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○ シュトゥンパー・ガッセ31番
アドルフ・ヒトラーは、1889年4月20日、当時のオーストリア領北部にあるブラウナウに生まれた。
父のアイロスは税関職員で、ヒトラーは、父の転勤に伴いリンツ周辺で成長する。
アイロスは、家庭内の暴君で、子供たちも抑圧されて成長したが、
1903年、アドルフが14歳のときに亡くなると、画家になることをめざし
1907年9月にオーストリア=ハプスブルグ帝国の首都であるウィーンへ上京する。
ヒトラーのウィーンでの最初の住まいは、
ウィーン西駅から東南に伸びるシュトゥンパー・ガッセ31番(もしくは29番)だった。
ここで、リンツ時代からの親友で、ウィーンの音楽アカデミーの入学をめざすクビツェクと部屋をシェアして過ごす。
現在でも、安そうな飲み屋やエスニックのアクセサリー店が軒の並べる、
いかにも学生たちが下宿していそうなボエームな街だ。
○ フェルバーシュトラーセ22番
当時のヒトラーの画風は、前世紀後半から次々にウィーンで建てられた
建築物を生真面目に描いた建築のパース画のようなものであったようで、
上京した年の美術アカデミーの入学試験に落ち、翌年1908年の入学試験にも落ちると
親友クビツェクがリンツへ帰郷しているあいだに、行き先も知らせずに
ウィーン西駅北側のフェルバーシュトラーセ22番に引越ししてしまう。
ここは、前のシュトゥンパー・ガッセの下宿から1kmも離れていないが、
南側が線路で遮断されたさびしい地区だ。
○ ゼクスハウザー・シュトラーセ58番
さらに1909年の夏には、ウィーン西駅の南側、
シェーンブルン宮殿に近いゼクスハウザー・シュトラーセ58番に越している。
ここはウィーンの中心部から外れてきているので、家賃としてはより安価になったのかもしれないが
いままでで一番堅実な住宅地だ。
○ カスタニアン・アレー
この年の秋から翌1910年2月頃までの間、ヒトラーの足取りが不明になる。
後のメンナーハイム(単身男性住宅)での同宿者の証言によると
ゼクスハウザー・シュトラーセからさらに南、カスタニアン・アレーにあった無宿者収容施設に入り、
シュトゥンパー・ガッセの最初の下宿からほど近い、
グンペンドゥルファー・シュトラーセの慈悲友の会女子修道院で炊き出しを受けていた、という。
○ メルデマン・シュトラーセ
1910年2月、ヒトラーはウィーン中心部から北東にある
メルデマン・シュトラーセのメンナーハイム(単身男性住宅)に投宿する。
ここで1913年5月まで、ウィーンの観光みやげとなるような風景画を描いて過ごす。
当時の都電のあり方はよくわからないが、
ウィーンの中心部から5kmは離れたドナウ川に近いさびしい地区だ。
○ ヘルデン・プラッツ
メンナーハイムで3年ほど過ごした後、1913年5月、ドイツのミュンヘンへと旅立つ。
(ミュンヘンでの軌跡については、「ミュンヘン編」をご覧いただきたい)
そして1938年、ドイツ総統となり、オーストリア併合を果たしたヒトラーは、
オーストリアのドイツ民族主義者が振り撒く花にまみれてウィーン入城を果たし、
王宮前の広場ヘルデン・プラッツを埋め尽くした大群集の前に姿を現した。
そうして、自らの青春の夢を打ち潰したこの首都に凱旋を果たした。(2009年11月旅行)

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