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(2003.12.08)

 それから暫く、ヨシは帰ってこなかった。

 毎日はそれなりに起伏はあるけれど、淡々と過ぎていく。仕事をして、友人達と飲みに行って、たまには女と寝て、仕事して・・・。
 多少の不満や感慨は、生きていれば自然と湧くもんだ。それは仕事が上手くいった時だとか、逆に駄目だった時とか、昔を思い出して友人と飲んでいる時や、街を歩いていて新しい季節の風を感じた時とか。
 だがここ数日は、全てがぼんやりとしていて、まるで霧の中で生きているように息苦しかった。当然、仕事もパッとしない。周囲に迷惑を掛けている事は十分に感じていたが、こればかりはどうしようもなかった。それでも、心身をすり減らしてなんとか仕事を1本やり終えた時には、出来もしないのに10000メートル走を終えたかのように、つまりはボロボロになっていた。

「八重センセー。こっちッスよ、こっちー。」
 金曜の夜。
 行き交う人混みの中で、慣れた仕事関係者が声を掛けてくる。こんなにもやもやとした気分の時に、何も打ち上げの2次会まで付き合わなくてもいいじゃないか、とは思うのだが、今回はスタッフにもいろいろ心労をかけたようなので付き合うことにした。それに、1人で家にいると嫌でもあの夜のことを考えてしまうから。
「もー、八重サン、今回はマジで心配したんスからねー!!」
「本当ですよー。原稿が遅いのはいつものことだけどー。」
 ぎゃはははと笑うよっぱらい共を、素面のスタッフが宥める。いいから、と手を振って合図して言いたいようにさせて置いた。だいたい俺は気を使われるような相手では無いのだ。それを分かってか、若いスタッフも本気で止める素振りは無い。
 俺が28歳だからなのか、仕事関係者はどうしても年齢の近い20〜30代が大半を占めてくる。彼らの、野心や希望に満ちあふれた、生気溢れる表情を見ていても、やはりいつでも、どこか頭の片隅で磁石のプラスとマイナスみたくヨシの事を考えていて、少し憂鬱になった。

 なぜ、あんなイキモノを拾ってしまったんだろう。
 あの顔は、俺の周りに居るどの人間にも当てはまらなかった。俺の腹の上で艶やかに嗤うあの顔。あれは何もかもに絶望している顔だった。自身を酷く嫌悪している顔。
 俺は以前に、あれと良く似た顔を見ている。・・・鏡の中で。ほんのちょっと前までの俺は、あれと良く似た、嘘くさい笑顔を振りまいていた。それが生きていく上での処世術だと信じていたんだ。
 結局それは間違いで、俺はどん底まで自分勝手に滑り落ちていった身体に鞭を入れ、そうして今、ほんの少しづつだが這い上がろうと醜く足掻いている、その途中なのだ。
 酔っていたとはいえ、あれを拾ったことには何か因縁めいた物を感じて、放っておけなかった。過去を思い出すことは随分と憂鬱ではあるけれど。
 脳裏にちらちらと、ヨシの腕に散ったリストカットの痕が過ぎる。生きているのか、死んでいるのか。勝手に拾ったイキモノは、勝手に出ていってしまった。初めから何の手がかりだって無い。それが随分と歯がゆかった。

「八重サンってば。この辺り、ガラ悪いの多いからあんまり1人でぽやっとしてちゃ駄目ですよ〜。」
 スタッフに声を掛けられて、我に返る。どうやら俺も少し酔っているらしい。
「あの辺の脇道なんか入っていったらマズイッスよ〜。クスリとか売りとか、平気でやってる無法地帯ッスから。」
 お前なんでそんなに詳しいんだよ〜と、また笑い声が上がる。そうは言ってもこの辺りは警察の出入りも多い有名な界隈で、皆周知の上なのだが。
「あ、ねえあれ、あの人。お金貰ってるっぽいよ。」
「えー。売り?でも両方男よねぇ。」
「ばーか。今時結構いんだぜ?俺も2丁目で声掛けられたことあるもん。」
「うっそ、お前が〜!?」
「スゲー物好きだなー、オイ!」
 げらげらと下品な笑い声が響く中、俺は高まる動悸を抑えるのに必死だった。男に向かって下から見上げるように、媚びた嗤いを振りまく相手。

