学連主流派(社学同・マル学同派)の活動方針に賛同させるか、ということに苦心し努力した。 これに対して、日共・民青系の全学連反主流派は、過激な主流派に対抗して、四月に東京都学生自治会連絡会議(都自連)を結成した。 全学連は事実上、二つの潮流にはっきりと分裂したのである。
文学部の各クラスにおいても、主流派と反主流派の激しい多数派工作が熱気を帯びてきた。 こうなれば、どちらの派が多くの学生を動員して、有効な闘争を展開できるかに勝負がかかってくる。 行雄は、連日のようにクラス討論会を開いて主流派への参加を呼びかけ、ようやく六、七人の学友をデモに連れていくことに成功した。
その頃、政府・自民党は、通常国会の会期末である五月二六日から逆算して、一ヵ月前の四月二六日までに新安保条約を可決し、自然承認を図るという方針をちらつかせ始めた。 こうした動きに触発されて、安保反対闘争はにわかに緊迫、盛り上がりを見せることになった。 清水幾太郎氏らの学者、文化人も「安保批判の会」などを結成し、四月に入ると一斉に街頭行動に立ち上がった。
一方、国会では、すでに二月から衆議院に「安保特別委員会」が設置され、社会党がアメリカとの「事前協議」や「極東の範囲」、さらに条約修正権の問題などについて、政府を鋭く追及していた。
これに対し、政府の答弁はしばしば曖昧で、時には“しどろもどろ”になったため、新安保条約に対する国民の不安と疑問は、ますます増大していくように見えた。 特に、条約にいう「極東の範囲」については、政府の解釈がくるくると変わりっぱなしで、まったく信用がおけないという印象を国民に与えたようである。
このためか、一般の新聞論調も、新安保条約は日本の平和と安全にとって不備な点が多いことを指摘するようになり、岸内閣は日一日と苦しい立場に追い込まれていく状況となった。
今や、安保条約に反対する闘争は、どこの大学でも盛り上がりを見せるようになってきた。 行雄は連日のように続くデモ、集会、クラス討論、ビラ刷りやビラ配り、立て看板作り、オルグなどの活動で、目の回るような忙しさであった。
しかし、毎日が活気にあふれ、命の炎を燃やしている感じで充実感に満ち満ちていた。 このような日常生活は、つい半年前の高等学院時代には想像もできないことだった。あの頃にはまったく思いも及ばない“燃えるような”毎日なのである。
こうした充実感の中で彼は、革命のために生き、革命のために死ぬことができれば幸せだと思うようになった。 仮にいま、交通事故で死ぬことがあっても、その時は「日本の社会主義革命万歳! 革命を! 皆さん、革命を!」と叫んで、死ぬことができるだろう。
行雄はこのように思いながら、革命に命をかけることのできる喜びに酔いしれた。 彼はふと夢想に耽ることもあった。自分は革命の政治犯で獄中に捕えられ、死刑の執行を待っている。 そこに、政府権力者に嫁いだ“敦子”が、昔の友情から自分の助命を嘆願してくれるかもしれない。
しかし、自分はその助命運動を断固はねつけ、従容として死刑の執行を受けるのだ。 その時、敦子は自分のことをどう思ってくれるだろうか・・・そんな夢想に耽っていると、行雄は甘酸っぱい切なさに何とも言えない快感を覚えるのだった。
四月二十日を過ぎると、自民党が会期内の安保条約自然承認を目指して、衆議院安保特別委員会の中間報告を求める動議を提出、国会はにわかに緊迫してきた。 衆参両院議長は強行採決の混乱に備えて警官隊の出動を要請、これに対し社会党が強硬に抗議して院内外は騒然とした状況になってきた。
一方、日本国内の動きとはまったく関係のないことだが、隣国の韓国では四月中旬から、李承晩大統領の独裁政治に反対するデモが急速に拡大していった。 そして、十九日にはソウル(京城)で暴動が発生、これが南部の釜山、大邱、光州、大田にも広がり、七十人以上の死者が出るという流血の大惨事になった。
韓国の学生達はデモや暴動の先頭に立って軍隊と激突、次々と射殺されたり負傷していった。 しかし、“李承晩打倒”の反政府暴動は、止まるところを知らない勢いで拡大していったのである。 この韓国の情勢が、全学連の学生達を非常に刺激した。
「韓国の学生に負けるな!」が合言葉のようになり、彼等が李承晩を倒すように、われわれは岸内閣を打倒して安保条約を粉砕しようと意気込んだのである。 連日のデモや警官隊との衝突が激しくなっていった。
騒然とした院内外の動きに、自民党はついに、中間報告を求める動議を取り下げざるをえなくなった。 しかし、これを機に、安保反対闘争は火に油を注ぐように拡大していく。 韓国の学生に負けたくないという気持が、学生達の血を沸き立たせていったのである。
四月二六日。 全学連主流派の学生約六千人は、安保改定阻止国民会議の請願デモとは分かれて、国会正門に通じるチャペルセンター前に集結した。 今日は何かが起きると誰もが予感した。学生達は明らかに国会突入を目指していたのである。
不穏な情勢に、警察側も厳重な警備態勢を取り、国会周辺には八千人の警官隊が配置されていた。 これまでになく多くの装甲車が、学生達の前方に整然と配備されたが、後方には右翼の各団体が宣伝カーやトラックに乗って詰めかけてきた。
この時初めて、行雄達のグループは“自衛武装”の必要性を本能的に感じ取った。 彼等はプラカードの板を外して二十数本の角材を用意し、さらに何百個もの石ころを集めてきて、右翼の襲撃に備えたのである。
こうした自衛武装は自然発生的に行なわれたものであり、全学連指導部の指示があったからではない。 右翼の襲撃という危機感から、本能的に取られた措置である。行雄達は、もし右翼が突撃してきたら、角材や投石で撃退しようと身構えていた。
この日の決起集会は、はじめから緊迫感に満ちたものであった。 全学連のリーダー達が次々と挨拶に立ち、安保条約粉砕、岸内閣打倒を呼びかけると、学生達は「異議なーしっ!」「断固、闘うぞーっ!」などと喚声をあげた。
そして最後に、唐牛(かろうじ)健太郎委員長が挨拶に立った時には、集会の熱気は最高潮に達していた。 彼は吼えまくるライオンのように嵐のような扇動演説を始め、国会突入を訴えた。
「この装甲車の向うは“真空地帯”だ! 警官隊がいても、奴らは金で雇われた連中だ! そんな連中は、われわれが突撃すれば逃げていくだけだ! さあ、みんなで国会に突入しよう!」 激しいアジ演説が終ると、一瞬、不気味な静けさが辺りを支配した。
座り込んでいた学生達が一斉に立ち上がる。各大学ごとにスクラムを組んで態勢を整えた。 「進め!」の号令とともに学生達は前進する。彼等は道幅いっぱいに二重、三重にぎっしりと並べられた装甲車に襲いかかると、アリのようにはい上がっていく。
そして、車を乗り越えて次々に向う側へと降りていくが、そこに待機していた警官隊が猛然と殺到してきた。 デモ隊と警官隊の激突・・・しかし、容赦なく警棒が打ち下ろされると、頭や顔から血を噴き出して倒れる学生が相次いだ。 そこは怒号、悲鳴、うめき声が渦巻き、凄惨な修羅場と化していった。
行雄達も装甲車を乗り越えて警官隊とぶつかったが、角材は後方に置いてきたため素手であった。警棒の乱打にはたまったものではない。 なんとか逃げ回っては、またスクラムを組み直して立ち向っていくが、また警棒によって追い払われる。 ふと見ると、大川が自治会旗を振り回しながら、警官隊と追いつ追われつの闘いを繰り広げていた。
やがてデモ隊の一部が、装甲車にロープをかけて一両、二両と引きずり出しいるのが見えた。 学生達はそこを突破口にして、スクラムを組んで逆襲に転じようとしていた。 しかしその時、後方から右翼の大型トラック二台が、猛スピードでデモ隊の中に突入してきた。
