青春流転(その3)

10)アナーキズム

 六月二三日。 日米新安保条約が、両国の批准書交換によって発効した。同じその日、岸信介首相も臨時閣議で「人心を一新し、政局を転換するため」退陣の決意を表明した。 これを機に、史上空前の規模で行なわれた安保反対闘争は、ようやく収束されていくのである。

 七月に入ると初旬に、全学連の第十六回全国大会が東京で開かれたが、日共系の反主流派は大会をボイコットし、独自に全自連(全国自治会連絡会議)を結成、全学連は事実上分裂した。

 また主流派内部でも安保闘争の総括をめぐって、闘争を高く評価するグループと、これを敗北と見るグループに分かれ、総括論争は混迷を深めていった。 そして、安保闘争を終始リードしてきたブント(共産主義者同盟)は三つの派に分裂し、事実上“解体”していくことになる。

 こうした左翼学生戦線の混迷の中で、行雄はむしろ解放感に包まれながら、マルクス主義とアナーキズムの研究に没頭していくことができた。 一方、彼が属するマル学同(革共同系)は、社学同(ブント系)のことを“プチブル急進主義”とか一揆主義(ブランキズム)と批判してきたから、ブントの解体は歓迎すべきことであった。

 連日の集会やデモから解放されて、行雄はゆとりを持って革命思想を勉強していくことができた。 彼にとっては、安保闘争が勝利だったか敗北だったかという議論は、どうでもいいように思われた。 むしろ、これからの日本社会主義革命への展望を、どのように切り開いていけるかということに関心があったのである。

 梅雨も終り夏休みに入ると、全学連の学生達は「ふるさとでの民主主義」を合言葉にして、安保反対の決意も新たに“帰郷運動”を始めた。 夏休みの大学キャンパスは、日ごとに蒸し暑くなる中で、一ヵ月前のあの安保闘争の熱気がまるでウソのように、けだるい静けさに包まれていた。

 行雄はマル学同派の勉強会や集会に絶えず出席していたが、マルクス主義かアナーキズムかという重大な選択を迫られていた。 従って、笹塚健一や瀬戸山史子とも毎日のように会って、アナーキズムについても議論を交わしていた。

 ある時、瀬戸山が「村上さん、せっかくの夏休みだから、少し旅行でもしてみません?」と誘いをかけてきた。 笹塚も「村上君、彼女は君とちょっとした旅行をしたがっているようだよ」と鎌を掛けてきたが、行雄は断った。

「僕は、安保闘争で高校の修学旅行もボイコットしたくらいなんだ。 いまはマルクス主義かアナーキズムかで、頭の中が一杯なんだよ。 旅行なんか、とても行く気になれないね」 行雄がそう答えると、二人は笑い出した。「村上さんは真面目なのね。どうして、そんなに真面目なんでしょう」瀬戸山が半ば呆れたような顔付きをして言い添えた。

 そのうちに、笹塚らが「反逆の砦」というパンフレットを作るから、行雄にも協力して欲しいと言ってきた。 このパンフレットは、アナーキズムだけを唱道するものではないというので、行雄も彼等と一緒にそれを作ることになった。

 何を書いても良いというので、「反逆の砦」第一号に行雄は、ロジェ・マルタン・デュ・ガールの小説「チボー家の人々」に登場してくる、ジャック・チボーを批判する小論を書いた。

 社会民主主義者で、第二インターナショナルを信奉していた誠実な青年・ジャックが、第一次世界大戦を前に最後まで反戦を訴えながら死んでいく姿は、極めて崇高で感動的なのだが、彼の限界は暴力革命主義者になりえなかった所にあると論じた。

 行雄はジャックのような青年が好きだったから、彼の人道主義的限界だけを指摘することで満足していたが、笹塚は、こんな小論では少しも面白くないと不満を漏らした。 なぜ不満なのか行雄がいろいろ質してみると、要するに笹塚は、マルクス主義を真っ向から批判して欲しいと望んでいることが分かった。

 彼はアナーキストだからそう思っているのだろうが、マルクス主義を越える魅力が果たしてアナーキズムにあるのだろうか、と行雄は疑問を感じた。 無政府共産主義だとか無政府集産主義だとか、ユートピア社会の理想像はマルクス主義とほとんど変わらないではないか。

 ただ、アナーキズムの場合は、革命を通しての自由の尊重、前衛党の否定、労働組合を母体とする自由連合の思想があるだけだ。 そうした思想が、革命を遂行していく段階で本当に有効なのだろうか。 鉄の規律を持つ前衛党こそ、ロシア革命の成功でも分かるように必要なのではなかろうか。

 自由の名のもとに、自然発生的な無原則な組織体で、果たして反動の攻撃から革命を守ることができるのだろうか。労働組合の直接行動、つまりゼネストだけで革命の展望を切り開くことができるのだろうか。 

 確かにプロレタリアートの独裁という思想は、前衛党の独裁にすり替えられる危険性が十分にある。 ソ連においては正に共産党の独裁となり、スターリンの独裁に転化してしまったのだ。 しかし、それを防ぐためには、まず前衛党のあり方を問題にしていくべきであり、いきなり前衛党そのものを否定してしまって良いのだろうか。 行雄にはいろいろな疑問が湧いてくるのだった。

 革命を推進していく主体は自由連合組織か、それとも前衛党なのか。 いくら考えても、行雄には正しい答えは分からないのだ。 結局、この問題は、革命を行なう者の“価値判断”にかかってくるのではないだろうか。

 あくまでも自由を尊重する者はアナーキズムを掲げれば良いし、革命のために手段を選ばないとする者は、前衛党による規律ある行動の方が、革命の達成のために有効だと考えるだろう。 目指す社会の理想像については、マルクス主義もアナーキズムも大して変わりはないのである。 究極的には、双方とも国家の廃絶を目指しているのだ。

 行雄には問題が多くあり過ぎて、どちらの思想や革命理論の方が正しいのか、にわかに結論を下せる状況ではなかった。 双方の思想や理論をじっくりと研究していくしかないと思った。

 夏休みに入って、マル学同などの各セクトは夏季理論研修会を始めたが、行雄は、マルクス主義かアナーキズムかの選択を客観的な見地から行ないたいと思い、マル学同の研修会への参加を取り止めた。

 八月の上旬になって、森戸敦子がアメリカでの一年間の留学を終えて帰国した。 久しぶりに敦子に会えると思うと、行雄は懐かしさに胸が弾んだ。 一年前の彼女とのやるせない別れの思い出が、彼の脳裏に鮮やかに蘇ってくる。敦子の憂いを漂わせた青白い顔が、行雄の目頭にこびりついて離れない。 早く彼女に会いたいという気持で一杯になった。

 今は横浜に転居している森戸敏子が、娘の敦子を連れて行雄の家に帰国の挨拶にやって来た。 敦子を一目見て行雄は驚いた。色白でやや神経質な感じだった彼女が、日焼けした顔をほころばせて健康そうな様子をしていた。 それに、膝頭が見えるほど短いスカートをはいており、小麦色に焼けた彼女の両脚が妙に肉感的に見えて彼を戸惑わせた。

「やあ、しばらく。日焼けして元気そうだね」「ええ、水泳をしていたので黒くなってしまったわ」 敦子が生き生きとした表情で答えるので、行雄は青白い顔をした自分を意識して、彼女が“まばゆく”見えて仕方がなかった。

 行雄は早速、この一年間の自分の体験、全学連や安保闘争のことなどを一気に話し始めた。 すると、敦子は面白くなさそうに顔を伏せて黙り込んでしまった。いかにも詰まらない話しだといわんばかりに、彼女はろくに行雄の方に顔を向けなかった。 一年前の敦子とは、あまりに違っているのだ。

 彼女は大儀そうに脚を組んだり、指先を小刻みに動かしている。 そのうちに、彼女の膝から奥へと日に焼けた太股がチラリと見えたりすると、行雄は一瞬、心臓がちじみ上がるほど気持が動転した。

 敦子は、彼の話しにまったく関心を示さなかった。興味を示すどころか、もううんざりという素振りであった。 これがあの敦子なのだろうか。アメリカへ行くと、こうも変わってしまうのだろうか。 以前の彼女なら、行雄が政治問題のことを話していても、澄んだ瞳をまじろぎもせずに聞き入っていたというのに、まるで別人のようではないか。 行雄はがっかりした。彼はもう“むき”になって、革命の理想に生き、そのために死んでいく自分の使命を一方的にしゃべりまくった。

 話しを続けているうちに、行雄は空しさを感じた。 敦子はもう、彼が心に描いていたような“少女”ではなくなっていたのだ。純真で無垢なイメージの敦子は、今ここにいる女性とはまったく別人の過去の存在になってしまったのだ。 やがて彼女はようやく口を開いた。

「私はあなたの言うことが、全然分からないわ。 あなたはマルクス主義やアナーキズムのことなどを随分勉強しているようだけど、私はそうしたことには関心がないの。 私はアメリカに一年間行って、自分でもとても変わったと思うわ。それはいろいろな人に会ったからなの。

 あなたも、もっと多くの人と付き合っていかなければならないと思うわ。あなたの話しを聞いていると、ごく限られた人達とだけ交際しているみたい。それも、学生運動をしている人達だけという感じね。 世の中には、もっといろいろな考えを持っている人が大勢いるはずだわ。そうした人達とも、もっと率直に話し合っていかないと過ちを犯すと思うの。

 私達はまだ未成年だし、社会や外国のことなど、まだ分からないことが沢山あると思うわ。 あなたはさっきから、革命、革命と言っているだけで、とても限られた立場にしか立っていないみたい。もっと多くのことを勉強していかないと、本当に社会を良くすることも、他人を幸せにすることもできないと思うわ」

 敦子にお説教をされた形になり、行雄は反論するしかなかった。「僕は僕なりに勉強してきたんだ。 そして、今の社会は良くないという結論に達したんだ。この社会を変革するかしないかは、人それぞれの立場で違ってくるだろう。

