小説・エッセイ
|
「ビリー」
体験談 2000.12 |
|
ビリーはフィラリアにかかっていた。もう手遅れだった。ビリーは玄関につないであった。もう時間の問題だった。 ビリーは僕が中学1年の頃、知り合いから譲ってもらった。まだ生まれたばかりのビーグルの仔犬だった。それから8年間、ビリーはうちの家族の一員として、過ごしてきた。8歳というのは犬にとってもまだまだ寿命といえるような歳ではなかった。そう、実際その日が来るまでは、ビリーはすごく元気で力強かった。その日が来るまでは。 その日、僕はいつものようにビリーを散歩に連れ出した。夕方だった。いつも散歩はうちから歩いてすぐの田んぼの入り口のところまで行く。その辺りは、恰好の散歩コースなのだ。その日もそこで他の犬がいた。ビリーはいつものように興味を示し、興奮して吠えた。ひとしきり吠えた。いつものことだった。そこからがいつもと違った。 ビリーは苦しそうにして、田んぼの脇の草むらにぺたんと横たわってしまった。そんな様子に僕はびっくりした。僕はビリーが落ち着いてくれるのを待った。しばらくして、ビリーを立たせようと綱を引っ張ったが、ビリーは立とうとしなかった。呼吸が苦しそうだった。これはただ事でないと思い、ビリーを抱いて、家まで走った。 そのまま車で病院に運んだ。しかし先生が言うには、もう手術は無理、とのことだった。先生は言葉を選んで話してくれたが、もう死ぬ のは時間の問題らしかった。それからのおよそ2週間は、何とも言いようのない、切ない日々だった。 * * * 僕は枯れたススキのような、けっこう背丈のある草むらの中の小道を歩いている。加藤と一緒だ。加藤は中学のときの友達だ。今思えばそんなに気の合うところがあったとは思えないのだが、でもその頃のことを思い出せば、僕はかなり頻繁に加藤と会っていた。その加藤と一緒に草むらの中をどこへともなく歩いていた。 しばらくして視界が開けると、そこは河原だった。見たことない河原。天気はいいが、まだ朝の時間で、少し肌寒い。そんな中を河原の脇の小道を上流に向かって、ビリーと歩いている。そう、いつの間にか、加藤とではなく、ビリーと一緒に河原を歩いている。僕は何か忘れたが、ビリーと言葉を交わしながら歩いた。どこへ向かっているんだろう。とにかく、上流に向かって、僕もビリーも歩いている。 すると、母の呼ぶ声がした。「純!」「純!」 * * * 「純!」と母の呼ぶ声。僕は「えー?」と、布団の中から返事をした。「純!ビリーがもう駄 目みたいなの!」
ビリーが亡くなってから、もう8年経つ。今でもよくビリーの夢を見る。もう死んだと思っていたビリーが実は生きていたという夢。散歩に連れて行ってやる夢。よくは思い出せないけど、とにかくビリーが出てくる夢。ただ、ビリーがまさに息を引き取るときに僕が見ていたような夢は、あれが最初で最後だ。ビリーは一人で旅立つのが心細かったのか。あるいは僕がその時寝ていたから、お別 れを言いたかったのか。僕を旅の途中まで、つき合わせたのではないだろうか。僕はそう思うのだ。ビリーが、最後のお供に僕を選んでくれたことは、すごく嬉しい。 今でもビリーのことはよく覚えている。頭を触ったときのやわらかい毛。耳の形。狭い額。僕が縁側に座っているときに、隣に来て、僕の足の上に座ったビリーの温かな体。抱いたときの頭のにおい。これからも決して忘れることはないのだろう。 |
|
「どんぐり仮面
」
2000.5 |
|
僕が小学校2年生の夏休み、僕はその話を父から聞いた。他のことはほとんど覚えていないが、その「どんぐり仮面 」の話だけはよく覚えている。 どんぐり仮面を父が見たことがあるのかどうかはその話からは分からなかった。父の話し方は自分が体験したような話し方でもあったし、しかし人から聞いたような感じのニュアンスのところもあった。ただ、「どんぐり仮面 」は、人が困って、困って、苦しんで、もうどうしようもなくなった時にどこからともなく現われて、助けてくれる、救世主のようなものだということがその話の大筋だった。「願って、願って、願い続けた果 てに、どんぐり仮面が現われる。」と、力説していた父の姿をなんとなく覚えている。父はその年の夏の終りにこの世を去った。 父が亡くなってから少したった頃から、僕はあまり友達と遊ばなくなった。一人で家にいることが多くなり、学校でも前ほどは口をきかなくなった。特に男の子とは、話しずらくなった。自然と、僕は変わり者扱いされるようになり、いわゆるいじめられっ子になっていた。いじめというと、最近はかなりひどいものがあるようだが、それに比べれば僕があった「いじめ」というのは、ほんの小さなものだったろう。例えば、無視されるとか、持ち物にいたずらされるとか、その程度のものだった。しかし、子供心にはその程度のことでも大きな傷となり、学校がどんどん嫌いになっていった。 僕は「どんぐり仮面」の事を思いだしていた。それが本当に存在するということは中学校2年生になっていた僕にとっては信じ難いものに思われたので、現われてくれることを願う、ということはなかったと思う。しかし、「どんぐり仮面 」存在する世界というものへの憧れは大きく、そんなものが本当に存在する世界があればいいなあ、という気持ちは日々膨らんでいった。夜もあまり眠れない事が多くなった。そんな日々がずっと続いた。もちろん、「どんぐり仮面 」は現われなかった。 ついに、僕は身体をこわしてしまった。40度以上の熱が出て、肺炎の予兆があり、5日間入院することになった。3日間は僕はほとんど熱でうなされていた。その時に、僕は初めてどんぐり仮面 と出会ったのだ。 彼は夢の中に現われた。夢の中で僕は校舎の窓から外を見ていた。すると校門から彼は明らかにどんぐり仮面 と分かる格好で歩いて中に入ってきた。僕はあわてて階段をかけ降りて行った。彼は体育館にいた。朝礼台の上に立って、何かをしゃべっていた。声は40歳くらいの男性のような少しくぐもった声だった。