「数学的思考力」とは、
「物事の仕組みを1つひとつ整理して考えることができる能力」のこと。
まさに数学を勉強する際に身に付けられる思考力のことです。

普段から論理的に考える習慣を身に付けておけば、
物事を1つひとつ整理して正しく理解することができるため、
"分かったつもり"から抜け出すことができるだけでなく、
人に話をする時にはキチンと1つひとつ順を追いながら分かりやすく話ができるようにもなるのです。

「数学を学ぶ意義」を"100"とすると、
「数式に強くなるため」という面は"5"くらいだと思っています。
そして、残りの"95"は「論理的な思考力を身に付けるため」だと思っています。

「数学的思考力」というものは、忘れることはありません。
なぜなら、覚えるものではなく"身に付ける"ものだからです。

"数学の問題を解く"ということは
"(数式を使いながら)論理を確認する"ということなのです。
そしえて、この、数学を勉強することによって身に付けられる「数学的思考力」というものは、
あらゆる分野で応用できるものなのです。

「数学的思考力」を必要とする「国語」と「数学」も"同じもの"なのです。

「Y=X(2乗)」的な勉強法とは、「新しい知識」が得られた時に
「それまでに得られた知識」との関係を考えていく勉強法。
情報が1つ得られると、「その「新しい知識」が「それまでの情報」と一緒に掛け合わさって、
飛躍的に多くのことが分かるようになる。

「数学的思考力」とは、「物事の仕組みを一つひとつ整理して考えることができる能力」のことで、
まさに数学を勉強する際に身に付けられる思考力のこと。
簡単なイメージとしては、
「情報フローチャートにまとめることができる能力」と言うこともできる。

人によって"分かった"の基準がかなり違うため、
「"分かった"の基準の違い」という視点を踏まえて考えると、
自分の"分かった"を疑うことができ、
「より深い理解」を心がけられるので"分かったつもり"から抜け出しやすくなる。

普段から論理的に考える習慣を身に付けることで、
物事を一つひとつ整理して正しく理解することができる。
その結果、人に話をするときにはキチンと一つひとつ順を追いながら
分かりやすく話ができるようになるだけでなく、
"分かったつもり"から抜け出すことができるようにもなる。

"分かったつもり"になっていないかを確認するためには、
「自分の理解度」を他人を通してチェックしてみればいい。
「人にキチンと説明できる」という状態になって、
初めて「分かった」と言うことができる。
つまり、「分かる」というのは「伝えられる」ことと同じである必要がある。

"分かったつもり"から抜け出すには、
「分かる」と「伝えられる」を同じにする必要があり、
そのために「数学的思考力」と「思考の歩幅」の理解が必要不可欠。

足の長さによって「歩幅」が違ってくるように、
人の思考にも「歩幅」に違いがある。
この「思考の歩幅」という視点を踏まえると、
人に説明するのが飛躍的に上手くできるようになる。

一般に"早く分かる人"にとっての「自然な歩幅」は「3段飛ばし」になっていたりして、
"早く分かる人"の説明は、その"あいだの階段"が抜けている場合が多い。
逆に、論理を細かく丁寧に展開しすぎると、
一つ一つの論理は誰にでも理解できても、
今度は「階段が細かすぎて歩きにくい」という状態になってしまう。
つまり、分かりやすく話を伝えられるためには、
「論理的な説明ができる」ということに加えて
「心地よい思考の歩幅は何段なのか」ということも同時に考えていく必要がある。

人に話をする時に「心地よい思考の幅は何段なのか」を考える過程において、
あらためて順を追って自分の論理を見直してみることで、
自分の論理の欠陥に気が付くこともできる。
つまり、その論理について"じっくりと考え直すチャンス"が得られ、
「それまで分からなかった部分」がしっかりと分かるようにもなっていくので、
"分かったつもり"から抜け出せ、
「分かる」と「伝えられる」を同じ状態にできる。

一般に人間の思考力には限界があり、
論理的に多くの事柄を考え続けていく「思考の持久力」には限度がある。
そのため「思考の歩幅」に配慮して一つひとつの話を難しくしなくても、
長く歩かせ続ける(考えさせ続ける)場合は、
「頭がついていかない」という状態を生んでしまう。

人に話をするときには、
相手が再現できるように簡潔に整理されているかどうかを確認しながら、
"どこまで説明するのか"を考えていく必要がある。
つまり、人に話をする時は、
キチンと「思考の歩幅」に加えて「思考の持久力」についても考えることで、
ときには"ほどほどの説明"にする配慮も必要になる。

