雲エモン語り草・特別編

「悪を働こうと務めているにもかかわらず、不思議な測り知れない道をたどって、ついには善を為してしまうのだ。」
J・シンガー著「男女両性具有U」 124p
藤瀬恭子訳、人文書院 1981年

池波正太郎「鬼平犯科帳」=「ふたつの顔」について

1.はじめに

 顔の造作が自分の呼び名となって、腕ある職人にはそれがアイデンティティーであることが、江戸の無名人たちの誇りであった。一代かぎりの人生をおくることがその無名性の保証であった。浮世絵の摺り師たちの呼び名には実に差別的な言葉が大いと聞く。「鬼平」でいえば、「逆でこ」なる人物が登場する(「寒月」)。両国広小路の遊民という。立派な江戸人である。なぜにこの親が子の敵討ちに出る芝居に平蔵を取り持つのか、考えてみる必要がある。「ひとつの顔」を崩すことなくかたることが時代小説の典型と言うものであったのではないか、というのが雲エモンの推理である。時代小説史なる「論考」が池波にあったなら、ひとつの顔ということの意味が知れるはずである。

 「逆でこ」の仙太郎が老武士=師・子母沢寛を連想させる。「逆でこ」というキャラを師にささげていると読む。いまそれが縁で老武士の願いをかなえることができたのである。池波にとって時代小説とは過去のものであった、と思う。すくなくとも「鬼平」はそれと違う。時代小説が書かれた一時代への恩返しをはかる気持が、「逆でこ」と並んで登場する平蔵のこころもちにはある。この逆さの敵討ちについてはくどくど云わない。自己の文学的後継者を男色家の資本家に無惨に殺されたそのうらみこそ、池波の腹にある。戦争批判である。この逆さの敵討ちは現代の状況を踏まえている。いやそれ以外にないことを図っている。

 このメッセージ性の強さは特殊である。「怪盗伝」の「正月四日の客」はさなだ汁の頑固さがただ生きているのではない。べつの事実が隠されていると雲エモンはみる。さなだもので直木賞取りをはかった池波のなぞなぞが秘められている。師直伝のなぞ「人のこころと食い物のむすびつきは、思うように解けねえのだよ」は真田ものへの理解度を示す。そのまえでじたばたする「亀」こそ池波であろう。理解というもののこわさである。池波はそのまえでただ自分の反措定をだしたのである。「なにをいやがる。人間の顔は一つじゃねえ。顔が一つなのは爺い、てめえぐれえなものだ」

 池波の格闘のあとを辿る事はむずかしい。いかなる文学も既存の体制を破る事でしか前にすすめない。池波の手法は繰り返し書きかえることであったらしい。ひとつの芝居のなかで人物が顔をかえることもあるのだろう。池波の芝居がひとと違うところがあったとすれば、そのひとの顔が変わっていった事だったのではないか。誰かに受け入れられない点がそれであった。「人間の顔は一つじゃねえ」とは池波自身の隠された文学的地平であったのである。自分が理解という範疇をこえているということは、不安でもあり、現実に失敗作の烙印を自ら押すに等しい。劇作においても、小説家稼業においてもけっしてそれは消えなかった。その根本はなんなのか。そのなぞを自分に持ちこんで最後の格闘をはじめたのが「鬼平」であった。

 「怪盗伝」はたしかにその端緒を色濃く残している。だが「鬼平」において顔にまつわる作品は数限りない。「人間の顔は一つじゃねえ」という、無意識の感覚は何なのであろう。被害者と加害者が直結する何かではないか。この感覚は戦争責任においてパラレルである。雲エモンはさきの「寒月」において、(子母沢)師の子息が戦争で死んだのではないかと推測した。現代において「人を殺す」とは「あいつと同じ人間になってしまう」ことである。この逆説を思わざるをえない。被害者が加害者になるという現代の悲劇こそヒローが関わってしまうことである。池波のこころには戦争責任が浮かび上がるのである。作家が口にしない事柄である。それを問題にすること自体が作家には無意識のことである。ここに「人間の顔は一つじゃない」が重ね合わさる。構造論の内面を余儀なくされた戦後派の文学者のすがたではある。