 君が今の資本主義社会でいいと言うなら、もう君とは話し合っても無駄なことになる。君は君の好きなようにすればいい。 僕はあくまでも、革命の道を進んでいくだけだ。 もうこれ以上、話すのは止めよう!」 行雄は不愉快になって話しを打ち切った。一年間の別離が、二人の間にこんなにも深い溝をつくってしまったのだろうか。

 敦子は暫く黙っていたが、低い声で話しを継いだ。「私は、みんなより一年遅れているの。 アメリカへ行ったことは勉強になったけれど、来年の春には、大学に入らなければならないわ。そのために、これから受験勉強もしなければならないし・・・」

 留学はしたけれど、一年遅れてしまったことを告げられて、行雄は敦子の立場を少しは理解する気持になった。 「横浜に引っ越したので、これからあまり会えなくなるね。でも、東京あたりでたまには会って欲しいな」 行雄がそう言うと、敦子はこれには素直にうなずいた。

 この後、行雄はいくらか気持を変えて、できるだけ敦子の気分を害さないように話しを進めていった。 アメリカ留学の話しを聞いたり、お互いに家族のその後を語り合ったりして、差し障りのない会話を続けた。

 ふと、一年前の今頃、この部屋で敦子の手を握り、ぎごちなく抱いた時のことを思い出した。 それが脳裏に浮かぶと、行雄はやはり彼女に魅力を感じるのだった。アメリカナイズされたような所が少し癪に障るが、敦子は一年前より、確かに女らしく成長している。

 彼女は変わってしまったが、自分の方ももっと変わってしまったのではないか。革命や全学連を語ることなくして、今の自分はありえない。 敦子の方こそ、こちらの変貌ぶりに驚いているのではないか。そう思えばお互いさまではないかと、行雄は自分に言い聞かせた。

 敦子母子が、行雄の家族と夕食を共にしてから帰宅すると、彼は何か空しい気持に襲われ虚脱感に浸っていた。暫くは彼女とお別れだという思いが募った。寂しい気もするが、これは仕方がない。 自分には革命がある。いや、革命しかない。革命の大義に生きていくことが自分の道であると、悲壮な思いになるのだった。

 

 敦子に再会した後、行雄は気を取り直して革命思想の研究に没頭した。 特にアナーキズムについては、手当りしだいに文献を読んでいったが、ある日のこと、笹塚に勧められて大杉栄の著作を何冊か買ってきて読むことになった。

 最初に読んだのが、大杉の「自叙伝」と「正義を求める心」だったが、特に「自叙伝」に行雄は非常な感動と驚嘆を覚えた。 大杉栄の自由奔放な生き方、何ものにも拘束されない革命精神、自由な恋愛遍歴などが彼に衝撃を与えた。

 大杉の“生の拡充”と“生の闘い”を基本とする生き方は、正に人間精神の讃歌であり、またその精神の歌声でもあった。 そこには生の人間の叫び声があり、これほど“肉声”が伝わってくる革命家を行雄は他に知らなかった。

 個性豊かな大杉にとっては、前衛党の鉄の規律も小うるさい組織論も必要ではないのだ。 そんなものは、彼の燃えるような革命と反逆の精神にとって、むしろ邪魔なものになってくるのだ。 彼は一個の自由な人間として、その全生涯を革命のために捧げたのだが、それよりも、その自由で反逆的な生き方そのものが、結果的に社会革命運動へつながっていったように感じられた。 そういう意味で、大杉は天成の革命家であり、稀有の革命家であると思われた。

 また、彼の“人となり”は極めて魅力に富んでいたようで、女性に持てただけでなく、六カ国語以上の外国語を理解し、ファーブルの「昆虫記」を初めて邦訳したり、ダーウィンの「種の起源」などを翻訳していることも分かった。 幾たびも投獄されながら、これほどの文化的業績をあげていることは驚異であった。 行雄はたった半日で、大杉の熱烈な心酔者になってしまった。

 このように絶えず生を拡充していった大杉栄。 もし彼が、三十八歳で軍部に虐殺されずに長生きしていれば、こういう人間は自分の思想を絶えず乗り越え、アナーキズムにこれまでにない新境地を切り開いていたかもしれない。 行雄は大杉にそのような姿を見たのであった。 こんな革命家が日本にいたのかという鮮烈な思いが、行雄のその後の活動に大きな影響を与えることになる。

 一方、アナーキズム史などを調べていくうちに、行雄はロシア革命でアナーキスト達が数多く弾圧されたことを知った。 特に衝撃を受けたのは、一九二一年に起きたクロンシュタットの反乱にまつわるものである。

“ロシア革命の華”と言われたクロンシュタットの水兵達が、その年、ボルシェビキ政権に対し民主化や自由を求めて立ち上がったところ、トロツキーが指導する赤軍によって圧殺された事件だった。 クロンシュタットの水兵、労働者、市民達は自由コミューンを創って立ち上がったが、トロツキーらはこれを“山鳥の雛”を撃ち殺すように虐殺していったという。 この反乱事件に、アナーキストは直接関与していなかったと言われるが、事件後、数百人のアナーキストが逮捕され、何人かが銃殺された。

 この事実を知った時、行雄は大きなショックを受けた。 それまで偉大な革命家と思い尊敬していたトロツキーが、どうしてこのような弾圧を実行したのだろうか。 クロンシュタットの正当な要求をなぜ銃で圧殺したのだろうか。 彼等の活動をどうして「反革命」と断罪したのだろうか。いろいろな疑問が行雄の心に湧いてきた。

 当時、ロシアでは国内での反革命や経済破綻などで、誕生して数年のボルシェビキ政権が苦境に立っていたことは十分に分かる。 しかし、だからと言って、民衆の正当な要求を、反革命や西欧干渉勢力の共犯行為と断定して圧殺して良いものだろうか。 ボルシェビキは、自分の政権の安泰だけを望んでいたのではないのか。どう考えてもおかしいと、行雄は思った。

 レーニン、トロツキーらは革命の名において、真に革命的な民衆の運動を、ボルシェビキ独裁を守るために弾圧したと理解するしかなかった。 こうして、ツァーやケレンスキーを倒して勝ち取った偉大な革命の成果は、すでにボルシェビキ・共産党の手中に独占され、共産党だけが絶対に正しいという風にすり替えられていったのだ。

 共産党を守ることが革命を守ることだという、この決定的な“すり替え”はどこから生じたのだろうか。 それは、ボルシェビキ・共産党が国家権力を独占したからに他ならない。 これはプロレタリアートの独裁ではなく、ボルシェビキ・共産党の独裁だったのである。

 ボルシェビキ政権が赤軍の武力を必要としたのは、反革命や列強資本主義国家の干渉から革命を守るためであって、労働者、市民らの正当な民主的要求を圧殺するためのものではなかったはずだ。 プロレタリアート独裁ではなく、こうした共産党独裁が、後に革命を利用し、それを食いものにするスターリニズム官僚支配へと継承されていったのである。

 やがて、トロツキーがソ連から追放され、レーニンが夢想もしていなかった巨大な「社会帝国主義」の怪物が生まれてきたのは、レーニン、トロツキーらが自ら種をまいた共産党独裁の当然の帰結なのである。

 独裁は腐敗する。 民主的な分派活動も認めないような独裁体制の中から、スターリニズム官僚支配と一国社会主義理論が生まれてきたのであれば、ボルシェビキ・共産党の独裁に固執したレーニンやトロツキーは、もって瞑すべきである。 後にトロツキーは、スターリンによってロシア革命が裏切られたと言ったが、そうではなく、ボルシェビキ独裁によって、すでに革命は裏切られていたのだ。 行雄はそのように理解した。

 ロシアではアナーキズムの伝統が弱かったから、マフノー運動を除いて、アナーキストはそれほど力を発揮することができなかったようだ。 しかし、クロンシュタットの反乱後に、何百人ものアナーキストが弾圧されたことは、ボルシェビキが民主的で革命的なアナーキズムを、いかに恐れていたかという証しである。

 もっと自由が尊重され、民主主義が浸透していたロシアであったならば、またアナーキズムが根強く生きていたならば、革命はあのような結果にはならなかっただろう。 ツァーの独裁から、一転してボルシェビキの独裁、そしてスターリンの独裁へと革命が変質、歪曲されていくことはなかっただろう。

 わずか数日の研究ではあったが、行雄ははっきりとアナーキズムに傾倒していった。 もう騙されるものかと、心に誓った。そして、自分が一個のアナーキストになっていくことを自覚したのである。

 二、三日後に、行雄は高田馬場駅近くの喫茶店で、笹塚と瀬戸山に会った。今度は初めて、行雄の方から誘って二人に話しをすることになった。 彼はこのところのアナーキズム研究などの話しをした後、次のように自分の考えを述べた。

「人間の、個人の自由をあくまでも尊重しながら、革命を達成しようというアナーキズムの思想に、僕は心を打たれるものがあった。 これからは、完全に君達と一緒に行動していきたい。マル学同も近く辞めようと思っている」 行雄がそう言うと、二人は嬉しそうに微笑んだ。

「僕達はもう、アナ連と言って、日本アナキスト連盟に加入しているんだ。 今月の下旬にアナ連の大会があるから、君も良かったらぜひ参加してみないか?」 笹塚がすぐに誘ってきたので、行雄はそれに同意した。

「それは結構だ。早稲田にもこれからアナ連の支部を創るし、機関紙の『クロハタ』を配布していかなければならない。 君と一緒に作っている『反逆の砦』もどんどん出していこう。 九月になれば、全学連の池田内閣打倒闘争も始まる。そういう闘争に参加しながら、僕らはアナーキズムを広めていこう」 笹塚が張り切った口調で続けた。

 すると、瀬戸山も“どんぐり眼”を輝かせながら声を弾ませた。「嬉しいわ、村上さんが私達の運動に入ってくれるなんて。 安保闘争が終って、学生達はどこへ行けばいいのか、方向を見失っている感じよ。 ブントは、安保闘争の総括をめぐってガタガタになってしまったし、全学連は事実上分裂してしまったもの。

