小説 内なる戦い 外なる戦い

    

          第三章 友の死

 

角川光太郎は”5.26”という日を、自己を見つめる日と感じている自分を嬉しくく思った。人は自分の成長を何かをきっかけに認識する。それは他人の些細な一言だったり、自分自身の過去の述懐だったりする。

「日付の固有名詞化か、”5.26”、、、5は5月、、26は、、NO26、、児玉!」彼はさっきの連想を呟いた。土門涼子はなお黙って聞いている。、

「児玉の事故も五月、とすると、死んだのは六月か」と角川は運命の糸車をたどった。

「児玉の事故は六月だったよね?」彼は涼子に尋ねた。

「児玉君の事故は五月三日で、逝去は五月十日よ!」と彼女は怪訝そうに答えた。

  角川は二つの点で驚いた。

  一つは事故から七日しか経たずに逝ってしまったという事実だった。彼は五月の連休の試合で児玉が意識不明になり、その後一ヶ月間に渡り児玉は闘病生活を送ったと思っていた。だから、事故すなわち逝去は六月かと言ったのである。いや、正確には途中から絶対的時間記憶が相対的時間間隔に支配され、絶対的時間記憶を凌駕したからである。すなわち、人は死ぬほど苦しかった時間ほど長く感じられるのである。だから単純な七日間という時間の記憶が薄れてくると感覚として感じていた一ヶ月という時間の方が優位になるのである。

言いかえれば、彼にとってこの七日間は一カ月間にも感じられるほどの苦しみだったということになる。

  二つ目の驚きは涼子が事故と逝去の正確な日付を暗記していたことだ。几帳面な性格からか、いやそれだけではない。角川は気がついた。

「そうだ涼子は”5.10”を固有名詞化しこの日を”児玉の追善供養の日”と決めて、紙を仏壇に立てるなど忘れないように意識していたに違いない。 そして、”5.3”は学会員にとって山本会長就任日というもともとの記念日であり当然に記憶している日だ。山本会長就任日に児玉の事故を重ね合わせて覚えていたんだ。」    彼は涼子の児玉に対する追善の気持ちの真剣さに敬服した。

 もちろん、彼も児玉の追善供養を回向の中で毎日のように行なっている。父の次ぎに名前を念じている。しかし、どうしても年と供に形式化している感は否めない。

 これに対し、例えば父の逝去はこれも学会記念日である”3.16”であるがこの日を忘れた事はなく毎年この日に懇ろに供養している。

 彼は学会が”11.18”等さまざまな日を記念日として宣揚する意義を改めて納得した。

それと同時に彼は自分の意固地さを再び知った。なぜ”5.3”に絡めておけなかったのか。それは当時彼は学会のこういう記念日宣揚を形式主義だと軽く見ていたからだ。「日にちなど覚えてなくても、具体的な意義を覚えておけば良い」と。そして、「命日に追善しなくても、毎日回向すればよい。」と。

 しかし、現実には児玉の追善が形式化しているという厳然たる事実がある以上自らの間違いを肝に銘じなければならない。もちろん、ここ十年来、彼は学会記念日を大切にしようとしている。ただ,過去の反省として認識する意義は大きい。人は過ちを繰り返すからだ。

 

土門は未だ怪訝な顔をしていた。角川は誤解を与えたと感じそれを解こうとした。

「五月の連休に試合で児玉が重傷を負ったことはもちろん覚えていたが、児玉が闘病中、俺の苦しみがあまりに強かったから、当然一ヶ月は入院していたと思ってしまったんだ。

 でも、君のように”5.10”を記念日として固有名詞化すれば勘違いする事もなく、追善供養も”5.10”にきちんとできたのにな。もちろん、俺も追善供養は回向のときやっているから、勤行をさぼらなければ毎日やっていることになるんだが…、やはり、大切な人の死はその人の生死の意味を考えるためにも記念日化するべきだったな。」

 涼子はにっこり笑って

「そうよ、”5.3”がすでに記念日だった私にとっては簡単な事だったんよ。」彼女は当時からの強信を誇るように胸を張った。

 