彼は本当に団栗の殻でできているように見える仮面 を頭からすっぽりとかぶり、全身は茶色っぽいタイツ姿だった。黒のブーツをはいて、肩からマントを下げていた。仮面 に目や鼻の穴はなく、口の部分に幅3センチほどの長方形の穴が開いているだけだった。 結局何を話しているのか分からないまま、彼の演説は終った。そして僕はどんぐり仮面 と対面していた。場所は体育館の2階の階段状になった観覧席のようなところだった。僕と彼は並んで座っていた。彼はスポーツタオルを手に持っていた。ラルフローレンだった。僕も彼も黙っていた。彼はまっすぐに前を向き、僕は彼が手に持ったラルフローレンのタオルの白いポロのロゴマークを見ていた。10分後に彼から口を開いた。 「学校はどうだい?」僕にその口の穴のある方の面を向けて言った。 そこで、目は覚めた。普通の夢と同じように、目を覚ました時はその夢を覚えていたが、朝になるともうすっかり忘れてしまっていた。 僕は床屋に行った帰りにたまたま気が向いたためいつもとは違った道で帰ることにした。いつもの駅側の道ではなく、丘の上を通 って帰る道だ。少し階段があるが、時間はほぼ同じなのだ。この道は僕が通 った、小学校の裏手を通る道で、小学校のときに課外授業でよく行った神社の鳥居の前を通 るのだ。神社の前をとおったその時だった。その時僕は夢のことを思い出したのだ。ほんの小さな光の点が心の中のスクリーンにものすごいスピードで広がって行くようだった。その神社は夢の中で「神社」と聞いた時に連想していたまさにその神社だった。どんぐり仮面 が「神社」と言った時、僕にはその神社以外は考えられなかった。僕は鳥居をくぐって神社に入って行った。周りは住宅街だが、その神社の一画だけは大きな木がたくさん生えていて、丸太で雑に造られた階段を昇って行くと、社に出る。本当に小さくて、古びれた感じの一見廃虚にも見えるような神社だ。その日は5月のさわやかな風のある晴れた日で、社には木漏れ日があたっていた。小学校のとき来て以来だったが、神社は前と変わっていなかった。僕はその狭い社にたたずんで、夢の中でどんぐり仮面 が言っていた言葉を思い返していた。「君は大丈夫なんだ。君を助ける力を持っているのは、君自身なんだ。その力は君を救って余りある程のとてもとても大きな力何だよ。君はそれを知らないだけなんだ。」と。僕は頭の中で何度もそれを繰り返していた。意味は分からないままに。神社の帰り際に、小学生の時、学校のみんなでここに来たのは、どんぐり拾いだったことを思い出した。 その後も、それまでとは変わらない生活が続いた。一ヶ月経ち、2ヶ月が経った。何も変わっていないと思っていた。今までと同じように無視されたり、変ないたずらをされることもあった。しかし、それをされた時の僕の捉え方、された後の僕の気持ちがどこか変わったように思えた。前ほどそれが嫌だとは思わなくなったのだ。しかし、決して現実逃避ではなかったと思う。一番近い表現をするなら「慣れた」という感じだろうか。 いろいろな「慣れ」があるが、僕の場合はやはり単なる「慣れ」では片付けられないものだ。なぜなら、僕は小学校時代からずっと同じようなめに遭っていて、慣れるということはまったくなかったからだ。それが急にそういう状況になったのは、神社の前を通 った時に「どんぐり仮面」の夢を思い出してからだった。いじめられるということに対してもそうだが、その他のいろいろな事に対して、自分が今置かれている状況を客観的に見れるようになった。 今、僕はもう社会人になっているが、思い返して見ると僕の人生はあの夢を境に大きく変わったように思われる。「どんぐり仮面 」との出会いを境に。僕は今しみじみと思う。どんぐり仮面に助けてもらったのだと。そして、今でも僕の心のなかに「どんぐり仮面 」は生き続けているのだと。 |
|
「仮面
の秘密」
2000.5 |
|
私とて、かつてはどんぐりの仮面を着けて生きた時代があった。君はなぜ私がどんぐりの仮面 を選んだか分かるか。なぜ「どんぐり」なのか。君は「どんぐりの背比べ」という言葉を知っているだろう。どんぐりの大きさはどれをとってもだいたい同じ。つまりライバルを持たず、競争しないということなのだ。私はそのどんぐりの仮面 を着けることによって、世の中のあらゆる醜い競争に背を向けたのだ。 競争から解放された私は、しばらくはその解放感に浸っていた。しかしその解放感が徐々に不快な浮揚感に変わって行った。地に足が着かないといった感じだろうか。私は疑問に思った。仮面 を着けることが自分にとってどれほど意味のあるものなのだろうか。私は決心して仮面 をとってみた。すると、すぐにあの「競争」がやってきた。私はかつての私がそうしていたように、競争には参加しなかった。当然私はおいて行かれた。昔と同じだった。ただ、仮面 を着けた日々を経験してから後の私は、仮面をとった後のそんな昔と同じ様な自分の姿を客観的に捉えられるようになっていた。「競争」の真っ只中にいながら、それを傍観できるようになっていたのだ。 この変化は、私にとってかつてないものだった。もう地に足が着かない感じはなかった。そして「競争」が苦にならなくなった。仮面 を付けた日々が私に何かを悟らせたのだ。 今の君には仮面は必要なのかもしれない。しかしその仮面 はいずれとるために、今は着けているのだ。その事だけは忘れないでほしい。 |
|
「ファミレスの女性」
2000.7.23 |
|
この前、ファミレスに行った時、女性がドリンクバーでオレンジジュースをコップになみなみと汲んでいた。その女性は肥っていた。歳はおそらく20代後半。スーツを着ていて、会社帰りという感じだった。その時はそんなに気にしなかった。しかししばらくして、彼女が奥の席に一人で座っていることに気付いた。そう、彼女は一人で来ていたのだった。もちろん、一人暮らしの女性が会社帰りに、一人で駅前で食事して帰るということはよくあることだろう。だがそのファミレスは、ボリュームのあるのメニュー中心の中華料理のファミレスで、女性が一人で来るような店ではない。少なくとも僕はそう思う。どのメニュー選んでもかなりボリュームがある。多分彼女は頻繁に来ているのだろう。。今日はどれくらい食べたのだろうか。かなり食べたのだろう。そしていつもかなり食べているのだろう。彼女の体型がそれを克明に物語っていた。
