もどる

高等小學日本歴史

※ 朝鮮関連部分のみ抜粋。原文のルビは()で示し、繰り返し記号は「々」で代用する。

高等小學日本歴史 巻一

著作兼發行者 文部省
翻刻發行者 日本書籍株式會社
明治四十四年十一月廿七日印刷
明治四十四年十一月三十日發行
明治四十四年十二月一日翻刻印刷
明治四十四年十二月十五日翻刻發行

第三 皇威の振興と世運の進歩

[任那の内府]

朝鮮は此の頃三韓の外に任那(みまな)といふ國あり、隣國新羅と爭ひて、國内やすからざりしかば、天皇*の御代に其の使者來朝して我が保護を求めたり。朝廷乃ち將軍を遣はして、之を鎭めしめ給ふ。是朝鮮に日本府あるの始なり。

* 崇神天皇

第四 朝鮮の服屬と學問・工藝の傳來

[朝鮮の服屬]

朝鮮は我が國と僅かに一海峽を隔てて相對し太古以來交通あり、任那の如きは既に崇神天皇の御代より我が國の屬國となれり。其の後神功皇后は武内宿禰と謀り、海を渡りて新羅を討從へ給ひ、次いで百濟も我に歸服し、高麗亦來りて朝貢するに至れり。

[朝鮮の文物]

朝鮮は早くより支那と交通して、學問・工藝を傳へ、文物頗る開けたり。されば彼我の往來漸く繁くなるに隨ひ、更に其の學問・工藝を我が國に傳ふるに至れり。

[學問の傳來]

應神天皇第十五代の御代に百濟より阿直岐來れり。阿直岐學問ありしかば、皇子莵道稚郎子(うじのいらつこ)就きて學び給ひき。次いで天皇は更に王仁が深く學問に通じたるを聞召し、之を招きて皇子の師とし給へり。是我が國に支那の學問の傳はりし始なり。此の御代に又阿直使主(あちのおみ)といふもの多くの人人を率ゐて朝鮮より來れり。王仁・阿直使主等の子孫は代代朝廷に仕へて記録を掌れり。是より後も朝鮮より多くの學者渡來し、我が國の學問爲に大いに進歩せり。

[工藝の傳來]

應神天皇の御代には又機織・鍛冶(かぢ)などの職工の百濟より來れるあり。秦(はた)氏の祖なる弓月君(ゆみつきのきみ)の如きは數多の人人を率ゐて百濟より歸化し、養蠶・紡織を業としたり。織物の業は次第に進みしが、天皇は更に使者を支那に遣はして機織・裁縫などに長じたる工女を求めしめ、益々此の業の發達を圖り給へり。次いで雄略天皇第二十代の御代にも、支那の工女の我が招に應じて來れるあり。此の外諸種の職工の朝鮮より來れるありて、我が國の工藝益々進歩せり。

第五 佛教の傳來と物部・蘇我兩氏の爭 工藝・美術の進歩

[佛教の傳來]

佛教はもと印度に起りたる宗教にして、後に支那、朝鮮に入り、遂に我が國にも傳はれるなり。紀元千二百十二年、欽明天皇第二十九代の御代に百濟王使を遣はして佛像・經文等を朝廷に獻じ、盛に佛の功徳を説けり。<略>

[建築]

抑々我が國舊來の家屋は地を掘りて柱を建て、葺くに茅を以てするが如き、極めて質素なるものなりき。朝鮮との交通開くるに及びて、其の建築術を傳へ、雄略天皇の御代には既に樓閣をも造るに至りしが、佛教の行はるるに伴なひて造寺の技師渡來し、推古天皇の御代には四天王寺・法隆寺等の大伽藍を始として、壯麗なる堂塔多く建立せられたり。

[繪畫刺繍]

推古天皇の御代に高麗の僧曇徴といふもの來りて紙・墨・繪具などの製法を我が國に傳へたり。是より繪畫も頗る發達して壯大なる佛畫を畫き、又美麗なる繍佛像などを作るに至れり。

彫刻も敏達天皇第三十代の御代に朝鮮より佛工の渡來するありて、其の術漸く進歩し、鑄金の術亦行はれて、木佛・銅佛等の製法あり。推古天皇の御代には丈六の銅佛をさへ鑄造せり。當時佛工の中にて鳥佛師最も有名なりき。

もどる

高等小學日本歴史 巻二

著作兼發行者 文部省
翻刻發行兼印刷者 東京書籍株式會社
大正元年十一月廿七日印刷
大正元年十一月三十日發行
大正元年十二月二日翻刻印刷
大正元年十二月九日翻刻發行

第九 秀吉の海内平定

[朝鮮征伐]

秀吉夙に國威を海外に耀かさんとするの志ありて、中國征伐の際既に朝鮮及び明を經略するの意を洩らせり。かくて小田原を征討するに及び、書をフィリピン大守に贈り、後又使を臺灣に遣はして、各其の服從を促し、遂に印度にも及ぼさんとす。又明國に對しては先づ之と交通せんとし、朝鮮をして我が意を彼に通ぜしむ。然るに朝鮮之に應ぜざりしかば、文禄元年紀元二千二百五十二年大軍を朝鮮に出し、本營を肥前の名古屋に置き、自ら臨みて之を指揮せり。其の軍總べて十三萬餘。加藤清正・小西行長先鋒たり。小早川隆景・島津義弘・黒田長政・立花宗茂等の諸將相踵ぎて渡韓し、我が軍勇戰奮鬪、忽ち王城を陷れて國王を走らし、二王子を擒にし、又明の援兵を破り、殆ど朝鮮八道を從へ、更に進みて明に逼らんとせり。偶々明より講和の使あり。秀吉乃ち令して一旦其の兵を收めしが、既にして和議の詐謀に出でたるを知り、大いに怒りて更に再征の軍を發す。然るに幾ばくもなく慶長三年紀元二千二百五十八年秀吉病みて伏見城に薨ず。其の病篤きに及び、遣命して軍を引上げしめ、外征の事遂に止みたり。