 私達がここで、アナーキズムの旗を高く掲げていけば、進歩的な学生達はきっと共鳴してくれると思うわ。 現に村上さんが私達の運動に参加してくれるんだから。新しい時代が始まるのよ、素晴らしいじゃない」

「いや、どうも。僕なんかにできることは小さいかもしれないが、一所懸命やるつもりだ。 安保の後、なにか白けた虚脱感のようなものがあったけれど、こうして無政府主義に目覚めることができて良かった。 また、やる気になってきたよ」 行雄は二人が喜んでいるのを見て、満足げに答えた。

 笹塚と瀬戸山はこの後、アナーキズム運動の中心になっている、某出版社の梅沢正之氏の所へ行こうと誘ってきた。 もとより行雄に異論はないので、その日の夕方、新宿区市ヶ谷にある梅沢の家を三人で訪れることになった。

 梅沢は三十歳を少し超えたばかりで、長身で眼鏡をかけており学究肌の人間に見えた。 物静かな語り口で話すのだが、アナーキズムへの信念には確固たるものを感じさせる何かがあった。派手さはないが、地味で誠実な人柄を忍ばせている。 日頃、なんでも知っているような態度を示す笹塚も、梅沢の前では謙虚な一学徒という素振りになっているのが、端から見ていて行雄にはおかしかった。

 そのうちに梅沢と笹塚は、近く開かれる日本アナキスト連盟の大会について事務的な運営の話しを始めたが、梅沢も行雄に対して、ぜひ出席して欲しいと言ってきたので、彼は大会に出ることを約束した。

 八月下旬のある日、横浜市内の某所で日本アナキスト連盟の大会が開かれた。 行雄は笹塚や瀬戸山と連れ立ってそこに出席したが、参加者は二十人程度の極めて小規模な大会であった。 大半は中高年の人達で、若い人といえば行雄達三人の学生と、他に在日韓国人の青年労働者が一人いるだけであった。

 こんなに若さに乏しい雰囲気ではあったが、行雄にとっては、新しい革命運動の原点がこの大会にあるような気がして、終始心地よい緊張感を持って議事の進行を注目していた。 大会の議長役を務めたのは梅沢で、彼が理路整然と、今後のアナーキズム運動の展望や課題を述べていった。

 しかし、アナ連の組織が微弱であるため、学生運動や労働運動の中にアナーキズムをいかに浸透させていくかという点については、明確な指針が示されていなかった。 要するに、この集いは“大会”と言うよりも、アナーキズム研究の“サロン”の延長みたいなものであった。

 今後、現実の運動の中にアナーキズムを浸透させていくのは、正に若い学生達に与えられた使命ということになり、行雄は九月の新学期から始まる全学連の行動の中で、アナーキズム運動を実践していこうという決意を新たにしたのである。

11)暗雲

 九月。行雄は大いなる希望を持ってこの月を迎えた。 夏休みを自分の故郷などで過ごした学生達が再び大学に姿を現わし、キャンパスに活気が蘇った。 そんなある日、大川勇が警官隊の警棒で殴られ、相当な重傷を負ったという情報が耳に入った。

 大川は三井三池炭鉱の労働争議を支援するため、七月末から福岡県の大牟田市に行っていたが、警官隊と衝突した際に警棒で頭皮を割られ、鼻硬骨を砕かれたというのである。

 三池争議は前年の十一月から始まったが、この労働争議は「総労働」対「総資本」の対決と言われ、第一組合、第二組合、警察、右翼などが激突し、死傷者が出る流血の大闘争となっていた。 当然、日本中の関心を集めていたが、全学連も第一組合を支援するため闘争に参加したのである。

 大川はこの三池闘争に参加して重傷を負い、東京に戻って新宿のK病院に入院していた。 行雄はそれを知ると、前々からマル学同退会の意思とアナーキズム運動への参加を報告したかったため、見舞いを兼ねて大川に会おうと思った。

 早速、K病院を訪れて大部屋にいる大川に面会すると、彼は頭や顔に包帯を巻いて痛々しい姿を見せていた。 いったい何ヵ月の重傷なのだろうかと、行雄は思った。いたわりの言葉をかけると、大川は黙ったままうなずくだけだった。 一瞬、行雄はアナーキズムの話しなどは止めようかと思ったが、彼にだけは正直なことを話さなければならない。

 どうしようかと躊躇していると、大川の方から意外に元気の良い声で「その後、どうしてるの?」と話しかけてきた。 行雄は気を取り直して、最近の自分の考えや行動を語り始めた。 話し出すと、行雄は大川の容態のことも忘れて一方的にしゃべり続けた。

 アナーキズムの研究のことから、マル学同を退会したい気持などを一気に話してしまった。 大川は黙って聞いていたが、行雄の話しが終るとおもむろに次のように答えた。

「村上君、君とはとうとう離れていくことになりそうだね。残念だなあ。 ブントの解体を見るまでもなく、安保闘争後、僕達学生左翼は理論的にも政治運動的にも、混迷状態に陥ってしまったね。

 しかし、だからと言ってマルクス主義を捨てて、すぐにアナーキズムへ移るという行動が僕には分からない。 君が言う大杉栄やバクーニンのことなど、僕はほとんど知っていないが、君はまだ十分にマルキシズムを消化したとは思えないよ、失礼だけど。

 君は、レーニンの組織論の中に、スターリニズムの萌芽があるように言うが、僕には絶対にそうは見えないんだ。 われわれ革共同の中に、そのようなスターリニズムの勃興がありえるとするなら、僕らは全力でそれを阻止し、根絶していくだろう。 官僚的な権力社会主義の腐敗については、僕らはいやと言うほど、歴史的にも現実的にも見てきたではないか。

 もし万一、黒田さんや本多さんが、そのような権力主義的方法論に陥ったとするなら、僕ら自身がそれを許さないだろう。 僕らだって、組織の単なる“歯車”ではないのだ。自覚した主体性のあるマルキストとして、革共同を担って生きているのだ。 君の話しだと、前衛党やプロレタリアートの独裁そのものまでが、悪で間違っていることになるが、それは飛躍し過ぎる議論ではないのかな」

 大川はこういう話しをしていると、元気が出てくるようだった。声の艶(つや)もいつもの彼のものであった。 行雄は何かほっとした気分になったが、すぐに反論していく。 そして、二人の応酬が続いた。

「いや、前衛党絶対や、プロレタリアート独裁の理論こそ間違っていると思う。 僕らだって、レーニンは偉大で誠実な革命家だと尊敬している。実際、僕はレーニンが大好きだ。 しかし、彼の『ボルシェビキ以外は全て革命の敵だ』と断定する考えが、自由で創造的なアナーキズム的革命精神を、圧殺してしまったのが歴史の現実ではないのか。

 だから、プロレタリアート独裁に名を借りた、ボルシェビキの一党独裁になってしまったのだ。 それが、さらにスターリンの独裁、官僚的な権力社会主義の定着、そしてソ連社会帝国主義の誕生となっていったのは、極めて自然な展開だったと思う。 レーニンという個人の偉大さ、純粋さはこの場合、前衛党絶対の“神話”とは関係のないことだよ」

「しかし、外国の干渉や国内の反革命という、極めて危機的な状況において、ボルシェビキ権力、それに赤軍がいなかったら、果たして革命を守ることができただろうか」

「それはできたと思う。 現に、アナーキストのマフノー防衛隊や、クロンシュタットの水兵らは、ロシア革命を守る上で最も勇敢に、また最も効果的に反革命と闘い、それを撃破したではないか」

「しかし、スペイン革命の時には、アナルコ・サンジカリストが参加した人民政府は、フランコの反革命を倒すことができなかったではないか」

「それは第一に、スターリンの裏切りによるものだ。そんなことは君だって知っているだろう。 それより、僕が言いたいのは、“現実的”という名のもとに、理想を放棄してしまってはいけないということだ。 前衛党に疑問があれば、たとえそれが革命のために最も有効だと考えられても、前衛党を認めてはならないのだ。

 手っ取り早く革命をやるには、軍隊組織のような前衛党があればそれが一番いいかもしれないが、その軍隊的な前衛党は、革命が成功した暁には、それを守る口実で民衆の正当な要求を平気で弾圧していくのだ。 ソ連の場合が正にそうだったではないか」

「そうじゃない。 ソ連の場合は、トロツキーらボルシェビキ民主派の力が弱かったからだ。彼等の力が強かったなら、スターリン一派に乗じられることはなかったはずだ」

「いや、そのトロツキーだって反民衆的だったのだ」 「君はトロツキーまで否定するのか!」 「否定すると言っても仕方がないね。彼はクロンシュタットのコミューンを弾圧し、ペトログラードのストライキも粉砕したのだから」

「それじゃ、もう話しにならない。君のペダンチックで妄想的な革命論議は、もう聞き飽きたよ。好きなようにしたまえ。 ただ一つ聞きたいのは、君は本当に革命を望み、それをやろうとしているのかね」

「それは勿論そうさ。 だから僕や笹塚らは、これから全学連の中にも同志を見つけ、アナーキズムを徹底的に浸透させていこうとしているのだ」 「君らが革命家というより、革命の“研究家”にならないことを願うだけだね。要は、革命への意志と情熱、パトスだよ」

「いや、パトスだけではない。あくまでも理想の追求だ。 出発点に間違いがあれば、事は成就しても後で必ず変質や歪曲、腐敗が出てくるのだ。 たとえ僕らの運動が空想的だと言われようとも、理想は大切にしていかなければならない」

 ここで、大川は暫く黙ってしまったが、やがて次のように語った。「分かったよ。君がいずれ、アナーキズムの個人の自由を元にした無原則性に気がついて、再びわれわれの所へ戻ってくることを期待するしかないね」

