(この小説は、第94項目からの続きです。)
5)恋文
冬休みに入ると、行雄は百合子との関係をなんとか打開しなければと焦ってきた。しかし、妙案があるわけではない。 電話で話しても、自分の気持を十分に伝えることは極めて難しい。 思い切って彼女の自宅を訪れようかと考えたが、そうする勇気もないし、彼女だって自宅に来られるのは断るに違いない。
どうしてよいか分からず、行雄は悶々たる気持で数日を過ごしたが、そのうちにある考えが固まってきた。 百合子に心から謝罪し、自分の真心を伝える手紙を出すということだった。それ以外に良い方法はないだろう。 行雄は決意を固め、クリスマスの二日後に百合子宛の手紙を書いた。それは敗軍の将が全面降伏し、勝った敵将の許しと憐れみをひたすら懇願するような内容のものとなった。
「・・・ 十一月七日、僕は登校時に君の天使の微笑みを見てから、頭がフラフラになった。 その時から君のことが片時も忘れられなくなり、なんとしても君と付き合えないものかと、そればかり考えるようになった。
でも、僕の臆病な性格が災いして、君に自分の気持を素直に伝えることができなかった。 僕は自分の不甲斐なさに、どれほど嫌気がさしたことだろう。僕自身を何度も叱ってみたが、どうすることもできなかった。
君は僕の臆病な性格を軽蔑して、嘲笑うならいくらでも笑ってほしい。現実の僕は、本当に意気地のない哀れな男なのだから。 それでも僕は、なんとかして君と仲良くなりたいと、そればかり考えるようになった。
早稲田祭の始まる前日、僕は意を決して君の家に電話をかけた。そうしたら、君のお母さんが出てきて、とても気持良く君を電話に出してくれた。 あの時、僕はどんなに嬉しく感じたことか。そして、君と話していてどれほど幸せを感じたか。 いま君に、正確に伝える言葉が見当たらないくらいだ。
そのあと僕は幸福感で一杯になり、歌舞伎の入門書を買ってきて、君と楽しく話しができるよう“にわか勉強”をしたくらいだった。 そしてあの日、僕は勇気凛々、君がいる歌舞研のサークル会場に向った。
ところが、会場に近づくにつれて、どういうわけか僕の気持は重苦しくなり、憂うつになっていった。その原因がいまでも分からないのだ。 君にあれほど会いたいと思っていたのに、サークル会場に入ったら逃げ出したい気持に変ってしまった。
君の姿が見えた時は、もう緊張のあまり、どうしてよいのか分からなくなってしまった。 そして、君が話しかけてきた時、僕はあんなに不様で失礼な態度をとってしまった。どうしてあのようになってしまったのか、その原因がいまでも分からない。 僕は自分自身がほとほと嫌になった。 本当にごめんなさい。あやまります。
僕は他の人がいると、何もできなくなるようだ。自意識過剰なのか、内気で病的な性格なのか知らないが、他の人がいると何もできなくなるのです。 こういう僕を許して下さい。心からあやまります。 もう二度と、あのような不様で失礼なことはしないつもりです。
君から逃げ出した時、僕は身体中が熱くなり、全身に汗をかいたように感じました。この奇妙で臆病な性格の男を許して下さい。 あれから僕は、なんとしても君にあやまらなければと、そのことばかり考えてきました。そして今、こういう手紙を書いているわけです。
もう二度とあのようなことがないように注意し、努力していきます。重ねて、どうかお許し下さい。 来年になったら、僕はもう少し利口になって、君と仲良くやっていけるように一所懸命努力します。本当に失礼しました。
どうぞ、良い年を迎えて下さい。僕にとっても、来年が良い年であるように頑張ります。 それでは、新学期にお会いしましょう。
中野百合子様 村上行雄 」
乱れた文章で手紙を書き終えると、行雄は少しばかり安堵感を覚えた。彼は手紙を読み直した後すぐに自宅を出て、近くの郵便ポストにそれを投函した。 ところが、百合子に謝罪の手紙を出した後、行雄はもう一通手紙を書こうという強い衝動に駆られた。
それは、百合子を完全に自分のものにしてしまおうという、激しい情念から生まれたものである。この衝動に彼は逆らうことができなかった。 いま出してきたばかりの手紙は、単なる謝罪のものでしかない。それだけでは足りないのだ。謝罪をしたのだから、あとは開き直って百合子を手に入れるだけである。
行雄は全身全霊を打ち込んだ愛の手紙を書こうと思った。彼は百合子をなんとしても“征服”しようと思ったのだ。 彼女を必ず圧倒する、誰にも書けないような凄まじいものを書かなければならない。そう決意すると、行雄は全身に力がみなぎるのを感じた。
その夜、彼は張り詰めた感情が狂おしいまでに高ぶるなか、あたかも宣戦布告をするような気持で筆を執った。
「百合子さん 僕の一生の感謝 一生の幸福になって下さい。 ワセダで最も美しい人 僕はあなたなしでは生きていくことができない。 あなたは僕の幸福の泉であり 感謝の源なのだ。 あなたの暖かい懐の中で死ねたら なんという感激! なんという愉悦!
夕陽にさらに赤らむ君の頬の美しさ 朝ごとの微風にほほえむ君の瞳の麗しさ ああ 乙女よ 乙女よ 心から君を愛す。 君は その白く美しく輝く身体を開いて たおやかに僕を迎え入れてくれるだろう。
君のいる街 君のいる家 君のいる部屋に射し込む日の光! ああ 僕の抱擁に 接吻に 愛撫に 君はぐったりする 僕は勝った! 僕は嬉しい! 君は僕のものだ そして 僕は君のものだ。
二人は完全に溶け合い 一体となって空の彼方 宇宙の果てに昇華していくだろう 愛が一つになった時 この世には他になにもない 愛があるだけだ ああ 百合子 僕の百合子 君は永遠に僕のものだ。
この世には君と僕しかいない 他になにもないのだ 二人だけの世界がいま開かれ 太陽が君と僕を祝福してくれる 光と熱が二人を一体のものとし その契りを永遠のものとするだろう。
僕はいま 幸福の絶頂に泣いている その涙で 君の香しい全身を潤そう 僕はもう狂いそうだ いや 君の前に狂い立っている 君になんと思われようともよい 君は僕のものだ!
そして 僕は全身全霊をあげて 君のものとなる 君の足元に 永遠にひれ伏す ありがとう 僕はこの運命に感謝する 二人を結びつけた神に 栄光のあらんことを! ・・・ 」
行雄は物に憑かれたように書き続けた。彼は宇宙の始原的な熱と力を放出しているように感じ、頭に思い浮かぶことをそのまま書いていった。十数枚の便せんに書きなぐった後で、彼はようやく我に復った気持になったのである。
翌日、行雄は二通目の手紙を郵便局から速達で出した。百合子の手元に、前の手紙とほぼ同時に届いて欲しいと願ったからである。 彼は自己満足していた。これで百合子を完全に“征服”できると思ったからである。
そこには、自己を捧げる愛情よりも、征服欲を満たした荒々しい満足感があった。行雄は、勝ち誇ったバッカスのような気分になっていたのである。 そして、自分に征服された百合子から、いずれ何らかの返事が来るだろうと考えていた。
新しい年、昭和三十七年が明けると、行雄はこの年が素晴らしい年になるに違いないと思った。 それと同時に、百合子からの返事が早く届くことを願った。彼女を征服したという思いは次第に薄れ、その返事を待ち焦がれるようになっていった。
三箇日が過ぎても百合子からの便りがないので、年賀状の配達との関係で他の郵便物が遅れているのかと行雄は思ったが、だんだん不安が高じてくる。 百合子から本当に返事が来るのだろうか、もし来なかったらどうしようかと思いあぐねるようになった。
しかし、自分はやるだけのことはやったのだ、後は天命を待つのみであるという心境にもなった。 不安と期待が高まる中で、行雄は四日、五日を過ごしたが、努めて明るい見通しを持つべきだと自分に言い聞かせ、百合子とのデートや、一緒にお茶を飲んだり映画を見に行くことなどを想像した。
そして、一月六日、百合子から待望の手紙が届いた。行雄が押し頂くようにして開封すると、七枚の便せんに大らかで読みやすい文字が整然と綴られている。
「・・・ 私は貴方の二通の手紙を読んで、驚きと恐怖の思いに満たされています。どうして、あのような手紙を書いて送ってきたのですか。 貴方は大学で私と一緒にいる時は、ほとんど何も話しかけて下さらなかったではありませんか。
現実の私に対して、何もしようとはされなかったのに、手紙を通しては、恐ろしいまでに色々のことを述べておられるのですね。 貴方は現実の私をほとんど無視していたのに、幻覚の中の私にだけ語りかけているのです。
貴方の考えていること、述べていることは全て幻覚です。それは現実とはまったく異なります。 私が貴方の幻覚の中で勝手に踊らされ、弄ばれていることに非常な憤りを感じています。
・・・ 私はいま、歯を食いしばっています。 貴方はなぜ現実の私に対して、何もしようとはされないのですか。なぜ、幻覚を現実のものにしようとされないのですか。 貴方は幻覚の中で勝利を味わっているだけで、現実には何も得ているわけではありません。
貴方が私に好意を持っておられるのなら、なぜそれを現実の生活の中で示そうとなさらないのですか。 貴方の二通の手紙が、好意の証しとでもいうのでしょうか。私にはそうは思えません。 貴方は幻覚の中で夢を見ているだけです。私を幻覚の中で弄んでいるだけです。
・・・ 新学期が始まりましたら、どうか現実の生活の中で、貴方なりの好意を示して頂きたいと思います。 それまで、私も歯を食いしばって我慢します。新しい年が、貴方にとって良い年でありますようお祈り致します。 それでは、お元気で。
村上行雄様 中野百合子 」
百合子の返事を行雄は食い入るように読んだ。「幻覚」と「現実」の文字が余りに多いが、彼はその後何十回も手紙を読み返したので、その内容をほとんど暗記してしまったほどである。
行雄は百合子の心を征服したとは思ったが、それ以上に、申し訳ないという罪悪感で胸が一杯になった。 彼女が繰り返し言っているように、自分は百合子を幻覚の中で勝手に弄んでいたのだろう。それについては、彼女の非難めいた文は当然だと思う。 しかし、彼女は行雄の好意を現実に示して欲しいとも言っている。それは、こちらの情愛を望んでいる証明ではないか。
熱い想いが込み上げてきて、行雄は一日も早く百合子に会いたいと願った。 彼女に非難されたとはいえ、彼は相変らず百合子の幻影を朝から晩まで追い求め、それがあの美しいヴィーナスに結び付いていく。 彼女の白い肉体・・・ふくよかな腰、長くて盛り上がった大腿部などが露わに脳裏に浮かんでくる。