|
|
「喫煙マナー」
2000.7.23 |
|
最近はどこの駅も終日禁煙だ。ところが、ベンチに座っていると、隣に座った若い女性がタバコを吸っているということがよくある。他の会社員風の人たちがみんな、近くにある喫煙所で立ってタバコを吸っているのに、ベンチに足を組んで座って、携帯で話したり、メールをやったりしながらタバコを吸っている。彼女たちにこれ以上を求めるのは、無理なのだろうか。 また、歩きながらのタバコが周りの人にどれだけ迷惑がかかるかを、それをやってる人たちは知らないのだろうか。そういう人の後ろを歩いている時や、風の強い時は、煙だけじゃなく、灰まで飛んでくることがある。灰が目に入ったら大変だ。そんなことが分からないのだろうか。みんな悪い人ではないと思うのだが。 ちなみに筆者はタバコは吸いません。だから偏った意見でしょ?・・・ |
|
「肥った女性」
2000.7.23 |
|
鴨居駅前のバス通りで車を運転していて、信号で止まっている時だった。よく肥った20代くらいの女性がすごい勢いで目の前を、車道を横切って通
り過ぎた。どこに行くのかと見ていると、イタリア料理屋のサンプルケースの前の小さなテーブルに出してある、チラシが目当てだった。彼女は一目散にそこに行くと、そのチラシを手にとって見ていた。そのチラシがあれば、何かを食べると、おまけの一品が付くらしかった。彼女はつまり、その店とは車道を挟んで反対側の歩道にいたのだが、その店の前のチラシに敏感に反応し、車道をものすごい勢いで渡って、そのチラシを手に入れたのだった。食べることの大好きな女性なのだろう。
|
|
「ベッドの小人」
2000.7.1 |
|
中学2年生くらいの頃だと思う。まだ家を建て替える前で、僕は2段ベッドを分けて1段にしたベッドを使っていた。2段ベッドだったので、まわりには木の枠がついていた。 ある日の夜中に僕は目を覚ました。当時寝る時は部屋に常夜灯として小さなライトをつけていた。その薄明かりの中、僕は寝たままベッドの足元のほうを見た。するとベッドの横の枠の一番奥、つまりベッドの枠がついているベッドの足元の柱の前に、身長10センチ位 で、コートを着ているように見える、人のようなものが見えた。「何だ?」と思った瞬間、その小人がその枠の上をこちらに向かって、すごいスピードで歩いて近づいて来た。顔にぶつかると思い、思わず目をつぶって、顔をそむけた。すぐ目を開けたが、その時にはもう何も見えなかった。 幻覚であったにしろ、何でそんなものを見たのだろうか。 |
|
「動く星」
2000.6.29 |
|
小学校3年生くらいの頃だったろうか。スペースシャトルが日本の上空を通 過するということで、近所の子供たちと一緒に、夕方から夜の7時過ぎまでずっと、夜空を見上げていたことがあった。来た、と思ったら飛行機だったりして、なかなかスペースシャトルは現れなかった。結局、スペースシャトルは見つけられなかったのだが、気になるものが見えた。それは「動く星」だった。 最初はそれがスペースシャトルかと思ったが、そうではない感じだった。いくつか星が見えていて、その中の星の一つが少しずつ隣の星に近づいたりするのだ。スペースシャトルならば、飛んでいる高度からして、もっと空を横切るような飛び方をするだろうと思った。動いているのは一つだけではなかった。しばらくあちこちの星を見ていると、他にも同じように動く星がいくつかあった。UFO(つまり宇宙人の乗った宇宙船)ではないか、と思った。だが、UFOはもっと地上近くに飛んできて、もっと変った飛び方をして、オレンジ色の光を放っている、という話を聞いていたので、それが宇宙人の乗った「UFO」だともちょっと思えなかった。動いているのは、ほんの小さな光で、大きさもほんの小さな星くらいのものなのだ。そして動き方も単調だった。だがよく考えてみれば、それだけの小さな光が、肉眼で動いているように見えるということは、実際はかなりのスピードで動いているということだった。宇宙をそんなスピードで動けるのはやっぱり宇宙人の乗った「UFO」なのではないか、とも思った。 翌日、学校でみんなに話した。誰かがそれは人工衛星だと言った。僕はそう言われても、自分が見たものは宇宙人の乗った「UFO」だと、その頃は思っていた。今になって考えてみると、それはどちらかと言えば、人工衛星だった可能性の方が高いと思う。 |
|
「UFO」
2000.6.24 |
|
僕は一度だけUFOを見たことがある。小学校低学年の頃だった。親戚 が埼玉に住んでいて、そこに両親と妹と4人で車で向かっているときだった。晴れた日だった。両親が前の座席に乗り、僕と妹は後部座席に乗って、その時僕は座席に寝っ転がって空を見ていた。その時、青い空にオレンジ色の光の点が見えた。太陽の半分くらいの大きさで太陽よりももっと強いオレンジ色をした光だった。僕は「UFOだ!」と叫んだ。母が「どこ?」フロントガラス越しに空を見上げた。僕はそのままその光を目で追った。それはゆっくりと動いていた。そしてその光は空にところどころ浮かんだ白い雲の陰にゆっくりと隠れていった。その間およそ10秒ほど。母は結局見つけられなかった。そしてそれは雲からは出てこなかった。 空を見ていたので、太陽を見たときの残像が光って見えたのではないか、と思う方も多いかと思われるが、それでは雲に隠れたということが説明できない。僕は間違いなく雲にその光が隠れる瞬間を見たのだ。あの光はいったい何だったのだろうか。まさに「未確認飛行物体」だった。 |
|
「焼身自殺」
2000.6.19 |
|