余談だが人の会話においては、ちょっとした言葉の受け取り方の違いや勘違いなどで誤解や不信を与えてしまう。常に真剣勝負に徹し相手の顔や言葉の微妙な変化を見逃してはならない。もちろんこれは受け手にもいえることであり発言内容を善い方に解釈するよう心懸けたいものである。過去の戦争も検証して見ればちょっとした言葉の行き違いから多くが起きているいう歴史がこれを証明している。

 

「光ちゃんはキャプテンだったから苦しかったよね」と涼子は自らも苦しかったことを回想した。

   角川の心の内に再び馬が走り糸車が回り始めた。

 

昭和六十年五月十日から翌く十一日になろうとする時間、この十一日という新しい日を迎えることなく、一人のある若者の火が消えた。闘魂という光を、友に残して・・・・

角川は自宅に居た。この七日間 、神戸岡山間を二往復していた。五月三日の神戸大との定期戦で二年生ランニングバックの児玉が頭部内の損傷で意識不明の重体 に陥り、神戸の病院に入院していたからだ。部員が交代で付き添った。

 角川も試合後、病院で一夜を明かし、その後一旦、部員を連れて帰岡し、再び、クルマで付き添いの交代要員を乗せて神戸に行き、この前日に帰岡していたところだった。

  けがの状態は最悪だった。医師でもある監督の津尾は角川らチーム幹部に医学的にはまず助からないと泣くように言った。

角川は慄然とした。全身の力が全て抜ける感じを覚えた。彼は選手としての責任、主将としての責任で一瞬全身金縛りになった。

「俺の責任だ」と。

  児玉が倒れる直前のプレーだった。右ダイブのコール、角川と河合の間に児玉が突っ込む当時、岡大の自慢のプレーだ。

QB松崎のコールが出る

「ダウン、ハットハット」、オフェンスの選手が先に動いた。と同時に笛がなった。オフサイドの反則だ。

 しかし、児玉は猛然と

「ウリャー」と声をあげてディフェンスラインに突っ込み数人がかりの猛タックルを浴びた。角川、河合、井上、神藪、正岡ら岡大自慢の強力ラインのブロックもないまま。

 客観的に見れば不運だった。通常、オフサイドでイエローフラッグが出る。が、ボールデッドになるまでプレーは続き、笛は吹かれない。

 しかしこのときの定期戦の審判は不慣れなせいか、直ぐに笛を吹いてしまったのだ。こうなると、オフェンスはプレーを止めてしまう。

 しかし、相手のプレーに反射して動くディフェンスは相手が突っ込めば反射してタックルに行く。

 しかも、児玉は小兵だった。身長は160センチそこそこ体重も60キロ代前半であろう。しかし、持ち前の負けん気とウエイトトレーニングで鍛えたパワーで最も危険なポジションといわれるアップバックをこなしていた。いや、この春からやっと試合に出られるようになったのである。

  彼は小兵だったので、一年生のときはレシーバーの練習をしていた。しかしキャチングが下手だった。二年生になると岡大では全部員が戦力として計算される。児玉のポジションについて意見が分かれた。キャッチングのセンスがないのでDBやレシーバは無理だというのがDB担当や津尾の意見だった。この身体ではラインは幾らなんでも無理だ、ではランニングバックか?。

 結局、本人の希望も聞いてランニニグバックをやらせてみる事になった。

ランニングバックというポジションはランプレー主体の岡大にとって最重要ポジションであり、花形である。当時のチームにあって、得点できる機会が最も多いからだ。

  しかし、肉弾と化し、敵味方のラインの密集地帯に飛び込むことが要求される。しかも、死んでも離してはならない虎の子のボールを抱えて。よくランニニグバックは乙女の命と呼ばれる。全身傷だらけになり消耗していくからだ。当時このエースは三年の走る肉弾、奥村だった。ただ彼は故障が多く、試合中も常に交代が必要だった。