行雄は初めて、百合子の肉体を想像してオナニーをする。そこにはほとんど罪悪感はなかった。これも“必然”だと思う。 理屈っぽい彼は、全てのことは必然なのだと自分に言い聞かせ、しびれるようなオナニーに陶然とする。
また、行雄は煮えたぎる想いを紛らすために、毎日毎日ベートーヴェンの交響曲第五番「運命」を聴いた。 百合子と自分の運命はここに定まったという思いである。「運命」の力強く圧倒的な調べは、二人の行く末を決定付けるように響き渡るのである。
三学期が始まると、行雄は一年ぶりに茶色の分厚いコートを着て大学に行った。一年前の学期末試験の時、まったく受験準備をしていなかった彼が、開き直ってこのコートと角帽を身に付け試験会場に乗り込んだことを思い出した。
あの時と同じように気持が高ぶっているが、行雄の今度の相手は試験ではなく百合子本人である。 最初の授業は一般教養課目の心理学で、大教室で行なわれることになっている。彼は中程に座って、百合子が来ていないかどうか室内を見回した。
すると、左側の後方の奥に、彼女がクラスメートの渡辺悦子と並んで座っているのが見えた。行雄の所から二十メートル近く後ろである。 百合子は行雄の視線に気が付いているのか分からないが、頬を少し紅潮させている。
講義の合間に、彼は幾度も百合子の方に視線を投げかけたが、彼女はそれに気付いていないような素振りである。 やがて講義が終った。学生達が一斉に大教室から出ていく中を、行雄は足早に後方の出口へ向った。
教室の外に出ると、廊下の隅で壁に背をもたれるようにして、百合子と渡辺が立ち話しをしている。 行雄が二人に近づくと、渡辺の方から声をかけてきた。「まあ、村上さん。久しぶりね、お元気ですか?」 「うん、まあね」 行雄は彼女にあいまいな返事をしてから、百合子を正面から見据えた。
「中野さん、こんにちは」 彼は努めて気軽に声をかけたつもりだが、百合子は戸惑った表情を見せると、驚いたように口を少し開けたまま行雄の顔を凝視している。 彼は緊張していなかったが、次に何と言ってよいものやら思いあぐねた。
暫くして行雄が語りかけた。「今度、中野さんの家に遊びに行ってもいいですか?」 彼は彼女に親愛の情を示したつもりである。ところが、百合子の驚きの表情がさっと青ざめ、彼女は左に顔をそむけて叫んだ。「困ります!」 その白い首筋がピクピクと震えている。
行雄は冷水を浴びせかけられたような気持になり、言葉を継ぐことができなかった。 困惑して渡辺の方に目を向けると、彼女もあいまいな笑みを浮かべているだけである。すっかり居たたまれなくなった行雄は、やけくそになって叫んだ。
「どうもすみませんでした! 失礼します!」 吐き捨てるように言って一礼すると、百合子はまた驚愕の表情を見せて彼の方を振り向いた。 行雄は憤然とした気持でその場を立ち去るしかなかった。
自分は好意を持って語りかけたのに、百合子はどうしてあのような“取りつく島もない”態度を取るのか。 彼女の家に伺いたいと言ったのは、出過ぎたことだったのだろうか。自分の言い方が唐突だったかもしれない。 それにしても、百合子に「困ります!」と拒絶されたことは、行雄にとってショックである。
情感に満ち誠意のこもった彼女のあの手紙は、一体なんだったのか。 彼女はあれほど希望を抱かせる返事を自分に寄越してくれたのに、今日の態度はどういうことなのか。 自分は口下手でぶっきら棒で、今日は不しつけな言い方をしたかもしれないが、百合子の方ももっと優しく対応してくれてもいいではないか。彼女の今日の仕打ちは残酷ではないのか。
行雄は屈辱と悔しさを感じていた。 百合子が手紙の中で「歯を食いしばる」と言っていたように、自分も“歯がみ”をするしかないと思う。 この日以降、彼は意気消沈して百合子に言葉をかけることができなかった。あれほど熱烈なラブレターを書いたというのに、現実生活では怖じ気づいて彼女に近寄れない日々が続くのである。
行雄が百合子に何もできないうちに、学期末試験の時がきた。 一年前とは打って変って、彼は十分に勉強していたので今回の試験には自信があった。果たせるかな、結果は上々の出来で、十五以上の課目のうち「良」はわずか三課目で、残りは全て「優」という成績で終った。
試験の方は堂々たるものがあったのに、百合子との関係についてはどうしても神経質で臆病になってくる。 行雄は絶えず彼女を窺っていたが、近づくことができないのだ。いつもジメジメした気持で百合子を見詰めている。 彼女に「困ります!」と拒絶されたことが尾を引いているとはいえ、自分の不甲斐なさに行雄は情けなく思うことがある。
彼がいつも百合子を凝視しているので、その関係を察したのか、クラスメートの剽軽(ひょうきん)な宮部進が「君は中野さんを“観賞”しているのか?」と、冷やかしてきたことがある。 行雄は百合子を観賞しているわけではないが、クラスメートにはそう思われたのだろう。
百合子に対し何もできないまま一ヵ月半以上が経ち、春休みに入った。 彼女の姿が見られないのは非常に寂しい。悶々たる気持になった行雄は、ついに電話をかけようと“決意”した。会いたいという願望を伝えようと思ったのである。
以前と同じように、行雄は緊張と不安で心臓がドキドキする中で受話器を取った。恐る恐るダイヤルを回す。 すると、これも以前と同じように、百合子の母親が感じの良い明るい声で電話口に出てきて、すぐに百合子を呼び出してくれた。
行雄は少しどぎまぎしながらも、端的に用件を述べた。「君とゆっくり話し合いたいんだけど、どうですか」 「いいですよ、いつがいいですか」 百合子の快活な声が返ってくる。「できれば、明日かあさって会いたいと思っているんだけど・・・」「それでは、あさってにしませんか。明日はわたし、ちょっと別の用事がありますので」
「ああ、勿論いいですよ。それじゃ、あさっての午後がいいかしら」「あさっては午後に、歌舞伎研究会の集まりがあるので、正午に学生会館でどうでしょうか」 「ああ、いいですよ。それじゃ、あさっての十二時に学生会館の一階に行きますから、それでいいですね」 「分かりました。その時間に学生会館の一階に行っています」「ありがとう、それではよろしく」
電話を切ると行雄は安堵した。今回は全てが順調に進んでいくようである。 大学の学生会館には各文化サークルの部室があり、一階は生協の食堂や面会所があって学生達の溜まり場になっている。 百合子とはその面会所で会うことになり、他にも学生が多数いるかもしれないが、行雄はそれでもいいと思った。
本当はゆっくり話せる喫茶店で会いたいと思っていたが、百合子の都合で学生会館で落ち合うのも仕方がない。 二日後、行雄は気もそぞろに家を出た。三月初旬だというのに、その日は比較的温かく穏やかな日和である。彼は高田馬場駅から徒歩で大学に向った。
学生会館に近づくと、以前の早稲田祭の時のように胸の高なりと緊張感を覚えたが、今回は足取りも軽く面会所に入る。 予想していたように、中には大勢の学生がいる。ぐるりと見渡すと、左奥の隅の方に百合子がいた。彼女は緑色のカーディガンを着て、くつろいだ感じで座っている。
行雄の緊張感がほぐれ、彼はテーブルを挟んで百合子の真正面に座った。「やあ、お待たせ。でも、十二時を少し回ったところかな」 行雄が語りかけると彼女は口元に微笑を浮かべたが、彼を見ることもなく「どうも」とつぶやいた。
座席に深々と座った行雄は、さも余裕ありげな態度で「今日は会える機会をつくってくれて、ありがとう」と礼を言ったが、百合子は無言である。 彼はやや気まずく感じたが尋ねる。「今日は何時ぐらいまでいいのかしら。君は歌舞研の集まりがあると言ってたけど」
「一時間ほどでしたら大丈夫です」 百合子が顔を上げてはっきりと答えた。 一時間とは短い。それでは喫茶店にも誘い出せないではないか、と行雄は思う。暫く沈黙が続いたが、彼の方から切り出した。
「君とこうやって話せるように、僕は以前から想っていたんだ。でも、何を話してよいのか分からない。 僕は面白い話しが出来るような器用な人間じゃないし、君と楽しく話せるかどうか自信がないんだ。 だけど、こうして会ってもらえるだけでも有り難い。 いろいろ話しているうちに、きっと楽しい話しが出来るようになると思っているんだけど・・・」
行雄が丁寧に控え目な口調で語る。百合子はうつむいたまま彼の話しを聞いているが、時折チラリと視線を上げる。暫くしてまた沈黙が続いた。 今度は百合子が、行雄の視線をしっかりと捕まえて切り出す。「どうして、去年の暮れにあんな手紙を書いてきたのですか」
彼女の口調には詰問するような厳しさがあった。行雄は返答に窮し、逆に挑むような眼差しで百合子を見返す。 彼女は彼の視線にトゲがあるように感じたのか、目を伏せると甲高い声で続けた。
「わたし、怖かったんです! どうしてあんな手紙を書いたのですか! あの二通の手紙はほとんど読んでいません。とにかく怖かったんです。 あなたは何かにすぐ“没入”する人なんですね。わたし、そういうのが怖いんです」
没入? そうか、自分は確かに何事にも没頭してしまう人間だ。 森戸敦子の時も全学連の時も、俺はとことん没入、没頭する生き方をしてきた。それが善いか悪いかの問題ではなく、そういう生き方しかできないのだ。 百合子の言うことは当たっている。それに対して、自分はなんの抗弁もできない。 行雄はそう思うしかなかった。彼はやや申し訳ない気持になって、ようやく口を開く。
「すまなかったね、僕はそういう男なんだ。君が言うように、何かにすぐ没頭してしまう所があるんだ。 でも、あの手紙は、僕の本心を有りのままに伝えたかっただけなんだ。ただ、それが君にとって怖いものであったのなら、申し訳ないと思う。 もちろん、もう二度とあんな手紙を書くつもりはない。あの事はもう忘れてしまって欲しい。それより、こうした時間を大切にしていきたいんだ」
行雄が素直に謝ると、百合子も納得したようにそれ以上は言及してこなかった。 暫くして行雄は、話題をクラスメートのことに切り替え、百合子の仲間の話しを持ち出した。 話題が変って彼女は明るい様子になった。高校時代からの友人である渡辺悦子らの話しになると、百合子は生き生きとした表情で語り始める。
行雄はほっとして、それから共通の学友や教授らの話題で雑談を楽しんだ。 そのうちに行雄は、百合子が膝の上に小型のグラビア雑誌をのせているのを見つけた。彼女は時たまそれに目をやっていたが、行雄がのぞき込むと、表紙は「京都」という題名になっている。
