

還暦を過ぎて初めて、本を書こうと思った動機がいくつかありますが、その二、三についてお話させていただきたいと思います。
その一
「八木隊長からの手紙」について
八木隊長からのお手紙は私にとって大切な宝物です。今も祖先の仏壇の中に大切に保管しています。
ちょうど六十年前、母を亡くし、その直後父も応召され、寂しかった五歳の私に父の所属した軍隊の八木隊長から初めて一通のお手紙が届きました。遠い北支山西戦線(現在の中国の山西省)から送られたお手紙。私宛にはカタカナで書かれていました。まだ字が読めなかった私は家族に読んでもらいました。子ども心にも一生懸命生きようと決心させてくれたお手紙。たった一回きりのお手紙でした。もちろん、私と妹を預かってくれた祖父宛てにもお手紙が入っていました。祖父に私と妹の養育を頼んだ思いやりのあるお手紙です。戦争の最中、寸暇を惜しんで書かれたこの二通の素晴らしいお手紙は私がずっと保管してきましたが、私も年老いてきて、いつ死んでもおかしくない年になりました。私が死んで誰にも知られずに消えて行くには余りにももったいないお手紙だと思い、本の形にしてこの世に残そうと思い立ちました。
エッセイ「晩鐘 還暦に思う」の中で「八木隊長からの手紙」ということで書きました。そして、粗末な茶色の封筒に書かれた表書きと裏書き、祖父に宛てた便箋二枚に黒インクで書かれたお手紙、私に宛てた便箋二枚に同じく黒インクで書かれたお手紙をコピーして載せました。
小説「ふるさとの詩 真一少年は行く」の中では「八木隊長と父からの手紙」というところで書きました。祖父に宛てた達筆な草書で書かれた候文は、私には読めないところがありましたので、古文書の読める友人に解読してもらいました。そうして誰にでも読んでもらえるように楷書に書き直し、フリガナを付けました。
私は今も時に触れて思います。八木隊長さんは生きて祖国の日本の地を踏み、家族と会われ、幸せな生涯を送られたのでしょうか。それとも、私に宛てたお手紙の最後に「マタ オタヨリ シマセウ」と記しながら、二度とお便りが無かったので、その直後戦死されたのでしょうか。私の二冊の本を読んで、あるいは、このホームページを見て、「その八木隊長は私の○○です」と申し出てくれたらなあと淡い望みをかけています。
もしも、八木隊長さんのお墓がわかれば、必ず行って、手を合わせてお礼を言いたいと思っています。
私は、五歳から小学校六年生の一学期まで岡山県御津郡円城村
(現、加賀郡吉備中央町円城)で、父親、母親代わりの祖父母に養
育してもらいましたが、優しい祖父母でした。一度も叱られたことが
ありません。気を遣っていたのでしょうね。その他、叔父や叔母、村
の多くの人たちに可愛がられて過ごしました。このことをぜひとも書
き残したいと思いました。
そして、春夏秋冬、移り変わる大自然の美しさを書き残したいと考
えました。
昭和十八年六月、母が病気で亡くなった直後、同年七月に父は応召
され、中国の北支山西戦線へ、五歳の私と二歳半の妹を残して出征し
ていきました。
幼い頃から、父がいないから寂しいと思っても、父の気持ちを思いや
ることがありませんでしたが、結婚して子どもができた頃から、幼い我
が子を残して戦場へ旅立っていった父の気持ちはどのようであったか
察するようになりました。誰にも語りませんでしたが、きっと断腸の思い
であったと思います。
父の思いを代弁しよう。その時の父の姿を書き残しておこう。
これが本を書かせた二つ目の動機です。
下の父の残した遺品を見ると、病床の母が六月二十八日に亡くなり、
翌二十九日に葬式が行われたが、父は、その前後の六月二十六日の
夜の軍事訓練に出席し、また、七月三日から軍事訓練に出席している。
そして、七月十八日で訓練をおわり、戦場へ赴いたようである。