「危ないっ!」「ワーッ!」「キャーッ!」という悲鳴が聞こえる。 見ると、右翼の連中が釘のついた棍棒を振り回して、車上から学生達を殴りつけているのだ。 この右翼の襲撃にデモ隊は動揺した。
「お前ら警察なら、右翼を逮捕しろ!」 学生達が声を張り上げるが、警官隊は勿論そんなことには構っていない。 警官隊と右翼に挟まれ、デモ隊が浮き足立った時、警官隊の“総攻撃”が始まった。またまた警棒の乱打である。
みるみるうちにデモ隊の態勢が崩れ、学生達は国会正門付近から追い払われた。 その間、唐牛委員長ら全学連のリーダーが次々に逮捕され、デモ隊はやむなく退散をよぎなくされた。
国会突入を果たせず行雄達は悔しい思いをしたが、学生達はこの後、抗議の意味を込めて警視庁にデモをかけ、有楽町を通り東京駅八重洲口に至って解散した。 警官隊に追い払われたものの、この日の闘いは、行雄にとって忘れがたい激烈なものであった。
全学連デモ隊の士気は、これまでになく高揚していた。 この闘争心をさらに盛り上げていかなければならないと思い、行雄には敗北感などは微塵もなかった。
この同じ二六日、韓国のソウルでは五十万人ものデモ隊が李承晩の退陣を求めて決起、治安に当たった軍隊を大統領官邸にまで押し返す事態となり、李承晩は翌二七日、ついに大統領辞任に追い込まれた。 学生達を先頭にして闘った韓国の反政府運動は、こうして多くの犠牲者を出しながらも勝利したのである。
韓国の学生達の勝利は、全学連の学生達を鼓舞した。 彼等が李承晩を倒したように、われわれも岸内閣を打倒し安保条約を粉砕しようではないか。韓国の学生達に負けるものかという気概が、日本の学生達の心にも広がっていったようである。
そして、五月一日のメーデー。 安保反対などを訴えて浦和市内を行進する労働者のデモ隊に、行雄は熱い声援を送り、一人一人と握手していった。 労働者の暖かくがっしりした手の感触が、彼にはこの上もなく頼もしいものに思えた。
メーデーの行進を見ながら、行雄は夢想に耽った。 われわれ労働者、学生の闘争で岸内閣を倒し、それを突破口にして自民党政権を崩壊させ、社会党を中心とした“人民戦線政府”を樹立する。 その後、ゼネストを主体とした日本プロレタリアートの闘争によって、社会主義革命を成就させるのだ。
その時は、赤旗が国会や首相官邸の上にはためき、何百万人という労働者、民衆が歓呼の声をあげながら、新しい社会主義革命政権の誕生を祝福するのだ。 こういう夢想に耽りながら、彼はメーデーの行進に盛んに声援を送るのであった。
そんなある日、行雄の一年先輩で、大学の国文科に籍を置く笹塚健一が「君とぜひ話しをしたい」と誘ってきた。 笹塚も全学連の運動に参加していたから、行雄は高等学院の頃から彼とは顔見知りだった。
笹塚はこれまで二、三度、話しをしたいと誘ってきたことがあるが、行雄は気乗りがせず、多忙を理由にして断ってきた。彼との話し合いが嫌だったのである。 本当の理由は、笹塚の評判がマル学同の中で芳しいものでなかったからである。
「彼は革命思想を食いものにしている人間だよ。 自分だけを良い子に見せたがるアナーキストだ。いわば、革命の“ジプシー”みたいなものだね」 大川やマル学同の学生達は、よくそんなことを言っていた。
ジプシーとは、革命運動の“放浪者”ということか。 いずれにしろ、安保闘争が高揚期を迎えて忙しい時に、どうしてジプシーとゆっくり話し合いをしなくてはいけないのか。 行雄は忌々しく思ったが、笹塚が執拗に誘ってくるのでとうとう根負けし、彼と短時間話し合うことを承諾してしまった。
ある日の夜、大学近くのS喫茶店に行くと、笹塚は、色白で小太りの目がクリクリした女子大生と一緒に、行雄を待っていた。
「村上君、紹介するよ。この人は英文科にいる瀬戸山史子(ふみこ)さんだ。 君の家の近くの蕨市に住んでいるんだよ。彼女は僕と同じ日比谷高校の出身で、高校時代からの友達なんだ」
笹塚に紹介されて、行雄は仕方なく「僕、村上です」とぶっきら棒に挨拶した。 「村上さん。わたし以前から、あなたが電車で高等学院に行くのを知ってましたよ。 だって、あなたは全学連の運動に熱心だったから、同じ電車に乗っていた時は注意して見ていたの。ごめんなさい」
瀬戸山が明るい声で微笑みながら語りかけてくるので、行雄は面食らった。 彼女は、彼より一年先輩だという態度が少しにじみ出ているようで、行雄はあまり面白くない感じがしたが、微笑むと童顔の瀬戸山の表情はけっこう可愛らしく見えた。
「まあ、そんなことはいいだろう。 時間もあまりないから、早速本題に入ろうよ」 笹塚はコーヒーを一口飲むと、改まった顔付きになり話しを始めた。 「ねえ、村上君。 君は革共同がやろうとしている革命について、疑問を感じたことはないのか?」 彼は度のきつい近眼鏡の奥から、細い目を光らせながら聞いてきた。
それはどういう意味なのかと行雄が反問すると、彼は次のように言葉を続けた。「革共同もブントも、革命を志向しているのは正しい。 その点はまったく同感だ。だから僕だって、君達のデモにはいつも一緒に参加している。 しかし、問題は、人間が本当に解放され自由を得ることができるのは、共産主義社会になってからという理論にある。
その理論からいくと、理想社会が実現するまでは、人間はプロレタリアート独裁といった、ある権力の統制や支配を必要とすることになる。 こうした理論が本当に正しいのだろうか。君はどう思う?」
行雄はすぐに切り返した。「プロレタリアートの独裁といったものは、やはり必要だろう。 マルクス、レーニンも言っているように、ブルジョワジーの反革命を防止し、これを抑えるためにも、一時的にプロレタリアートの独裁は必要だ。 現にロシア革命でも、さまざまの反革命が起き、それをレーニンやトロツキーらが革命政権の権力によって鎮圧したではないか」
「それなら、反革命を鎮圧した後、ソ連ではどうして国家がなくならず、逆に国家権力だけが強大になっていったのか?」 笹塚がすぐに追及してきた。
「それは簡単な理由さ。 スターリンが一国社会主義という間違った理論によって、ソ連の官僚支配を徹底させていったからだ。 だから僕らは、スターリニズムに反対して、日共とも闘っているのだ」「それじゃ、どうしてスターリニズムがソ連では勝ったのか?」
「それは、トロツキーら民主派の力が弱かったからだ。彼の永久革命論は正しかったが、組織論的に見れば、トロツキーらの力はボルシェビキの中では貧弱で、スターリンらの官僚勢力に屈せざるをえなかったからだ」
すると笹塚は、またコーヒーをごくりと一口飲んだ後、行雄の顔を“ねめつける”ようにして言葉を続けた。
「村上君、それは違うよ。 君らはトロツキーの力不足などを理由にあげるが、それは間違っている。スターリニズムの根源は、レーニンの前衛党理論の中にあるのだ。 革命を遂行するためには、強力な前衛党が必要であり、革命家は一つの歯車のようになって、党中央の命令や指示に絶対に服従しなければならないという、レーニンの組織論こそ全ての誤謬の出発点なのだ」
行雄はレーニンを否定する笹塚に対し、怒りを覚えた。「どうしてレーニンが間違っているのだ。 彼が訓練された職業革命家の集団、つまりボルシェビキを創ったからこそ、ロシア革命は成功したのではないか。 それ以外の組織で、誰が革命を成功させることができたと言うんだ!」
すると、それまで黙って聴いていた瀬戸山が口を挟んできた。「ロシア革命の成功、不成功を言っているのではないわ。スターリニズムの根源は、レーニンの組織論の中に内在していると言っているのよ。 あのように党中央絶対という考え方が、必然的に、スターリンによる官僚支配政治を生んでいったとは思わないの?