 ーーーヨシだ。

「ん?どしたんスかー、八重センセ?置いてかれますよ〜?」
 のんきに声を掛けてくるスタッフの1人に、咄嗟に持ち合わせていた半分の万札を握らせると、用事が出来て2次会には顔を出せない旨、お詫びにこの金で飲んで欲しいという旨を伝えて、急いでその場を去った。
 いきなりの事に面食らったスタッフが後ろから何か叫んでいたが、どうせ半分は酔っているし、若い彼らには飲んで騒げればそれでいいだろう。後ろを振り返る余裕は無かった。
 急いで駆けている間に、ヨシとヨシを買ったらしい男の姿は路地の奥へと消え去った。俺もそのまま、狭い路地へと駆け込む。


 中は下水臭い、生温い空気が充満した、嫌な空間だった。ところどころ剥がれ落ちたコンクリートの壁が曲がりくねった奥の道に向かって延々と続いている。路地のわきに寄り掛かっていたうつろな目をした青年が、嗤いながら手を伸ばして来る。それを振り払って、さらに奥へと進んだ。
 いくつかのドアの前を通り過ぎる。どれも怪しげなプレートが掛かっていて、朽ちかけたコンクリの壁には不釣り合いに豪華だ。明らかに法とはかけ離れた場所のニオイ。ヨシ達が既にこの内の1つのドアをくぐり抜けていたならば、探すのは到底無理だろう。そして2度と遭うことも。
 だが、俺はヨシを見付ける事が出来た。さらに少し進んだその先に、けばけばしい電飾の点いた、ピンク色の看板が見える。おそらくファッションホテルであろうその建物の前に、ヨシとその連れは居た。俺は駆け寄って、ヨシの手をとった。

「・・・ハチくん・・・?」
 ピンクの電飾に浮かび上がる白い顔。向こうにもはっきりと俺の顔が見えたのだろう、信じられないものでも見たかのように、ヨシは大きく目を見開いた。
「オイ、誰だよ、コイツ。」
 ガラの悪い、20歳前後の男がこちらを睨んでくる。
「あ、・・・えと、知り合い。お金借りてて・・・」
 ヨシはおろおろとして答え、思いついたようにポケットを探って俺に突き出した。
「ハチくん、とりあえずこれで勘弁してくれるかな?ね?残りはまた、後で絶対返しに行くから・・・」
 そう言って嗤って、俺の空いた手に金を押しつけてくる。金を貸りているなんてのはもちろん嘘だ。お願いだから帰ってくれとその目が訴えている。
 隣の男はもういいだろ、早くしろよとヨシを急かした。じゃあね、ハチくん。と言って離そうとした手をさらに力強く掴む。
「痛ッ。」
 ヨシが小さく悲鳴を上げた為、隣にいた男は逆上して俺に絡んできた。
「テメェ・・・ウゼェんだよ、コラ・・・消えろや・・・」
 眉間に皺を寄せて、明らかに俺の胸ぐらを掴もうとした手に、ポケットに入っていた20万程の札を掴ませた。飲み会でパッと使ってしまおうと考えて下ろしておいた金だ。
 行くよと声を掛け、そのままヨシの手をぐいぐいと引っ張る。後ろから待てよ、という声が聞こえてきたが、それは無視して足早にその場を後にした。ヤツがヨシに渡した金の何倍もあるのだ。無理に追ってはこないだろう。
 来た道を戻る。いくつかの派手なドアの前を通り過ぎ、先程手を伸ばして来た青年の立っていた場所へ。しかし青年は既に居らず、かわりにクスリで足が立たなくなっている少女が嗤いながら、やはりうつろな目でどこか遠くを見ていた。
 その横を通り過ぎ、路地の出口へと近づく。後一歩で外へ出る、というところで、ヨシに腕を引っ張られた。
「ハチくん、俺、そんなに良かった?」
 へらへらとヨシは嗤って、その綺麗な顔を歪ませる。
「だったら言ってくれれば、ハチくんならタダでさせてあげたのに・・・」
 濁ってとろけてしまうような、うつろな目。この路地の目だ。
 なんだか腹が立ったので、俺はヨシのほっぺたを抓った。
「イタッ!」
 ヨシが悲鳴を上げる。
「なにすんだよッ!!」
 両手で抓ると、嫌悪を露わにした顔で睨まれた。ヨシの瞳に剣呑だけれどもようやく、光が灯る。

「ーーー笑えてないよ、お前。」

 そう言ったら少し満足出来たので、手を離した。ヨシは頬をさすりながら、何か言おうとして、結局、口を噤んだ。

 こんな場所にはもう、2度と近寄りたくないな。
 そう思いながら俺は、俺たちは、ようやく光が溢れる、賑やかな表通りへと出た。そこだって澄んだ空気など無かったが、季節が息づく、確かな匂いが存在していた。


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