「中野さんは京都が好きなの?」「ええ、わたしは元々京都にいたんです。 父の転勤の都合で、高校の時から東京に出てきたんですが、京都生まれの京都育ちです。 あそこの方が東京より雰囲気がいいし、落ち着けますね。京都なら何度でも行ってみたいと思っています」
百合子が京都に縁があることを初めて知って、行雄は、言われてみれば彼女の風貌や雰囲気は京都風かなと思う。 どことなく“おっとり”していて穏やかに見える。柄も大きいので、ゆったりとした感じを人に与える。真正面から見ると、彼女の顔立は下膨れの“おちょぼ口”で、浮世絵によく出てくる古風な美人のタイプだ。
自分もいつの日か百合子と京都へ旅行にでも行けるのかな、と行雄は思った。 それから二、三十分ほど、京都や歌舞伎のことなど他愛ないおしゃべりをする間に、行雄が何気なくテーブルの下に目をやると、百合子の組んだ両脚が見てとれた。長くてふくよかな両脚がベージュ色のスカートから伸びている。
行雄は数秒の間それに目をやっていたが、視線を上げて彼女の顔と向き合ったとたん愕然とした。百合子が艶やかな微笑を浮かべて行雄を凝視している。 彼女の細い両眼は彼の視線を絶対に逸らせまいと、食い入るように見詰めている。少し開いたおちょぼ口がなまめかしく紅を帯び、妖しげな笑みを湛えている。それは媚びの笑み以外の何ものでもなかった。
行雄は息が詰まるような感じがして、百合子の媚笑から目を逸らせようとするが、彼女の潤んだ瞳は、彼の視線を絶対に放すまいと絡み付いてくる。 呆然とした行雄の上半身はだんだん右に傾いていく。彼の困惑と動揺を読み取ったのか、百合子は勝ち誇ったように満面に嫣(えん)然とした笑みを浮かべた。
極めてわざとらしい媚笑に行雄は息も絶え絶えになり、彼女の視線から逃れるようにうつむいた。 若い女性から、こんなに艶やかな媚びを売られたのは初めてである。 彼は暫く目を伏せていた。そして、恐る恐る視線を上げると、百合子はもう何もなかったかのように、平然とした顔付きで「京都」の雑誌に目を落としている。
やがて数分が過ぎたところで、歌舞伎研究会の部員と思われる眼鏡をかけた背の高い男が、ニヤニヤと笑みを浮かべながら百合子を迎えに来た。「そろそろ会合を始めるよ」 彼は先輩らしいきびきびとした口調で、彼女に声をかける。
百合子はニコリと微笑むと「村上さん、では失礼します」と言って立ち上がった。行雄も釣られるように立ち上がり「それじゃ、僕も失礼します」とおうむ返しに答えた。 百合子はハイヒールを履いているので、彼より十センチ以上も背が高く見える。大柄で肉付きのよい百合子を目の前にすると、行雄は圧迫感を覚え自分の背の低さを恥ずかしく感じた。 彼は彼女に軽く会釈すると、逃げるように足早に面会所を去った。
行雄はそのまま自宅に帰るのも面白くないので、近くの喫茶店に立ち寄りコーヒーをゆっくりと味わった。 つい先程の百合子の媚笑が、脳裏にこびりついて離れない。彼女は、行雄が出した手紙について「怖かった」と言っていたが、今や彼の方が百合子に対し“恐怖”を感じている。
その恐怖とは、彼女の肉体に対するものだ。彼は百合子が“女王蜂”のように思え、その妖しげな魅力にのめり込んでいくような不安を感じる。 それは一方では歓喜の絶頂に至るものだが、他方では底無しの泥沼にはまり込んでいくようなものである。 行雄は百合子の肉体を想像し、それに戦慄する自分を意識していた。
(注・・・以上、2003年4月までに執筆したものです。以下、数字の表記など文体が多少変ります。)
6)呪い
学生会館で百合子と会ってから、行雄は彼女への想いが“重圧”として感じられてくるようになった。 彼はそういう自分の心境変化を不思議に思うのだが、どうしようもないことなのだ。なぜ重圧なのかと自問自答する。
お前は百合子の肉体に魅惑されているだけではないのか。 オスがメスを欲しがるように、お前は獣のように彼女の肉体を求めているのではないのか。お前が望んでいるのは、本能に基づく肉欲の充足だけではないのか。
そう自問すると、もう一人の行雄が答える。 いや、そんなことはない。俺は確かに百合子を愛しているし、その愛は純粋で崇高なものだ。彼女に書いた詩は、自分の真心であり本心なのだ。俺は献身的に百合子を愛していけると思う・・・
しかし、自問自答は果てしなく続いていった。 結局、行雄は自分の中に、矛盾する二人の人間を見い出すようになる。一人は崇高な愛を貫く純真な自分であり、もう一人は、肉欲の本能に駆られ獣のように突き進む自分であった。そして、そのどちらも自分の“正体”だと思えるのである。
行雄は、できれば崇高な愛を貫く自分だけでありたいと願うのだが、もう一人の獣のような自分の存在を否定することができなかった。 俺の心の中には、神聖なものと野獣のようなものが並存している。その両面性を否定することはできないのだ。
そう考えると、百合子への想いが複雑で矛盾したものに思え、彼の心に重圧として感じられてくる。 もう一つ、行雄が重荷に思うのは、彼女への“劣等感”というものだろう。 大柄でふくよかな百合子を眼前にすると、彼はいつも圧迫されているように感じる。その圧迫感はどうしようもないものである。
百合子への肉体的な劣等感は、しばしば恐怖につながることがある。 それは行雄が欲情を感じる時に、往々にして起きるものだ。彼は百合子の肉体の中に、埋没していく自分を想像する。彼女の太い大腿部に挟み込まれていく自分を意識して震える。 欲情が強ければ強いほど、恐怖に震える度合いも深まる。 こうした心理的な葛藤は、行雄の心を次第に重苦しくさせていった。
しかし、もう一度百合子に会いたいという気持は高じるばかりであった。学生会館で彼女と会ってから数日後、行雄は再び百合子にデートを申し込むことにした。 ところが、いざ電話をかけようとすると、また重苦しい気分に陥り受話器を手にすることができない。
彼は30分近くも思い悩んだあげくに、逡巡しつつもようやく受話器を取り上げダイヤルを回した。不安が胸を締めつける。 低い声で「もしもし」と呼びかけると、今日は始めから百合子の声が受話器から聞こえてきた。
「村上です、先日はどうもありがとう。 またお会いしたいと思うんですが、明日かあさっては都合はどうですか」と丁寧に尋ねると、百合子は無言のままでいる。 彼女が当惑しているような気配が感じられ、断られるのではないかという不安に行雄は焦りを覚えた。彼は自己防衛的に身構え、彼女の返事次第では、自分は対抗的な言辞を弄するかもしれないと予感する。
百合子がようやく答えた。「ええ、いいですよ。 あさってだったら、午後2時頃に歌舞伎研究会にいます」 その返事に行雄は満足しなかった。先日は学生会館の面会所で会ったではないか、どうして今度はサークルの部屋で会わなければならないのか。
彼は不機嫌そうに言った。「僕は歌舞研のメンバーじゃないんだ。 二人だけで話せるどこか他の所で会ってもらいたいんだけど・・・」 すると、百合子は畳み掛けるように“ぶっきらぼう”に続けた。「何かご用ですか、別に用はないでしょ!」
その吐き捨てるような冷たい言い方に、行雄は憤まんのあまり絶句した。 彼が何も答えないので、さすがに百合子も相手を傷つけたと察したのか、「それでは、あさっての3時頃、この前お会いした学生会館の面会所でどうでしょうか」と、事務的な調子で言ってきた。
この瞬間、行雄は百合子の“憐れみ”を受けたと解し屈辱感に震えた。彼は怒りを爆発させた。「いいです! もういいです! もう会わなくてもいいんです!」とヒステリックに叫んだ。 百合子は行雄の返事にびっくりしたのか、「ふん、そうですか、それはどうもすみません」とあわてて答えた。
行雄はガチャンと乱暴に受話器を切った。憤まんやる方ない気持になり、百合子のことはもうどうなってもいいと思った。 勝手にしろ、俺も勝手にするから・・・百合子の“お情け”にすがってまで、俺は彼女に会ってもらいたいと思うものか!
今日の電話のやり取りで、彼は自尊心を傷つけられたと思い、相手に卑屈にひざまずいてまで会ってもらうものかと自らに誓った。 行雄は決然とした気持になり、春休みの間に百合子にデートを申し込むことを止めようと決意した。
どこか悲壮な感じにはなるが、一方で清々しい気持にもなった。 これで、俺はもう百合子の“呪縛”に囚われることもなく、自由に伸び伸びと生きていけるのだ。百合子の魔力から解放され、新しい生き方をしていけばいいのだと、行雄は自分に言い聞かせた。
しかし、百合子から自分を切り離したと思ったとたんに、行雄は心に穴がぽっかりと開いたような空虚な気持になった。 解放感と同時に居たたまれない気分に襲われた彼は、急に旅行がしたくなった。浦和にいると、忘れたくてもどうしても百合子のことを想い出してしまうからだ。
それならば、できるだけ遠い所に旅行してみよう。 行雄はそう考えると九州へ行こうと思い立ち、翌日早速、書店で九州の地図や観光案内を買ってきて計画を練り始めた。 国鉄の時刻表とにらめっこしながら、旅行のおおよそのスケジュールを決めると、彼はその日のうちに交通公社に行き、九州一周の周遊券を購入してきた。
旅行が決まったからか、行雄は家に戻ると唐突に百合子に絶交状を書きたいと思った。可愛さ余って憎さ百倍だ! それは退路を断たれた武士(もののふ)が、背水の陣で敵に決死の戦いを挑む心境に似ていた。彼は数枚の便せんに乱暴な文字で殴り書きしていった。
「中野百合子様
僕はこれまで、どれほど君を愛し慕ってきたかは分かるだろう。昨年の暮れに君に書いた手紙は、僕の真実の心を伝えたものだと今でも思っている。 眠れない毎日が続く中、僕は心の底からの気持を君に打ち明けたのだ。
今年になって、君は一度だけ僕に会ってくれた。僕は嬉しかった。君と僕の未来が開けてくるように感じられた。 ところが、その後の君の態度はどういうものだったろうか。僕が再びデートを申し込んだ時、君はどういう態度を示したか。
僕が丁寧にデートを申し込んだ時、君は何と答えたか。「何かご用ですか、別に用はないでしょ!」と答えたではないか。 なんと冷たい返事なのか! なんと血も涙もない仕打ちなのか! それが、心から君を慕っている者に対する返事なのか!
僕は愕然として、地獄の底に突き落とされたような感じがした。二度と立ち上がれないような気がした。悪魔に打ち据えられたような思いがした。 君は冷血漢だ! 血も涙もない人間なのだ。 僕は許さない、絶対に許さない! 僕の心を踏みにじった人間を許すものか!