「残念ながら、そういうことはないと思う。 ただ勿論、われわれも全学連の行動には積極的に参加し、君達とスクラムを組んでやっていくつもりだ。そのことだけは、約束してもいい」

 二人が論じ合っているところへ、看護婦が大川の検診にやって来たので対話は途切れてしまった。 行雄は暫く大川の様子を窺っていたが、容態はあまり良くないように思われた。特に、鼻硬骨を砕かれた部分の回復が遅れているようで、後遺症になるかもしれないと心配になってきた。

 看護婦が去っていったので、行雄が言葉をかけた。「だいぶ傷が思わしくないようだけど、早く良くなってね。 君には随分お世話になったものね」 大川は少し苦笑いしたようだったが、包帯に隠れて顔の表情はよく分からなかった。

 この後、彼はポツリとつぶやいた。「痛いし疲れたよ」 行雄は意外な言葉を聞いた思いがした。 大川が弱音を吐くのを聞いたのは、初めてではないだろうか。行雄は返す言葉がなかった。彼は大川に別れを告げると、また見舞いに来るからと言ってK病院を後にした。

 病院からの帰り道、行雄は一年近く前に大川に誘われて、全学連のデモに初めて参加したことを思い出していた。 いつも毅然として男らしい態度の大川、小さい身体なのに機動隊にも勇敢に立ち向っていった大川、行雄は彼が好きだったし尊敬もしていた。

 自分に革命とマルクス主義を教えてくれたのは大川だった。 行雄はいつも彼を兄貴分と思っていたし、その親切で優しい気立てに心を惹かれていた。 その大川がいま、重い傷を負って入院しているというのに、自分は彼とイデオロギー、信念を異にせざるをえなくなったのだ。

 寂しくやるせない気持に襲われるが、それはやむを得ないことだと行雄は思う。 敦子から精神的に遠ざかってしまった時と同じような感慨を、行雄はいま大川に対しても抱いていた。 敦子と大川はまったく異なる存在ではあるが、彼にとっては二人とも気高い存在であることに変わりがなかった。

 この一年間、自分は絶えず二人を仰ぎ見てきたような気がする。 一方はAFSのアメリカ留学生、他方はマル学同の同志であったが、二人とも自分がとても到達することができないほど、優れた人間だと思ってきたのだ。

 しかし今や、行雄は敦子とも大川とも離れ離れになってしまった。寂しさが募るばかりである。 しかし、しかし俺は正しい、間違っていないと行雄は自分に言い聞かせる。 俺が選んだアナーキズムは正しいのだ、俺はそれに殉じていくしかないのだ。悲痛な思いに駆られながらも、彼は己の道を信じるのみであった。

 大川の見舞いをしてから数日後、行雄はマル学同(マルクス主義学生同盟)に対して脱退届けを提出した。 届け出の中に、十数項目にわたるマルクス主義批判の文章を書いたところ、マル学同でもちょっとした反響を呼んだらしい。

 最後となる会合に出席した行雄は、前衛党の問題などについて自説を述べ立てたが、議長役の本多延嘉氏は渋い顔をしたまま何も言わなかった。 ただ数人の学生達が、アナーキズムのどこが良いのかとしつこく尋ねてきたので、その応答に孤軍奮闘という形で終始した。

 その直後、行雄は笹塚らと一緒に作っている「反逆の砦」第三号に、マルクス自身の人物像を取り上げた小論を掲載した。 その中で彼は、「若い頃のマルクスは“大詩人”になることを夢見ていたが、結局それが果たせず、思想で世界を征服しようと考えるに至った。 しかし、マルクス本人は『私は決してマルクス主義者ではない』と述べている」と書いた。

 また、マルクスが娘の質問に答えた「告白」と題するエピソードを取り上げ、この中でマルクスが『好きな男性の美徳は強さ、好きな女性の美徳は弱さ』と述べていることから、「マルクスは女権の拡張を善しとしない“家父長的”な性格の持ち主だったようだ」と書いた。

 行雄が好き勝手に書いた「マルクス所感」は、笹塚や瀬戸山を大いに喜ばせたが、これを読んだ黒田寛一氏ら革共同(マル学同の上部団体)の人達は、「こんな文章を書くのは女だろう」と言って“けんもほろろ”だったという。

 

 九月中旬になって、行雄は笹塚らと協力して早稲田大学に日本アナキスト連盟の支部を創った。 また、日比谷野外音楽堂で開かれた全学連の集会に出て、アナーキズムを宣伝するビラやパンフレット、「反逆の砦」などを配布した。 アナーキズムという、戦後ほとんど普及していない革命思想の宣伝物を手にして、学生達はもの珍しげに目を通していた。

 行雄は小躍りするようにビラやパンフを配っていった。 アナーキズム活動がここに始まったという実感が胸に迫ってくる。彼は大川勇のことやマル学同、革共同のことは完全に忘れてしまって、一アナーキストとしての自分の運動に喜びを感じていたのである。

 しかし、岸内閣が退陣し七月に池田勇人内閣が誕生すると、日本の政治風土はがらりと変わってしまった。荒々しい政治闘争の季節が過ぎ去ったかのようである。 池田内閣は「寛容と忍耐」をキャッチフレーズにして“低姿勢”を売り物にした。

 そして「所得倍増」や「高度経済成長政策」といった、耳ざわりの良い政策を次々に打ち出してきたため、国民はほっと一息つくような状況になってしまった。 それまでの岸内閣が警職法改正問題から日米新安保条約締結に至るまで、一貫して強硬な政治姿勢を示していたのとは、大きな様変わりだったのである。

 このため、全学連が池田内閣打倒の決起集会を開いても、集まる学生はせいぜい三、四百人しかいなかった。 あの巨大な安保闘争が嘘だったかのように、学生のデモ行進は少人数で“みすぼらしい”ものとなってしまった。一般の学生はほとんど参加していないのである。

 相対的に警察の警備は勝ち誇ったように、厳しく力強いものに感じられた。 ジグザグ行進を始めようものなら、警官隊がどっとデモ隊に襲いかかり、学生達の膝を蹴り上げ拳を振った。 行雄達は何度も路上に押し倒されたり、突き飛ばされたりした。

 こんな状況が続いて、学生運動は大丈夫なのだろうか。不安が行雄の胸をよぎる。 一般の学生がそっぽを向いてしまったことで、全学連にも暗い秋の季節が訪れてきたように感じたのである。

 しかし、行雄はアナーキズム運動にますます力を入れていった。 彼は村田隆というペンネームを使って、アナ連の機関紙「クロハタ」に寄稿したり、大学構内でも積極的にビラやパンフレットを配って歩いた。

 活動の資金が欲しいので、梅沢氏の了解を取り付けた上で、笹塚らと一緒に昔マルキストだったという某競馬新聞社長を訪問し、アナーキズムこそ人間解放の理想的な運動だと説いて、何万円かの資金をせしめたりした。

 蕨市に住む瀬戸山史子の家にもしばしば足を運ぶようになった。 彼女はいつも行雄を誘うので、よく自転車に乗って訪れたが、二人でアナーキズムを宣伝するガリ版を刷ったりした。 瀬戸山も自分が書いたアジビラなどを見せに、時々行雄の家にやって来たが、彼が筆を加えると、アジビラなどの内容が一段と先鋭で過激なものとなった。

 瀬戸山は行雄に好意を持っていたようだが、ある時、彼女の書いたアジビラがあまりに平凡で温和な調子だったので、行雄が激怒し、こんなものでは到底左翼学生をオルグすることはできないと厳しく難詰すると、瀬戸山は顔を紅潮させ涙ぐんで帰っていった。

 最も過激で極端であること、それが人間の純粋さの証明だと行雄は思っていたから、テロについても時おり考えるようになった。 彼はロシア帝政時代にテロを行なったナロードニキ(人民主義者)の純粋さに惹かれた。 思想的にはまったく傾倒しなかったが、その革命的情熱と英雄主義に魅せられたのである。

 石川啄木の詩「はてしなき議論の後」に出てくる「されど、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、‘V NAROD!’と叫び出づるものなし」とか、「ココアのひと匙」に出てくる「われは知る、テロリストのかなしき、かなしき心を」などの文に感動し、ナロードニキの心情に思いを馳せるのだった。

 行雄は本来、暴力そのものは好まなかったが、虐げられた民衆を救うための暴力は“義挙”であると考えていた。 マルクス主義も革命的アナーキズムも暴力革命を肯定しているが、テロリズムについては否定的である。

 しかし、内外を問わず、昔のアナーキスト達はしばしばテロに走っている。それは止むに止まれぬ心情から、我が身を犠牲にして行なう義挙ではないのか。 ある時、行雄はそういう考えを笹塚に述べると、彼は言下に「そんなテロは、大衆運動から遊離した自己満足の行動でしかない」ときっぱり切り捨てた。

 それから笹塚、瀬戸山と行雄の間で、テロをめぐる論争が始まった。 明治天皇暗殺計画とされる「大逆事件」の評価をめぐって、行雄は天皇絶対主義体制の下ではやむを得ない面があったと主張したが、笹塚はテロを行なおうとすれば、無関係の人達も一網打尽に処刑される典型的な例だとして、テロリズムを否定した。

 瀬戸山はテロにやや同情的ではあったが、アナーキズムは大衆運動として発展させていくべきであり、暴発的な決起は運動にかえってマイナスになると述べ、基本的には笹塚の見解を支持した。 行雄の主張の中には、人間の心情に根ざした美意識的な要素が際立っており、大衆的なアナーキズム革命論からかけ離れているように見えた。

 結局、行雄は笹塚らの考えに同調せざるをえなかった。 自分の考えは、どちらかと言えば英雄的な“一匹狼”のものであり、大衆的な革命運動からは程遠いものだと反省したのである。

 ところが、十月十二日、思いも及ばない事件に衝撃を受けることになる。 行雄は笹塚と一緒に午後、神田の古本屋街を歩いていたが、ある古書店の若い男が店のガラス戸に一枚の紙切れを貼っていた。 物見高い笹塚がそれを見に行くので、行雄は彼に付いていった。