大学2年の時だった。当時付き合っていた彼女と、よく多摩川園駅近くの多摩川沿いの道に車をとめて、車の中で話をしていた。その日も夜中の12時をまわった頃だった。いつものように車の中で話をしていた。車をとめていた場所は多摩川の河原から道路を挟んで反対側の路肩で、僕らと同じようなカップルの車が、その日も5〜6台停車していた。暖かな夜で、河原に下りて散歩しているカップルも多かった。 しばらく話していると、僕の車の後ろにスポーツカーが来て駐車するのが、バックミラー越しに見えた。マツダのRX7だった。20代後半くらいの男性がひとりだった。その男は車をとめるとすぐに、運転席から降りて、助手席側に回りドアを開けて、中からバケツのようなものを出してそれを両手に提げて道路を渡り、河原に降りて行った。こんな時間に男が一人で車でやってきて、バケツを提げて河原に行くのは不自然で、僕は「怪しいな。放火でもする気なんじゃないかな。」とふと思った。 10分くらい経っただろうか。「ウォー!ウォー!ワー!」というような何とも言えない叫び声が川の方から聞こえてきた。川のほうを見ると炎があがっているらしいことが上空の空の色から分かった。僕は「ああ、やっぱり何かに放火したんだ。やっぱり気違いだったんだ。」と思った。車より河原はかなり下の方にあるため、何が起こっているのかは見えなかった。ちょうどその時河原の上の歩道、つまり僕が車をとめた路肩の道路を挟んで反対側を50歳くらいの夫婦が散歩していた。その奥さんが河原のほうを指差して、「ああ!!」と叫んで、目を覆っていた。僕は彼女に「降りて見てみよう!」と言って、僕は先に車を降りた。まだ「ウワァァァ−!」という奇声は続いていた。車の外に出てからその声を聞いて、僕はピンと来た。これは焼身自殺だ!道路を渡って、河原を見下ろしてみた。案の定、河原の真中に人が炎に包まれて、横たわっていた。まるで椅子にくくり付けられたまま横倒しにされたかのような格好で足を曲げて、顔をこちらに向けて横たわっていた。すでに全身、炎に包まれていて、顔の部分は目と口の部分が黒い大きな穴のように見えた。奇声は炎の中で、彼が苦しさのあまり発していたものだったのだ。そう分かった瞬間、その声はますます大きくなったように感じられた。実際にそうなったのかもしれなかった。夫婦の旦那さんが、警察呼びに、すぐ近くにある交番に走って行った。近くを散歩していたカップルもやってきて、男性の方が「何やってんだよ!!」と、咄嗟の叫び声をあげながらその炎の中の男性に向かって走り降りて行って、自分が着ていた上着を脱いでそれでたたいて火を消そうとしていた。しかしすでにその程度で消せる火ではなかった。カップルの女性の方は「危ないよ!!」と心配して叫んでいた。僕は「とんでもないものを見てしまった、彼女にはこれは見せてはいけない。」と思って、車を降りてきた彼女に「見るな!」と叫んで彼女を止めた。彼女もピンと来たらしく「焼身自殺?」と言ってた。僕は彼女に見せたくないというのと、自分も見たくないというのと、すぐにその修羅場を離れたいという気持ちで、すぐに車に乗って道路をUターンした。すぐにUターンして逃げるのは怪しまれるので、Uターンしたところで、立って河原を呆然と見下ろしていた、さっきの夫婦の奥さんに向かって助手席の窓を開けて「警察には言いに行ったんですよね!」と聞いた。そして、すぐ車を発進した。しばらく走ると夫婦の旦那さんとお巡りさんが一緒に走ってくるのが見えた。お巡りさんは消火器を持っていた。「いまさら遅いな。」と思った。車のカーステレオからは浜田麻理のテープが流れていた。いつも聞いていたそのテープだったが、その時はまったく違う印象に聞こえた。音量 を上げてみたが、やはりいつものように聞くことは出来なかった。彼女を家に送ってから僕も家に帰った。焼身自殺した男が亡くなったのかどうかは分からないが、あの燃え方からすれば、彼はおそらく亡くなっただろう。その日は尾崎豊が亡くなって、2、3日後だった。全国で後追い自殺をする若者が後を絶たなかった。彼もその一人だったのではないかと思う。 焼身自殺を目前に見てしまってから、しばらくの間は暗闇がすごく怖くなった。見た当日は夜中の2時ごろに家に帰ったのだが、暗闇であるということと、夜であるということがとても怖く感じられ、そのまま寝られず両親を起こして「多摩川で焼身自殺を見ちゃった。」と話した。怖くて話さずにはいられなかった。彼女にも約束どおり帰ってからすぐ電話した。しかし、彼女は親友にその出来事を報告していたらしく、彼女の部屋の電話はずっとお話し中だった。その夜は結局話せなかった。 その当時は犬を飼っていて、いつも夜に散歩に行っていた。それまでは何ともなかったのだが、見た後は暗いところまで行くのが怖くなってしまった。もし散歩していて、暗闇で焼身自殺をしてすでに火が消えた死体と出くわしてしまったらどうしよう、そしてその死体を蹴飛ばしてしまったらどうしよう、などと考えてすごく怖かった。だから、散歩もあまり暗いところには行かないようにルートを変えた覚えがある。また、部屋で一人で寝るのも怖かったので、友達に泊まりに来てもらったりもした。今でこそこのように文章にする気になったが、当時は早く忘れたい出来事だった。 とにかく言えることは、僕はたいへんな怖がりで臆病者だということだろう。あの時、勇敢に自分の上着で火を消しに行った若者は本当にすごいと思う。僕という人間の器の小ささがよく分かった体験だった。 |
|
「恐怖の修学旅行列車」
2000.6.14 |
|