僕は明日から旅に出る。旅に出て君を忘れようと思う。 これが決別の時だ。もう二度と君とつき合うことはない。 僕を地獄の底に叩き落した君は悪魔だ。そうだ、悪魔だ! 悪魔を許すものか! 絶対に絶対に許さない。
君は呪われるがいい。呪われろ、呪われろ! いや、僕が呪い殺してやる。必ず呪い殺してやる! 君も僕を呪うがいいだろう。大いに呪え! お互いに呪い合って死ねばいいのだ。 絶交しよう。絶交して全てを忘れよう。全てを忘れて生まれ変ろう。それしかない。
さよなら。 最後にお願いが一つ、僕が書いた手紙は全て焼き捨ててほしい。君から届いた手紙も僕は焼き捨てる。これで全てが終りだ! 呪いが天地に通じるだろう。ああ、哀れなり、哀れなり、それが人の世の常だ。 さよなら。
村上行雄」
凶暴な手紙を書き終えると、行雄は決然とした気持と悲壮感に満たされていた。この手紙を出せば、百合子との関係が終る。それも運命だと自分に言い聞かせながら、彼は机の引出しから百合子の手紙を取り出した。その夜、彼女の手紙は燃やされ灰になった。
翌日、行雄は絶交状を速達便で百合子に送った後、母に「九州を旅行してくる」と素っ気なく告げて家を出た。 まだ肌寒さが残る日だったが、彼は“行く先”はここよりきっと暖かいだろうと思いつつ電車に乗った。
7)交友
大学3年の新学期が始まる直前に、行雄は九州旅行から帰宅した。 彼は“吹っ切れた”気持で新学期を迎えたが、登校してみるとその気持が更にフレッシュになる思いがした。それは文学部の校舎が新築され“生まれ変わった”からである。
新校舎は馬場下の交差点を挟んで、大学の本校舎から数百メートル南側の所に完成していたが、中心に建っている文学部教員の研究室は地上11階、高さ37メートルのモダンな造りで、その姿から「国連ビル」の愛称で呼ばれるようになっていた。
そして、すぐ側には半楕円形の屋根をいただいた収容人員1万人の記念会堂があるため、新校舎の周辺はいたって華やいだ雰囲気を醸し出していた。 行雄は半ば浮き浮きとした気分で、キャンパスに新しく出来たばかりの長いスロープの歩道を踏みしめるように上っていった。
新学期最初の授業が行なわれる小さな新教室に入ると、すでに30人ほどの学生がいるので驚いた。 一般教養課目の講義ならいざ知らず、フランス文学の専門課目の講義に、これほどの数の学生が詰めかけたのを見るのは初めてである。
しかし、これも当然なのかもしれない。 大学2年までは、高校時代からフランス語を習っていた学生だけのクラスに行雄は入っていたのだが、3年からは、大学で初めてフランス語を受講した学生も加わったため、クラスメートの数が一挙に倍以上に増えてしまったからである。
行雄の両隣りには、授業で初めて顔を合わせる男子学生が座っていた。 2年前の入学式直後に会ったことなどがあるので見覚えはあるが、一緒に授業を受けるのは初めてである。すぐ後ろにいる高村宗男という学生は、安保闘争の時に何回かデモに誘ったことがある。
「やあ、久しぶりだな」と互いに挨拶して雑談していると、教室の後方に、中野百合子が友人の渡辺悦子と共に入ってくる姿が見えた。 一瞬ギクリとしたが、行雄はそ知らぬ顔をして高村と雑談を交わしていた。狭い教室の中は、そのうちに40人近い学生で“すし詰め”状態になった。
クラスメートの数が増えたことと、新学期でしかも新校舎での初めての授業だというので、出席が急増したのだろうと行雄は思った。 やがて、仏文学概論の担当であるO教授が教室に入ってきて、講義が始まる。学生達の私語や雑談でザワザワしていた室内は、いっぺんに静まり返った。
一時間ほどして講義が終ると、学生達は三々五々教室を出ていく。百合子も渡辺らと数人で去っていった。 行雄と高村は連れ立って表に出た。雑談しながらスロープの歩道を下りていくうちに、二人はお茶でも飲もうかという話しになり、本校舎の近くにあるW喫茶店に入った。
高村は秋田県出身で、一浪したあと大学に入ったので行雄より一歳年長であった。中肉中背で比較的がっちりした体格をしており、茫洋とした風貌だが気さくな人柄なので行雄は以前から彼に親近感を抱いていた。
コーヒーを飲みながら話しているうちに、高村はマスコミを、その中でも特に新聞記者を目指していることが分かった。大学3年になったばかりなのに、もう自分の進路を決めているのは珍しいではないかと行雄が言うと、高村は新聞記者が自分の適性だと答える。
行雄は少し羨ましい感じがした。彼は自身の将来については何も固まっていない。 大学院へ進んで仏文学研究の道を歩もうかと思ったり、出版社に就職しても良いかなと漠然と考えている程度で、高村のように明確な進路があるわけではなかった。
フランス文学の雑談を交わしているうちに、高村はバルザックが大好きだということが分かった。「俺のような秋田出身の田舎者は、バルザックが好きになるんだよ」と言って彼は笑う。この後、高村は興に乗ってしまったのか「谷間の百合」から「ゴリオ爺さん」に至るまで、滔々とバルザック論をまくし立てた。
強靱なリアリズムで社会の実態にメスを入れたバルザックの精神が、新聞記者志望の高村の心を捉えているのだろうか。 バルザックの本など二、三冊しか読んでいない行雄は、軽く質問したりして“高村節”に聞き惚れていた。この男の卒論は、尋ねなくてもバルザックにもう決まっているなと思うと、行雄は苦笑した。
「やあ、俺ばかりしゃべり過ぎたようだな。すまん、すまん」と高村が言った。「いや、いいんだ、面白かったよ。バルザックは知らないから、もっと聞きたいくらいだよ」と行雄が答える。 すると、高村は一呼吸置くと、大きな目を見開くようにして前屈みになり「ところで、君はうちのクラスの中野さんと仲良くしているんだって?」と聞いてきた。
行雄は突然、現実の世界に引き戻されたように感じた。すぐに答えることができずにいると、高村は「この前、友人の徳田から聞いたんだ。 徳田って、今度同じクラスになった男だ。君はまだ知らないだろうから、近いうちに紹介するよ」と畳み掛けてきた。
行雄はようやく落ち着きを取り戻して「いや、中野さんとはもう付き合っていない。いろいろあってね・・・」と答えた。 高村は行雄の返事など意に介さないかのように続ける。 「中野さんはとても良い人だと聞いているぞ。徳田がそう言っている。徳田は最近、彼女からノートを借りてばかりいるからそう言うのだろうが、すごく親切だそうだ。
さっき教室で中野さんを見ていたら、とても感じの良さそうな子じゃないか。余計なお世話だろうが、どうして彼女と付き合わなくなったのだ?」と高村が聞いてきた。 まさに余計なお世話だと思いながら「いや、いろいろあってね」と、行雄は同じ返事を繰り返すしかなかった。それにしても、自分と百合子の関係がクラスメートの噂になっているのかと思うと、彼は“束縛”されているような窮屈な感じがしてならなかった。
高村はこの後、徳田誠一郎というクラスメートの話しを続けていったので、行雄は勧められるままに彼と会ってみようという気持になった。 高村は「あいつは面白い男だよ、翻訳のアルバイトに夢中なんだ。金を稼いでいるから、今度彼に一杯おごらせよう。授業にはほとんど出てこないが、シュールレアリスムの中山教授の講義だけはいつも出てくる」と言う。
授業の予定表を見ると、中山教授の講義は4日後にあったので、行雄と高村はその日に徳田と付き合ってみようということになり、W喫茶店を出た。
4日後のその日の午後、中山教授の講義が小教室で行なわれた。授業に出てきた学生はわずか6、7人で、新学期初日の時とは大違いであった。百合子や渡辺悦子らの姿は見られなかった。 シュールレアリスムの詩の講義などは人気がなく、高村もこういう授業には初めて出席すると言っていたが、徳田はどういう訳かいつも受講するのだという。
何だか変だなと思いながら、行雄が初めて会う徳田を見ると、彼は背は低いががっちりした体格で眼鏡をかけており、茶色い背広の上下を着ていた。 細目でいつも微笑を絶やさない表情で、どこか“気障っぽい”感じがしてならない。年齢は行雄や高村より上ではないかと見られる。
三人で後で付き合おうと雑談していると、中山教授が胸を張るようにして入ってきた。 この教授は50歳台中頃といった感じで、小太りの赤ら顔に蝶ネクタイを付けている。風采が良いとは言えないが、縞模様の派手な替え上着に身を包んでおり、いかにも気障っぽい印象を与える。
中山教授と徳田の共通点は“気障っぽさ”にあるのかと、行雄が勝手に推測していると講義が始まった。教授が得意とするポール・エリュアールだとか、ルイ・アラゴンなどの詩が次々と出てくる。 行雄はシュールレアリスムの詩はあまり好きではないが(好きになる以前によく分からないのだ)、徳田はよほど気に入っているらしく、中山教授に質問までする始末だ。
高村も行雄と同様によく理解していないようだったが、ともかく1時間の授業が終った。中山教授が来た時と同じように“颯爽”と教室から出ていくと、三人は席を立った。 徳田がすぐに「きょうはビールでも飲みに行こうよ」と言った。
行雄はふだんビールを嗜んでいないので「喫茶店じゃないの?」と聞いたが、高村が「たまにはビールでも飲もう。君は真面目すぎるんだよ」と言うので、行雄もしぶしぶ従うことにした。 時間に余裕があるので、三人は文学部の校舎から歩いて高田馬場駅の方へ向った。
駅の手前で、徳田がよく利用しているというビアレストランに入った。時刻がまだ夕方前なので、店内はそれほど込み合っていない。 三人は外が良く見える窓際の一角に座ると、徳田と高村が生ビールや摘み物を適当に注文した。二人は一緒によくビールを飲むのだという。
生ビールが来て型通りの乾杯の仕種を済ませると、徳田が早くも上機嫌で饒舌になっていく。 「村上君、これを機によろしく。僕はけっこう酒が好きでね、ビールはしょっちゅう飲んでいるんだ。ワインも好きだね、フランスのものもイタリアのものもよく飲む。 ところが、高村といったらワインは駄目なんだ。この男は純和風かな」
徳田が高村に目を向けて喋ると、「当り前だ、俺はお前のように“バタ臭く”はない。秋田だからな、何と言っても日本酒が一番だ」と高村がやり返した。 そして、行雄に向って「徳田がさっきの中山教授の講義によく出席する理由が何だか、分かるかい?」と聞いてきた。