 笹塚が叫んだ。「おい、淺沼が殺されたぞ!」 行雄もびっくりして紙切れをのぞき込むと、『淺沼社会党委員長、刺殺される』と書かれている。 「淺沼がやられたぞ、やられたぞ!」 笹塚が大声を張り上げるので、その若い男が不快そうにこちらをにらみ付けた。

 やられた、右翼に先にやられたと行雄は思った。 それにしても、いつもは滅多に興奮しない笹塚が、どうしてあんなに大声を出すのだろうか。笹塚はニヤニヤと微笑を浮かべ、まるで喜んでいるような風情だった。 アナーキストとはこういうものなのだろうかと、行雄も不快に感じた。

 淺沼委員長はその日午後、日比谷公会堂で行なわれた三党首演説会でスピーチをしていたところ、右翼の少年・山口二矢(おとや・十七歳)に脇差しで左胸部を二カ所刺され、近くの日比谷病院にかつぎ込まれたが、三十分余りで死亡したということである。

 その夜、行雄は笹塚に誘われ、新宿の小さなレストランでビールを飲んだ。 ビールをほとんど飲んだことがない行雄は、すぐに酩酊状態になってしまった。彼はうっ屈した気持を吐き出すように笹塚に話しをしていったが、それは酔っ払いが人に絡んでいく感じだった。

「テロはあるじゃないか! しかも、右翼に先にやられたんだ。われわれだって、やってはならんということはない!」 笹塚はいつもの冷静な態度に戻っていた。「テロなんか、所詮はマスターベーションだよ。 いいかい、村上君。こんな右翼のテロで社会党が弱まるものでもなければ、右翼が強まるものでもない。

 また、淺沼が殺されたからといって、われわれの革命運動は、いささかも影響を受けるものではない。そんなことは分かっているだろう。 右翼は淺沼をケレンスキーと見ていたようだが、もし彼がケレンスキーなら、われわれ革命派にとってかえって好都合じゃないか」

「そうは言っても、安保闘争後の学生運動はまったく低調になってしまった。 この辺で一発ドカンとやってやらなければ、われわれの運動自体も、ますます先細りになっていく感じがするんだ。こちらだって一発、テロをやってはならんという法はない!」

「おい、酔っ払ってるのか。君は本気でテロを考えているのか。 馬鹿なことを考えるなよ。テロをやれば、梅沢さんを始めアナ連の人達みんなに迷惑をかけるんだぞ。 少しは冷静になって考えろ。君はなにか焦っているようだな。

 テロにはテロというそういう考え方は危険だし、そんなことをしたら、われわれの運動は破滅してしまうぞ。 もし君がテロをするなら、アナ連を脱退してからやって欲しい。いいかね」 笹塚はそう言って行雄の反応を窺ったが、彼は何も答えなかった。

 笹塚はさらに続けた。「こういう時こそ、地道に着実に、われわれの運動を押し進めていくしかないじゃないか。 アナーキズムが本当に復権するまでには、まだまだ遠い、苦労の多い道のりが続くはずだ。

 だいたい、総理大臣や警視総監を何人殺してみても、喜んで後釜になる人間は沢山いるじゃないか。 一人、二人と殺すテロなんか、まったく意味のない馬鹿げたものだ。もっと大きな気持になって、アナーキズム運動を考えてくれよ。 革命なんか、そう簡単にできるものではない。さあ、もう一杯どうだ」

 笹塚が注ぐビールを行雄はまた飲んだが、やりきれない重苦しい気持が、ビールの苦さとともに心の底に沈殿してくる。 右翼に先にやられたという“敗北感”みたいなものが残るのだ。 その夜は、酒好きの笹塚に勧められるままに、行雄はビールを相当量飲んで家路についた。

 飲みつけないビールで酔っ払い、彼は意識が朦朧(もうろう)としていた。 自宅の近くにやって来ると、安心感から気がゆるんだのか、急に胸苦しさが込み上げてきて道端に嘔吐した。

 淺沼委員長を刺殺した少年が十七歳だと分かると、行雄はますます敗北感に似たものを感じた。 十九歳の自分は行動力でも情熱や度胸でも、年下の者にはよもや負けないと思っていたから、なおさらショックだった。 しかし、笹塚が言うように、テロだけでは革命運動を成就することはできないことも分かっていた。

 淺沼刺殺事件の後、全学連は直ちに抗議集会とデモを行なったが、集まった学生はわずかに三百人程度だった。“沼さん”と呼ばれて親しまれ、“人間機関車”と言われて国民的な人気があった淺沼委員長だったではないか。

 その人の暗殺に抗議する集会に、たった三百人の学生しか集まらないとは、全学連も見捨てられたものだと行雄は思った。 これが学生運動の現実なのか。あの安保闘争の時の、潮のような盛り上がりを見せた学生運動はどこに消えてしまったのか。 

 デモ行進していても、少人数の学生達は警官隊に“サンドイッチ規制”されて身動きが取れず、まるで護送されるようにしてデモの最終地点まで連れていかれた。行雄は情けない気持で一杯になった。 行雄はふと、安保闘争で十何万人というデモ隊が国会を取り囲んでいた時の出来事を思い出した。

「おう、みんな元気だな」という声が聞こえたので振り向くと、“沼さん”が巨体を揺すりながら学生達の間を縫って行く。 誰かが「沼さん!」と声をかけると、彼は手を振って応えていた。 淺沼委員長の思い出と貧弱なデモ行進が重なり、行雄は寂しい思いが募るだけだった。

 しかし、幸いというかその頃、行雄がいた第一文学部では、自治会の主導権をめぐって、全学連主流派と日共系の反主流派との間で激しい攻防戦が始まり、彼は闘争の目標を得て活力を取り戻した。

 十月中旬に開かれたクラス委員総会で、それまで長期にわたり自治会の執行部を掌握していた反主流派の勢力を、主流派が駆逐することに成功した。 主流派が執行権を奪回したのである。行雄も自治会の常任委員に選ばれ、旧ブントやマル学同の委員とともに新執行部を形成した。

 その中で、アナーキストは行雄一人だけだった。 新執行部を決める時、最初の候補者名簿の中に彼の名前は入っていなかったが、行雄は今こそアナーキズムを浸透させるチャンスとばかりに、自分を強引に売り込んで常任委員の一角を占めることができた。彼はいつも主流派の学生と行動を共にしていたから、アナーキストと分かっていても反対する者はいなかった。

 いよいよ第一文学部を拠点にして、アナーキズムを広めていくことができる。それは自分の努力次第で、十分に可能だと行雄は思った。 笹塚も瀬戸山も、彼の常任委員就任を喜んでくれた。 行雄は最後のチャンスをつかんだように感じたのである。

 彼は笹塚らと相談して、アナーキズムの象徴である黒旗を作ることにし、梅沢氏にも文学部を中心に講演をしてもらう企画を練った。 いろいろな欲求が行雄の心に渦巻いていたが、委員総会で敗北した反主流派が間もなく巻き返しを図ってきた。

 彼等は新執行部の合法性を認めないと言い出し、十月下旬には自派中心の委員総会を開いて、もう一つの執行部を創ってしまった。 主流派の執行部は勿論これを認めず、十一月上旬に自派だけの総会を開いて対抗したが、文学部の中に二重執行部ができたことは誰の目にも明らかであった。 主流派は全学連、反主流派は日共系の全自連にそれぞれ加盟したため、それ以降、第一文学部の自治会は真っ二つに分裂したのである。

 こうした主流派と反主流派の攻防は、一般の学生達にはどうでも良いことだったろう。 大多数の学生は、学問、異性との交遊、レジャーやクラブ活動などに青春の生きがいを求めていた。 反日共系の全学連か、日共系の全自連かという勢力争いなどは、彼等にはほとんど関係のないことだったに違いない。 そうした状況の中で、一部の学生活動家だけが、自治会の主導権をめぐって“暗闘”を繰り広げていくのである。

 そうしたある日、中学時代からの友人、向井弘道がひょっこり行雄を訪ねてきた。 彼は大学では理工学部の応用化学科へ進学していたが、元気良く大学生活をエンジョイしているようで、表情も明るく見えた。 行雄は久しぶりに向井に会えて嬉しかったが、暫く雑談した後、彼は次のように切り出した。

「君は相変わらず、全学連の運動に首っ丈のようだね。だけど安保闘争が終って、学生運動もほとんど“そっぽ”を向かれた感じじゃないか。 君に全学連を止めろと言っても無理かもしれないが、いつまでやっているつもりなの?」

 向井の問いに行雄は、現在の自治会活動やアナーキズムなどについて詳しく説明し、学生運動は続けていくときっぱりと言った。 すると向井が、全学連やアナーキズムの運動にどういう展望があるのかと追及してきたので、行雄は答えた。

「展望なんかないよ。 ただ僕はアナーキストだから、まず文学部でアナーキズムを浸透させ、それを学生運動の中に広めていくだけだ。自治会の常任委員になったのもそのためだよ。 だから、アナ連の『クロハタ』にも寄稿しているし、同志と『反逆の砦』というパンフレットも発行している。

 全学連の集会やデモの時には、ビラを配って大いにアナーキズムを宣伝しているんだ。 やりがいのある毎日が続いて、充実していると思ってるよ」 行雄が開き直ったように言うと、向井はさらに続けた。

「だけど、言いにくいことを言わせてもらえば、君はしょせんプチブルだと思う。プチブル急進主義というやつだ。 僕なんか見ていると、ブントの解体など正にそれだね。 大衆運動が盛んな時にはえらく威勢がいいが、いったん運動が沈滞してくるともうどうして良いか分からなくなり、四分五裂してしまうんだ。

 こんな学生運動じゃ、一般の学生はほとんど付いてこないよ。今の全学連がそうじゃないか。 君らがよく言う“左翼小児病”みたいなもので、しょせんはプチブル急進主義の限界だ。こんな運動では理想と現実の間にギャップがあり過ぎて、袋小路に入っていくだけだよ。