論理には"強さ"があり、例えば「A→E」において
「A→B」と「B→C」と「C→D」と「D→E」では、
それぞれ論理の"強さ"が違っている場合が多い。
そのため、論理を考える際には一つひとつの論理の"強さ"である
「思考の骨太さ」を見極めることが重要になる。

自分で論理を組み立てた時には、
その論理を「思考の歩幅」と共に「思考の骨太さ」という視点からも
チェックしてみることが重要で、
その過程によって"へ理屈"を発見し修正することで、
話の論理性を高め、話に説得力を持たせることができるようになっていく。

「思考の骨太さ」を見極める力をキチンと磨いておけば、
"予想確率を高める"ことによって、
「投資」などにおいてもリスクを最小限に減らすことができる。

「勉強」というものは、上から見渡すことができるようになると、
ようやく「全体像」(本当の意味)が見えるようになってくる。
「基礎」というのは多くの事柄のベースとなるものなので、
実はとても「深いもの」であるが、表面的には分かりやすく感じてしまうため、
("十"のうちの)"三"くらいの理解だけで"分かったつもり"になってしまう場合が多い。
つまり、「基礎」は、それだけでは"分かったつもり"になってしまう面があり、
実際に応用してみることで初めて「基礎」を"本当の意味"で身に付けられる。

一見すると"正しそう"であっても、
実は大きな「矛盾」のある論理は意外に多くあるため、
情報に惑わされないようにするためには、
普段から「思考の骨太さ」を見極めたりして的確に"つっこみ"を入れながら
論理を総合的に判断する「論理洞察力」を鍛えておくことが重要になる。

マスコミの批判などを鵜呑みにするのではなく、
常に「本当にそうなのかな?」と"素朴な疑問"を投げかけたり
「思考の骨太さ」を見極めたりして的確に"つっこみ"を入れながら
論理を総合的に判断するように心がけておくと、
「思い込み」を起こさないで情報を正しく理解できるようになる。

同じ間違いを繰り返してしまうのは「たまたま」ではなく、
"自分の能力の欠けている部分"が生み出した「当然」の結果である場合がほとんど。
「言い訳」をして逃げることで、
根本的に"自分の能力の欠けている部分"があるという現実に気付かないと、
結局、同じ間違いを繰り返してしまう。
「思考の骨太さ」を踏まえて、自分の考えた「言い訳」を「論理洞察力」によって
総合的に見直すように常に心がけていると、
"へ理屈"を言って自分を正当化しようとしていることを自覚できるようになる。
その結果、条件反射のように繰り返していた「現実逃避」から逃れることができる。

「同じ失敗」をしていることに気が付いた時は、
前向きに"自分の能力をアップできるチャンス"と捉え、
"自分を変えるための具体的な方法"について
論理的にじっくりと考える習慣を身に付けることが重要になる。

「思い込み」をせずに情報を正確に読み解くには、
自分は「どういう性格か」「どういう面で"ゆがみ"が出やすいか」
といった自己分析をし続ける必要がある。
つまり「思い込み」をせずに情報を正確に読み解くには、
自分のことを「客観的に見ることができる」という能力が必要不可欠になる。

情報を「バイアス」によって「思い込み」をすることなく、
正確に理解することができるようになれば、
「この先は、このようになるな」といった
"先読み"の能力を持つことができるようになる。

「思い込み」をしないためには、情報の「バイアス」に気を付けながら、
"素朴な疑問"を出し"つっこみ"を入れ続け、
論理を総合的に判断する「論理洞察力」を用いて
"「仮説」と「検証」の作業を繰り返す"ことが必要不可欠。

「情報を正確に伝える究極的な方法」というのは、
相手にも"同じ絵"が見えるように説明することで、
いろんな角度から説明していくことで「思い込みを与える隙」をなくして、
より正確に理解できるようにしていけばいい。

「情報の本質」を見抜くことができるようになるには、
まず「思い込み」をしないことが必要。
つまり"素朴な疑問"と"つっこみ"によって情報を整理し、
「論理洞察力」を用いて"「仮説」と「検証」を繰り返す"ことをすればいい。
そして、その「仮説」が正しいかどうかを確認する際に、
特に矛盾が生じなかったら、
その「仮説」がその情報の「本質」(の候補)であることが分かる。
逆に、矛盾が生じた場合は、
その例も踏まえた上でさらに「仮説」を立ててみればいい。

「論理」におけるそれぞれの要素の関係については、
「それぞれ独立していて、関係していない」という「独立」と、
「(隣り合っていない)一部が独立していなく、関係している」
という「従属」の2パターンがある。
「フローチャート」は"隣り合った論理"を確認するだけなので、
「従属」の場合は、全体を通して「矛盾」が出てきてしまう可能性もある。
そのため「仮説」と「検証」の作業においては、
「思考の骨太さ」のチェックだけをして、
すぐに「これが本質だ!」と決め付けてしまうのではなく、
論理には常にこのような可能性もあることを意識し
「本当にこの仮説は正しいのか?」と常に疑いながら、
いろいろな事例で総合的に「検証」していく必要がある。