たとえ、トロツキーがスターリンに勝っていたとしても、ソ連の国家権力はなくならなかったと思うわ。 トロツキーの方がスターリンより少しは民主的で、多少マシであったというくらいの違いよ。 どちらにしても、ソ連の統制的な国家権力はずっと続いていったはずだわ」
すぐに行雄が反論する。「君達はメンシェビキみたいな言い方をするね。 それなら、ロシア革命そのものを否定するのか。あのまま、ツァーの専制政治が続いた方が良かったとでも言うのか。 いずれにしろ、ロシア革命を成功させたのは、メンシェビキではなくボルシェビキなんだ」
笹塚が答えた。「勿論、ロシア革命を否定するものではない。 ロシア革命は、二十世紀で最も偉大な歴史的事業だった。ただ、革命がレーニンの指導原則で成功した所に、その後の不幸の全ての始まりがあるんだよ」
笹塚はここで皮肉たっぷりの微笑を浮かべると、さらに続けていった。「さっきも言ったように、前衛党絶対という考え方が間違っているのだ。 これでは、党中央が誤りを犯しても、それを正すことは容易なことではない。誰がそれを正すというのか。
もし、ある党員グループが党中央の方針を批判したらどうなるか。 鉄の規律の一枚岩政党なら、除名されるだけだ。要するに、党員は党の方針や決定に絶対に服従するか、それとも除名されるかのどちらかだ。
これほど非民主的で、これほど自由のない組織が、どうして人類を解放し人間を自由にすることができると言うんだ! これこそ、お笑いだよ。 それなら、どうすればいいのかと言えば、革命を行なう組織はそれ自体、自由で民主的な性格のものでなくてはならないのだ。 革命の主体が自由でなくて、どうして将来、自由な共産主義社会ができるというのか。
マルキストは生産力と生産関係のことばかりを言うが、それは人間の自由、人間の尊厳というものとは関係のないことだ。 いくら生産力が無限に拡大し、豊かな共産社会が実現したとしても、それで人間が本当に自由になったと言えるのか。 食えるだけ食え、飲めるだけ飲めれば自由だと言えるのか。
それによって、国家権力は、またプロレタリアート独裁はなくなるというのか。そんな保証はどこにもない。 要するに、革命を行なう人間、そして、その人間の集合体である組織が、自由を自覚して革命を行なわなければ、絶対に自由な共産主義社会はこないのだ。
自由という目的のために、手段を選ばずということであってはならない。 自由という目的に達するためには、ここが重要なポイントなんだが、その過程やその手段においても、自由の原則が確立されていなければならないのだ。 村上君、どう思う?」
笹塚はここで間を置いて行雄の反応を窺ったが、彼の方は黙ったままでいた。初めて聞く革命理論なので、即答ができなかったのである。 笹塚はさらに続けた。「いま言った点については、残念ながら革共同もブントも、もちろん日共も、そんな自由な連帯組織からかけ離れているのだ。
党中央の決定ということで、日共がどれほど過ちを犯したかは、戦前戦後の日共の歴史を見れば十分に分かることだ。 ところで、この前の四・二六の集会の時だったが、君達は誰からも指示されないのに、自発的に角材や石を集めてきて右翼の襲撃に備えていたね。
僕は君達の行動をよく見ていたが、ああいう自発的な行動こそ意義があり、重要なのだ。 ああした下からの自由な発想や創意工夫こそ、上の指導部は柔軟に取り入れていかなくてはならない。 そうした自由で、自発的な行動の集積の上に、初めて活気のある革命的な闘争が生まれてくると僕は思う」
笹塚が、先日の集会での行雄らの行動を褒めたので、行雄は満更でもない気持になったが、ようやく反撃する思いになった。「君の言うことももっともだと思う面もある。 しかし、革命という大事業を完遂していくためには、一糸乱れぬ統一性というか、優れた前衛党の指導体制が確立していないと、成功するのはやはり難しいのじゃないだろうか。
前衛党員の自発性も大切だが、勝手気ままな行動が許されれば、それはかえって革命運動の足並みを乱すことにもなりかねない。 その辺が難しい問題だと思うのだが・・・」
「勿論、勝手な行動は許されないさ。 しかしそれでも、僕はさっきから言っているように、革命の主体は、自由な諸々の組織の連合体でなければならないと思っている。 その点で僕は、前衛党信奉者というより、はっきり言って“アナルコ・サンジカリスト”ということだ」
「アナルコ・サンジカリスト?」「そうだ。 サンジカ、つまり労働組合が革命の主体となり、ゼネストなどの直接行動によって、ブルジョワ政治権力を打ち倒すというアナーキズムだ。 ヨーロッパでは、スペイン革命の時に部分的に成功した例がある。
つまり、革命の主体として前衛党を認めず、代りにサンジカの連合体が、革命の主導権を握るというものだ。日本では、大杉栄らが主張してきた。 だから、社会主義政権ができても、生産や分配、その他いろいろの経済活動を取り仕切るのは、国家ではなく、労働組合の連合体がそれを行なうことになるのだ。
その方が、プロレタリアートの主体性や自発性がより十分に保障され、前衛党による馬鹿げた官僚支配は除かれることになる。 こうした理論が間違っていると思うかい?」 笹塚の説明に、行雄は成る程と思った。 そんな理論は初めて聞いたが、はたしてそれが有効で正しいものなのだろうか。
行雄が黙り込んでいると、笹塚はさらに続けた。「労働組合というと、君達はすぐに経済主義的で、革命の主体には不向きだと思うかもしれない。 しかし、労働者、プロレタリアートの解放こそ革命の目標ではないか。 いくら前衛党が革命を志向して闘っても、プロレタリアートが自覚しなければ、本当に革命を行なうことはできないのだ。
だから、革共同だって盛んに労働組合のオルグを行ない、産業別労働委員会なるものを創ってきたではないか。 その意味で革共同は正しいが、革命の主体は革共同ではなく、あくまでも、そうした産業別労働委員会の連合体でなければならないのだ」
ここで行雄は、最後の反撃に出た。「しかし、そのアナルコ・サンジカリズムというのは、スペイン革命の一部の例を除いて、今までに革命に成功したことがないじゃないか。 成功したのは、レーニンのボルシェビズムであり、同じマルクス主義の流れをくむ毛沢東主義だけではないか!」
彼の反論に刺激されたのか、暫く黙っていた瀬戸山が、遮るような形で甲高い声をあげた。「成功や失敗のことを言っているのではないわ! 理論が正しいか、正しくないのかを言っているのよ。そんなことを言うなら、レーニンがロシア革命に成功するまでは、マルキシズムなんか、大抵の社会主義者に敬遠されていたと言ってもいいくらいよ。
だから私達が言いたいのは、アナーキズムや、その一つの革命手段であるアナルコ・サンジカリズムという理論が、正しいのかどうかということを問題にしているのよ。 革命が成功したって、その革命が誤った理論によって指導されていたのでは、結果はロクでもないことになるだけだわ。