僕の小学校の修学旅行は栃木県の日光だった。修学旅行前のある授業の時、隣のクラスの石川先生という、当時まだ30歳くらいだった男の先生が、修学旅行の話をしてくれた。石川先生がまだ教師になったばかりの頃の話だった。石川先生は、日光への修学旅行の引率で、団体専用列車に乗ったそうだ。天気が良かったので、窓を全開にして気持ちの良い風を顔に受けていた。すると空は晴れているのに、霧雨のような雨が窓から入ってきた。天気雨かなと思い、それもまた気持ちが良く、そのままその雨を顔に受けていた。あとで、それが列車のトイレから垂れ流された糞尿だと分かった時は、たいそう狼狽したそうだ。子供の頃から多少潔癖症気味だった僕には、かなり恐ろしい話だった。でも石川先生は「当時の列車はトイレが垂れ流しだったけど、今はそのまま流さず、タンクにためているから大丈夫だよ。」と言っていた。 僕たちの修学旅行も団体専用列車での旅だった。横浜駅から東海道線の電車に似た、オレンジ色の列車に乗った。その列車にもトイレは付いていたが、石川先生から、今の電車は大丈夫だと聞いていたので、何の心配もしていなかった。5月の晴れた日の中を走る列車は、窓を全開にして走っていた。そんな車内で食べるお弁当は最高だった。ふと開いた窓から外を見ると、開いた窓の窓枠の端っこから水滴がたれていた。一瞬の後、僕は愕然とした。ぞっとした。思えばもうずいぶん前から、トイレの中のような、あのアンモニアの臭いが僅かながらずっと車内をただよっていた事を思い出した。僅かだったので、それは電車の臭いで、まさか窓から入ってくる糞尿の臭いだとは思わなかったのだ!!窓枠からたれている水は黄色い色をしていた。明らかに糞尿だった。それまで僅かしか感じなかったアンモニア臭が急に激しい臭いに感じられた。僕はそんな中でお弁当を食べたのだ!!もう1時間ほども糞尿混じりの空気を呼吸していたのだ!! その後のことはよく覚えていないが、おそらくすぐに窓を閉めただろう。かなり気分が悪かっただろうと思う。自分が糞尿を呼吸していたことを考えないようにしただろう。忘れようとしただろう。だからその辺の記憶がないのだろう。石川先生の説明は間違ってはいなかったのだが、足りなかったのだ。確かにその当時の列車は糞尿をタンクにためるようにはなっていたのだろうが、それは当時の新しい車両の話で、修学旅行に使う団体専用列車の車両は、石川先生が糞尿を浴びて旅した頃の古い車両をそのまま使っていたのだった。 今でも思い出すと嫌な気分になる。恐ろしい体験だった。僕は最近でも東海道線や横須賀線など、トイレ付きの電車に乗る時は、自分の乗る場所に対してのトイレの方向が気になることがある。なるべくトイレのある車両の風下になるところには乗らないようにすることがある。この前、横須賀線が止まっていたので、トイレのある車両の下の部分をよく見ることができた。確かに大きなタンクがついていた。そのタンクから汚物を抜くためのパイプが出ていて、バルブがついていたから、もう垂れ流しはしてないのだろう。しかし、子供の頃の嫌な経験というのは、いつまでたってもなかなか忘れられないものだ。 |
|
「夏の思い出」
2000.6.11 |
|
大学2年生の頃だったか、夏休みに学科の連中男4人女3人で、茨城県の大洗の海のそばにある、友達の親戚 の別荘に遊びに行った。車2台で行った。女の子3人はみんなそこそこに可愛い子で、楽しみな小旅行だった。夜はみんなで花火でもやろうと、僕が行く前の日に近くのコンビニで花火セットを買ってあった。ちょっとした打ち上げ花火のようなものも入った、3000円くらいのものだった。 現地に着いてまず驚いたのは、別荘地といっても、海の近くの崖の上の草が生い茂った中に小さなプレハブの小屋がぽつぽつと建っているといったものだったことだ。もちろん、その友達の親戚 の別荘というのも、例に漏れずプレハブで古く汚いものだった。特に風呂場はコンクリートの床に小さなバスタブと洗濯機が置いてあるといったもので、壁も塗料が剥がれていたりと、潔癖症気味の僕にとっては寒気のするほどのものだった。 天気はあまり良くなく、小雨も時折降るような曇りで、泳ぐには寒く、波も台風の影響があって、高く、風も強かった。でもせっかく海に来たのだからということで、みんなで海辺で遊んだ。僕は海パンになり、海に少し入ったが、女の子は寒がってTシャツを脱ごうとはしなかった。昼間はそんな感じで過ごした。 夕食は、みんなで車で少し走ったところのドライブインレストランのようなところで、大画面 で野球中継を見ながら、ハンバーグステーキを食べた。帰ってきて、買い込んであったビールやお菓子で飲みが始まった。みんな気持ち良く飲んで、友達の一人(男)は酔いつぶれて寝てしまっていた。その頃には時間も夜中の1時をまわっていた。 さあもうお開きだが、そうだ、せっかく買ってきた花火をまだやっていないと、僕が気付いた。よしやろうということになって、僕と英司とさやかでまず外に出た。海辺まで出てやるつもりだったが、海の近くの丘の上にあるその場所は街灯が無く真っ暗で、そんな中海辺まで行くのは肝だめし同然だった。じゃあということで、別 荘の前の道でやろうということになった。ほとんどが1〜2メートル程度上に噴き上がるタイプだった。そこそこに盛り上がり、酔いつぶれた英男以外はみんな出てきた。そんな花火の何本か目に忘れもしない、「流星」という花火があった。流星・・。その名の通 り流星のように上に1度噴き上がった火の玉が真横に流れるという仕掛け花火だった。その花火は実際、3メートルくらい噴き上がって横に流れた。流れた火の玉 は、道沿いの草むらに消えた。それまでにいくつかやった花火の中でそれがやはり1番きれいだった。みんな喜んだ。でも、草むらに火の玉 が消えたとき女の子の中の誰かが、「あ、まずいよ」と言った。が、「大丈夫、大丈夫。」と、僕が言った。この僕が言った。 花火は盛り上がりのうちに続けられていた。20歳の若者たちが真夏の別 荘地で楽しい夜を過ごしていた。すると僕たちが花火をしているところに車が向かってくるのが見えた。見えたと言っても、坂の下の方から道を登ってくる車のヘッドライトがすすきなどの背の高い草むら越しにゆらめいているのが見えた。そう、最初はみんなそう思った。しかし車は来ず、光りだけはそこにあった。そう、「流星」が放った火は、かなり大きさに燃え上がっていたのだ。 事態を把握した僕たちは一瞬のうちに修羅場に立っていた。