  児玉は津尾と角川の前で胸を張った。

「是非やらせてください。頑張ります。」 彼の愛くるしい目は闘志で輝いていた。角川と津尾は期するものを感じた。これで決まった。

「よし、きついぞ、身体がない分ウエイトトレーニングをきっちりやれ」と角川は児玉の肩をたたいた。

津尾は鬼になった。来る日も来る日も児玉にあたりをやらせた。しかもラインと一緒にである。当時の岡大はラインの全盛時代。小兵の児玉にはきつかったに違いない。しかもキャプテンの角川はラインのリーダーでもある。彼も鬼だった。小兵の児玉に容赦なかった。角川は百キロの体重と並外れたパワーで児玉を文字どうりふっ飛ばしていた。ラインの練習は精神的にもきつい。武道の雰囲気だった。弱音を吐くことは許されない。常に全力でなければならない。実際ラインに回されると退部するものが多かった。上級生で残っている者は強靭な精神力と強力なあたりを持った猛者ばかりだったのである。

それでも彼は負けなかった。 潰されても潰されても起きた。

「もう,一丁お願いします!」

「よし、やっちゃるぞ! やっちゃるぞ!」ヒョウのような目だった。

 ラインを二人づつ三列に並ばせ二人の間を五センチほど空け、そこにボールを持った児玉を頭から突っ込ませる練習も毎日やらせた。しかも、ラインは容赦なく猛烈に児玉をヒットする。ふっ飛ばされボールを落とすと津尾の怒号が飛んだ。

「もっと低く!、頭をネジこめろ!、死んでもボールを離すな!」

児玉は絶えた。耐え抜いた。

 こうして、いつしか児玉はラインの猛者達の信頼を得られるぐらい逞しくなったのである。

「ええ根性しとる。」

「目が光っとる 。」ラインの猛者達は口々に言った。彼らは闘志を持った男しか認めないのである。バックはラインの信頼がなければ走れない。ラインはいわば影で、光があたるのはバック。

 「こいつを通おしてやるんだ」というラインの気概がなければラインのブロックも死ぬ。道を作るのはラインとバックの共同作業なのである。

角川は笛が鳴ってプレーを止めたことを悔やんだ。

「確かに笛は鳴った。しかし、オンプレーのはずではないか。いつもイエローフラッグが出ても最後まで足を止めるなと檄を飛ばしていたに」。

審判のミスで仕方がないといえば終わりだが。 

 このことは特に右ガード4年の河合、それとセンター4年の井上さらに、左の神藪、正岡らとともに深い心の傷となった。

 今でも、笛が鳴った後「うりゃー」と声をあげて目の前に突っ込んだ児玉の姿が五人の脳裏に焼き付いている。

 そして、死に至るタックル受けても彼は虎の子のボールを離さなかった。その直後、サイドラインに出て倒れ、そして、二度とボールを持つことはなかったのである。

  

  さらに,角川は主将としての責任も感じていた。実は児玉の頭部のけがはこのオフサイドの時のタックルだけが原因ではなかった。それまでの頭への衝撃の積み重ねの結果だった。ボクシングで見られる事故と同じで、頭の中が豆腐状態になり破壊されるものであった。これが神戸戦だけのものなのか、それまでの練習も含めてのものなのか、よくわからない。ただ、試合中児玉の元気が少しなっかたことに角川は気づいていた。

「児玉!元気出せ!」と角川はハドルの中で檄を飛ばした。児玉は我に帰ったように

「はい!」と 答えたが何かいつもと違うような雰囲気があった。しかし、そのまま見逃してしまった。「あのとき、監督に伝言しておけば!」。

 もちろん津尾もなんとなく元気がない児玉に気づいていたが、精神科が専門の彼に頭部内損傷を見ぬくことはできなかった。

 いや、ボクシングでもそうだが専門のドクターでも、CTを撮らなければ最終的にはわからないのである。

 あの突っ込みのとき児玉は笛が聞こえないほど朦朧としていたのかもしれない。

 さらに、もう一つ、小兵の児玉にランニングバックをやらせてしまったことである。しかも、鬼のごとく練習をさせたのは角川と津尾であった。「やはり間違っていたのか」。

角川は後悔した。児玉の目を見て決めてしまったその日のことを…。

角川の精神はかなり病んでいた。いや極限であった。児玉の事件の責任が自分にある。毎日、責任を自分に問うた。頻繁に家に掛かってくる神戸からの連絡もあり、彼は憔悴していた。家族にも事故のことを気づかれた。彼は全てを話した。