 授業料値上げ反対とか、バス運賃値上げ反対とか、もっと身近な問題をやっていかないと一般の学生は付いてこない。 革命、革命なんて叫んでいるのは、ごく一握りの学生だけだ。 そういう現実と理想の間のギャップに、君達は耐えていけるのかな。そういう矛盾や苦しみに君は耐えていけるのか。 出しゃばりを言うようだけど、僕は心配しているんだ」

 向井にしては珍しく率直な言い方だった。 彼の指摘に行雄は痛い所を突かれた感じもしたが、革命家を自負する人間としては反論せざるをえない。 「それは、わざわざどうもありがとう。ご心配まで頂き恐縮至極だね。 僕はただ、大杉栄流のアナーキズムを信奉し、それを広めていくことだけしか考えていないんだよ。

 君の言うように、僕はプチブルかもしれない。プチブルのくせにと思っているかもしれないが、レーニンやバクーニン、クロポトキンだって、革命家の多くはプチブル出身者だ。 いや、クロポトキンなんか大貴族の息子だよ。出身なんかどうだっていいことじゃないか。

 それよりも、自分の信念や信条に、いかに誠実に生きていくかということが大切なんだ。 今の僕には、革命というものしかないね。それもアナーキズム革命だ。 僕は自分の道を進んでいくしかないよ」

 向井はそれ以上追及してこなかったが、彼が帰宅した後、行雄は物思いに耽った。 自分がやっていることは正しいはずだ。搾取され虐げられている人達を解放するため、無政府共産社会を実現することは人類の理想ではないか。 そのために自分の全生涯を捧げることほど、崇高な生き方は他にないのではないか。

 自分には立身出世とか、己の利益のために生きていこうというエゴイズムはいささかもない。 逆に他人の幸福や、理想社会の実現だけを念頭に置いて、自己を犠牲にしてまで生きていこうとしているではないか。 恥じる所は一点もないばかりか、自分を誇りに思うことばかりだ。

 確かに自分は未熟な人間であり、能力も大したことはない。 しかし、崇高な理想に邁進する生き方は、誰にも劣らない立派なものだと自負している。 安保闘争の高揚という一時的な僥倖によって、全学連の運動が一般学生にも広く支持されていると、錯覚した面がないではなかった。単なる政治危機を、間違って“体制危機”と捉えた側面もあっただろう。

 しかし、今は多くの人達に誤解されていようとも、自分達の理想主義的な運動は、やがて必ず理解される日が来るのではないか。 その希望を失ってはならない。どんなに辛くても、自分の信じる道を進んでいくしかない。 向井が帰った後、行雄は改めてそう思うのだった。

 その日、行雄が夕食を済ませると、父の国義が珍しく彼を自分の部屋に呼びつけた。八畳の洋間には父と母、それに兄の国雄までが同席していた。 行雄が椅子に腰掛けると、国義は余裕のある笑みを浮かべながら語りかけてきた。

「なあ、行雄、きょう向井君が話しをしに来ただろう。 別に隠すこともないので言っておくが、向井君には先日、お母さんと私がお前にいろいろ話しをして欲しいと頼んでおいたのだ。 そこでだ、お前もそろそろ考え直したらどうなんだ?」

 向井がやって来たのはそういう意味なのかと、行雄は父母の“お節介”を煩わしく思った。 それならば、父がこれから話すことは分かりきっている。全学連なんか止めてしまえということだろう。 行雄が身構えていると国義が話しを続けた。

「安保の頃は、お前達の学生運動も分からないではなかった。政府もけっこう強引にやったからな。 だけど安保も終り政府も変って、世の中も落ち着いてきたのだ。 今じゃ、ほとんどの学生は、全学連の運動に見向きもしないというじゃないか。

 それなのに、お前は相変わらず学生運動を続けているそうだな。 もうこの辺で、自分の人生や先行きのことを考え直したらどうなんだ。 父さんも母さんも兄さんも、みんなお前のことを心配しておるのだよ。 今こそ考え直す時期だと思うのだが、行雄、どうなんだ?」

 国義にしては妙に親身になった口調で語りかけてくるので、行雄はやや戸惑ったが、すぐに自分の考えと立場を述べた。「お父さん。 安保闘争は終ったけど、本質的な問題は全然解決していないんですよ。日本の資本主義社会は厳然として存在しているし、自民党政治も少しも変っていない。

 お父さんにいくら言っても無駄だと思うけど、この社会を根本から変革しない限り、理想の社会はやって来ないんだ。 だから僕は、これまで通りに運動を続けていく以外にないと思っているんです」 それから二人の応酬が始まった。

「行雄の言う理想の社会って、共産主義社会のことか? そんなものは、今すぐに創ろうとしたってそれは無理だろう。 お父さん達だって今の社会を少しでも良くしようと、それなりに努力しているんだ。その位いのことは分かってくれるだろう」

「いや、お父さん達の努力は、体制内の単なる修理や修繕でしかないんですよ。 われわれのやろうとしていることは、体制そのものを根本からひっくり返して、まったく別の社会制度を創ろうというものですよ」

「お前は今の社会体制を、つまり資本主義社会を悪いものと見ているようだが、果たしてそうだろうか。 勿論、いろいろな矛盾や欠点はあるだろうが、全体的には自由や民主的な制度が行き渡っているじゃないか。

 そうした中で、この社会を少しでも良くしようと、善良で真面目な人達が大勢努力しているんだ。その人達の努力はまったく意味がないとでも言うのか。 その人達の努力はまったく無駄で、ソ連や中国、北朝鮮のような共産主義国家がそんなに良いとでも言うのか。 そんな国には、自由も本当の民主主義もないというではないか」

「ソ連や中国などの社会が良いなんて言ってないですよ。官僚的な社会主義社会なんてちっとも良くない。 僕らは、そんな社会を乗り越えて、もっと自由で公正な無政府共産社会を創ろうとしているんですよ」

「無政府共産社会だって? そんなものは分からんなあ。なんだい、それは。 国家がないという社会なのか、そんなものは夢、幻だよ。 いつの時代にも国家はあるんだ。国家なしに、どうして国民が、平和で秩序ある生活を営むことができると言うんだ。

 お前の考えていることは、幻を追い求めているだけだ。お前よりもっと真面目に誠実に、この社会を良くしようと努力している人は大勢いる。 その人達の方が、お前達よりずっと価値のあることをしているはずだ。 そうは思わないのか」

 父に自分の考えや生き方を否定されて、行雄は怒りを覚えた。「その人達はしょせん、今の社会の中でしかやっていけない連中なんだ。 僕から見れば、言っちゃ悪いが“寄生虫”みたいなものですよ」

 すると、国義の顔が急に赤みを帯びて彼は怒鳴った。「馬鹿を言うな! 寄生虫とはなんだ! お前なんかよりずっと立派で真面目な人達が額に汗して働き、この世の中や家庭を支えて頑張ってるんだぞ。 寄生虫とは、お前みたいに親のスネをかじり、のうのうと大学まで行って生意気な口をきくような奴を言うんだ! 少しは自分の下らなさを考えてみろ!」

 行雄も爆発した。「僕は偉大なんだ! 君達に僕のやろうとしていることが分かってたまるもんか!」 国義が立ち上がる。傍らにいる国雄が笑い声を上げて言った。「偉大か・・・誇大妄想狂だな」

「いくら話しても無駄だ! これ以上、話すのは止めよう」 行雄がそう言って立ち上がろうとすると、怒った国義が殴りかかってきた。「バカもん!」「なにをするんだ!」 行雄が左手で国義の右手首を握って抵抗していると、久乃が「お父さん、やめて下さい」と言って、必死に二人の仲裁に入ってきた。

「バカ! お前なんか出ていけ!」国義が叫んだ。 行雄は荒々しく席を蹴ると、そのまま玄関から外に飛び出した。 「行雄!」と声を上げながら、久乃が追いかけてきたが、彼は「友達の所へ行ってくる」と言って姿を消した。

 行雄は夜道を北浦和駅へ向って足早に歩いていった。 畜生・・・家族がなんだ! 俺には俺の生き方があるんだぞ、俺の生き方を誰が止めるというんだ。憤まんと悲しさで胸がうずくようだった。 彼は電車に乗ると高田馬場駅で降り、その晩は、クラスメートの泉田茂樹のアパートに転がり込んで泊った。

 文学部自治会が二重執行部のまま推移していることで、主流派のクラス委員の中では、このままで良いという意見と、異常な事態だからもう一度正式な委員総会を開いて、反主流派と決着をつけようという意見の二派に分かれた。

 行雄らは、一般学生の支持を受けるためにも、もう一度総会を開いて多数を制すべきであると主張した。 これに対し、旧ブント系の常任委員らは、主流派執行部は正式に選ばれたものだから委員総会をやり直すべきでない、もし、やり直し総会を開けば負けるかもしれないと、現状の二重執行部体制でも良いと反論した。

 主流派執行部の中で激論が闘わされたが、結局、十二月上旬に、中立の三人委員会が招集する委員総会に応じる方針を決めた。 こうなると後は、反主流派との多数派工作が残るだけである。 行雄らは、主流派が勝つという十分な自信があった。

 主流、反主流両派の激しい委員獲得合戦が繰り広げられ、十二月某日、全体委員総会を迎えた。 ところが、結果はわずか二票差で、主流派は反主流派に敗北したのである。主流派の学生達は愕然としたが、後の祭りであった。

 こうなるのだったら、二重執行部のまま押し通せば良かったのにと悔やまれたが、仕方のないことであった。 全学連主流派の運動は、結局、一般学生の支持を失っていたのだ。 暗く冷たい“冬の季節”が、学生運動全般に訪れようとしていた。

 そんなある日、全学連による池田内閣打倒の集会とデモが行なわれた。行雄もそれに参加したが、集まった学生はわずか二百人程度だった。 あの安保闘争の時には、最大で何万人もの学生が集結していたというのに、なんという惨めな有り様だろうか。

