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第二章 「宮使いも法華経と思しけれ その二」

 

  角川光太郎はうつむき加減で黙って心の中で運命の糸をほぐしていた。

  土門涼子はなお鼓笛隊についての話を続けた。

「大学二年の岡山文化祭が最後、そう5・26よ ビデオにも出ているンよ。カラーガードで」と彼女は目を潤ませて岡山弁のアクセントで言った。

  角川は標準語で聞くよりこの方が好きだった。なんとなくほんのりした感じが良い。

大学二年?そうすると俺は四年、ん 5・26・・26・・”NO26児玉! とするとあの年!か ・・・・ ん・・ いやまてよ 。5・26のときは社会人になっていたはず!彼は記憶の糸車を回した。

「昭和六十一年じゃなかったかな?」

  土門も気がついた。

「そう昭和六十一年、先生が瀬戸大橋について 話されていたから」とすると土門涼子は大学三年ということになる。

  人の記憶はいい加減なモノと言われる。特に日時や数字など抽象的なものほどもつれる。しかし、苦しかったこと戦いきったことは何かをきっかけに走馬灯のように甦る。今後の人生の糧、エキスとでもなることを望んでいるように角川の心の中で再び馬が走り、糸車は回わり出した

 昭和六十一年五月二十六日、岡山の学会員にとっては5・26という特別の固有名詞になっているほどの日である。しかし、角川光太郎にとっては、数年前までだが、聞くのがいやな固有名詞だった。

  この日、涼子がカラーガードの出演準備も終わり、出演の緊張で胸が高まっていた頃 角川も晴天の田園地帯を浦安体育館にクルマを走らせていた。隣には父の陸蔵がいた。

  角川たち四年生は、この年土門涼子の花束で見送られ卒業、角川は銀行マンになっていた。同時に男子部員にもなったが、会社、フットボールのコーチ、ボディビルと相変わらず 宮使いに奔走し。ほとんど男子部には行っていなかった。しかも現役生とともに六月に京大との試合に出場することになっており多忙を極めていた。

  それでも熱心な男子部担当者は夜遅くに尋ねてくる。

「光ちゃん。岡山文化祭、出てくれんか」学生部担当者と違いなれなれしい。無理もない小等部以来しぶる角川を必死に連れ出してきた十数年来いの知己である。

「いや、組み体操の練習に行く時間がないじゃ。迷惑かけるから遠慮しとくわ」

角川は母が岡山文化祭に国際部通訳として参加するため、男子部も文化祭の準備をしている事を知っていたが仕事やフットボールのことを理由に無関心を装おうとした。本当は学会活動から逃げていたのかもしれない。信心は自分でするものと相変わらず信じていた。

 「 あそうか,光ちゃん銀行員じゃなあ、そんなら、やらんほうがええ、銀行のトップも来賓で来るし、学会員とばれると出世できんから、銀行員の部員はみんな隠しトンじゃ。」

  角川は頭にきた。彼はわざわざ学会員と名乗る事はしないが 別に誰に知られようが構わないと思っている 。自分の信仰が人に知られて悪いと思うならとっくにやめている。ただ、自分の活動は自分で決めたいだけ、時間がとれないから行かないだけだ。と彼は心の中でつぶやいた。

 

  余談だが、こういう矛盾したことを言う幹部の存在も彼が活動第一になれない理由の一つだった。なお、角川が信心の疑問について一つ一つほぐして行ったことは項を改めて後述したい。

 「光ちゃん、一緒に見ようや。送ってくれるなら同じやないか。」と陸蔵は神戸なまりで角川に言った。この年の前年昭和六十年も角川にとって忘れられない年である。もちろん児玉の事故もそうだが、父陸蔵が信心を始めた年だからである。 陸蔵はそれまで結婚以来、学会に対し無関心,無干渉主義を貫いていた。彼には信心など不要という自信があった。彼の身体は小柄だが世法の世界では巨人だった。