「きっと助かると信じて題目を上げなさい。」 母はキッパリ言った。母は東京生まれの東京育ちで関東女性特有の強さを持ち、信心は戸田会長のあの三ツ沢での原水爆禁止宣言を学生部のとき聞いたというから草創からの学会員である。

  もう彼はこれしかないと思い唱題を始めた。彼はひとのために祈ったことなどなかった。今まではたまに祈っても自分のことばかりだったのに…。

 

電話が物凄い地響きを上げた。いや、極限の角川にはそう感じられた。すでに十一日になって暫くたっていた。

我に返って、受話器を取った。

「さっき、児玉がなくなった。コーチで医学生の江田だった。涙混じりの声だった。」ついに来てしまった。

角川は全身が硬直して行くのが分かった。

言葉が出なかった。

「皆に連絡してくれ、それともう深夜で危ないからこっちにはこないように、津尾さんが言うとるから、皆で祈ってくれ、朝には出棺するそうじゃ。」

「はい、わかりました、連絡します」この一言を出すのが精一杯だった。

その直後だった。児玉と同じ山口出身で四年の岡村が泣きじゃくって電話してきた。他のOBからクルマで来ないように注意を受けていた。津尾の角川の性格からくる暴走を止めるための配慮だった。精神的に困憊している状態での深夜の運転を考えての事だった。

責任者として当然の配慮だった。

「角川どうすんなぁ?」角川の意は既に決していた。一刻も早く児玉のところに駆けつけたかった。皆も同じ気持ちだろうと。彼は全身から何とか残っている力を出そうとした。

「行くにきまとらぁー、チームではなく有志ならええじゃろが。」

「やっぱし、角川じゃ! 集めようで」 

彼は極限状態で考えた。クルマの手配、みんなへの連絡、人数の計算等不思議にすべてがなしえた。岡村に下級生に連絡する旨を告げて、他のところに電話かけまくった。不思議に冷静だった。まず、クルマを持っている部員で一番遠い河合に電話をし、後は連絡網にたよった。そして、計算・・「クルマは俺と岡村、河合、・・人数は・・足りない、もし二年生以上の全員が来たら乗れなくなる。そんな事はできない。!」

 ふと縁側から外を見た。星が見える。「そうだバイクだ。」

彼は集合場所の第一喫茶から一番近い四年の岩谷に連絡した。もう連絡は来ていたが、幸いまだ居た。

「直ぐに第一喫茶に行って、二百五十CC以上のオートバイを持っている奴にバイクを取りに帰らせてくれ。そうしないと全員がクルマに乗れない!」

「わかった。それとクルマ割とルート確認をしとけばいいな」彼は頼りになる奴だった。

 これら一連の角川の声は興奮して、異常に大きかった。向かえの家も隣の家もこの事件のことを知っているほどだった。

 当然寝ていた両親も起きてきた。

母は黙って仏壇を開け、唱題を始めた。

「終わったら来なさい!、あんたが題目あげなきゃ誰が上げるの、あんたしか彼を成仏させられる人は居ないのよ。」

母は学会員が角川一人だと言うことを聞いていたのだ。

 この頃土門涼子も連絡を受けていた。彼女は泣き崩れた。彼女はこの時二年生で児玉とは同期、しかも女性である。悲しみはひとしおであった。純粋な信心をしていた彼女も唱題を始めクルマの中でも心の中で念じていた。

 もちろん、角川も母もこのことは知らなかった。

 角川はすべての段取りを終え、唱題に加わった。途端に涙が溢れて声にならなくなった。母の叱咤が飛ぶ。

時間が迫ってきた。

「もう、行かんといけん」

「児玉君の耳元で大きな声で題目を上げてきなさい。」

「いや、あいつの家は念仏の寺でお父さんは僧侶じゃ、無理じゃ」

 