第十一 海外諸國との交通

[朝鮮及び支那との交通]

曩に秀吉の朝鮮を伐ち、明軍と戰を交ふるや、彼我の交通之が爲に殆ど中絶せり。然るに家康政權を掌握するに及びて、更に隣交を復せんと對馬の宗氏をして朝鮮交通のことを圖らしむ。是より朝鮮は我が將軍の襲職毎に慶賀の使節を我に遣はすこととなれり。明との修好は遂に成るに至らざりしかども、其の商人は長崎に來りて貿易を營み、次いで明亡び清興るに及びても、尚先例に從ひ、常に來りて貿易に從事せり。

第十九 明治昭代の外交

[朝鮮との交渉]

朝鮮との交通は幕府多事の際に當りて一時殆ど中絶したりしかば、朝廷は維新の初、使節を遣はして大政復古の事を告げ、舊好を修めんとし給ひしに、朝鮮は我が書辭の舊例に違へるを難じて之を拒み、屡々我が體面を傷つくるが如き擧動を敢へてして憚らざりき。參議西郷隆盛之を見て其の不問に附し難きを思ひ、自ら使節として往きて之を諭し、彼尚聽かずば則ち問罪の師を出さんと主張し、板垣退助等之を賛して、朝議亦殆ど之に決したり。然るに岩倉具視等の西洋諸國の視察を終へて歸朝するに及び、世界の大勢に鑑みて、大いに内治整頓の急務なるを主張し、征韓論を排斥して朝議を一變せしめしかば、隆盛等同志のものは袂を連ねて官を辭せり。是より後も朝鮮に於ける排日の思想は依然として已まず、八年には雲揚鑑の朝鮮近海を航行し、水を江華島に求むるに當り、其の守兵の爲に不意に砲撃せられたり。政府乃ち陸軍中將黒田清隆・元老院議官井上馨を朝鮮に遣はして其の罪を問はしめ、遂に之と修好條約を結ばしめたり。抑々朝鮮は徳川將軍就職毎に幕府に來聘するの慣例ありて家齊の時に至りしが、又常に好を清國にも通じて、其の正朔を奉じ、清國は之を屬國視するの趣ありき。然るに今や我が國は其の獨立を認めて之と條約を締結せしかば、是より歐・米の諸國も亦相踵ぎて朝鮮と條約を結び、互に國交を修め、通商を開きたり。されども、清國は尚動もすれば朝鮮の國事に干渉し、是を屬國視するの擧動ありき。

[明治二十七八年戰役]

朝鮮に對しては、曩に是と修好條約を結びしより、彼我の關係次第に親密に赴きしが、彼の國民の中には往往我が眞意を解せずして、動もすれば我を排斥せんとするものあり、遂に明治十五年及び十七年に於ける京城の變亂を視るに至れり。是に加ふるに清國の是を屬國視すること尚已まず、爲に紛擾を生ずるの虞ありしかば、十八年我が政府は參議伊藤博文を清國に遣はして天津條約を締結せしめ、兩國兵の朝鮮に駐屯せるものを撤去し、以て永く禍根を絶たんことに努めたり。然れども朝鮮の國勢尚振はわず、紀綱弛解して虐政行われ、國内常に平安ならざりしかば、二十七年東學黨の徒是を憤りて内亂を起すに至りしが、朝鮮政府の力は微弱にして、之を鎭壓すること能はざりき。我が政府乃ち清國と協力して弊政を改め、其の獨立を固くして、永く東洋の平和を確保せんことを望みしに、清國は我が誠意を容れざるのみならず、自ら大兵を擁して我を威壓せんとするの勢を示せり。是に於て兩國の和親遂に破れ、互いに兵を交ふるに至りしが、倭が軍大勝を得て、清國をして土地を割き、軍資を償ひ、朝鮮の獨立を確保せしめたり。かくて三十年に至り、朝鮮は國號を韓と改め、國王新に皇帝の位に即き、ここに始めて獨立國の體面を完うにするを得たり。

[戰後の經營と韓國の併合]

日・露の平和將に克服せんとせし頃、日・英兩國は同盟條約を擴張して、益々東洋平和の保障を固くせり。次いで平和克服の後我が政府は新領土なる樺太南部に樺太廳を置き、租借地なる關東州に都督府を設けて、各其の政を統べしめ、又南滿洲鐵道會社を設立せしめて、南滿洲に於ける鐵道及び沿道の鑛山を經營せしむる等、力を諸般の經營に專らにし、以て國利民福を増進することに努めたり。其の後明治四十年、佛・露兩國との協約成り、次いで合衆國とも外交文書を交換し、其の後さらに露國と協約を重ぬる等、諸外國との親交益々其の厚きを加えたり。又韓國に對しては、曩に協約を結びて京城に統監府を置き、之に代りて其の外交を管し、益々日・韓兩國利害共通の主義を固くせしが、四十年に至り更に協約を重ね、統監をして其の内政を指導せしむることとせり。然れども韓國の宿弊は其の根柢極めて深く、危懼の念國内に充ちて、民其の堵に安んぜず。現状を以てしては到底東洋永久の平和を確保し、彼我安寧を維持すること能はず、早晩一大革新を加へて禍亂の淵源を杜絶するの必要に迫れり。天皇之を認め給ひ、條約によりて韓國皇帝が其の一切の統治權を讓與するを受諾し、韓國を我に併合し給へり。時に明治四十三年八月なり。乃ち其の地を朝鮮と號し、總督を置きて之を統轄せしめ給へり。

もどる