もう、すでに足で踏んで消せるような火ではなかった。昼間少し雨が降ったとへいえ、枯れ始めたすすきの草むらはあっという間に燃え拡がり、火は2メートル近く燃え上がっていた。「水!!」「布団は!!」という指示が飛んでいた。みんなそれぞれに手を尽くしていた。必死だった。僕は誰かがもってきた布団を火の中に投げてみた。すでに燃えている面 積が布団より広く、効き目はなかった。何枚か投げた。駄目だった。他のみんなも棒で叩いたり、バケツで水をかけたりしていた。しかし、火の勢いは激しくなって行った。「もう駄 目だあ!!」と僕は結構大きな声で言っていたらしい。あとでみんなが言っていた。激しさを増す火の勢いを見て、みんな自分たちでは消せないと思った。その時さやかが照夫に「照夫は車で電話があるところに行って、119番通 報して!」と言った。照夫はすぐに車で電話をかけに行った。いったいどこまで燃えてしまうのだろう、このまま山火事にでもなって、テレビのニュースにでも出てしまうのだろうか、と思った。が、意外にも火の勢いが急におさまってきていた。一度は諦めかけていた僕は、まだ消せるぞと思った。今度は落ちていた竹の棒をとり、火を思いきり叩いた。力いっぱい火を叩いた。何度も何度も叩いた。効果 があった!!何度か叩くうちに叩いたところから火は消えて行った。僕と英司とで叩いた。発見から時間にして、15分くらいだろうか、もっと長く感じたが、どうにか火は消えた。 遠くから消防車のサイレンの音が聞こえてきた。「さあ、あとは消防署の人に怒られなくちゃ。」と英司が真顔で言った。照夫は消防車にのって帰ってきた。途中から消防車に乗って案内してきたのだった。照夫はすでに火が消えてしまっているのを見て、かなり戸惑った表情を浮かべていた。何も燃えてないところへ消防車を何台も案内してきてしまったのだから。 消防車は火の消えた後の草むらに念のために水をかけ、帰って行った。消防隊の人に「ご迷惑をおかけしました。」とみんな謝った。「いやいや、これぐらいで済んで、よかったよ。」などと言ってくれた。が、そのあと警察のお巡りさんが一人だけ残り、この人にはそりゃあひどく叱られた。酒を飲んだ後だったということもあって、「これは放火だぞ!!」などと怒鳴られたりもした。始末書なるものを書かされ、はじめて公式文書に拇印を押した。でも、最後にはみんなちゃんと反省しているということで、学校にも伝えず、処罰もしないということにしてくれて、お巡りさんは帰って行った。 みんなTシャツ、短パンにビーチサンダルという格好だったので、僕と英司は足の裏などに軽い火傷をしてしまっていた。英司のほうがひどく、痛がってバケツの水で冷やしていた。もう時間は夜中の3時近かった。とにかく今日はもう寝ようということになった。しかし寝るにももう布団は燃えてしまったし、みんな泥だらけだったが、お風呂に入ろうなどとは誰も思いつかなかった。みんなそのままの格好で雑魚寝した。着いた当初はこっちが男の部屋でこっちが女の部屋などと言っていたが、結局みんな同じ部屋で寝た。佐知子は何か寝言を言っていた。きっと嫌な夢をみていたのだろう。 翌日、燃えたところをバックに写真を撮った。ちょうど、6畳間くらいの草むらが消失しており、こげた布団が散らばっていた。近所に住む人だろうか、中年の男性が車で燃えた場所を見に来ていた。燃えた場所を含め、別 荘を片付ける班と、布団を買いにいく班に分かれて、その日は行動した。僕は別 荘に残る班だった。片付けはすぐに終わり、残ったほうの人間はごろごろしたり、散歩したりした。布団買い出し班はなかなかスーパーが見つからなかったらしく、夕方の5時頃に帰ってきた。ごみもまとめ終わって、どうにか後片付けは終わった。出発当初は2泊するつもりだったが、もうみんな帰るつもりでいた。みんな泥まみれで、汗だくだったが、シャワーなど入ろうとするものもなくすぐに帰途についた。帰りの車はみんな寝不足で、運転をする僕は吐き気がするほど眠かったし、後部座席のさやかは終始眠ったままだった。 こんな結果になったが、行く前はみんな本当に楽しみにしていたのだ。今でも、大学時代の夏の思い出というとまずこの話を思い出す。他はあまり記憶にない。 |
|
「車内での携帯電話」
2000.5.30 |
|
最近は、JRの車内で「車内で携帯電話をご利用になりますと、心臓ペースメーカー等医療機器に悪影響を及ぼすことがありますので、電源をお切り下さいますようご協力をお願いします。」という放送が入る。それなのに、その放送が入っている最中でもメールを入力している人とか、平気で「今電車に乗ったから・・・」などと話している人がいる。だいたい若い女性だ。この人たちは、この放送をどう思っているのだろうか。嘘だと思っているのだろうか。もしそうでないとすれば、この人たちは、隣の人が心臓にペースメーカーを入れていても別
に殺してしまってかまわないと思っているということになる。一度、どう思っているのかその場で聞いてみたいと思うが、そんな人間からまともな答えは返ってこないだろうし・・・。
|
|
「虫の声」
2000.9.2 |
|
ついこの前までは、夜になっても、うるさいくらいに蝉が鳴いていた。今日、9月になったばかりの夜、ふと耳を澄ますと、「リリリリ・・・」と虫が鳴いている。今年の夏も、あっという間に終わりなんだな。知らず知らずのうちに過ぎていってしまう。人生もそんなものではないだろうか。まだまだこれからだと思っているけれど、何もできないまま、どんどん過ぎていってしまう。僕の人生も、耳を澄ませば、もう虫が鳴いているような気がする。「リリリリ・・、リリリリ・・」
|
|
「親知らず」
2000.8.8 |
|