 角川は神戸に滞在しているとき。

児玉の父が彼に、何日も風呂に入っておらず汗をかいて気持ち悪いことを漏らした。そこで、彼は近くの有馬温泉まで案内した。彼はこのあたりの気転が利く。

 その際、児玉の父が色々彼に話してくれた。

「角川さん運転上手ですね。・・角川さんはどちらの出身ですか。」風呂で疲れを幾らか癒されたのか。

それにしても三十歳以上年下の角川に対して丁寧な物言いであった。

角川が岡山で自宅から通っている旨を言うと。

「いいですね、私は息子がどうしているか気になってしょうがないです。でも、息子の言ったとおり皆さん良い人ばかりで安心しているんです。」

角川は涙を堪えるのに必死だった。児玉が生還するのが困難なことをこの父は知らないのである。

 その後も、自分が、学生時代柔道をしていて、スポーツマンが大好きなこと、自分が念仏の僧侶で、児玉が大学で仏教美術を学んでいて、大変に嬉しいことなどを話してくれた。

  角川は自分の父とダブって見えた。角川の弟は父の影響からサッカー少年であった。大安寺高では岡山県のベストイレブンにも選ばれている。その彼は今、東京にいる。父は弟のことが気になってしょうがなかった。だから、東京出張は以前より激増した。弟の大学の試合にあわせて出張を組んでいたほどである。

  「小声でも心の中でもいいから題目を唱えなさい。念仏地獄に行かないように。」母はそう言ってしきみを懐紙に包んで渡してくれた。

「これを棺に入れなさい。」

  クルマに乗ろうとすると父がやって来た。この当時父は信心に無関心であった。

「可哀想やのう、若いのに、気いつけろよ、なんかあったらこまるから、これを持って行け」と、四つ折にした壱万円札を五枚手渡してくれた。根っからのスポーツマンの父は同じスポーツマンを愛した。

  この時、陸蔵は復員後、大学のサッカー部のメンバーが何人も戦死していたことを思い出したに違いない。

 

第一喫茶に着くと角川が最後だった。皆静まりかえっていた。

当然である。皆二十歳そこそこである。人の死に対面、ましてや友の事故死に向かい合ったことなどないはずである。しかも、ともに苦しい練習をしてきた同士である。

「全員来とる。段取りは終わっとるぞ」四年の河合と岩谷、岡村が角川のそばにやって来た。

大丈夫か、疲れたら止まれよ、俺と成りさんの間を走れ。」とバイクで行くことになった二年の槙元に声をかけた。彼は児玉と高校が同じだった。バイクで行くと自ら言ってくれた。

  「悲しいけどな、ゆっくり行け、絶対に事故を起こすな、児玉に怒られるぞ!」

角川は先頭を走った。また涙が出てきた。顎から下にぽたぽた落ちている。誰一人口をきかなかった。題目を心の中で上げ続けた。美作インタに着くと、誰も後ろに来ていなかった。ゆっくり行けと言いながら、彼が一番暴走していた。角川の運転は到着するまで不安定だった。暴走しては我に返るという繰り返しだった。

精神的に限界だったのである。

 

病院に無事全員到着した。

角川は無事一つの仕事を終えることができたことを御本尊に感謝した。

  病院に入った。お棺の準備をしていた。神戸滞在組と関西在住OBが数多く集まっていた。時折、すすり声があがっていた。津尾と角川は顔を合わせたがなにも言わなかった。津尾はすべてを理解してくれたようだった。

  児玉の父が、角川ら岡山から来た部員のそばにやって来た。

「有難うございます。岡山から皆さん来てくれたんですか。息子も喜んでいます。」

「こんなことになって申し訳ありません。」と角川が言った後だった。

「お父さん!、息子さんを死なせてしまい、申し訳ございません。全て私の責任です。」と津尾が土下座をして泣きじゃくった。途端、何人ものすすり泣きが始まった。

暫くして皆の泣くのが少し収まった頃、児玉の父が

「息子は幸せです。好きなアメフトをやって、こんな素晴らしい皆さんに囲まれて、息子は喜んで西方浄土に旅立ったのです。」と最愛の息子が死んだばかりなのに堂々とした態度であった。

別れが近づいた。

皆な花をお棺に入れ始めた。角川はしきみをそっと棺に入れた。そして、児玉の顔に近づき、小声で題目を三唱した。

  土門も花を持って児玉の顔に近づいて心中で題目を唱えた。しきみの上には花が置かれ誰もしきみに気づかなかった。

 