もとより、行雄には知る由もないので首を横に振ると、「授業嫌いの徳田がいつも出るのは、あのキザな教授が彼の恋人の叔父さんに当たるからなんだ・・・」と付け加えた。 「おい、もうそんな事まで“ばらす”のか」 徳田が遮るように高村に言ったが、その表情には満更でもないという思いがありありと浮かび出ていた。
「A(アー)クラスにね、小野さんという女の子がいるんだ。その子が徳田の恋人ってわけなんだよ」「へ〜、そうなの」高村の暴露発言を受けて、行雄が徳田の顔をまじまじと見つめた。 「う〜む、お前にそう暴かれてはどうしようもないな」彼は高村を責める口ぶりで言ったが、嬉しそうに笑い声を上げた。
それから、徳田と恋人の小野恭子の話しに花が咲く。小野は叔父である中山教授の影響もあって仏文科に進学してきたが、そこで昨年、徳田と知り合ったという。 高村と徳田がまるで議論の応酬でもするかのように、恋人と恋愛関係、はてはセックス論まで話しを展開していった。二人は生ビールをお代りする。そして、恋愛論議はさらに白熱する。行雄は羨ましい気持で二人の雑談を聞いていた。
「村上君、われわれだけ話していてご免よ。実はね、高村も好きな女の子がいるんだ。 僕らのB(ベー)クラスに山西さんという子がいるだろう。彼女に高村が惚れているんだ」今度は徳田が暴露した。 「そうなのか」行雄の視線が高村の方に向く。
「うむ、でも競争相手が多いからな」 その後の高村の話しによると、誰もが“美人”と認める山西美佐には、A・B両クラスの何人かの男子学生はもとより、彼女がクラブ活動をしている「テニス同好会」のメンバー、さらには彼女の高校時代の友人らが山西にアプローチしているというのだ。
ずいぶん競争が激しいなと行雄は苦笑したが、その途端、彼は中野百合子のことを思い出した。彼はあわてて百合子の幻影を打ち消そうとする。彼女との関係は終ったのだ、もう全てが終ったのだと自分に言い聞かせた。
徳田と高村は暫く山西の話しをしていたが、そのうちにまた小野恭子の話しに戻っていった。 徳田が小野と肉体関係を持っていると聞いて、行雄は仰天した。「婚前交渉」などはとんでもないという古い倫理観を持つ行雄にとって、徳田と小野の関係は目が眩むように思えるのだった。
いろいろ話しを聞いていると、徳田は行雄より3歳も年上なので“世慣れて”いることは理解できる。 しかし、男女間の倫理というのは、年齢差によって大きく変わるべきものではないだろう。倫理の根本とはそういうものだ。行雄は男女間のセックスについては極めて保守的だったので、徳田の話しを聞くうちに不愉快な気分になってきた。
ところが、徳田と小野の関係は実に上手くいっているらしい。徳田が彼女を思いやる様を聞いていると、気配りというものに最も疎い行雄には、感心することが多々あるのだった。これも“年の功”なのかと思ってしまう。 いや、年の功と言うより性格の違いなのだろう。徳田には、持って生まれた他人への優しさというものがあるようだ。
徳田と高村は生ビールを何杯もお代りしていたが、行雄もようやく二杯目を注文した。二人の話しを聞きながら相づちを打ったり、感想を差し挟んだりしているうちに酔いが回ってきた。 もうそろそろお開きになるかなと思っていると、徳田が急に神妙な顔付きになって行雄に語りかけてきた。
「ところで、村上君。君は中野さんのことをどう思っているんだ? 君は“残酷”な男だな・・・もう中野さんとは付き合わないというのか?」 突然、百合子の話しを突き付けられて行雄は動揺した。酔いがいっぺんに冷めたようだ。暫く答えられずにいると、徳田はさらに続けた。
「お節介かもしれないが、僕は中野さんからノートを借りたりしているうちに、彼女から君との関係についていろいろ話しを聞いてしまったのだ。 絶交状を彼女に送ったんだって? 中野さんは相当ショックを受けているようだ。君はもう彼女と付き合うつもりはないというのかね。君は本当は彼女が好きなんだろう? ちょっとしたことで絶交状を出すなんて、君も激しすぎるよ。 もう少し考え直したらどうなんだ。高村だってこうして心配しているんだ。どうなんだね?」
百合子が、自分との関係で徳田と相談していることに行雄は驚いた。そんなことは想像もしていなかったのに、現実はそうなのだ。 行雄は何と答えたら良いのか言葉が見つからない。黙っていると、今度は高村が語りかけてきた。
「余計なことかもしれないが、徳田が言うように、中野さんとの付き合いをもう一度考えてみたらどうだ。彼女は良い人だよ。 君はどうも真面目すぎる。こうと思い込んだら、どんどん頑なになる癖があるからな。全学連でやっていた時と同じだよ。 もし今でも彼女に好意を持っているなら、もっと気楽にフランクに接していったらどうなんだ?」
徳田が“追い撃ち”をかけてきた。「女なんて、みんな気紛れでわがままだよ。特に若い子はね。 小野だって約束を破ることもあるし、体調が悪いからと言ってすっぽかすこともある。急に不機嫌になったり、むくれたりするのはしょっちゅうだ。 そんなことを一々気にしていたら、付き合ってなんかいられないよ。若い子はみんなわがままなんだ。その位いのことは、こちらも考えておかないとね。
君はどうも“完全主義者”のようだな。全てが完璧に進んでいくなんてあり得ないよ。 中野さんだって完璧ではない、いや、君だって僕だって誰だって完璧な人間などいるはずがないじゃないか。彼女に好意を持っているなら、もっと気持に余裕を持って付き合っていったらどうなの?」
二人の攻勢に行雄はタジタジとなったが、何も返事をしないのは失礼だし、気分を害したように受け取られてもまずい。「もう少し考えてみるよ」と答えたのが、精一杯であった。 百合子の話しが一区切りつくと、酒席の話題は八方破れに広がっていった。若者の会話はエネルギーに溢れている。
吉永小百合やケネディ兄弟、マリリン・モンローから宇宙飛行の話しまで際限なく広がっていく。文学も野球も芸能も政治もごちゃ混ぜだ。 二人に「もっと飲めよ」と言われ、いい加減に酔っ払ってきたのに行雄は三杯目の生ビールを注文した。
プロ野球の話しになると、徳田と高村の会話が熱を帯びてきた。特に徳田は背が低くてずんぐりしているのに、高校時代に野球部に在籍していたせいか、腕まくりをして太くて長い右手の指を自慢げに見せた。「ピッチャーはこうやってボールを握るんだ」と言って、親指と人差し指、中指を広げたり曲げたりする。
プロ野球で前年、42勝をあげた西鉄ライオンズの稲尾和久投手の話しを始めると、徳田は椅子から腰を上げて、稲尾の投球術やコントロールの素晴らしさを、身振り手振りで得々と説明していくのだった。 この頃になると、酔いが回って三人はかなりの酩酊状態になった。やがて高村が「もうこの辺で切り上げよう」と言った。
行雄はその言葉を待っていたかのように、よろけながら立ち上がると「お代はいくら?」と徳田に尋ねた。 「いいよ、今日はいいんだ。僕が誘ったから全部持つよ!」徳田が上機嫌に答える。「そうはいかないよ、割り勘にしよう」と行雄が言うと、高村が「いいんだ、いいんだ。徳田はバイトで荒稼ぎしたんだから、今日はご馳走になろう」と言って、レストランの出入口の方へさっさと歩き出した。
行雄は徳田に礼を言うと高村の後に従った。 三人は高田馬場駅から帰宅の途についたが、行雄は滅多にない飲み方をしたので酔いが回り頭が重かった。あの二人が百合子との交際を促していたことが、執拗に脳裏に迫ってくる。 友人としての思いやりなのか、それとも単に面白がって余計なお節介をしているのか。行雄はあれこれ考えながら帰宅したが、自分の部屋に入ると意識が“もうろう”となり、そのままベッドに倒れ込んだ。
8)屈辱
それから一週間ほど経っただろうか、春の陽光がまぶしく輝くある日の午後、行雄は文学部の生協食堂で軽食をとった後、たまには演劇博物館でも覗いてみようと本校舎の方へ歩いていった。 学生会館の前を通り過ぎてキャンパスに入ってすぐ、20メートルほど前方から歩いてくる男女3人の姿を見て、彼はハッとして立ちすくんだ。
徳田が中野百合子ともう一人の女子大生と連れ立って、こちらの方へ向ってくるところだった。一瞬、姿を隠そうかと思ったがもう遅い。 見通しが良いので、徳田は行雄とほぼ同時に相手に気付いた。「やあ、村上君、先日はどうも。ちょうど良いところで出会ったね、お茶でもどうかな」 徳田が人なつこい笑顔を浮かべて近づいてきた。
仏頂面の百合子がいるので戸惑ったが、行雄は覚悟を決めた。「この間はありがとう、ずいぶん飲んだから酔っ払ってしまったよ。でも楽しかったね」と言うと、徳田は「いやいや、あのくらいの飲み方は、高村も僕もよくやっているんだよ。 おっと、彼女の前であまり言わない方がいいかもしれないな」と答えて、右隣の女子大生の顔を窺った。
「ちょうどいい、紹介するよ。 彼女が、この前言っていたAクラスの小野恭子さんだ。こちらはBクラスの村上行雄君・・・」徳田の紹介で、行雄と小野恭子は軽く会釈を交わした。 小野は色白で小柄な痩せた女だった。隣にいる大柄な百合子に比べるといかにも貧弱な感じがするが、顔立は可愛げがあって“理知的”な印象を受ける。しかし、この女子大生と徳田が肉体関係を持っているということに、潔癖な行雄は信じられない思いがした。
徳田が続ける。「きょうは3人で、安藤教授の所へ4時半に伺うことになっているんだ。中野さんが連れてってもらいたいと言うんだが、小野さんも一緒に行きたいと言うのでやって来たところさ。 ちょうどいい、まだ時間があるからお茶でも飲もうよ。どう?」
徳田の誘いに行雄は少し迷ったが、百合子と一緒だと気詰りになるのは目に見えているので止めることにした。「僕はこれから、演劇博物館に行こうと思っているんだ。又ということで」と断ると、徳田は「残念だな・・・それじゃ今度、中野さんも入れてお茶を飲むことにしよう。それでいいかな?」と言う。
それを強いて断る理由もないので、行雄は「ああ、いいよ」と生返事で答え3人の側を通り過ぎた。別れ際に徳田と小野には挨拶したが、百合子は無愛想にそっぽを向いているので、行雄は声をかけることができなかった。彼女は俺の“呪いの手紙”を読んで、きっと怒っているのだろうと思うしかなかった。
それから一ヵ月ほどの間に、行雄は徳田や高村から百合子を交えて喫茶店に行こうとか、学生会館でお喋りをしようなどと数回誘われた。 しかし、彼女に出した絶交状のことを思い出すと、行雄は気が重くなって彼らの誘いに乗ることができなかった。