だから今こそ、どの革命思想や理論が正しくて、理想にかなうものなのかを徹底的に議論し、検討しなくてはいけないと思うの。 わたしは、革共同の皆さんが、そこまで真剣に考え抜いているとは思えないわ」
笹塚と瀬戸山の弁説に押された感じになり、行雄は困惑して答えた。「君達の言おうとしていることは分からないではないが、もっと勉強しないと何とも言えないよ。 それよりもまず、安保闘争だ。 安保闘争を徹底的にやっていくことが第一だ!」
二人はどっと笑った。「それはそうだ。安保闘争は徹底的にやらなければならん。その点では一致している」笹塚がニヤニヤしながら答えた。 その後も三人は議論を続けたが、行雄はアナーキズム(無政府主義)というものの輪郭が、おぼろげに分かるような気がしただけだった。
別れ際に笹塚が、クロポトキンの「パンの略取」とソレルの「暴力論」という、二冊のアナーキズム関係の本を貸してくれたので、行雄はそれを持って帰宅した。
9)国会突入
笹塚らと議論した翌日、行雄は早速、大川に会ってアナーキズムについて問題提起をしてみた。 彼は行雄の話しを一通り聞いた後で、次のように語った。「村上君、笹塚は理想論ばかりを言っているんだよ。悪いけど、プチブルのたわ言だね。 それより、僕らはマルクス主義について、まだ完全に熟知していない。
マルキシズムを十分に理解していない者が、どうしてアナーキズムを云々することができるだろうか。 君がもしマルキシズムに疑問を持つのなら、“クロカン”や本多さんにいろいろ聞いてみたらいいじゃないか」
大川が行雄の問題提起に応じなかったので、彼はそれ以上話すのを止めた。 仕方がないので、これから自分一人でアナーキズムを研究していこうと思ったが、行雄は、自由を尊重するこの思想に本能的に何か惹かれるものを感じていた。
丁度その頃、ソ連のフルシチョフ首相が、領空侵犯したアメリカのU2型機を撃墜したという、重大発表を世界に向けて行なった。 これは、安保論議に明け暮れる日本国内にも大きな衝撃を与えた。
社会党は、このU2型機こそ、前年に厚木基地に不時着した“黒いジェット機”であり、U2型機のスパイ飛行を未然に防ぐため、在日米軍基地の調査権を日本側が持つよう政府を追及した。 これに対し、政府の答弁は、日本にあるU2型機は気象観測用のものであり、スパイ行為はしていないと繰り返し説明したが、国民の疑惑と不安は一段と深まる結果となった。
日米新安保条約の不備と危険性が、ますます明らかになってくるとともに、安保反対闘争は一層の盛り上がりを見せるようになった。 これに対し政府・自民党は、会期延長と新安保条約の単独採決を図るという、強硬方針に次第に傾いていった。
そして、五月一九日深夜、自民党は衆議院安保特別委員会で、新安保条約を強行可決した後、清瀬一郎衆議院議長が五百人の警察官を国会内に導入、本会議でまず五十日間の会期延長を自民党単独で決めてしまった。 さらに、そのまま二十日の未明になって、新安保条約も自民党単独で可決、承認してしまったのである。
客観的に見れば、この時点で安保反対闘争は終止符を打たれたことになる。 こうなれば、院外でいくら安保反対闘争が行なわれようとも、条約は国会の会期内に“自然承認”されるからである。 しかし、この時点を境にして、安保反対闘争はその後一ヵ月、空前の大衆運動として国民の中に広がっていく。
行雄は二十日未明、条約承認のニュースをNHKラジオの特別放送で聞いた。 何とも言えない怒りと無念の思いが、腹の底から込み上げてきて涙が流れてきた。その怒りは、たった十八年の人生だが、それまでに経験したことのない強いものであった。
その日の朝、早稲田大学へ行くと学生達の怒りが爆発していた。もう授業どころではなかった。 全学連主流派と反主流派の集会ばかりでなく、大隈講堂では一般の学生、教員も含めた抗議集会が開かれ、立錐(りっすい)の余地もないほど人が溢れかえっていた。
誰もが国会への抗議デモを主張し、「岸を倒せ」が合言葉のように広がっていった。大学構内は、これまでに見たことがないような騒然とした状況になっていた。 この大学だけで何千人という学生達が徒歩で、あるいは都電に乗って国会デモに参加していったのである。
全学連主流派の集会には一万人以上の学生が集結し、デモ隊が国会突入を図った。 しかし、この日の警視庁の警備は厳重を極めるものだった。 初めて登場した頑丈な“バリケード車”に遮られ、デモ隊は国会に突入することができなかった。
しかし、学生達の怒りは治まらず、デモ隊は一転して首相官邸に襲いかかる。 約三百人の学生が、警備が手薄になっていた官邸北側の土手をはい上がり、通用門を壊して構内になだれ込んだ。 行雄もその中にいたが、学生達は手当りしだいに石を警官隊に投げつけた。
警官隊も石を投げ返し警棒を振って応戦、官邸構内で一進一退の闘いを繰り広げたが、やがて行雄達の“突撃隊”も官邸の外へ追い払われた。 何十人という学生がケガをしたが、行雄はかすり傷一つ負わなかった。 デモ隊はこの後、警視庁に押しかけてジグザグデモを繰り返し、東京駅八重洲口へ向って解散したのである。
この五・二〇デモを皮切りにして、全学連は来る日も来る日も国会への抗議デモを続けた。 行雄も今こそ闘いの正念場だと思い、くたくたに疲れながらも連日デモに明け暮れた。 マルクス主義か、アナーキズムかといった重要な選択の問題は、どこかへ吹っ飛んでしまった感じになっていた。
五月二六日、安保改定阻止国民会議は大規模な全国統一行動を実施、国会周辺には十数万人という、これまでにないおびただしい数のデモ隊が押し寄せた。 後から後から、また後から後から、いつ果てるともなくデモ隊が続き、国会を二重、三重に取り囲んでしまった。
あまりの壮観さに、行雄は呆然としてデモ隊の流れを眺めていた。 その流れはあたかも、何匹もの“巨大な蛇”が瀕死の国会議事堂をぐいぐいと締めつけているように見えた。 「安保条約 フンサーイ!」「岸内閣を倒せーっ!」「国会 カイサーン!」 シュプレヒコールが延々と響く。
これほどまでに、闘争が盛り上がるのだろうか。これほどの大衆運動が今までにあっただろうか。 行雄は、感動に胸が締めつけられる思いであった。そこにはもう、労働者や市民、学生などの分け隔ては見られなかった。大衆が織り成す壮大な“ページェント”なのだ。
行雄はふと、アメリカにいる敦子のことを思い出していた。 彼女にも、この壮大なページェントを見せてやりたかった。彼女が見れば、これをどのように思うだろうか。
数日後、行雄は久しぶりに敦子に手紙を書いた。「お元気ですか。 あと二ヵ月もすれば君は日本に帰ってきますが、その時、日本はどうなっているか分かりません。 僕は毎日、全学連のデモの先頭に立って闘っています。
岸内閣の横暴な、議会制民主主義を無視した新安保条約の強行可決によって、国民の怒りはいま爆発しています。 連日、何万人というデモ隊が国会を取り巻き、新安保条約の無効と岸内閣の退陣を叫んでいます。