 その日のデモで行雄は、勝ち誇ったかのような警官隊の厚い警備に突き倒され、左膝をアスファルトの路面に強く打ちつけて、立ち上がることができなかった。 まわりの学生に助け起こされ、彼は足を引きずりながら行進した。苦痛に顔を歪めながら歯を食いしばって行進した。

 しかし途中で、行雄は膝の痛みに耐えかねてデモ隊の列から離れ、歩道を“びっこ”を引きながら歩かざるをえなかった。 デモ隊は警官隊のサンドイッチ規制を受けながら、ジグザグ行進をすることもできず、まるで連行されるように先へ進んで消えていった。行雄は歩道に独り取り残された。

 歩くことも嫌になって、彼は近くの喫茶店に入った。なんとも言えない空しさと悔しさが込み上げてくる。 彼はソファにぐったりと沈んだ。左膝がズキズキと痛む。デモ行進から脱落したのは初めてのことだ。独りぽっちの行雄は放心したようになっていた。

 すぐ近くの席では、若いアベックが楽しそうにおしゃべりをしている。 膝の痛みに加えて、デモ行進の疲れが全身に及んでくるように感じられ、行雄はコーヒーを一口飲むとそのまま“まどろんで”しまった。

12)挫折

 文学部自治会での主流派の敗退、池田内閣打倒デモの末期的な衰退と、行雄にとっては周りの学生運動が何もかも上手くいっていなかった。 アナーキズムに賛同してくれる学生も皆無と言ってよかった。 左膝の負傷はその後回復してきたが、痛みはなお残っていたので、歩く時に気になって仕方がなかった。 加えて、彼は時たましか家に帰らず、クラスメートのアパートに泊まり込んだりしていたため、家族との交流も途絶えがちになっていた。

 そんなある日、行雄にとって信じがたい出来事が起きた。自宅で療養中の大川勇が自殺を図り、未遂に終ったというのだ。 その情報を笹塚から聞いた時、彼は脳天をハンマーで打たれたようなショックを受けた。 あの大川が・・・いつも毅然として自信に満ちあふれていた、あの大川が自殺を図るとは。

 行雄はすぐに、三ヵ月ほど前に彼を新宿のK病院に見舞ったことを思い出した。 あの時大川は、三池闘争で警官の警棒で鼻硬骨を砕かれて入院していた。頭皮も割られていたので顔や頭を包帯で覆っていたが、あの重傷がもとで自殺を図ったのだろうか。

 そういえば、別れ際に大川は「痛いし疲れたよ」と、彼らしくない弱音を吐いていたことも思い出した。 大ケガによる自殺未遂か・・・笹塚にその原因を聞いても、知らないと答えるだけだった。

 分かっているのは、大川は睡眠薬のブロバリン錠を相当量飲んだが死にきれず、その後ロープで首を吊ろうとしているところを、不審に思った家人に見つかり、幸い一命は取り留めたということである。

 それにしても大川は、行雄がK病院に見舞った時、アナーキズムに対して昂然とマルクス主義を擁護し、革共同・マル学同の一員として、闘う決意をあからさまにしていたではないか。 あの強気と闘争心に満ちた大川が、どうして自殺しようとしたのか。まったく信じられないことである。

 K病院で彼と別れる際に、また見舞いに来るからと言ったことを思い出し、行雄はにわかに大川の家を訪問しようと思った。 笹塚から情報を聞いた翌日、行雄は新宿区大久保にある彼の自宅を訪れることになった。大川の家には、高等学院時代に数回訪れたことがある。

 玄関のチャイムを鳴らすと、白髪で小柄な大川の母親が出てきた。「あの、大川君の友人の村上です。 以前、何度かお邪魔した者ですが、大川君をお見舞いしたくて伺いました」 行雄が恐る恐るそう言うと、母親は「あら、村上さんね、覚えていますよ」と親しげに答えた。

「大川君の具合はいかがですか?」と聞くと、彼女の表情が厳しくなった。「本当にご迷惑をおかけしました。 勇は寝ておりますが、ケガや睡眠薬の後遺症と、それに精神的にすっかり参ってしまって、とても皆さんにお会いできる状態ではないんです。 あなたの他にも、何人かお見舞いに来て頂いたのですが、皆さんにお引き取りして頂きました。

 せっかくお越し頂いて恐縮ですが、勇が元気になってから来て頂けないでしょうか。 まだ、ろくに口もきけない状態なんです。端で見ているだけでも辛くて・・・どうぞ、今のところはそっとしてやって下さい」 大川の母親は涙ぐんでいた。

 行雄には彼女の心中が痛いほど察せられた。「分かりました。それでは、大川君が元気になってから、また伺います。どうぞ、お大事にして下さい」 彼はそう言うと会釈し大川の母親と別れた。

 胸に込み上げてくるものを、行雄は抑えることができなかった。 それは、あの六月十五日、女子大生(樺美智子)の死を聞いて国会構内で泣いた時以来のことであった。 自分の親しかった元同志、元戦友がいま傷つき倒れている。

 行雄はこのところ、全学連の活動家が何人も挫折したり、廃人のようになっているという話しを聞いていた。 国学院大学のKDが、つい最近自殺したことも自治会の仲間から知らされていた。 彼は六月十五日の国会突入事件の時に、警官隊の警棒で頭皮を割られている。

 また、少し前になるが、東京大学のTKが三池闘争から帰った後、持病の喘息の発作に襲われ死亡したことも聞いていた。 他に精神に異常を来したとか、行方をくらませて帰ってこないとか、何人もの活動家が受難したという噂を耳にしていた。

 しかし、それらは行雄が直接知っている学生ではなかったので、やや他人事のように思っていたが、大川の場合はまったく違う。 自分に革命とマルクス主義を初めて教えてくれた人間、かつて自分が最も敬愛していた学生運動の先輩なのである。その彼がいま廃人のように横たわっているとは・・・その胸中をどう察すれば良いのか。

 行雄は重苦しい気持になっていた。 しかし、どういう精神状態になっていたかは知らないが、自分は大川のように自殺しようなどとは絶対に思わないぞ、死んでたまるものかという思いに固執した。 しかし、そういう想念が頭をもたげてくること自体、行雄は危機的な状況に追い詰められようとしていたのである。

 学生活動家の相次ぐ悲報は、行雄に「人間とは何か」「人生とは何か」を考えさせる一つの契機となった。 また、学生運動の末期的な衰退は、どうしても運動そのものに疑問を抱かせるものとなった。 そして、もっと大きな問題は、アナーキズム自体への疑問となって現われてきたのである。

 行雄は相変わらず、アナーキストとしてビラやパンフレットを配ったり、「クロハタ」に寄稿したり、「反逆の砦」を刊行したりと活動を続けていたが、アナーキズム全般をも研究するようになっていた。

 彼がアナーキズムとして理解していたのは、いわゆる「革命的アナーキズム」で、これは、マルクス主義と同じように、プロレタリアートの階級闘争を通じて社会革命を目指すものである。

 ただ、マルクス主義と違う点は、個人の自由と相互の連帯を重視するから、プロレタリア独裁やレーニンなどが主張する「前衛党」の理論に反対するのである。 バクーニンがいみじくも言った「社会主義のない自由は特権であり、自由のない社会主義は隷属である」というのが根本なのだ。

 ところが、アナーキズム(無政府主義)の中には、この革命的アナーキズムの他に様々な思想があることを知って、行雄は戸惑ってしまうのである。 プチブル階級を主体として漸進的な社会改革を目指す、プルードンらの思想はまだ受け入れやすい。

 しかし、絶対自己の存在である「唯一者」を主張する、マックス・シュティルナーの個人主義的アナーキズム、キリスト教的人間愛によって「地上における神の王国」を創ろうという、レフ・トルストイの思想などが含まれていることを知って、行雄は混乱してしまった。

 革命的アナーキズムだけではいけないのか。革命のみが正義ではないのか。 個人主義的なものや、キリスト教的な無政府主義のどこが良いのか。考えていくうちに、行雄の頭の中は混乱していくばかりである。 この革命的アナーキズムへの疑問は、彼にとって極めて重大な意味を持っていた。それは、革命そのものへの疑問へと繋がっていったからである。 

 行雄は以前K病院に大川を見舞った時、彼から「革命の研究家」にならないようにと、注意されたことを思い出した。 しかし、自分はどうやら革命の研究家になろうとしているのではないか。 あの時、大川はたしか「要は、革命への意志と情熱、パトスだ」と言っていた。 そうすると、自分は革命への意志と情熱を失いつつあるのだろうか。

 行雄はそう自問してみると、学生運動の衰退、反主流派への敗北、家族との不和、アナーキズムへの一般の無関心、活動家の相次ぐ受難など、嫌気がさすことばかり起こっていることに思い当たるのだ。 自分は革命運動そのものが嫌になってきたのではないか・・・いや、そんなことはない、絶対にそんなことはないと否定してみる。

 しかし、アナーキズムの中で、どうしてマックス・シュティルナーやレフ・トルストイの思想が気にかかるのだろうか。 安保闘争の真っ最中だったら、そういった思想などは歯牙にもかけなかっただろう。 俺は革命から逃れようとしているのではないか・・・いや、絶対にそんなことはないと否定してみる。 俺はそんな“卑怯者”ではないと、行雄は自らに言い聞かせた。

 しかし、この半年間、自分が声を大にして、革命を呼びかければ呼びかけるほど、一般の学生からますます孤立してきたように思われる。 自分は、この一年以上、自己の利益など少しも考えたことはなかった。 全てを、他人の幸せや解放のために捧げてきたつもりである。他人から賞讃されこそすれ、非難される理由はまったくないはずだ。