もし、百合子との交際を再開しようと思えば、まず彼女に詫びなければならない。それも「呪い殺す」などと尋常ではない酷い内容の手紙を出したのだから、土下座するくらいの謝り方をしなければ、とても彼女の許しを得ることはできないだろう。
そう思うと、彼の心はますます重苦しくなっていった。 一度は己の退路を断って絶交状を出し、決然とした気持になって九州旅行までしたというのに、今さら百合子に哀願してまで交際を再開してもらおうというのか。それは男の沽券(こけん)に関わるというものだ。そんな事ができるというのか。行雄はあれこれ思い悩んだ。
悩んだあげく、彼は暫くは「成るようになれ」という心境になった。これは自分では結論が出せない、自主性のない、あなた任せの態度と言うしかなかった。 行雄にもう少し心の余裕があれば、徳田らの誘いに乗って百合子とお茶を飲む機会もあっただろう。しかし、彼の性格は内向的で独りでウジウジと考え込む癖があった。その結果が「成るようになれ」だったのである。
そうは言っても、行雄は次第に百合子との絶交状態を悔やむようになっていた。彼女の手紙を焼き捨てたことも申し訳ないと思うようになった。 あの中にあった「なぜ貴方は現実の私に対してなにもしようとはされないのですか。 なぜ幻覚を現実のものにしようとはしないのですか」という文が思い出される。
自分は彼女が言う「幻覚」を「現実」のものにしようと努力したが、一向に上手くいかなかった。その点は不運であり不幸であったが、もう一度出直してみようではないか。徳田や高村もいろいろ言ってくれているのだ。 自分は人との接し方が下手だが、素直に謝って謙虚に交際を求めれば、百合子だって考え直してくれるかもしれない。
行雄はそのように思い直し、まずは百合子に素直に謝ろうという気持になった。あんな“呪いの手紙”を彼女に出したというのに、仲直りしたいという思いが強まると、彼はそれが現実に容易にできるだろうと楽観するようになった。
ある日のこと、仏文学「演劇論」の講義が終った後だった。 十人ほどの学生が教室を出たあとに、たまたま行雄と百合子、他に二人の男子学生がそこに残った。学生の一人は眼鏡をかけた色の浅黒い宮部進で、もう一人は、静岡出身の小太りで既に頭髪の薄いSであった。
二人がいなければより好都合だったのだが、行雄は、この機会に百合子に話しかけないとなかなかチャンスが巡ってこないと考え、彼女に近寄って前の座席に腰を下ろすと、つとめて冷静さを装い低い声で語りかけた。
「中野さん、この前は大変失礼な手紙を出してしまって済まなかった。あの後で、ずいぶん反省し後悔しているんだ。本当に済まなかった。 もう一度、君と仲直りしたいと思っている。僕はどうも気が短くて、すぐにカッとなる癖があるんで・・・今とても反省している。 済まなかったと思っている。どうだろうか、もう一度・・・」
宮部らに話しの中身を聞かれては恥ずかしいので、行雄の声はますます低く“か細く”なっていった。徳田や高村に促されたこともあるので、彼は百合子から程よい返事がもらえるものと期待していた。 どんなに悪くても「考えてみましょう」ぐらいの返事はあるものと期待していた。
ところが、数秒の間に百合子の頬が見る見るうちに紅潮し、行雄を見つめる両眼が険しく吊り上がって彼女は激烈に叫んだ。「なんですか! あんな手紙を書いておいて、冗談じゃありません!! 仲直りだなんてとんでもない! 私をどう思っているんですか、いえ、もういいんです! もう二度と話しかけないで下さい! 冗談じゃありません!」
百合子はヒステリックにそう叫ぶと、席を蹴るようにして立ち上がり憤然とした面持で教室の外へ出ていった。 行雄は愕然として声も出なかった。屈辱に打ちひしがれ、茫然自失として席から腰を上げることができない。 宮部とSが含み笑いをしながら、自分を盗み見ているのを痛いほどに感じた。
二人に百合子との一部始終を見られて、行雄は恥ずかしさで穴があれば入りたい気持であった。“ひょうきん者”の宮部なら、ここで一言冷やかしの言葉をかけてきても良いのだが、この時は黙ったままでいた。 とは言っても、宮部も何と言葉をかけていいものか、あるいは、行雄に話しかけない方がいいものか分からなかっただろう。
行雄は屈辱に青ざめながら、ゆっくりと立ち上がった。宮部とSは黙ったまま視線を落としているが、明らかにこちらの立ち居振る舞いに全神経を集中させているように見えた。 行雄はその場に倒れ込みたいぐらいの心境だったが、ここで取り乱してはならないと考え、あえてゆっくりとした足取りで教室を出ていった。
9)歌舞伎研究会
それから数週間、行雄は自分の不甲斐なさと百合子に対する怒りと失望で、やり切れない日々を送った。屈辱の思いと後悔の念が彼を襲った。 徳田や高村に促されて、百合子に仲直りを申し出たことは慙愧に堪えなかった。彼女は他の男子学生がいる中で、これ見よがしに自分を侮辱したのだ。
やり場のない怒りと悲しみに行雄は悶えた。しかし、どうすることもできない。 彼は徳田や高村との交友も控えるようになり、仏文科の授業にも必要以上には出席しなくなった。大学に行けば、嫌でも百合子と顔を合わせることになる。それを避けようとしたのだ。その結果、行雄は自宅にいる時間が増え、クラシック音楽を聴いたり、どうでも良い哲学書や文学書をひもとくことが多くなった。
しかし、そんなある日、行雄が必修の講義に出席した時に、珍しくクラスメートの橋本敏夫から声をかけられた。 橋本は授業にほとんど出てこない男だったが、この時は旧友である行雄を見て話しかけてきたのだろう。
彼は以前、行雄が革命運動に挫折して絶望のどん底に陥っていた時、それを見兼ねてかキリスト教を信じる学生の会に誘ってくれた男だ。 橋本に連れられて、練馬の「友愛の家」を訪れたことや、精神薄弱者の施設のために一日中、便所作りに汗を流したことはよく覚えている。(注・第一部の「死から生へ」の項)
行雄はキリスト教に付いていけなかったので、あれ以来、橋本とは疎遠になっていたが、憂うつで孤独な日々を送っているだけに、彼から久しぶりに声をかけられて嬉しかった。 二人は講義が終ると、本校舎に近いS喫茶店に入った。
話しをしているうちに、クリスチャンだと思っていた橋本は、どうやら“デカダン”な生活に陥っているらしく、学業単位の取得もままならず既に留年が確定的な状況だった。 しかし、彼は屈託のない様子で「6年でも7年でも大学にいるさ。中退したって構わないよ」と言う。彼の悠々とした話しを聞いていると、行雄は何か救われるような思いがした。
自分は百合子のことで悶々と“いじけた”日々を送っているのに、単位の取得も全く進んでいない橋本の方が、行雄よりずっと大らかに伸び伸びと生活しているみたいだ。 こういう生き方を“大陸的”と言うのだろうか。 今や女のケツだけを追いかけているような自分が、情けなく思われる。
橋本は自身のデカダンな生活ぶりを詳しくは語らなかったが、行雄は彼にある種の魅力を感じた。彼は全学連のデモにもよく来ていたし、クリスチャンとも仲良くするし、美人の山西美佐にも言い寄ったりしていた。 橋本は大陸的で虚無的で、自由奔放な性格のようだ。カミュの「異邦人」が大好きと言うのだから、きっとそうなのだろう。
「夏休みになったら、一度遊びに来ないか」と橋本は言う。彼の故郷は兵庫県の豊岡という所だ。「のんびりとした田舎だ。君のような都会育ちの人間には、息抜きになると思うよ」そう言う橋本の誘いに、行雄は感謝したいぐらいの気持になった。百合子の呪縛から、多少は解放されるだろうか。 橋本の田舎に行けばリフレッシュできるだろうか。 そんなことを考えながら雑談しているうちに、1時間以上も経ったので二人はS喫茶店を出た。
その後も、行雄は大学へ行くたびに橋本と出来るだけ落ち合うようになった。彼の下宿先は西早稲田にあったので何回か訪ねていったこともあり、急速に親交を深めていった。 橋本も、行雄が百合子と以前付き合っていたことを、誰から聞いたのか知っていたがほとんど何も言及してこなかった。
そういう態度が行雄を安心させた。徳田や高村のように、百合子との交際を何度も促してくると、彼も気になっておちおちとしていられなくなるが、橋本は他人の事情には無関心という姿勢なので、行雄は気楽に彼と話すことができたのだ。
やがて夏休みが来た。 行雄は8月になったら豊岡にお邪魔したいと橋本に告げると、彼は快諾してくれて一足先に帰郷した。夏休みを有効に使おうと、行雄は“一大決心”をしてホメロスの「イリアス」をフランス語訳で読むことにした。
辞書を片手に難解な文章に挑む。英雄・アキレウスがトロイ戦争の中で活躍する壮大な叙事詩を読んでいると、浮世のつまらないことはほとんど忘れ去られていく思いだった。 20日間ほどで「イリアス」のフランス語訳を読了すると、8月の上旬を過ぎていた。
行雄は橋本と連絡を取って豊岡へ向った。途中、京都と大阪で三泊して観光を楽しんだ後、豊岡に入った。 橋本が温かく迎えてくれたので、彼の家に四泊する。地元の夏祭りを見たり、城崎や玄武洞、日本海に面した海中公園などにも足を伸ばし、行雄は夏の行楽を十分に満喫した。
日本海の眺望を楽しんでいると、橋本が「堀江青年ってすごいなあ〜」と言う。彼が言ったのは、つい数日前、堀江謙一という若者が「マーメイド号」という小さなヨットに乗り、単独で太平洋を横断してアメリカに着いたというニュースのことだった。
「すごいね」と行雄も答える。まるでアキレウスのようだ。自分達とほとんど年齢の違わない一青年が、大胆にも単独で太平洋を横断した。素晴らしい快挙だ。 行雄はふと、全学連時代の英雄的な闘争を思い出した。デモなどの集団行動と個人的な冒険とは次元が異なるだろう。
しかし、そこには“若さ”がある、若さが共通している。俺にもまだ若さがあるのだろうか。「20歳」という有り余るエネルギーを持っているはずの俺には、本当に若さが残っているのだろうか。 俺は堀江青年のように、勇敢でたくましく行動することができるのだろうか。
行雄はそう自問したが、英雄的な時代はもう二度と自分には来ないだろうと予感した。英雄的な行為や献身的な奉仕活動などは、プチブルの日常生活に埋没している俺にはもう無縁だと思う。 俺はプチブルらしく大人しく、毎日を平々凡々と送っていくしかない。そう思うと、彼は諦めにも似た安らぎを覚えるのだった。
