会話と人間の関係について

 沢山のホームページがあるけれど、個人のホームページで多いのはほとんど情報発信する力がないようなもの。だから、日記とか、つれづれなるままに、こころにうつり行くよしなしごとをかきつくる、ことぐらい。でもその水準が、高いか低いか、他の人が読んで面白いかどうかはもちろん、定かではない。

 多くの人が雑談や会話に求めているものは、なんなんだろうか。

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  1. 同好の士
  2. だけれど、この場合は、自らの趣味に結構入っていないと面白くない。趣味にはまるというのは、それはそれで面白いから、好き者同士が集まって情報交換したりするのは、大切なんだろうなあ。それほどの趣味を持っている、という人は、どこか変わっている可能性はある。というのは、何かにはまっているというのは、簡単にいえばある種不合理な思いこみを前提としているところがある。「----に夢中」というのは、ほほえましいけれど、どこか危ないのかもしれない。フツーの人は、ある程度は好きだけれど、あまり「はまらない」人が多いように思う。そういう人は面白味がない人かもしれない。

    バランスが取れているということは面白味がないということでもある。どちらが幸福かはわからないけれど、、、。

     

  3. 男女の出会い
  4.  それは、一つは、セックス、一つは、結婚、一つは、心の支え、のようなもの、を求めているのだろうか。女性のことはよくわからないので、男性について書こう。

    男性からは、セックスを求めているものは、多いだろうな。でももちろん男性でもセックスだけとは限らない。誰でもいい、という男性は多いはず(風俗が繁盛するんだから)。だけどセックスする気がおこらない相手も、男性には沢山いると思う。むしろ関係を深く持てば持つほど、心に関われば関わるほど、セックスはしにくくなるのかもしれない。相手を人間として見れば、セックスしにくくなってしまう水準の欲望があるように思う。

    こういうと、女性は「やっぱりね」と思う人が多いかも知れない。

    けれど、知っているから安心して自分のことを出せるから、セックスも安心してできるという関係もあるように思う。自分がインポになってもおとしてめたりしないだろう、そんな相手、女性からすれば、体のコンプレックスを指摘されたりモノとして扱われたりしないで尊重してくれるという安心感があるセックス。そういう関係は、(たとえセックスが中心であっても、あるいはセックスがつけたしでも)結構大切なのかもしれない。そのような安心感が、他の水準での人間関係と重なっていれば、複雑ではあるけれど、もっと厚さがでてくるだろう。

     

  5. 心の支え

 これは、同性でもよいはず。

 だけれど、同性の場合は、競争心が働きやすい(特に男性の場合)。だから、友達に心の支えを求めているような人間は、弱い存在として、尊敬もされない。敬遠されやすい。尊敬できない人間と友達になるのは、難しいのかもしれない。

異性の場合であれば、そのあたりがうまくクリアされるかもしれない。お互いに、尊敬も必要かもしれないけれど、むしろ自分の弱さを受けとめてくれる人を求めるような気がする。

裸になったりするということは、とても自らを無防備にする。だから、そういう場に自分をおけるということは、自分の殻をはずして見せられるというすごい解放感がある。

 けれど、それは恋愛なのか。多分恋愛でなくてもいいのだろう。

 いつもいつも、お互いが自分の弱さを愚痴っているような関係が長く楽しく続くとも思えない。このことは、結構大事かもしれない。いつも自分を「受けとめて欲しい」ということは、いつでも愚痴を言って相手に励まして欲しい、ということになりやすい。お互いにそれをし続けるのは、しんどいだろう。

「お互いカウンセラー」関係というのもあるかもしれないけれど、どちらかが受けとめる、という関係の方がむしろありそう。でもそういう関係の場合でも、ずっとうまくいくのだろうか。

心の支え、というのは、むしろ、相手に奉仕する方が、奉仕されている方のことを言うのかもしれない。自分が相手の役にたっているとか、なくてはならない存在ということで。これも少し危ない。ヒモにとりつかれやすい女性など、危ない。「私がいなければあの人ダメなんです」なんていうのは、危ない。それでも、ごく普通の人間関係でも、奉仕する方が、奉仕される方の存在によって、支えられるというのは、多いように思う。そういう意味では、自立している人間というのは、孤独な人間。つまり人の支えになって助けてあげられると、本人は思っているけれど、しかし、他の人の世話にならない人であればあるほど、結局他の人の支えになってあげられない。立派な人は人の心の支えにはならないのじゃないかな。

 

4、同士

 自分自身が何か「ちゃんと」生きていて、そして、その生きている人間が大切にしているようなものを、他の誰かが、やはり求めていて、その求める仲間として、励ましあったり、情報交換したり、するようなのがよいのかもしれない。

 こういうのは、結構これだけ書くといい感じがする。アリストテレスもこんな感じの友情を、真の友情といっていたような気がする。

しかし、こういうのを、「高めあい」の関係などといって、理想化すると、結構しんどいかもしれない。昔、ちょっとした左翼っぽい運動に関わっていた頃、革命とまではいかないにしても、そんな社会変革を目指す、同士の間での恋愛のような、友情のようなことがあった。そういうのは、古い言葉だけれど、「挫折」なんかがあったりすると、破綻しそう。まあ、息が抜けなくなるというか、常に自分が相手との関係でも、相手に体現されている理念といか理想というかそういうものから見下され反省しなければならないような意識になったりすれば、しんどくてやってられない。調子が悪いときには、会いたくなくなるだろう。

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 おそらく、こういうものがごちゃ混ぜになって、相手がいる、ということが自分の一部のような感じで自然に気遣いができるような、そういう友情や恋愛、夫婦、家族関係などがいいのかもしれない。自分が、1人でないということを確認できるような、そういう存在。愚痴を言うときは、そういう時もあるだろうと、聞き、理想を語るときには、そういうのはすてきだなあ、と共感し、それでも適度な距離があって、愚痴の解決のために、相手に代わって解決するとか、理想を自らもそのまま真に受けてもっと実現するために入り込むとか、いうようなことは、しないわけではないにしても程々にする。そして、本当に助けを欲しいときにだけ、お邪魔をするような関係。

 そんな、つかず離れずの、関係の取り方がいいのかもしれない。会話は、やっぱり難しい。

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