こうした大衆の憤激とエネルギーによって、アイゼンハウアー米大統領が訪日する際は、何が起きるか予測もつかない状況となっています。 この大衆の大デモンストレーションと抗議の嵐は、新安保条約が自然承認される六月一九日にむけて、さらに巨大な“うねり”となって増幅していくでしょう。
われわれ全学連は、この大デモンストレーションの先頭に絶えず立って闘っています。 僕は毎日のデモで、くたくたに疲れていますが、これほどの生きがい、これほどの充実感を今までに体験したことはありませんでした。
僕はもう、いつ死んでもかまわないと思っている。これほどまでに闘って死ねるのなら幸せだ。 この巨大な大衆の憤激とエネルギーが、日本の革命につながるものであるなら、これ以上の喜びはない。
岸内閣が国会も解散せずこのまま居座るか、それとも革命が起きるか二つに一つしかない。 僕は死ぬ気でやる。君に再び会うことができるなら幸いだが、そんな保証はどこにもない。 アメリカ帝国主義と、その手先である日本の反動・資本主義を打倒するために、僕は命の全てをかけて闘うつもりだ。
この手紙が君の手元に届く頃、日本はどうなっているかまったく分かりません。 それではお元気で。 再会を期待し、それを楽しみにしています。
敦子様 行雄より 」
敦子への手紙を書き終えると、行雄は晴れ晴れとした気持になっていた。これでもう何も思い残すことがないような、解放感に似た心境だったのである。
六月三日。 全学連主流派は再び首相官邸にデモをかけ、またまた一部の学生が官邸構内に乱入して警官隊と衝突した。 この後、学生達はデモ行進しながら、国電・品川駅へと向った。これは、翌四日の安保改定阻止統一行動での、国労や動労の早朝時限ストを支援するためであった。
品川駅に着くと、学生達は中央ホームになだれ込んで座り込みに入った。 そこへ国労の幹部達がやってきて、警察に“弾圧の口実”を与えるから、退去して欲しいと説得してきた。国労や動労にとって、全学連の行動は有り難迷惑だったのである。
しかし、学生達は、労働者の闘争を支援して何が悪いのかと応酬し、結局、彼等は品川駅に泊まり込む態勢を取った。 夜がふけてくると、六月初旬とはいえ何となく寒々と感じてくる。行雄達はふざけ合って相撲をとったりしていた。
するとその時、「村上さん、こんばんわ」と声をかけてくる女性がいた。 誰かと思って振り返ると、仏文科の同級生の中野百合子と渡辺悦子で、彼女らは差し入れのために、アメやチョコレートを持ってきてくれたのだった。
中野と渡辺は「身体に気をつけてね」と一言いうと直ぐに姿を消したが、クラスメートの彼女らも僕達のことを心配してくれているのを知ると、行雄はたまらなく嬉しくなった。 早速、アメやチョコを仲間と分け合って食べたが、彼女らの好意がいつまでも口の中に残っているような気がした。
徹夜の泊まり込みが終り、四日早朝から学生達は、国鉄の労働者とともにデモ行進することになった。 林立する赤旗の波の中から「インターナショナル」などの労働歌がとどろき渡り、沿道から一般市民の拍手や声援が盛んに湧き上がる。
この当時、政府部内では、安保反対闘争への一般市民の共感をできるだけ過小評価しようとしたが、警察・公安当局は決してそうではなかった。 特に警察関係者は、連日の集会やデモに対応していたため、現場での一般市民の反応を肌で感じており、それが予想以上に安保反対闘争に好意的であることを認識していた。(後日、警察関係者の証言で明らかになる。)
こうした一般市民の温かい支持と応援に、行雄はデモ行進しながら、徹夜の疲れもどこかへ消えていくような充実した幸福感に満たされていた。 日本プロレタリアートとの共闘と一般市民の共鳴、これこそ、全学連の学生達が絶えず願っていた理想の状態だったのである。
行雄は一歩一歩あゆむ自分の足に、力と躍動を感じながら行進していった。 そしてシュプレヒコールに合わせて、天に届けとばかり叫び声を上げた。「岸内閣を倒せーっ!」「安保条約 フンサーイ!」「国会 カイサーン!」「われわれは 最後まで闘うぞーっ!」
行雄にアナーキズムを唱導した瀬戸山史子が、いつでも良いからぜひ遊びに来てと誘うので、六月十日の夕刻に彼女の家に初めて行くことになった。 その日は、全学連主流派の集会とデモは早く終ったので、行雄は京浜東北線の蕨駅で降りると彼女の家に向った。
このところの安保反対闘争で忙しく、行雄はアナーキズムの研究をほとんどしていなかったので、この前の笹塚と三人でしたような“しち面倒臭い”話しは嫌だなと思いながら、彼は瀬戸山の家に着いた。
玄関に入るやいなや、史子が興奮しながら一方的に語りかけてきた。 「いま大変なのよ。 反主流派のデモ隊が、アイゼンハウアーの新聞係り秘書のハガチーを、羽田空港で閉じ込めてしまったんですって!」
行雄も驚いて、二人ですぐにラジオ、テレビのニュースを聞くことにした。 状況は刻々と変化していたが、アイゼンハウアー米大統領の新聞係り秘書のハガチー氏は、アイク(アイゼンハウアーの略称)訪日の事前調整のため、この日午後四時前に羽田空港に到着した。
そして、マッカーサー駐日大使と車に乗り込んで空港を出ようとしたところ、全学連反主流派の学生や労働者のデモ隊に阻止され、一時間以上も立ち往生しているということだ。 デモ隊は投石したり、ハガチー氏の乗った車の窓ガラスを割ったりして「ハガチー、ゴーホーム!」「ドントカム、アイク!」などと喚声を上げている。
そのうちにアメリカ海兵隊の大型ヘリコプターが、一行の車のすぐ側に着陸に成功し、ハガチー氏らを乗せてようやくアメリカ大使館へと運ぶことができた。 ニュースで事態の進行を追っていた行雄と史子はともにショックを受けた。
それと言うのも、反主流派のデモは主流派に比べていつも大人しく、このため主流派の学生は彼等のことを「憶病者」「腰抜け」と罵倒し、彼等のデモを「お焼香デモ」と呼んで軽蔑してきたのだ。
その反主流派の学生達が、いま岸内閣が最も重要視しているアメリカ大統領の訪日計画に対し、極めて効果的な妨害活動を実行したのである。 行雄は思わず叫んだ。「やられた! あいつらに先にやられたんだ!」 史子も同感だと言わんばかりの顔付きをした。
この「ハガチー事件」は、全学連主流派に属する多くの学生達を刺激したことは間違いない。 反主流派に先を越されたという思いが、自分達もなんとかしなければならないという、切羽詰まった焦燥感へと駆り立てていったようだ。
一方、政府・自民党もこの事件に大きな衝撃を受けた。 アイク訪日は、日米新安保条約成立の最高のセレモニーであり、“日米新時代”を象徴する画期的なイベントだったからである。 不穏な情勢の高まりで、アイク歓迎を打ち出していた政府・自民党の周辺に、訪日延期や慎重論がささやかれる事態となってきた。
ところが、アイク訪日中止の運動を展開していた社会党は逆に動揺し、六月中旬の中央執行委員会で「国賓として来日するアイゼンハウアー大統領を、全国民一致して歓迎しよう」と決定し、方針を百八十度転換してしまった。 このように「ハガチー事件」は、政界その他に大きな動揺と混乱を引き起こしたのである。