  彼は日本サッカー代表でエースストライカーとしてアジア大会出場やワールドカップ予選出場を経験した。幼少よりサッカーに親しみ旧制中学では朝鮮中学と覇を競い。全国制覇も経験。

  戦時中は学徒出陣により海軍航空隊のカミカゼ特攻隊に所属、出撃は順番待ちで、あと数ヶ月玉音放送が遅れていたら海に散っていたはずだった。

  復員後、神戸に帰ると家は焼け、彼の父も戦争で貿易の仕事を失い、その後他界していた。金もない、家もない、学校もない、サッカーもない。彼は生活のため闇市で大豆を煎ってコーヒー豆と称して売るなど辛酸をなめ尽くした。

  そののち、戦後復興により、復学、卒業、そして、サッカーの強い田辺製薬に入社。実業団で全国制覇、日本代表。

「ワシは特攻で一度死んだはずの身や!」と彼は常に言っていた。こういう人は強い。実際、戦後、日本の奇跡的復興の立役者にはこのタイプが多いのである。

  サッカー引退後、彼は子会社復興の命を受け四十三歳で岡山へ社長として赴任。数年で子会社を数倍規模の会社にした。それだけでは飽きたらず四九歳のときサッカー部を設立し再び自らがエースストライカーになった。ボールは全て彼に集められた。

「ボールや,よこせ」

「社長!ボール」なんと五十歳を越えてから県の下部リーグで得点王にもなった。新入社員の採用もサッカー第一主義で成績の悪い高校生を片っ端から集めた。

「サッカーをやっとッた奴に悪い奴はおらん」と何時も言っていた。その後チームは中国リーグ一部まで昇格し、レベルが上がりさすがに自分が体力的に出られなくなると、さらにもう一チーム作りそこで活躍した。ワンマン社長花盛りであった。地元新聞にも「元サッカー全日本代表の名物社長」と何度も書かれた。

 

  余談だが、そのため小学校から高校まで角川の父の事は学校中に知れ渡っていた。どうみても一族会社の社長に見えた。

「角川のぼんぼん」、

「角川は別に勉強せんでも跡を次ぐからええんじゃ」と先生まで言った。 子会社の社長で一族会社じゃないと言っても信じてくれなかった。

 

  こんな陸蔵にとって信仰は不要だった。

  ところが昭和六十年に大きな転機が訪れる。突然の社長勇退、会長就任である。陸蔵は二十年間社長に君臨したがさらに夢があった。親会社からの独立である。自分が死ぬまで経営者で留まりたい事もあったが会社の社員の給料を上げてやりたかった。彼がいかにワンマン社長でも給料水準については親会社の意向には逆らえなかった。

  しかし、彼の独立の画策もむなしく彼の会社は別の子会社と合併させられた。そして、追い討ちをかけるようにお飾り会長へ勇退となった。さらに悪い事に、合併後の社長には神戸中学以来のサッカーの盟友で供に全日本で2トップを張った時田が就任した。陸蔵の酒癖の悪さが影響していると噂された。彼は大酒豪であった毎晩御前様で、かつ放言が激しく人によっては悪く言う人も多かった。

   

  ともかく、彼は会社いや人生の目標を失った。

  会長といってもほとんど仕事は無く彼は家に居た。朝から酒浸りだった。することがない彼に妻は仏法を薦めた。もともと哲学や歴史好きの彼だったが徹底した無神論者だったため何度薦められても仏法とりわけ日蓮仏法など今まで読んだことも考えたこともなかった。

  しかし、今回の事件をきっかけに思うところがあったのか立正安国論を貪るように読んだ。そして、

「何と言う名文や」と感嘆の声ををあげたのである。もともと漢文古文に強いこともあって御書や聖教新聞の内容は理解できた。そして、とうとう勤行をしてみたいと言い出したのである。このとき陸蔵六十三歳。

「最後はやってみんとわからんへん」 ここはやはり根っからのスポーツマン、実践重視である。その後年が明け春頃には学会の会合にも出るようになった。そして酒の量も次第に減ってきた。

  