 ところが自分は、他人の幸せを願い、革命や理想の社会を追求して行動しているのに、多くの人から妨害され非難されているではないか。 これほど“割りに合わない”ことがあるか! 自己の利益のために行動して、妨害されたり非難されるのなら話しは分かる。 それはエゴの追求に対する、当然の報いとして甘受しよう。もっとも世の中は、大多数の人が自己利益の追求に終始して、ほとんど責められたり非難されていないのが現状だ。

 ところが自分は、純粋に他人の幸せばかりを願って行動しているのに、どうして非難されたり弾圧されるのか! この社会は、自己の利益のために行動する方が良いというのだろうか。他人の幸せなどは、どうでもいいことなのだろうか。 そう考えていると、行雄は“卑怯者”にはなりたくないが、革命運動に嫌気がさしてきた自分を初めて認めざるをえなかった。

 このような状況の中で行雄は、革命だけでなく「人間とは何か」「人生とは何か」「世界とは何か」を真剣に考えるようになった。 革命的アナーキズム運動を続けながらも、彼は日に日にその傾向を強めていった。

 ある日のこと行雄は、瀬戸山史子から在日韓国人H氏と結婚したという知らせを受け取った。 H氏はアナ連にも所属している工場労働者で、何度か顔を合わせたことがある。彼は物静かで口数が少なく、いつも含み笑いを浮かべていて、何を考えているのか分からないようなタイプの人だった。

 瀬戸山とH氏が結婚するとは予想もしていなかったので、行雄が笹塚に事情を聞いてみると、彼もまったく“寝耳に水”ということだった。 瀬戸山はこのところ、行雄や笹塚の運動からやや遠ざかっていたので、何かあったのだろうかと思っていたら、突然の結婚通知だったのである。

 二人は興味をそそられたので、早速瀬戸山と学生会館で会った。彼女の話しだと、H氏と新婚旅行に出かけていたという。 瀬戸山はタバコを吹かしながら、とても楽しい旅行だったと“のろけた”調子で語った。 二人が、結婚生活や今後の暮し向きなどを聞いても、彼女はまったく気にしていないという風情だった。

 瀬戸山は「別れたくなったら別れる」と言ったので、行雄はびっくりした。彼は結婚観については古風な考えを持っていたので、彼女の自由奔放な生き方に驚愕したのである。「じゃあ、同棲みたいなもんだな」と笹塚がニヤニヤ笑いながら聞くと、瀬戸山は「まあ、そうね」と軽く答えた。

 史子が何ものにも囚われないアナーキストだとは知っていたが、行雄は改めて彼女の天衣無縫な人格を思い知らされた感じがした。 これが史子の生き方であり、人生観なのだろうか。あるいは世界観かもしれない。 行雄はいま、自分の前に不思議な女性がいるような気がしてならなかった。

 それから三人は雑談を交わしたが、アナーキズムにおける「多様性」について行雄が話し出すと、笹塚と瀬戸山はそれは当然だと答えた。 いかなる権威も強制も認めないこの思想は、それが発現される際には、いろいろな形を取って当然だと言うのである。

 シュティルナーやトルストイの思想も、それぞれ特有の形で発現されてきたもので、なんら問題ではないと言うのだ。 それならば、われわれがいま行なっているアナルコ・サンジカリズムなどの革命的アナーキズムは、絶対的なものではないのかと行雄が質すと、笹塚らは「それは選択の問題だ」と答えた。

 要するに、何を“主体”として考えるかということなのである。 革命を主体として考えるのか、あるいは個人なのか、人間愛なのかで形は様々に変ってくると言うのだ。 聞いていると分かったような気持になるが、このアナーキズムはなんと多様性に富んでいて、不可解なものだろうかと思ってしまう。

 この世の中には、絶対的な思想などというものはないだろう。思想自体も発展していくに違いない。 しかし、笹塚らが言うように「選択の問題」ということになれば、行雄にとって、それは「疑問や混迷」以外の何ものでもなくなるのだ。 革命的アナーキズムが絶対だと思っていたのに、アナーキストによれば「選択の問題」ということになる。 三人で話しているうちに、行雄は何が主体で、何が理想なのか分からなくなってしまった。

 その後、行雄の混迷は深まった。 仮に革命的アナーキズムの理想を放棄したら、自分は果たして生きていくことができるのだろうか。 革命こそ理想であり、正義ではなかったのか。 それが単なる「選択の問題」というなら、客観的な真理というものはどういうものなのか。

 考えれば考えるほど分からなくなり、行雄は懐疑論と不可知論の“泥沼”にはまっていくような感じがした。 搾取され虐げられた人々を解放する革命こそ、唯一絶対のものと思っていた自分が、様々な逆境によって心が揺らぎ始め、アナーキズムの多様性を良いことにして、革命運動から脱落していくような予感を抱いた。

「世界とは何か」「人間とは何か」「人生とは何か」・・・多くの疑問が一遍に噴き出してきた。 自分の心の動揺が原因で、行雄は「人間とは不可解なものだ」と考え始めた。そういう自分を通して、人間そのものへの疑問が湧いてくるのだった。

 現実の人間とは多種多様ではないか。 顔がそれぞれ違うように、考え方や思想もそれぞれ異なっている。 アナーキズム革命などは、ほんのごく一部の人間だけが信奉しているに過ぎないではないか。 そんなものは、ごく一部の人の正義でしかないと考える。

 しかし、理想を放棄することは、行雄にとって耐えられないことだった。 この一年以上にわたって、彼はひたすら革命を目指してきた。 人類解放の理想のために、全身全霊を打ち込んで行動してきたはずである。そういう生き方を放棄することは、挫折以外の何ものでもない。 そんなことはできるはずがない。

 行雄は思い上っていたかもしれないが、自分は間違いなくエリートだと思ってきた。 真のエリートとは、己の生命や財産、安全といったものを犠牲にして、人類解放のために全てを捧げる人のことを指すのだと思ってきた。

 ところが、そういう生き方をすればするほど、現実社会の風当たりや弾圧が強まってきたのである。 真のエリートとは、いかに孤立し弾圧されようとも、それに屈することなく理想に殉じていく人を言うのだろう。そういう意味で、自分はこれまで頑張ってきた。

 しかし、それも今や限界に達してきたのではないのか。 自分は様々な逆境にもはや耐えられなくなってきたのではないか。理想を放棄するのも耐えられないが、現実の受難はそれ以上に苦悩を強いているのだ。 行雄は煩悶に煩悶を重ねた。

 ここでアナーキズムを放棄することは、革命を裏切ることである。挫折・転向して卑怯者になることだ。 かつて大川らが、笹塚のことを「革命のジプシー」と呼んだように、自分もジプシーの烙印を押されることになるだろう。 しかも、いまアナーキズムを捨ててしまえば、それに代る納得のいく思想は他にないのだ。 断崖から真っ暗やみの海に飛び込んで、自分は果たして生きていくことができるだろうか。

 行雄は悩み抜いた。 しかし、アナーキズムは「人間の不可解さ」に、なんら明快な解答を与えてくれるものではなかった。むしろ、アナーキズムを知ることによって、彼は人間の不可解さやその多様性を認識してしまったのである。

 煩悶を重ねた結果、ついに行雄は決心した。 十二月下旬のある日、彼は渋谷の某所で開かれた日本アナキスト連盟の研究会に、笹塚や瀬戸山と一緒に出席した。 この日は、大杉栄の著作とスペイン革命の歴史がテーマとなり、アナルコ・サンジカリズムについて討論が行なわれた。

 会が終る頃になって、行雄は発言を求めて切り出した。 「僕は、もう半年以上にわたってアナーキズムを研究し、皆さんと行動を共にしてきました。 しかし、結論から言うと、僕は結局何も分からなかったのです。 分からないというより、ますます多くの疑問や不可解な点が出てきたのです。

 一体、僕らには何が分かっているのだろうか。 この社会の矛盾や、賃労働と資本の論理、アナーキズム革命の正しさなどは知っているかもしれない。 しかし、真理とは何か、世界とは何か、また人間とは何かということについて、どれほど分かっているだろうか。ほとんど何も分かっていないのではないか。

 そこで、自分は何も知っていないということを、まず知るべきだと思います。 その上に立って、世界とは何か人間とは何かといったことを、問い詰めていくべきだと思います。 こう言うと、懐疑論者や不可知論者と思われるかもしれないが、一生かかってもいいから、世界とは人間とは自分とは何かを、探究していくべきだと思うのです。

 そうでなければ、本当に客観的で正しい立場から、この世界や社会、人間の問題を解決していくことはできないと思う。 皆さんには申し訳ないと思いますが、この際、僕はもう一度原点に返った気持で、自分自身のことや世界のことなどを見つめ直していきたいと思います。

 その結果、再び革命的アナーキズムが真理だという結論に達すれば、また皆さんの所に戻ってきます。 とにかく僕はいま、自分独りだけになって考えてみたいのです。従って今日限りで、アナ連から脱退することにします。 皆さん、いろいろ有難うございました」

 行雄は一気呵成にそう言うと、肩の荷を下ろしたように、ほっとした気持になった。 笹塚には事前にアナ連脱退を告げていたが、彼は、もう一度考え直したらどうかと尋ねてきた。 しかし、行雄は自分の考えを変えることはできないときっぱり断った。 気まずい沈黙が一時続いたが、笹塚が再び口を開いた。

「村上君の決意は固そうだ。 僕は強いて彼を引き止めようとは思わない。彼は彼の“軌跡”にのっとって動いているのだ。 しかし、村上君は必ずまた、われわれの所へ戻ってくると信じている。それが彼の軌跡だと思っている」

 笹塚の発言に対して、誰も何も言わなかった。主宰者の梅沢正之氏も沈黙したままである。 アナーキストとはそもそも自由な人間だから、他人のことは気にかけず放任しておくのだろうか。 笹塚と瀬戸山を除いて、誰も気にしないという様子だった。 それが幾分、行雄の気持を楽にした。彼はアナ連の人達に別れを告げて、一足先に研究会を退席した。(以下の続きは、第94項目で連載していきます。) 

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