Kanon〜カノン〜


本当に大切なもの

第一章 求めていた光景


「……ここ、は……一弥の部屋!」

 一弥の部屋はあれから誰が使うこともなく、そのままの姿で残され
ていた。もっとも、掃除等は欠かしたことがなく、塵ひとつ落ちてはいないが。

 主を失ったベッドや机、そう、ベッドはもう何年も使われてなくて、
そして、これからもずっとそのままで……。

「そのままの……はずだったのに……か……ずや……一弥、一弥が眠っ
てる……」

 主を失ったはずのベッドで眠っているのは、間違いなくこのベッド
の主であった一弥だった。

「ど……して、どうして一弥が……いるの? これは、夢?」

 佐裕理は眠っている一弥に抱きついた。カーテンの隙間から夕暮れ
の日の光が差し込んている。

「……夢なら……さめないで……」

 佐裕理はもう泣いていた。瞳からはとめどなく涙が流れ、頬を伝っ
たそれは、一弥の額に。

 ポタッ……。

「んん? ………………うわ!
 涙を頬に受けた一弥は、目の前で泣いている佐祐理を見て思わず声
をあげてしまった。

「ど、どうしたの? お姉ちゃん……?」

「一弥……うぅ……っ!」

 佐祐理は一弥の部屋を飛び出した。

「へ? あ、お、お姉ちゃん!」

 一弥の部屋から出た佐祐理は、書斎に向かって走った。目にはまだ
涙があふれている。

「お父様っ!」

 その時、ちょうど書斎から父親が出てきたところだった。

「お父様っ!」

 佐祐理は父親に走り寄って上着を掴んだ。

「さ、佐祐理? ……どうしたんだ?」

 いつもの佐祐理とは、似ても似つかない態度に、動揺を隠せないよ
うだった。

「あの……お父様……一弥が……佐祐理は……」

 父親は佐祐理の頭に、そっと手を乗せた。

「一弥が、どうかしたか?」

 優しい口調……それは、佐祐理を僅かだが落ち着かせた。さすが
は佐祐理の父親といったところだった。

「一弥が……一弥が部屋にいたんです」

「……それが、どうかしたか?」

「……はぇ?」

 頭から聞き返してしまう佐祐理。

 予想外の父親の反応に、落ち着きかけていた佐祐理はまた混乱して
しまった。

「だって……一弥は……一弥は小学生の時に死んじゃったじゃないで
すか!」

 佐祐理のせいで……。佐祐理は小さな声でそう付け足した。

「何を言っているんだ? 佐祐理。一弥は死んでなんかないぞ」

「ふえ?」

「はははっ。きっと悪い夢でも見たんだろう。もう少し自分の部屋で
休んでくるといい」

「……はい、お父様」

 そう言うと佐祐理は部屋に戻っていった。



 表情……というものがなくなってしまう程、佐祐理は混乱していた。

 夢? すべて夢だったのだろうか?

 3年前……わたしたちの見守る中、息を引き取った一弥……。それ
は、すべて夢だったのだろうか? 本当に幻だったのだろうか?

 でも……本当に夢だったのなら……。

 一弥、また一緒に遊べるね。こんどは水が入ってる水鉄砲で、びしょ
びしょになるまで撃ち合って・・・風邪をひくくらい遊んで……笑って
……泣いて、……そして怒られて。あははーっ。楽しいだろうなあ…
…。

「よかった……」

 よかった? 本当によかったの?

 もうひとりの佐祐理が言った。

 だって、一弥が……一弥が生きていたんだよ?

 そう、最愛の弟が生きていた。わたしにとってそれ以上の喜びは、
ありえない……。

 一弥さえいればいいの?

 もうひとりの佐祐理は続けた。

 本当に、一弥だけでいいの? 舞や祐一さんは一弥の代わりでしか
なかったの?

 ……舞……祐一……さん、わからない……わからない!

「一弥くんのお姉さん……」

「!?」

 はっと前を見ると、そこには羽の生えた少女が立っていた。

「一弥君のお姉さん……」

 少女は静かな口調で言った。背中の羽根が淡く輝いている。

「……」

 返事をしたいのに、驚いて声が出なかった。まあ、この状況で
普通に話せる人間はいないだろうが……。

「一弥君のお姉さん……」

 少女はくり返した。

「……」

「一弥君のお姉さ」

「は……い……?」

 なんとか声を絞り出せた。少女も笑みを浮かべている。

「あのね、1日だけ……1日だけ、あげるから」

 1日だけって……なんのこと? ……ううん、本当はわかってる。

 佐祐理が黙っていると。

「一弥君のことだよ」

 そう少女は付け足した。

 やっぱり。……でも、実際にそう聞くと……。

「一弥……やっぱり死んじゃったんですよね……」

「あ……」

「あはは……バカみたいですよね。お父様があんなに普通にしてるか
ら、少し期待してしまいました……っく……うぅ……」

 治まりかけていた涙が、また頬を伝い流れ出していた。

「あ、で、でもね。だから、ほら、あの……も、もう1回。今日1日、
一弥君と一緒にいられるわけだし……えーっと、だから〜……」

 少女は必死で佐祐理を慰めた。焦って、言っていることがさらに墓
穴を掘っている。ということはこの際、気にしない。(いいのか?)

「……うん。慰めてくれて、ありがとう。かわいい天使さん」

 佐祐理には不器用な慰めしかできない、少女の思いが通じたよ
うだった。

「え? あ、えへへ。かわいい、かな……」

 対する少女の方は、顔を赤らめて照れていた。

「あははーっ。……でもどうして1日、一弥にくださったんですか?」

「・・・えっとぉ」

 少女は少し困った顔になった。それでも、無理矢理微笑んで……。

「む、昔に……ちょっと……」

 言えないよ……。一弥君は、ボクのせいで……。

「はぇ? 昔に? 昔に一弥と」

「あの!」

 佐祐理の言葉を遮るように、少女は言った。

「ふ、ふぇ?」

「あの……佐祐理さん次第なんだよ。佐祐理さん次第で、一弥君はずっ
とこの世界で暮らせるよ。いつまでも……一緒でいられる」

「……ふ、ふぇ? ほ、ほ……ん……とう?」

 少女は腰に手を当て、うん。と自信たっぷり、元気いっぱいに頷い
た。

 さすがの佐祐理も、これが作り笑いであることには気が付かなかっ
ただろう……。

「ただし……期限は今日の日没まで……それと、ひとつだけアドバイ
ス。ううん。ちょっと生意気って思われるかもしれないけど、これは
……」

 忠告、かな? と苦笑いをしながら、すまなそうに少女は続けた。

「本当に大切なものは……ひとつだけ、だよ」

   突然、目の前でフラッシュされたようになり、佐祐理は目を暝っ
た。

 目を開けた時、少女はもう、いなかった。


     『大切なものは、ひとつだけ』


 その言葉と数枚の羽根を残して。少女は、消えた……。



第二章 雪の街をふたりで

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