 「ふたつの顔」とは「密告」の一篇、文庫本第12巻の「二つの顔」のことである。この作品にどんな思い入れをするものか、どうか笑ってもらいたい。平蔵は羽織袴である。左馬の見舞いのかえりである。車坂とは上野である。阿呆鴉の与平に代って浪人姿の平蔵がおみよを守る。みつくちの男という先入観が平蔵のものである。先入観にとらわれたまま、用意周到の急ぎばたらき・神埼を捉える事になる。阿呆鴉のエピソードはなんなのか。はたして取り物の意味はあったのか。そして最後の間違えた本人との出会いはなんなのか。雲エモンはこれを「乳房」に拡大してみたい。

「ふたつの顔」とは「乳房」の作者装丁による単行本のカバー絵のことである。文庫本になってその絵は「ひとりの顔」になっている。このなぞは誰が知っているのであろうか。

池波正太郎カバー絵

単行本「乳房」S59

お松と対峙している男は誰であろう

 

 

 

 

 

 

 

池波正太郎カバー絵

文庫本「乳房」

お松はひとりである。

雲エモンは答を書く。上は母と父

下は母の逝った姿であると

池波個人の母子幻想の世界である。

 

 

 

2.「ふたつの顔」とは

 「鬼平」の一篇、「二つの顔」になぜこだわるのか。雲エモンが考えるのは、自己嫌悪ということである。人間的事象には両面がある。作家池波にはそれが見えてきたのである。醜い面の自分と粋な面の自分。みにくい面の顔と素直になった面の顔というように、個人の事象が内面劇の結果、客体化されていったとみる。作家の自家中毒である。自分をさらけ出すことで、きれいになれるものではない。池波が果敢に進めたことは国家と幻想である。戦争責任にきれいごとはない。深編笠に顔を隠すことはそれをあなたに、いやこの読者であるわたしに転化しているのである。戦後ふぬけになった男・左馬之助をまえにして、主人公は顔を隠す。あなたが面前にしている男はあれなんですといいたいのである。終戦後のテーマがまだ引きずっているのである。問題は左馬も結婚して一定の安定を見ている現代のことなのだ。おのれの中のみにくい面が浮かび上がってくるのである。みつくちの男の登場である。ここでは乖離したふたつの人物が登場する。平蔵の胸の中に浮びあがったみにくい顔の男がひとりいる。渡り中間の富蔵が浮かぶ。若いときの喧嘩の相手である。そう思いこんだ平蔵がその顔をみてやろうとするまえに、その男はすでにおのれ=平蔵=あなたのことを探っていた。しっかりその顔を知られていたのである。こっちは見てるが、あっちは見てないといわれているのである。テレビ映画の平蔵のことであろうか。やつに知られたくないことがあるのである。阿呆鴉という名のデレクター(または脚本家)を殺すことまでする。若い女優の卵がその顔を知っているからといことのために、これも殺されねばならない。明らかに見解のちがいが露呈している。ちぐはぐな印象こそ池波の内心にさざなみをおこしたのである。左馬への見舞いとは、演劇へのみれんである。娘を左馬に預けるのも訳がある。口会人とはいかなる商売をいうのであろうか。所詮実感のない現代システムであろう。それゆえ鬼子母神での富蔵との出会いが「本物」ということ、実感できる演劇論の線上にすえられるのである。

 この作ではひとりの人格のなかの二つの顔を問題にしているのではない。もう一つの顔がいまの醜いおのれに転位するのである。演劇的高揚感のない、つまらない人生を送るおのれである。みつくちはおのれにむけている。自己嫌悪である。演劇をつまらないものにした罪と罰。おのれにむけての責任である。みつくちという差別語にぱくりとおのれの傷口はひらくのである。内面の劇は終わった。平蔵は富蔵の前を通って馬に乗る。芝居である。羽織袴と塗笠の正装である。

 左馬の病を見舞ったおのれが自己の内面にふれる。気の合う演劇関係者にあうことでまた古傷に触れてしまうのである。