数学の勉強においては、最低限必要となる「公式」と「解法」を覚えて、
あとは「それらの最低限の知識をどのように応用すればいいのか」を考えるだけでいい。
同様に、経済のニュースについても、最低限必要となる「用語」と「本質」を覚えて、
あとは「それらの最低限の知識をどのように応用すればいいのか」を
考えていけばいい。

"相手の立場にたって考える視点"があれば、
相手の表情などから「空気」を察することができたり、
「この用語は一般の人には少し難しいかな」と思ったら、
補足説明をすぐにするなど、
できるだけ分かりやすくなるように心がけて話せるようになる。
つまり、キチンと相手に話が伝わるようにするには、
(「自分の思考の歩幅」ではなく)「相手の思考の歩幅」に合わせるように話す、
"相手の立場にたって考える視点"が必要不可欠となる。

まず、ニュースに接した時には"素朴な疑問"を出していく。
そして、「この"答え"を見つけるため明日のニュースを見る」という姿勢でニュースに接していく。
そうすることで「ニュースの関連性」に敏感になって、
日々のニュースが体系的に分かるようになっていく。
"素朴な疑問"を出しながらニュースに接すると
「これは○○ということかな?」という「仮説」が出てくる。
これ以降は、その「仮説」が正しいかどうかを
「論理洞察力」を用いて「検証」しながらニュースを見る。
もし、いろんなニュースに対して「仮説」が当てはまれば、
その「仮説」が「本質」だと分かる。
逆に、矛盾が生じた場合には、その例も踏まえた上でさらに「逆説」を立ててみる。
そして、「情報の本質」(=正しい「仮説」)を見抜くことができれば、
それまではバラバラに思えていた「10個のニュース」が、
実質的には「1つのニュース」だと分かったりする。
「情報の本質」(=正しい「仮説」)を踏まえて、
さらに"素朴な疑問"を出しながらニュースに接すると、
その「情報の本質」と別の「情報の本質」を「数学的思考力」に
よって組み合わせることができるようになる。
そして、これを繰り返していくことで、
「情報の本質」を組み合わせて出来上がる"全体像"である
「情報の基盤」を作ることができる。

「情報の基盤(全体像)」が頭に入っていれば、
日々の「断片の情報」が"パズルのどこに位置するのか"を簡単に把握でき、
情報の「本当の意味」が素早く分かるので、
情報の活用能力が飛躍的に上がっていく。

ニュースを総合的に理解できるようになるためには、
「毎日のニュースはあくまで断片に過ぎない」と割り切り、
そのニュースの「本質」(=結局、どういうことなのか?)を
見つけようとしながらニュースに接する姿勢が重要になる。
つまり、ニュースによって断片的な情報を得たら、常に
「これはどういうことなのだろうか?」という"素朴な疑問"を持ちながら
翌日以降のニュースに接すればいい。
その「答え」がいつになろうと、明確な疑問を持つことで、
「今日のニュース」と「1ヵ月後のニュース」などの関係が
しっかり見えるようになるので、
情報のパズルのピースを繋ぎ合わせていくことができる。

「情報の本質が見抜ける人」になるためには、
まずは「情報を"色分け"できる人」になる必要がある。
つまり、日常的に情報に接する中で、
「この情報は結局のところ何を意味しているのか」とうことを
突き詰めて考えることができ、
それぞれの情報に対し「どこがポイントなのか」を的確に見抜くことが必要。

「情報の本質が見抜ける人」になるには、
「情報を"色分け"できる人」になり、
それぞれの情報に対し「どこがポイントなのか」を的確に見抜いた上で、
「仮説」を立て、「検証」によって「本質」を見極めればいい。

「数学的思考力」とは、簡単に言うと
「物事の仕組みを一つひとつ整理して考えることができる能力」のことで、
この能力を使いこなす上で重要なのは、
情報と接する時に自分の「バイアス(ゆがみ)」を取り除くことによって
素直に客観的に情報と接することである。
つまり、「数学的思考力」とは、
自分のバイアスを取り除くことで的確に情報を"色分け"でき
「どこがポイントなのか」を的確に見抜いた上で
「仮説」と「検証」によって「本質」を見極められる能力のことである。
そして、さらに「数学的思考力」とは、
論理性を駆使して、それらの「本質」を繋ぎ合わせることで、
「情報の基盤」を作れる能力のことである。