角川は考えた。「念仏無間地獄というがあのお父さんの態度は立派だし、児玉の死に顔も綺麗だった。それでも、無限地獄なのか?、それとも俺の題目で成仏するのか?」

この当時教学の浅かった彼にはわからなかった。

 土門は角川のようには考えなかった。彼女は純粋だった。ただ、自分が祈れば成仏するとしか思わなかったのだ。

では、真実はどうであろうか?なくなった人の生命に追善することは可能という。それでは、生前の折伏は要らないのか?。

 成仏するには仏法に縁して自分自身で人間革命しなければならない。人間として生きているときにしか人間革命はできないのである。とすると、角川と土門の題目とその後の追善によって児玉の生命が仏法に縁する。そして、来世で人間革命できうる縁を持つ。ここに意味があるのではないか。

 二人の題目は十分価値があるものだったいえるのである。

 

角川はあとのことを考えていた。クルマで霊柩車をを一緒に送ろうと、そして、あのお父さんに喜んでもらおうと。

 そこで、神戸滞在組で三年の三宅に、OBのクルマ数と協力の有無の確認を指示し、津尾にこれを提案した。津尾はやはり徹夜の運転を危惧したが、精神的に限界であった。角川に反論する気力はもうなかった。

  津尾は七日間ほとんど不眠不休で児玉を看病した。児玉の父を温泉に連れて行くとき、彼も同乗していたが往復とも熟睡していた。同じく江田も不眠不休だった。医者としての責任感が監督コーチの責任感にプラスした結果だった。角川も残ると言ったが、「お前の役割は部員をまとめることだから岡山に帰れ」と言われた。

フットボールの役割分担と責任のあらわれだったのである。

  その後霊柩車と供に無事、新見インターまで送り、その後岡山に帰った。

 こうして長い一日がやっと終わったのである。

 

それから、暫くして幹部ミーティングが開かれた。テーマは安全性と今後の活動であった。児玉の意志を尊重し直ぐ練習開始すべきと言う意見もあったが、

角川の七日間の喪に服すべきという意見が通った。

  安全性については、安全対策の実施は一致した。「しかし、偏に危険という誤解を与えるので、児玉の事故は特殊なケースで、フットボールは安全だと宣言すべき」という意見もあった。

 しかし、これにも角川は従わなかった。

「フットボールはどんなに安全対策をしても危険性は残る。他校でも死亡事故が何件も起きている。危険性があることを承知して、なおやる気がある者だけ残ればよい」と。

 ただし、今後は気分が少しでも悪いときは絶対にあたらない。

CTスキャンの定期検診の実施 。ヘルメットの点検強化。実際児玉のヘルメットは空気を入れすぎていた。これも原因のひとつとわかった。

結局、角川が自分の意見を押し通したのである。

  

 そして、練習再開後の初日、安全対策要綱の発表につづいて、

「危険性は残るがやりたい者だけが残ればよい!。怖い者は次回の練習から来なくてよい!」角川は全部員に宣言したのである。

 去る者は追わずである。

 かくして次回の練習では一年生は何人か減ったものの二年生以上は一人も減らなかった。

 角川光太郎は「真の勇者」、俗に言えば「真のフットボール馬鹿」だけが残ったことが嬉しくてたまらなかったのである。

  この日、集まった部員一人一人の目にあの児玉の闘魂の光が宿っていた。そして、彼は宇宙に宿す児玉の生命にこのことを報告したのである。

  かくして、五月三日以来の、角川の苦しく長い戦いは、

この日十九日目に一応の終止符を打つのである。

  かかる十九日間の苦闘が数年後、

一ヶ月に思えても何の不思議もなかった。

 

 その後、チームは立ち直った。まるで、児玉の魂が部員に乗り移ったかのように。一段と団結し、勝利に向け一丸となった。

秋のリーグ戦で苦戦したときだった。

「児玉がわらっとるぞ、見とるぞ!」三宅だった。角川も我に帰り大声で檄を飛ばした。この三宅の一言で、流れが変りこの試合に勝ち、さらに,甲南戦の再試合など岡大史上に残る熱戦でブロック優勝することができた。

 OBも歓喜した。だれもがチームの状態をうれいていたからだ。誰もが児玉の闘魂の目をしていた。最高のチームといわれた。角川は再び児玉にいった。

「児玉、助けてくれたな、有難う,みんなの心に永遠に闘魂は残るよ。」

  

第三章 友の死 終

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