豊岡での滞在を終えて、行雄は浦和に戻った。すっかり日焼けした彼は、その後も市民プールに出かけたり秩父方面をハイキングするなど、健康的な日々を過ごした。 夏休みも残り少なくなると遠出は控え、旧友の向井弘道の家へ遊びに行ったりした。
行雄は雑談の中で、百合子との交際が破局したことを向井に語った。彼にそういう話しをしたということは、“未練心”がまだ残っていたからだろう。 向井は「そんな女と付き合うのは止めなよ」とあっさり言う。その通りだその通りだと、行雄は心の中で反復した。
向井の言うことが正しい、自分にあれほど屈辱を与えた女と付き合えるものか、と思う。しかし、時が経つにつれて、情けないことに行雄はまた百合子の幻影に悩まされることになる。 夏休みも終りに近づくと、新学期に大学へ行けば、嫌でもまた百合子と顔を合わすという“強迫観念”に苛まれるようになった。
彼は自転車に乗って荒川べりに出かけた。草むらに寝ころがって遠い空を眺めていると、雲間から百合子の幻影が浮かび上がってくる。 行雄は、ちょうど3年前、同じ空の彼方に森戸敦子の幻影が浮かんでいたことを思い出した。敦子の白い顔は消え失せ、今はそこに百合子の面影が漂う。
寝返りを打って雑草に戯れると、夏草の微かな匂いが心地よく感じられた。この匂いは百合子の“体臭”だろうか・・・陶然として行雄は匂いを嗅ぐ、嗅ぎ続ける。 ああ、俺は百合子とは離れられない、百合子の呪縛からは逃れられない、彼女の魔法から抜け出ることはできないのだ。行雄はそう悟った。
百合子の幻影と心行くまで戯れてから行雄は帰宅した。もうこの時には、向井の忠告も、先に彼女から受けた屈辱のこともすっかり忘れ去られていた。 泥沼から這い上がるような気持で、彼は百合子との仲直りをあれこれ考える。しかし、そこに妙案があるわけではない。もがけばもがくほど、逆に泥沼にはまり込んでいくような気持だ。
そのうちに、新学期の前日となった。明日は百合子と顔を合わさなければならないと思うと、行雄は追いつめられた心境になり、例によって「成るようになれ」という半ば“やけくそ”の気分になった。 どうしたら彼女と仲直りできるのか、その妙策はあるのか。百合子にすり寄っていってまた侮辱を受けたら、それで一巻の終りではないか・・・
思いあぐねていると突如、ある考えが閃いた。歌舞伎研究会に入るのだ! 行雄はこれぞ妙案妙策だと思った。百合子が歌舞研のメンバーだから、自分もそこに入れば良い。虎穴に入らずんば虎児を得ずだ、いや、毒を食らわば皿までだ! これこそ最後の英雄的な行為かもしれない。行雄は決然とした気持になった。
翌日、新学期の授業もそこそこに、行雄は学生会館にある歌舞伎研究会の部室を訪れた。「歌舞伎が好きなので入会したいのです」と、彼は心にもないことを言って200円の部費を払い、入会手続きを済ませた。 理屈好きな行雄は「俺は百合子を愛している、百合子は歌舞伎研究会に所属している、故に俺は歌舞研に入会する」という“こじつけ”の三段論法で、自らを納得させた。
行雄は歌舞伎がさして好きでもなかったが、そうかと言って嫌いでもなかった。母の久乃は歌舞伎が好きで、行雄が高校一年の時、彼を初めて歌舞伎座に連れて行ったが、その後も新橋演舞場や明治座に一緒に行ったことがある。 その時の演目が何だったか行雄はもう覚えていないが、鏡獅子や連獅子などの舞踊は鮮やかな印象として残っていた。
歌舞伎の様式美と艶やかさに心を惹かれたが、行雄はのめり込む気持にはなれなかった。その後、森戸敦子との交際を経て安保闘争の疾風怒涛の時代に入ると、歌舞伎のことなどはほとんど忘れ、たまに思い出しても軟弱なもの、女々しいブルジョア演劇だと“革命家気取り”の彼は忌避していた。
ところが、百合子への愛が芽生えてから、彼女が歌舞研のメンバーだということで歌舞伎に再び接触せざるを得なくなった。 百合子と話しをしたい一心から、一夜漬けで「歌舞伎入門」の本を読んで、早稲田祭の歌舞研のサークル会場に乗り込んで行ったのは、つい昨日のことのように思い出される。あの時から、百合子の存在と歌舞伎の関係は切っても切れないものになったようだ。
行雄が歌舞研に入会したことを、百合子がどう思ったかは分からない。彼女自身への好意の表れと感じたのか、それとも迷惑なことだと受け止めたのか分からないが、それは行雄にとってどうでも良いことだった。 はっきりしているのは、歌舞研のサークル活動が大体週に2回行なわれるので、それだけ二人の会う機会が増えたということである。
仏文科の授業とはまったく異なる環境で会う機会が増えれば、二人の関係は予期しない発展を遂げるかもしれない。「成るようになる」という運命論者の行雄は、自らをこれまでと違った環境に置くことによって、運命が少し変ってくるかもしれないという淡い期待を抱くのだった。
相手が怖いため(それは極度に侮辱されたからだが)、自分では積極的にアプローチできない意気地なしの行雄にとって、環境が変ることは“運試し”みたいなもので、そこに百合子との関係がどう展開していくのか、“もう一人の自分”が傍観者のように見ていこうという側面もあった。
10)1周年
行雄が歌舞伎研究会に入ってから半月ほど経った日曜日、浦和の自宅に森戸敦子の母である敏子が訪ねてきた。 埼玉県・川口市の知人に用があったついでに立ち寄ったものだが、彼女は村上家を久しぶりに訪れたこともあって、行雄の父や母と歓談していった。
敏子は最近の森戸家の写真も持ってきたが、特に娘の敦子のものを見せたかったらしい。同席した行雄が驚いたのは、敦子が大学の先輩とすでに婚約しており、その記念写真などを見せてくれたことだ。 敦子と先輩のO氏は、翌年の3月に国際基督教大学のチャペルで結婚式を挙げることになっているという。
二人が写っているカラー写真を見ると、O氏は背が高くてスポーツマンタイプだが理知的な感じのする好青年で、隣にいる敦子は花のような美しい笑顔を浮かべている。 父の国義が「敦子ちゃんはまだ大学生だというのに、もう結婚するの?」と聞くと、敏子は「そうなんですよ。まだ早いと思うのですが、あちら様が急いで入籍してほしいと言うものですから」と答えた。
敏子の話しによると、O氏の両親、特に母親が敦子のことを大変気に入っており、実際の新婚生活は2年後でも良いから、婚姻届けは早めに済ませたいのだという。そして、アメリカなどでは“学生結婚”が当り前になっていると付け加えた。 母の久乃が「こんなに立派な方と、敦子ちゃんが結婚するなんて本当に幸せですね」と言うと、敏子は満面に笑みを浮かべた。
国義と久乃が祝意を表わしたので、もともと快活で口数の多い敏子はいっそう饒舌になっていった。彼女の話しによると、O氏は翌春大学を卒業するが、すでに大手出版のI社に就職が内定しており、非常に優秀なので前途洋々たる道のりが期待されているというのだ。
敏子はさらに「向うのお母様が、敦子の“頭”が欲しいのですって」と言った。つまり、O家の将来のため、敦子の知性や能力が欲しいということだ。 行雄は成程と思った。敦子は彼が羨むほど知的で賢く、しかも謙虚で芯の強いところがある。そこにO氏の母も惚れたのだろう。
それよりも大学生で結婚するとは、敦子がO氏と熱烈で強い愛情で結ばれていることを窺わせる。行雄も素直にお祝いの気持を敏子に伝えたが、敦子の場合と違って、自分は百合子とどうして上手くいかないのだろうかと、憂うつな気分になっていた。
敏子は国義夫妻と「名古屋時代」の思い出話しに花を咲かせたあと帰っていった。 O氏と並んで、喜びに満ち溢れた美しい笑顔を見せる敦子・・・写真の残像が行雄の脳裏にこびりついて離れない。彼女への祝意の気持と同時に一抹の寂しさを感じざるを得なかった。
かつてあれほど憧れ愛していたはずの敦子が、自分とはまったく無縁の好青年のところに嫁いでいくのが素晴らしいことでもあり、同時に残念なことに思えてならないのだ。敦子の幻影が百合子のそれに移っていく。 自分にはいま百合子しかいない。彼女と共に幸せにならなければならないと行雄は思うのだが、前途はまったく見通しが立っていないのが現状だった。
百合子と一緒にいる時間を増やそうと、初めは“不純”な動機で歌舞伎研究会に入った行雄だったが、サークル活動に参加しているうちに、次第に歌舞伎そのものに関心が深まるようになった。毎月一回ほど歌舞伎の公演を団体で見る機会があり、劇場最後部の「大向う」から芝居を楽しんだ。(学生は金がないので、良い席からは見られない! 割安の団体観劇というものだ。)
彼が最も魅せられたのは色彩の豊かさ、艶やかさだった。舞台も役者も衣裳も幕も、全て艶やかなのである。 貧しく悲しい物語の出し物でも、不思議に艶やかさを感じる。だから、歌舞伎を見ていると行雄はいつも“うっとり”としてしまうのだ。全体にスローテンポなのが、ますます“うっとり”とさせるのだろうか。
ある晩、最も遅い演目の時、最後部の座席が空いていた。今日は立ち見ではないので、歌舞研の学生達は喜んで席に座った。 出し物は何だったのか行雄は覚えていないが、彼が座った席は百合子のいる所から三列ほど後ろだった。
あれは何だったのか、「いがみの権太」だったろうか・・・それは忘れたが、行雄はいつものように陶然として芝居を見ていた。前にいる百合子が背筋を真直ぐにして芝居を見ている。 行雄は芝居を見ながら百合子の後ろ姿を眺めていた。そのうちに、彼は彼女と“一体”になっていくような感じがした。行雄と百合子は同じ方向を同じように一緒に見ているのだ。
その時、行雄は微かな幸せを感じた。それは純粋な喜びであった。俺は彼女と同一のものを分け合っている。その実感が湧いてきて幸せを感じたのだ。 その晩、行雄は歌舞伎研究会に入って初めて良かったと思った。今度は百合子と二人だけで歌舞伎を見にいくか、あるいは荻窪の彼女の家を初めて訪れようかと“戦略”を思い巡らせるのだった。 百合子と歌舞伎を一緒に見た幸福感から、行雄はようやく希望を取り戻したかに見え、今度は気後れすることなく彼女に言い寄ろうと思った。
それから数日して、行雄は歌舞伎研究会の定例の会合に出席した。 秋の早稲田祭が近づいてきたので、歌舞研の活動目標をどうするか幹事を中心に打ち合わせが行なわれ、皆がいろいろと意見を出し合った。その時、百合子が非常に積極的に数々の提案を行なったが、彼女が人前でこれほど多弁に振る舞う姿を見るのは初めてであった。