あなたは親知らずを抜いたことがあるだろうか。ひと口に親知らずと言っても人によりけりで、まっすぐ生えそろっていて抜く必要のない人もいれば、とんでもない方向に向かって生えていて、歯茎や口の中を傷つけてしまっている人など、さまざまだ。 僕の場合は上下4本とも生えていたが、上の2本はほとんどまっすぐに生えていて、まったく問題なかった。しかし下の2本は曲がって生えていた。曲がっていると言っても、口の中を傷つけるというのとは違って、僕の場合、普通 は下から上に向かって生えるべき歯が、口の奥側から親知らずの手前の歯に向かって、つまり奥から手前に向かって生えていたのだ。幸い、今まで虫歯にはならず、痛みはまったくなかった。ただ、不自然な向きで生えているために、その手前の歯との間に少し隙間ができていて、食事する度に、その隙間にかすがつまってしまうのだった。これは普通 に歯を磨いてもとれないので、歯磨き前にはいつも糸楊枝と爪楊枝を巧みに使って、そのかすを除去しなければならなかった。これが左右両方だと、それだけで10分くらいはかかった。「とれた」と思っても、もう1度ほじくると、またとれたりして、どうしても時間がかかってしまうのだった。これが家でだけならいいが、会社での食事の後もやはり気になるので、食堂で食べた後はすぐにトイレに行き、糸楊枝でかすをとった。面 倒でもあったし、他に人がいる時は、少し恥ずかしかった。こんな面倒なことを3年くらい続けてきただろうか。そしていよいよ今年の2月の連続休暇の時に、親知らずを抜くことにしたのである。ここからの話は、一切誇張することなく、僕が実際に体験した、親知らず治療の記録である。 2月17日(木)晴れ 予約してあった、家から車で5分くらいのところにある歯科医院に行った。上の2本の親知らずはなんともないので、邪魔な下の2本だけを抜いてもらうつもりだった。厳しいだろうが、できれば今日、その2本とも抜いてもらいたかった。休暇が今月の15日から15日間なので、嫌なことは早く終らせて休暇を楽しみたかったからだ。しかし、先生が言うには、抜くとかなり腫れるので、下の親知らずを抜く前に、上の親知らずも抜いておかないと、上の歯が腫れた部分に当たって大変なことになるということだった。それに、下の歯は曲がって生えているので、抜くには歯茎を大きく切開して、歯を削って、いくつかに分割して抜くという1時間くらいかかる結構な大手術になるので、1本ずつじゃないと無理。その上抜いてから3、4日はかなり腫れるので1週間くらいは間を開けてからでないと、とのことだった。愕然とした。甘く見すぎていた。「今回の休暇はほぼなくなったな。」と思った。結局この日は、上のなんともない2本の親知らずを抜いた。これは抜くのもすぐに抜けたし、痛みもほとんどなかった。腫れるということもなかった。僕は自分は、歯を抜いてもそんなに痛まず、腫れない体質なのだろうと思った。これなら下の歯を抜く時も、それほど厳しいことはないだろうと思った。しかし、そうではなかったのである。 2月20日(日)曇り時々雨 いよいよ下の右側の親知らずを抜く。この日が来るのが、かなり怖かった。抜く日の2日前くらいから「あさっては、いよいよ歯を抜くんだな。」とか「明日のこの時間には、もう歯を抜いていて痛がってるんだろうな。」などと、かなり嫌な精神状態だった。 麻酔が効いてきたところで、手術は始まった。歯茎を切られているという感覚があった。次に、切った歯茎を左右に開かれているという感覚があった。今、自分でその開かれた部分を見たら、気絶してしまうかもしれない。そこまでは麻酔のおかげで、痛みはそれほど感じなかった。しかし、抜ける状態にするために、親知らずを削り始めるとそうはいかなかった。おそらくは虫歯の治療よりも深く削るからだろうが、かなり痛かった。その痛みは、どうにか我慢できるぎりぎりのところ、という感じだ。だが、もしこれ以上痛くなるのなら、それにはもう耐えられないぞ、というくらいのものだ。結局、それ以上は痛くならなかったのだが、いつ激痛が襲うのか、という恐怖はかなりのものだった。 そしていよいよ先生が「大きいxxx!」とか「小さいxxx!」とか言って、歯科助手の人に、抜くためのペンチを要求した。先生の力がみなぎるのは感じたが、なかなか抜けないようだった。また少し削って、ペンチで引っぱって、また少し削って、ペンチで引っぱって、というのが、しばらく続いた。長く感じたが、10分くらいだったのだろう。「抜けた!」という感じはなかったが、抜けたようだった。先生が「コツカンシ!」と言った。僕はおそらく「骨冠糸」と言ったのだろうと、思った。ただそう聞こえただけで、実際は本当に「コツカンシ」なのかどうかも分からない。実際は英語かもしれない。でも僕は「骨冠糸」、つまり、むき出しの「骨」の上に先ほど切開した歯茎の肉を「冠」のようにかぶせて縫うための「糸」なのだろうと、思ったわけだ。 縫い終って、手術は終った。脱脂面を30分くらいは強く噛んでいるように言われた。すでに麻酔が切れかかってきたのか、脱脂面 を噛んでいる患部に疼痛を感じ始めていた。お金を3000円ちょっと払ってから、車を運転して家に向かった。綿を噛みながら。麻酔はどんどん切れていった。そこを曲がれば家に着くという信号を待っているところで、疼痛はすでに、激痛へと変わっていた。激痛の中、何とか無事に車庫入れをして家に入ると、すぐにもらってきた痛み止めを飲んで、自分の部屋に入った。ベッドに顔から突っ伏した。 痛み止めが効き始めれば、痛みはだいぶ弱まり、出血も止まった。痛み止めはきっちり7時間効いた。切れると患部の疼痛と、唾を飲みこむ時の激痛が襲ってきた。僕は7時間おきに痛み止めを飲んだ。寝る前に「今飲むと、明日の何時に切れるな。」などと考えた。痛み止めは不可欠だったが、それさえ飲んでいれば大丈夫だった。 翌日から顔が腫れた。かなり。腫れている部分の皮膚は、奇妙な黄色に変色していた。次の日曜日には、反対側を抜くことになっていた。それまでに右側が治ってくれるのを期待した。しかし、翌々日も腫れはひかず、むしろひどくなっていた。それにまだ抜糸していないからということもあるのだろうが、右側で噛んでしまうと、まだまだ痛みがあり、右ではまったく噛めない状況だった。