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○ プフェフェル・ガッセ
ジクムント・フロイトは、1856年5月6日、
当時のオーストリア帝国領(現チェコ領)フライブルグに生まれた。
フロイト家はユダヤ人で、父親のヤコブは、毛織物を商っていたが、事業に生きづまり、
1859年再起を図るべく、当時のザクセン領ライプチッヒに一旦越した後、
1860年オーストリア帝国の首都ウィーンに落ち着いた。
ウィーンでのフロイト家の最初の住まいは、プフェフェル・ガッセ(PFEFFER G)にあった。
ここは、ウィーンのリング・シュトラーセの北東側、ドナウ運河とドナウ川の間のレオポルド・シュタット地区にあり
最もコアなユダヤ人居住地があったドナウ運河とタボール・シュトラーセ(TABOR STR)の間の街区よりは
少し北東側に入ったところになるが、このあたりもやはりユダヤ人居住者が多い地区であったのだろう。
なお、1848年の仏2月革命の余波を受けて成立したフランツ・ヨーセフ皇帝のもと、
民主化政策の一端として帝国領内のユダヤ人の居住・職業の自由化が宣言されたのは、まだ先の1867年のことである。
○ カイザー・ヨーゼフス・シュトラーセ
1875年、子供たちの成長により、このプフェフェル・ガッセが手狭になると
「タボール・シュトラーセからカイザー・ヨーゼフス・シュトラーセに入ったところのアパートに越した」
との記録があるが、現在「カイザー・ヨーゼフス・シュトラーセ」との名称の通りは、この地区に残っていない。
「カイザー・ヨーゼフス・シュトラーセ」は「アウガルテンとプラター庭園をつなぐ並木道」とのことなので、
第2次大戦後に通りの名称が改められ、現在はハイネ・シュトラーセになっているのではないか、と推測している。
○ ウィーン大学
ジクムントは、両親の期待に応え、優秀な成績でウィーン大学に進学し、
医学部の生理学教室でウナギの生殖器やザリガニの神経線維について研究していた。
というと将来のフロイト心理学を用意するように聞こえるが
そうではなく、純粋に生理学として研究していたようである。
○ ラートハウス・シュトラーセ7番
表向きのユダヤ人の居住・職業の自由化とは異なり、ユダヤ人に対する差別に困惑しながらも
ジクムントは、大学内での研究者としての地位を固めてきたが、
1882年に、将来の妻となるマルタ・ベルナイスと出会ったことにより転機が訪れる。
研究者としての薄給では、結婚後の家計が維持できないことから、やむなく開業医となることを決意し、
1886年4月、ウィーン市庁舎の西側の広場そばの
ラートハウス・シュトラーセ7番(RATHAUS STR)に診療所を開く。
○ マリア・テレージエン・シュトラーセ8番
同年9月にマリア・テレージエン・シュトラーセ8番(MARIA THERESIEN STR)の新居に移る。
このマリア・テレージエン・シュトラーセの住居は、
もともとリング劇場が建っていたのであるが、
1881年にオッフェンバックの「ホフマン物語」の上演中に火災が発生し
約400人もの死傷者を出し、その跡地にフランツヨーゼフ皇帝の肝いりで建設された、いわくつきのアパートで
その経過から「贖罪の家(SUHNHAUS)」と名づけられた。
(なお、翌87年にフロイト夫妻に長女マチルデが生まれると、このアパートで初めて生まれた子供であったため
フランツ・ヨーゼフ皇帝の名前の表彰を受けることになる。)
○ ベルクガッセ19番
「贖罪の家」の住宅が手狭になると、ベルクガッセ19番(BERG G)に貸し部屋を見つけ、
1891年に、診療所ともども、そこへ引っ越す。
この家でフロイトは、ナチスの政権奪取後の1938年にロンドンへ亡命するまで暮らすことになる。
このベルクガッセの住居跡は、現在フロイト博物館として公開されている。
ちなみに、フロイトの治療室があった部屋は、現在、資料展示室となっていて、
ここの治療室は、生涯の最後の住まいとなったロンドン(ハムステッド)のフロイト博物館で復元展示されている。
ちょっとややこしいけれど。(2009年11月旅行)

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