行雄は半ば感心して聞き入っていたが、得意気に話しをする百合子は絶えず微笑をたたえ、極めて艶やかな生めかしい雰囲気を醸し出していた。 もっとも、そう受け止めたのは行雄だけだったかもしれない。なにしろ、彼は特別な感情で百合子に見とれていたのだから・・・女のフェロモンが発散されているように感じたのだろう。
会合が終ると、夜の8時を過ぎていた。学生達は三々五々別れたが、行雄は吸い寄せられるように百合子の跡をつけていった。彼女はゆっくりと歩きながら学バスの停留所の方へ向う。 しかし、百合子に近づこうにも、暗闇の中の彼女の妖艶な姿態に“不気味”なものを感じて、行雄は声をかけることができなかった。
翌日の午後、仏文科の授業が終った後、行雄が教室を出ると百合子が廊下で堀込恵子と何やら話しをしていた。 今日こそ気後れしてはならない、白昼堂々と言い寄ろうと思い、行雄はつかつかと彼女に近づくと声をかけた。「やあ、中野さん、こんど君の家に遊びに行ってもいいですか?」 すると、百合子は不意を衝かれたかのように驚いた表情を見せ、反射的に「困ります!」と叫んだ。
三人の間に気まずい雰囲気が流れた。 小柄で眼鏡をかけた利発な堀込も、バツの悪そうな顔をしている。百合子は無愛想な表情を崩していない。それ以上次の言葉が見つからない行雄は「そう・・・ごめん」と言っただけで、顔をぷいと横に背けるとその場を離れた。
畜生・・・いつもこうなんだ、どうして上手くいかないのだろうか。自分は歌舞伎研究会に入ってまで百合子の跡を追いかけているというのに、どうしてこんなに惨めな結果に終るのだろうか。 俺の言い方が唐突で不しつけだからだろうか。そうかもしれない。そうかもしれないが、いざと言う時になると、どうして百合子は俺に冷たい仕打ちをするのだろうか。
行雄はあれこれ思い悩みながら帰宅した。悔しい、情けないという気持で一杯だった。 彼はベッドに寝ころがると、モーツァルトのレコードを片っ端から聞いていった。音楽を聞けば少しは気持が和らぐだろうと思ったからだ。 しかし、そんなことをしても彼の悩みは一向に消えない。ますます悲しく“やるせない”気持になっていった。
俺と百合子との関係は、どうしてこんなに“ぎくしゃく”するのだろうか。 上手く行きそうだなと思うとつまずく。希望を持ったとたんに失望する。喜び勇んで進むと、悲しみのどん底に突き落とされる。なんと因果な関係なのだろうか。なんと不幸な巡り合わせだろうか。行雄は百合子との関係を呪わしく思った。
行雄が憂うつな気持で過ごしていたある日のこと、徳田誠一郎が例の中山教授の講義の後、ある相談を持ちかけてきた。「村上君、お願いがあるのだが、中学生2年生の家庭教師のアルバイトを代ってもらえないだろうか。 実はバイト先が増えすぎて手に余っているんだ。なんとかならないだろうか」徳田が丁重に頼んできた。
事情を聞くと、つい最近、フランスの製品を扱っている某商社が、日本国内での販売を促進するため大キャンペーンを実施することになったが、人手が足りないのでフランス語が分かるアルバイトを募集しているというのだ。徳田の話しによると、バイト料は相当に高そうだった。実入りも良くなるし、フランス製品にも通暁するので彼は非常に乗り気になっているが、大変忙しくなるため、週2回の家庭教師のバイトが邪魔になってきたという。
行雄は苦笑したが、百合子のことで“もやもや”した毎日を送っているだけに、アルバイトをすれば気分転換にもなるし、初めてバイト料金を手にすることができる。 徳田も困っているし、中学生を週2回教えて毎月5千円の報酬なら悪くないと思い、彼の申し入れを受けることにした。
数日後、行雄は徳田に連れられて東京・田端に住む国鉄職員Sさんの家を訪れ、女子中学生とその家族を紹介された。 彼は毎週月曜と木曜に家庭教師を務めることになり、Sさん一家と暫く雑談したあと帰宅した。田端は庶民的な雰囲気の街なので行雄は親しみを感じた。後年、彼が社会に出てから田端でアパート住いをしたことがあるが、それもこの時の印象が良かったのが理由である。
家庭教師を始めてから気が紛れたのか、それとも少し自信がついたのか、行雄は百合子との“まずい”関係について暫くはあまり気にならなくなった。 どうせ世の中は「成るようになるさ」という気楽な心境にもなり、よく見れば百合子なんか“お多福”や“お亀”みたいな顔をしているじゃないか、あんな女のどこが良いのかと、心の中で盛んに彼女をこき下ろすようになった。 それは美味しいブドウを食べそこなった狐が、悔しがって「あれは酸っぱいブドウだ」と負け惜しみを言う、イソップ物語の寓話によく似ていた。
そうした日々を送っているうちに、世界は途方もない危機を迎えることになった。 10月22日、アメリカのケネディ大統領はテレビ・ラジオを通じて、ソ連の核ミサイルがキューバに配備されており、アメリカは今後、武器を運ぶ船舶がキューバに入ることを交通遮断(海上封鎖)すると、異例の緊急発表を行なった。 この時、ミサイルや武器を積んだソ連船が続々とキューバに向っており、海上封鎖をするアメリカ海軍・空軍と衝突した場合、米ソ両国は戦争も辞さないという強硬な構えを示した。
この危機的な状況の中で事態を更に悪化させたのは、10月27日、キューバ上空を偵察飛行していたアメリカ軍の偵察機が、ソ連軍の地対空ミサイルによって撃墜されたことである。 一方、ミサイル等を積んだソ連船は、アメリカが設けた海上封鎖ラインにどんどん近づいていった。一触即発の事態である。米ソ両国は全面核戦争に突入するのか!? 世界中が固唾を呑んだ。いわゆる「キューバ危機」の発生である。
核戦争の危機が到来し、緊張が高まる中で、恐怖に脅えたのは米ソ両国民だけではなかった。(アメリカでは全土で、核シェルターに避難するため食糧の備蓄が始まっていた。) 数多くのアメリカ軍基地がある日本も、もし米ソ間で核戦争が起きれば当然、巻き込まれる恐れがある。 ソ連のフルシチョフ首相はかつて「日本などは、何発かの水爆で“蒸発”させてしまうことができる」と言明したことがある。その言明が現実のものとなるのか? この時、多くの日本人も恐怖に脅えたのである。
10月末のある朝、行雄は高田馬場駅横のバス停で学バスを待っていると、何列も連なる学生達の中に背の高い百合子の姿を認めた。彼女は行雄の姿には気付いていない様子だったが、凛としたその姿と白い顔立が妙に引き立って見えるのである。行雄は百合子を凝視していた。
核戦争の危機が切迫しているせいか、その日の百合子はこれまでになく美しく、そして“愛おしく”見えるのである。 日本が核戦争に巻き込まれたら、その時こそ俺は彼女の元に飛んでいくだろう。フルシチョフが言うように日本が壊滅する日が来たら、その時こそ俺は有無を言わせず彼女を抱き締めるだろう。
つい先日まで、百合子のことを“お多福”“お亀”などとこき下ろしていたくせに、行雄は今や最も神聖で純粋な気持から彼女を愛することができると思った。 日本が壊滅する時、人々が死滅する時、俺は百合子に永遠の愛を誓い、彼女の胸の中で死を迎えよう。それは何と美しく神々しいことだろうか。 人間の精神は戦争や破局など絶体絶命の危機を迎えると、こうも純化されるのだろうか・・・行雄は夢想に浸りながらそう考えていた。
しかし、それから暫くして事態は劇的な展開を見せた。アメリカの海上封鎖ラインに到達したソ連船は臨検を受けた後、米軍の戦艦などに伴われて引き返していったのである。それとほぼ同時に、ソ連政府はキューバからの「武器の撤去」を正式に表明し、アメリカもキューバを攻撃しないことを確約した。 危機は去ったのである。世界中が安堵した。
その直後、行雄は橋本敏夫の下宿先に遊びに行ったが、彼も明るい笑顔を浮かべて「核戦争が起きなくて良かったな」と言う。行雄も「本当に良かった」と答えるだけだった。「キューバ危機」はそれほど多くの日本人をも不安に陥れていたわけで、危機が終息して誰もが胸を撫で下ろす状況だった。
間もなく、11月7日がやって来た。1年前、行雄がバスの中で百合子の姿態を認め衝撃を受けた日である。 45年前のその日に起きたロシア革命が、その後の国際共産主義運動に計り知れない影響を与えたように、1年前の百合子から受けた衝撃は、その後の行雄の生き方に甚大な影響を及ぼしたのである。
もとより、全世界を震撼させた革命と、一個人を戦慄させた衝撃とでは比較のしようがない。しかし、行雄にとっては、ロシア革命の歴史的な意義以上に、百合子から受けた戦慄的な影響の方が重大な意味を持っていたのである。
1年前、バスの中で彼女に出会わなかったら、自分の人生はどうなっていただろうか。あの衝撃的な出会いがなかったなら、心穏やかな日々を送っていられただろうか。 運命の悪戯というのは、あのような出来事を言うのだろうか・・・行雄はあれこれと思いを巡らせた。
もしあの日がなかったとしても、自分はいずれ百合子の魅力に翻弄されるようになっていたかもしれない。しかし、それはまったく“仮定”の話しだ。 世界の歴史に「もしも」という仮説が成り立たないように、個人の歴史にも仮説は不要である。
1年前のあの日から自分の運命は変ってしまったのだ。百合子なしには全てのことが考えられなくなった。それだけが真実であり、それだけが自分の歴史なのだ。 彼女の存在自体が自分の全てになってしまったのだと、行雄は考えるしかなかなかった。
当初、百合子に対する彼の想いは、純粋で清らかで神聖なものであったはずだ。 しかし、その後、汚れのない恋慕の情は次第に不純な欲情と化していったのではないか。至高至純の愛が、なぜ野獣のような性欲に変質していったのか。 百合子の姿態を見るたびに、俺は彼女の肉体に過敏に反応するようになり、恐れ戦くようになったのではないか。その恐怖が根底にあるから、ちょっとしたことで俺は暴発し、彼女に絶交状を叩き付けたりしたのではないか。
俺は逆上し、百合子を「呪い殺す」とまで言った。凶暴で残酷で野蛮なあの手紙は、この恋が“偽り”のものであり、決して実らないのだということを暴露したようなものだ。 しかし、その後も俺は彼女の跡を追い続けた。入る必要もない歌舞伎研究会にまで入会し、ストーカーのように彼女にまとわり付いている。一体、これは何だと言うのだ! この1年間の己れの苦悩と変貌に、行雄は愕然とする思いを新たにするのだった。(第136項目へ続く)