新安保条約が自然承認される六月十九日が近づくにつれ、全学連の学生達は焦りと苛立ちを強めていった。 漫然としたデモを、毎日やっているだけでは駄目なのである。日本の歴史に残るような壮烈な大闘争をやらなければ、事態は何も変わらないだろう。 そうした気持が、全学連の幹部だけでなく一般の学生達の中にも広がりを見せていた。
そして、六月十五日。 この日は、安保改定阻止国民会議の統一行動日であった。未明から国労、動労が先頭に立ってストライキに入り、総評の発表では百十一組合、五百八十万人の労働者が闘争に参加したといわれる。 これまでにない最大規模の統一行動であった。
この日は朝からどんよりした曇り空であった。 全学連主流派の学生約七千人は午後、国会正門前で集会を開いたあと、国会の回りを二周デモ行進してから南通用門前に集結した。午後五時頃であった。
それより一時間ほど前、新劇人や作家、一般市民らがデモ行進しているところへ、右翼の「維新行動隊」が車二台で突入、釘のついた棍棒で殴りかかり八十人の負傷者を出した。 この流血事件の情報が伝わると、学生達は興奮し憤激した。
行雄は通用門脇の土手に上り国会の構内をのぞいてみると、青いヘルメットをかぶった機動隊員が、めずらしく手に投石防止用の楯を握って整列していた。 警察側の警備も今日はいつもより厳重に見え、彼は不気味な気配を感じた。
南通用門前の集会は、右翼の襲撃があったことで一段と殺気だってきた。全学連のリーダー達が次々に演説を始め、右翼襲撃などを非難した。 今日は国会に突入する! 行雄はそう直感した。はたせるかな、北小路敏全学連委員長代行が激烈なアジ演説を行ない、最後に「われわれは国会構内に突入し、大抗議集会を開こうではないか!」と結んだ。
「異議なーしっ!」「国会に突入せよーっ!」「われわれは 闘うぞーっ!」 学生達の喚声が湧き上がる。国際学連の歌などが響きわたり、シュプレヒコールが起きる。南通用門付近はにわかに騒然となり、行雄は身が引き締まるのを覚えた。
夕暮れが迫り小雨が降り出してきた。辺りに重苦しい空気が地をはうように淀んでいる。 明治大学、東京大学、中央大学の学生達が、通用門の扉を揺すったり、ペンチで扉の有刺鉄線を切断しているのが見えた。
時々、学生達の投げる石が、構内の機動隊の群れの中へ飛んでいく。警察側から警告を発するマイクの声が、スピーカーを通してやかましく繰り返される。 学生達は通用門の扉を引き倒そうとしていた。構内から激しい勢いで放水が始まった。
しかし、学生達は通用門の扉を引き倒し、中にあったバリケード車にロープをかけて引きずり出した。喚声がどっと上がる。 それと同じ頃、土手の上に張り巡らされていた有刺鉄線も、学生達のペンチやノコギリで切断されていった。
前方のデモ隊が「ワッショイ、ワッショイ」の掛け声とともに進み始める。 またまた構内から物凄い勢いで放水が始まった。これに対抗して、石やビンが機動隊の頭上に飛んでいく。 やがて、東京大学の学生を先頭にして、デモ隊が国会構内に侵入していった。
行雄達のいる早稲田大学のデモ隊は中段に位置していたので、なかなか国会の中へ入れない。 苛立ちながら前進を続けていると、暫くして構内から「ウオーッ!」と叫ぶ機動隊の喊声が聞こえた。 機動隊が警棒を振ってデモ隊の先頭グループに襲いかかったらしい。
バシッ、バシッという音、ギャーッ、キャーッという悲鳴や地響きの鳴るような音が聞こえてきた。 機動隊の物凄い実力行使のようだ。先頭グループは警棒でめった打ちにされているようだった。 いったん構内に入ったデモ隊が、続々と通用門外に押し出されてきた。
「四機(よんき)にやられた!」「だいぶ、ケガ人が出てるぞ!」「もう一度、スクラムを組み直せ!」学生達のわめき声が広がる。 いつの間にか、けたたましいサイレンの音とともに、救急車がひっきりなしに駆けつけてきた。 前方のデモ隊から多数の負傷者が出ていたのだ。
四機とは第四機動隊のことで、警視庁の中で最も勇猛な部隊であり、常づね学生達から“鬼の四機”と恐れられていたが、その三千人が先頭のデモ隊に襲いかかったのだ。 負傷者の続出に、中段から後段に控えていた学生達は一様に憤激した。 ますます激しく石やビンが機動隊に投げ込まれていく。
この頃には夜の帳(とばり)がすっかりおりて、八時ぐらいになっていただろうか。取材に来ていたテレビなどのライトが、眩しいほどに光を放っていた。 デモ隊は再び隊列を整えて、じりじりと前進を始める。
しかし、思ったほど前に進まないので、行雄達は我慢がしきれず、寸断された土手の有刺鉄線を乗り越えて国会構内になだれ込んだ。 それとほぼ同時に、南通用門から再び学生達が構内に侵入してきた。
やがて国会中庭で、約四千人の全学連主流派による抗議集会が開かれることになった。 全学連のリーダーが次々に演説を始めた。「われわれは、ついに国会構内での大抗議集会を勝ち取ることができた! われわれはここで、岸内閣の即時退陣、安保条約自然成立の無期延期、アイゼンハウアーの訪日中止を決議しよう!」 「異議なーしっ!」の喚声が上がる。
リーダーはここで声を低めて、次のように報告した。「悲しい出来事が起きました。先程の機動隊の弾圧により、女子大生一人が死亡しました」 一瞬、学生達の間に沈黙が支配した。
リーダーはさらに続ける。「ほかに数人、重体の学生も出ており、死亡者がさらに増えるかもしれない。 われわれは、このような国家権力・機動隊の暴力を絶対に許すことはできない! 名前はまだ分からないが、亡くなった女子大生のために一分間の黙とうを捧げたい。 機動隊の諸君も人間なら、鉄兜をとって黙とうしてもらいたい!」
女子大生死亡の報告は、学生達の心を揺さぶった。「人殺し!」「人殺し!!」「鉄兜をとれ! とれっ! とれっ!!」 興奮して逆上した学生達は機動隊に詰め寄った。しかし、機動隊員達は罵声にじっと耐えるように、表情一つ変えず押し黙っている。 雨に濡れたそのヘルメットだけが、テカテカと不気味な光を放っている。
黙とうが始まった。 同志の女子大生が亡くなったのだ・・・行雄は込み上げてくる涙を抑えることができなかった。まわりの学生の中からも、すすり泣きの声が漏れてくる。行雄の頬を涙がこぼれ落ちた。
黙とうが終ると、リーダーが叫んだ。「われわれは、こんな所で集会を開くことには納得できない! 国会の正面までデモ行進し、そこに座り込んでさらに抗議集会を開こうではないか!」 学生達は気を取り直したように、再びスクラムを組んでデモ行進に移ろうとした。
その時。 それまで微動だにせず沈黙して立ち尽くしていた機動隊が、一斉に実力行使に出てきた。 「かかれーっ!!」「つっこめーっ!!」「全員検挙!!」 機動隊の黒い塊が殺到してくる。警棒が“唸り”をあげて、学生達の頭上にめった打ちに降りそそぐ。 バシッ! バシッ! バシッ!!