  なお、入会自体は陸蔵の母が他界した数年前に、大石寺で亡き母の供養するのに必要だからと、妻に半ば騙され、入信したことになっていた。しかし、これが幸した。やれ入決だ入会勤行だと周りが騒ぐ事もなく彼自身のペースで進めることができたからだ。何が幸するかわからない。仏法に無駄は無いのである。

 

  「一緒に見ような。先生も来るガナ。」陸蔵は繰り返す。しかし、角川には変な意地があった。

「何も文化祭の準備に協力してねぇのに上のほうから偉そうに見れるか。そんなカッコだけつけるのは好かん。」 このあたりは完全に岡大フットボール精神である。苦しい思いもせずよいとこだけ取る事は負かりならん と言うのである。

  この頃さらに仕事でも角川は困惑していた。

「君のような野武士がほしい。これからは銀行員も強くなければならん」 という銀行からの誘いを金融に興味があったこともありまあ勉強のつもりで行くか 、どうせ長くいるつもりはないしとして入社を決めてしまった。しかし,支店配属されると全く話が違う。角川の個性など他の社員とっては迷惑以外のなにものでもなかった。彼は会社とはこんなものか。あほらしい。と思うようになっていた。

  そんな角川だったこともあり父の誘いにも意地を張った。大体駐車場がないから送ってくれと言っておきながら、「駐車場は何とかなるやろ」 とは最初から俺を見に連れて行くつもりだったはずに違いない。しかし、角川はおかしかった。こういう方便で人を連れ出す事を学会員はよくするからだ。父も学会員になったなと感慨した。

   浦安会場に到着した。父は最後の誘いをしたが角川は意地になってクルマを出口に回した。父の姿が寂しそうだった。そして、会場を後にした。外はややうす曇だった。岡大の練習グランドに向かうには少し早かった。ゆっくりしたペースで走りながら父の寂しそうな姿が浮かんだ。そしてグランドに近づいたころ、彼は自分自身に問いかけた。

父は俺と初めての文化祭を見ることを楽しみにしていたのではないか。よく考えれば観客席から応援する事だって協力じゃないのか。ただつまらん意地を張っていただけじゃないのか。自分は小さい人間だ。父を見てみろ、二十数年来学会に背を向けてきた、しかもあれだけの社会的名声を持った巨人がここに至って、あえて世間からは逆風になる人間革命をしようとしている。それに比べ俺は何も成長していないじゃないか。情けない。そう思うとなぜか涙が出てきた。

   事実これから四年後、陸蔵は他界し角川と文化祭を見る機会は永遠に失われることになる。そして、咽頭ガン宣告から約二年間、陸蔵は自分自身との最後の試合をするのである。痛みのため口が効けなくなっても紙に「希望を持って生きる」と書いた父の姿がまるで仁王像のように角川のまぶたに焼き付いていた。陸蔵のナイスシュートの勝利だった。

 

  男に悲しみの涙は不要、要るのは感動の涙のみと常に思ってきた角川にとってこの涙は感動の涙なのか。

  学会員が5.26の話をするといやな気分になっている間は悲しみの涙、自分を見つめ素直になる日と考えるようになれば感動の涙か。

そして、何時しか、感動の涙だといえる角川になったのである。

 

   土門涼子はなおも目を真っ赤にして、山本伸一会長に会えてなぜか涙が出たことを語った。これは紛れも無く感動の涙であった。

  角川はもし意地を捨て浦安体育館に入っていれば自分も山本会長に会えたことを後悔した。事実、未だに彼は山本会長と会う機会を持てないでいる。

  それに涼子のカラーガード姿を見られなかったことも残念だった。角川は彼女のジャージ姿しか知らなかった。生命が躍動する瞬間、人は最も美しくなる。美利善の美も大切な価値である。涼子の最高の美を見ておきたかった。さらに、涼子が学会員であると知るチャンスだったのにこれも残念だった。

  こうして土門と角川の信仰の糸は絡まなっかたが、ともかく5.26は岡山の学会員の記念日となるのである。もちろん彼ら二人にとっても。

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