こんな状態で左側も抜いたら、食べ物をまったく噛めなくなってしまうのではないかという恐怖感があった。とにかく、腫れと痛みがひくのを願った。 土曜日になった。腫れはだいぶひいたが、まだまだ右では噛めない。歯医者に電話して、明日は抜かないことにしてもらった。翌日、抜糸だけしてもらった。今回はここまで、ということになった。 それから半年の月日が流れた。この前抜いた右側の患部は完治していた。そして、8月から休暇ということが決まった。また戦いの日々が始まるのだなと思った。決戦は8月3日に決まった。午後2時半からだ。 8月3日(木)晴れ よく晴れた暑い日だった。僕の車は、本当に暑い日には、エアコンがあまり効かない。暑い車で歯医者に到着した。2時半からの予約だったが、2時5分くらいに着いた。しかし、2時半までは歯医者が昼休みで、中の電気も消えていた。中には入りずらかったので、仕方なく暑い車の中で待つことにした。すると、暑さと緊張感からか、喉が乾いてきて、吐き気がしてきてしまった。これではいけないと思い、僕は車を降りて近くの自動販売機で「笹緑茶」を買って、ひと口かふた口だけ飲んだ。そして、時間になり中に入った。 前回同様、削るのはかなり痛かったが、抜くのは今回の方が楽だった。帰り道、痛みはあったが、どの程度痛むかを知っていたので、我慢することができた。ただ、前回になかったことがあった。出血が止まらなかったのである。 ちゃんと脱脂面は30分噛んでいたのだが、若干の出血は続いていた。痛みは我慢できる程度だった。出血もいずれ止まるだろうと思っていた。夜11時頃になり、患部にさわらないように気を付けて、歯を磨いた。患部にはさわらなかったと思うのだが、磨いているうちに出血がひどくなり、口の中が、真っ赤な泡でいっぱいになった。何度吐き出しても、真っ赤だった。血の味の泡で、歯をどうにか磨き終えた。でも寝るまでには止まるだろうと思った。しかしそうは行かなかった。 夜中の2時頃になっても、出血の勢いは衰えることなく、強まっているようにさえ感じた。口に血が溜まったら、最初は飲み込んでいた。だが、飲み込むと患部が痛むうえ、血の飲みすぎでか、吐き気がしてきたので、もう飲まないようにしようと思い、溜まったら洗面 所で吐き出すようにした。吐き出す時も、患部に激痛が走った。血は口の中ですぐに凝固した。口をつぶってしばらくすると、舌の下や、歯と頬の間に、柔らかい、ナメクジの様なものができあがるのだ。単なる液体ならまだしも、こんなナメクジみたいで、しかも生臭いものが次から次へと口の中にでてくるのはもう我慢できない、という感じだった。 もう寝なければ、と思い、布団の上にバスタオルを5枚敷いて横になった。すぐに口の中に、生臭いナメクジができあがる。起きて、洗面 所で吐き出す。これを1時間ほど続けた。いちいち洗面所に行くのが面倒になり、ごみ箱にスーパーのビニールをかけて、そこに血とナメクジを吐き出した。ごみ箱の底は、すぐに赤黒い血泥でいっぱいになった。こんなに血を出してしまって大丈夫なのだろうか、と思った。出血多量 までは行かなくても、貧血になってしまうのではないか、と思った。(後から聞いた話だが、女性は生理の時、もっとたくさんの出血をするそうだ。歯からの出血などとは比べものにならないほど。) 自分では、朝まで一睡もせず、溜まった血を吐き出していたつもりだったが、少しの間は眠ったらしい。ベッドに敷いたバスタオルにも、着ていたTシャツにも、血がたくさん付いていた。眠った時に垂れ流したのだろう。ゴミ箱の底の方にも赤黒い地泥が、かなり溜まっていて、生臭かった。口の中も血生臭さく、ナメクジでいっぱいだった。痛みをこらえて、うがいした。血は止まっていなかった。何度うがいしても、出てくるのはやはり血だった。勢いも衰えていなかった。 一晩過ぎても出血が続くというのは、さすがに異常なのではないかと思った。歯を磨いた時に傷口が開いてしまい、そこから出血しているのではないだろうか。もう一度縫い直さないかぎりは、血は止まらないのではないだろうか。この翌日に歯医者に行って、抜糸することになっていたが、その時まで血が止まらないのではないだろうか。口からこんなに流血しながら、車を運転して行って、流れる血を拭いながら、「先生!まだ血が止まらないんです!」などと言わなければならないのだろうか、と不安になった。そんな、気が変になりそうな状況の中、夜になった。 もう夜の11時だった。血の勢いは衰えない。止まりそうな兆しがなかった。もう、2日間も口の中が血生臭さかった。相変わらず、ナメクジを吐き出し続けていた。これは、もうこの状態で歯医者に行って、診てもらわないと駄 目だな、と思い始めた時に、母が「冷やしてみたら」と言った。僕は無言のうちに立ち上がり、冷凍庫からアイスノンのような保冷剤の小さいやつを出してタオルにくるんで頬にあてた。まず、痛みが軽減した。楽になった。不思議と血が止まったような感じだった。実際はしばらくすると、やはりナメクジができていたのだが、確実に血の勢いは衰えていた。何でもっと早く気が付かなかったのだろうか。僕は冷やし続けた。2時間くらいたったところで、血は止まった。歯を抜いてから約34時間経って、ようやく出血との戦いが終ったのだった。あとは全開同様、日々の回復を待つだけなのだ。 もう2度とこんな思いはしたくない。でも、これでもう終ったのだ。もう、親知らずのことで、痛い思いをすることはないのだ。怖い怖いと思いながら歯医者に行く必要は、もうないのだ。もう前のように、食べかすが歯の間につまることはないのだ。糸楊枝を持ち歩く必要はないのだ。外のトイレで大きな口をあけて、糸楊枝を使って、恥ずかしい思いをすることも、もうないのだ。 これから先の人生、歯科医院の前を通る度に、激痛と出血に苦しめられた、あの忌わしい日々を思い返すことだろう。僕は思う。もう2度と、あの苦しみを味わいたくない。次は誰が親知らずを抜くのだろうか。いったい誰が、あの苦しみを味わうのだろうか。 (完) |