その実力行使は、行雄がこれまで一度も体験したことのないほど凄まじいものであった。 機動隊の怒りが爆発したのだ。「やめろーっ!」「助けてくれーっ!」 学生達の悲鳴が上がる。 頭や顔を血だるまにして倒れる者、腹を蹴り上げられてうずくまる者、逃げ遅れて捕まる者など、学生達はパニックに襲われた。
まるで地獄である。 行雄は必死になって逃げた。無我夢中で、学生の群れの中に身体を押し込んでいった。 四千人の学生が南通用門へと排除されていく。狭い門に彼等が殺到したので、ほとんどの人は“ふんづまった”ように身動きが取れなかった。
後方ではなお、怒りと憎しみに燃えた機動隊が、この時とばかり一人一人の学生を叩きのめしている。 物凄い熱気と人いきれ、人体の重圧で、“そこに”空気があるのに、行雄はほとんど呼吸をすることができなかった。
そういう状態が二分も三分も続いただろうか、窒息したようになって南通用門から外へ“吐き出される”と、行雄は初めて「助かった!」と思った。 何度も深呼吸していると、「四人、殺されたらしい」「いや、八人だ!」といった噂が飛び交っていた。
以前にも増して、救急車が引っ切りなしにやって来て負傷者を収容していく。 一体、この先どうなるのだろう。不安が胸をよぎるが、考えても仕方がない。 行雄達はもうスクラムも組まず、他の学生達の一団と国会の正門の方へ向った。
正門前では、警察のトラックが次々に放火されて炎上していた。 凄い光景だと思いながら、チャペルセンター前の路上に来て、仲間達とこれからどうしようかと話し合うが、一向に良い考えが浮かばない。 誰かが携帯ラジオを聞きながら、右翼が後方から襲撃してくると言い出す。
それではもう一度、国会正門付近へ行ってみようかと行雄が提案すると、顔見知りの女子大生が、恐怖におびえた表情で彼ににじり寄ってきた。 彼女の暖かい脚のぬくもりを肌に感じると、行雄は動こうにも動けなくなった。
みんな怖いのかと思っていると突然、国会正門の方からパパーン、パーンという破裂音が聞こえた。 誰かが「催涙ガス弾だ!」と叫んだ。白い煙りが辺りに立ち込めてくると同時に、行雄は目頭がじーんと痛くなり“くしゃみ”が出た。初めて味わう催涙ガスだ。
学生達が浮き足立つのも束の間、「ウォーッ!」という喊声を上げて、国会正門内から警棒を振りかざした機動隊が一斉に襲いかかってきた。「逃げろーっ!」 学生達は一目散に逃げ始めた。
有楽町方面へ逃げていくと、ちょうど取材に来ていた某テレビ局のカメラマンが、脚立を持ち上げて行雄の脚をおもいきり払った。 彼はつんのめって倒れそうになったが、この野郎と思い、振り返ってそのカメラマンに立ち向っていこうとした。
しかし、すぐ背後から機動隊が追いかけてくる。 仕方がない、そのカメラマンに怒りを覚えながらも、行雄達は逃げに逃げた。 どこまで逃げたか分からなかったが、とある街角まで来ると、腕章をまいた中年風の新聞記者が近づいてきた。
彼は「君達、タクシー代がなければ使っていいよ」と言って、五百円札を差し出してくれた。 地獄に仏とはこのことだ。行雄達はその新聞記者に深々と頭を下げて御礼を言うと、五百円札をいただき、タクシーに乗って高田馬場へと逃げた。 その晩、行雄はクラスメートの橋本敏夫の下宿先に転がり込むと、打ち続く疲労と安堵感からぐったりと眠りについた。
翌朝、早稲田大学へ行ってみると、キャンパスは昨日の流血の大事件で騒然としていた。昨夜死亡した女子大生は、東京大学の樺(かんば)美智子さん(22歳)だということが分かり、また一千人以上の学生、市民らが負傷したということだった。逮捕者は百八十二人に達したという。
樺美智子は、東大文学部国史学科の学生でブント(共産主義者同盟)の一員であり、一月の岸首相訪米阻止羽田闘争の時にも逮捕されたことがある活動家であった。(彼女の死因は、胸と腹の圧迫による窒息死か、右手による扼死の可能性が高いと言われたが、東京地検は後日、窒息死と認定し、傷害致死の疑いはないと発表した。)
文学部の自治会室をのぞくと、樺美智子の親友だという国文科の藤原知恵が、目を真っ赤に腫らして“なにやら”喚いている。 昨日、一緒に国会構内に入りながら、離ればなれになっていた学友が「よう、村上君。君は無事だったか」と言って、握手を求めてきた。
間もなく大隈講堂で、全学緊急総決起大会が開かれるというので、講堂に行ってみると既に超満員の学生ですし詰め状態になっており、場内は熱気ではち切れんばかりの雰囲気だった。 憤激と興奮の様子が、学生達の表情からありありと読み取ることができる。
やがて二、三の学部の自治会リーダーが次々に、昨日の流血事件の報告や、岸内閣と警察権力の弾圧に激しく抗議する演説を始めたが、学生達はこれ以上じっとしていられないという感じで、怒声や喚声を張り上げた。
「国会へデモだーっ!」「岸内閣をぶっ倒せーっ!」「早くデモに出発しろーっ!」「アイゼンハウアーの訪日を中止させろーっ!」「異議なーしっ!」 騒然とする中で、集会はあっけなく終ってしまった。学生達はわれ先にとデモ行進に参加していく。
行雄は、今までに会ったこともない学生とスクラムを組むことになった。しかし、両脇の見ず知らずの学生が、これほど親しく感じられたことはなかった。 この六月十六日、早稲田大学から四千人以上のデモ隊が、延々と国会への道を歩んでいった。
「学生の歌声に 若き友よ手をのべよ 輝く太陽 青空を 再び戦火で乱すな われらの友情は 原爆あるも断たれず・・・」 国際学連の歌が高らかに響きわたり、シュプレヒコールが期せずして湧き上がる。
これほどまでに盛り上がった学生デモを、行雄は見たことがなかった。一般の学生がこれほど多く参加してくれるとは・・・彼は感動で胸が一杯になった。 いま、一般学生と連帯し行動しているのだという実感が、心の底から込み上がってくるのだ。
国会周辺に着くと、何万という無数の学生達のデモ隊が渦巻いていた。「岸を殺せーっ!」「人殺し警官を やっつけろーっ!」「安保フンサーイ!」「われわれは 闘うぞーっ!」 それはシュプレヒコールと言うよりも怒号の“嵐”に近かった。学生達の憤怒と闘志が満ちあふれていた。
デモ隊は、昨日流血の惨事を引き起こした国会南通用門に達した。 門の前では、死亡した樺美智子の遺影が粗末な木机の上に置かれ、多くの花束が捧げられていた。 学生や労働者、一般市民が次々に焼香している。
しとしとと降る雨に濡れて、樺美智子の遺影が悲しげにこちらを向いている。ふっくらとしたその面影を見ていると、行雄はふと、前年に皇太子と結婚した美智子妃殿下のことを思い出した。 同じ美智子さんでも、ずいぶん境遇が違うものだと思った。
デモ隊は国会の周囲を延々と行進していく。どのくらいデモ行進しただろうか・・・誰かが叫び声を上げた。「アイゼンハウアーの訪日が中止になったぞーっ!」 喚声と拍手が一斉に湧き上がった。 そして、それが津波のように何千、何万という人々に広がっていった。
アイク訪日中止を知った時、行雄はアメリカにいる敦子のことを思い出した。 彼女にこの前、「何が起きるか予測もつかない状況」だと手紙に書いたことを思い出し、そら見ろという気持になった。彼は自分の推測が当たったことを敦子に誇りたかったのだ。
六・一五国会突入事件とアイク訪日中止は、国際的なトップニュースとして世界中に報道された。「東京暴動」という見出しが各国の新聞の一面を飾り、ソ連のフルシチョフ首相や中国の毛沢東主席までが関連のコメントを出す始末であった。 当時の共産圏にとっては、アメリカと日本が“傷ついた”ことは痛快な出来事だったのだろう。
特に毛沢東は六月二一日、中国を訪問中の日本人文学者代表団と会見した際、安保闘争を高く評価するとともに「樺美智子さんは、日本民族の英雄として、全世界にその名を知られるようになった」と述べた。
中国では五月初旬から、日米新安保条約に反対する大規模なデモが行なわれていたが、六・一五事件をきっかけにして、ビルマ(現在のミャンマー)、インドネシア、インド、北朝鮮、イタリアなどでも安保反対の抗議デモが繰り広げられた。
こうした事態を最も深刻に受けとめたのは、もちろん岸内閣である。 アイク訪日を“延期”(実態は“中止”)せざるをえなくなった岸内閣としては、もはや安保闘争への治安と警備に自信を喪失していた。 闘争の未曾有の拡大は、警察の警備力だけで取り締まるにはとても無理であることが明らかになったのである。
そこで議論になってきたのが、自衛隊に“治安出動”をさせるかどうかということである。 閣内や自民党の中から、自衛隊の出動を求める強硬な意見が相次いで表れてきた。 六・一五事件の後、新安保条約が自然承認される十九日午前零時に向けて、日本国内は極めて切迫した状況となってきた。
十六日夜、日比谷の野外音学堂で、樺美智子追悼大集会が開かれた。 アイク訪日中止などの“戦果”が報告されたが、行雄達にとって、そういうことはもう大したことではなかった。 十九日までに、全学連がどのような決定的な最終闘争を行なうかに関心が集中していたのである。
全学連は再び国会に突入するのか。もう一度、英雄的な流血の大闘争を起こして、その後の日本社会主義革命への展望を切り開くことができるのか。 行雄達は、決定的な時期が到来していることを予感していたのである。
翌十七日、左右両極による暴力主義の台頭を危惧してか、七つの大新聞社が「暴力を排し、議会主義を守れ」という共同宣言を発表した。 政界、労働界だけなく、マスコミも明らかに全学連の“暴走”を恐れていたのである。 一方、日本に来れなくなったアイゼンハウアー米大統領は、訪問先のフィリピンのマニラから台湾へ向うことになった。
十七日は平穏に終り、運命的な六月十八日がきた。 行雄は、今日一日しかないという思いを新たにしデモに参加した。今日は何が起きてもおかしくはないと覚悟しながら、国会へデモ行進すると、想像を絶する人、人、人の波であった。 この日、三十万人を超える史上空前のデモ隊が国会や首相官邸を包囲した。 警備に当たる警官隊は、国会や官邸の構内に閉じ込められたように逼塞している。
「安保条約 フンサーイ!」「岸を倒せーっ!」「国会 カイサーン!」 湧き上がるシュプレヒコールは遠雷のようにとどろき渡り、初夏の空気を揺るがすようであった。 あまりの人の多さと混雑で、デモをしようにも行進することができないほどだ。
それでも全学連主流派のデモ隊は、国会周辺を回るようにしてジグザグ行進を始めた。その数は何万人に達しているのだろうか。 国会に突入しようと思えば、六月十五日の時より容易にできるだろう。しかし、デモ隊はジグザグ行進を続けるだけである。
一体いつになったら、全学連は決定的な行動を起こすのだろうか。 全学連の指導部は何を考えているのだろうか? 行雄の脳裏に一抹の疑惑がかすめる。このままデモ行進しては、座り込みを続けるだけなのだろうか。 時間だけが刻々と過ぎていく。
全学連が国会や首相官邸に突入すれば、自衛隊が出動してくるとか、右翼が国会や議員会館に放火するとか、いろいろな噂が学生達の間に広がってきた。 教え子達の身の安全を心配する大学教授団が、国会突入などは思いとどまるように学生達の説得に乗り出したという情報も伝わってくる。
時間だけがどんどん過ぎてゆき、夜になって、学生達はデモ行進を止め座り込みに入った。 しかしこの後、全学連指導部からは何の指示もない。ただ漫然と座っているだけだ。こんなことでいいのか! 行雄は心の中で叫んだ。そして、周囲の学生に「今日は国会に突入しないのか」と話しかけたが、誰も黙ったまま返事をしなかった。
時間だけが確実に、空しく過ぎていく。 そして、六月十九日午前零時。何も起きなかった。 人々は息を詰めて、その時を、ただじっと待っていたかのようであった。夜空の“うつろ”な空間の中で、日米新安保条約は自然承認されたのである。(以下の続きは、第93項目で連載していきます。)