「月姫 〜彼我の零距離、キミとボク〜」



第5夜 赤眼、雪肌、天使の光臨
(しゃくがん、せっき、てんしのこうりん)とお読みくださいね。

 恐らく天使はこのような瞳をしているのだろう。
 抱きしめた身体は華奢だけれど、今のボクではホントに倒れられたら彼女を助けることは
 難しいだろう。
 病魔に冒された自分の弱さに歯噛みしかけ、彼女にその身を沈めた時、彼女の匂いがしてそれがなんだか甘くふわりとしていて、意識がくらっとくるような感じがした。
 健康だろうとそうでなかろうと、人には体臭が有るもの。彼女の匂いってこんななんだと思うと同時にそれがあまり感じ入ってはいけない行為だと気が付いて身体を離した。
 段々と頭の中の起き抜けもやもやが晴れて行く途中なのか、彼女はどこか感情のこもらない瞳であたりを見回す。
 何も考えていないということを無邪気と言って良いのだろうか、神聖で静謐な少女のカタチ。死を呼ぶ天使がこんな風じゃないかとすら思える。
 今、彼女の背から唐突に絵にかかれているような天使の真っ白な翼が顕現したとしてもボクはさして驚かなかっただろう。
 病院という名の白い牢獄を司るかのように彼女はずっと前からそこにある。
 ここにあって「姫さま」と呼ばれる存在。今まさに彼女は月姫だった。
 銀の月が照らす世界を支配する姫君。
 そんな感じさえ憶え、それは可愛いと思える普段の容姿とは別物のどこか荘厳と言う感じがする姿。

 少し待っていると完全に目が醒めたらしくその瞳がぼんやりと開き、こちらの姿を捉えふわりとした微笑を浮かべる。
 そして、その手をこちらに伸ばしてくる。
 意図は良く分からない。と言うのも、何でここに来たのか。
 宵闇に浮かぶ彼女の姿を見た途端に吹っ飛んでいたから。
 ただ、月の光だけが照らす闇の世界においては彼女は人よりもよく目が見えるのだという。
 迷わずこちらの姿を正確になぞり、おすそ分けを持った手をそっと握り締められました。
 袋を握る手の上にかぶせられた手は温かくて柔らかかった。軽く揺すられて、その感触がこそばゆい。
 女の子の手に触れる機会は初めてじゃないけれど、もう少しだけ握っていて欲しいと思えて、少しだけその重ねられてゆれる手を見つめた。
 
 そんな彼女を改めて見ると、まるで吸血鬼のように感じた。
 その瞳がボクの姿を捉えているのが分かって、思わず息を呑んでしまったからだ。
 赤い瞳に映るボクの顔ははっきりとは見えない。
 吸血鬼の吸血衝動は人間で言うところの本能だと言う。
 ボクのこの気持ちも本能なのだろうか。
 ボクが彼女を求めるように、彼女がボクを求めてくれるのならば…
 仮にその血を求められたなら私は間違いなく躊躇い無く首筋を彼女に傾けると想う。
 そうするのが、当たり前だと想う。姫がそう言えば、そのようになる。
 それが銀の月が支配する夜の王国のルールだから。
 
 ひたすらに幻想的だった。ここにきた目的が、夜食のおすそ分けでなくて、病院の一室じゃなくて、
 ここがどこかの物語で思い描いたような夜の古城で、月の王国を統べる姫との王国を侵蝕せんとする闇の魔法使いたる私との邂逅だったらそれはどれだけか素晴らしく幻想的な絵になっていたことだろう。
 魅入られてしまう。その瞳と姿の前に思考が止まり、美しさに魅入られる。
 意識のすべてを引き込まれたこと無い人、感動の経験が乏しい人には多分分からないであろう。
 脳髄が甘く痺れて、蝶が燈下にふらふらと誘われていくかの如き感覚がボクのすべてを支配する。
 夜の間だけ完璧な美しさを誇るその様は月下美人のよう。
 儚くも永久にたたえられるその美しさ。
彼女のことを指して「夜は特に綺麗に見えるわよ」と言った看護婦さんの言葉が脳裏に浮かぶ。
 確かにすごく綺麗で美しい。その美しさは後にウェイシャンに宝石に対しての興味関心を抱かせる源泉になったくらいだ。

 生まれて三ヶ月くらいの赤ちゃんのような天使の微笑を浮かべ、その白い手をこちらに伸ばすという行為が、ボクの命の花を手折ったとしてもさも当然のような気がする。
 が、実際に求めていたのはおすそ分けのプリンだった。
 しかも、カスタードプリン。表面上が固くなっていて、中が柔らかいというケーキ屋さんの一品。
 ブラマンジェやパンナコッタなどは彼女からいわせれば、プリンのなりそこないらしい。
 プリンもブラマンジェも眷属みたいなものなのに、そこらへんにこだわりがあるようでした。

 本当に全てが彫刻のようでいて、眼だけが月の世界に確かな命を持っている。
 すべらかな肌は白い光に照らされて、完璧な大理石のように冷ややかな美しさを放っている。
 全てが死の連想につながるが、すべて儚くも可憐で美しい。

 その手が意味するところを思い出し、ボクは自分の分も入った袋後とそれを差し出す。
 彼女は大好物を前に喜んでくれた。そして、それを傍らにおいてボクにも「食べようよぉ」と誘ってくれた。
 いった言葉は酷く俗っぽかったけれど、雰囲気は最高だった。
 彼女の前に面会者用の椅子を音を立てないように持ってくる。
 彼女の部屋とナースステーションは緊急患者用の部屋よりは離れているがそれでも油断は出来ない。
 入院生活でその規範を破ろうとするのはスリリングなのだ。
 彼女が「ありがとう」と言いながら、箱の中身を確かめている。
 月夜の下で彼女と食べるプリン。変な感じだけれど、雰囲気だけは幻想的。

 喜びの表情を浮かべるその白い姿、プリンの姿を捉えて喜びに開かれる紅の瞳はどんな宝石よりも綺麗で、ここに来て良かったなと思える瞬間だった。 
 プリンを彼女と食べるために来ていた。が、実際の気持ちは何だかそれとは違うものを欲していた気がする。
 満月は人を惑わすという。ボクはきっとそのとき食べるものを根本的に間違っていたんだと思う。

 彼女の調子はずれな鼻歌が聞こえる。人が得ることの出来ない美しさをもって彼女は銀の月の前にその身を躍らせて文字通りの小躍りをしていた。
 死の天使はこんな感じなのではない…はず。
 湧き上がる小さな罪の意識と、例えようの無い高揚感、彼女と接したところが熱を持っている。
「ボクの天使」はちゃんと生きている。
 
 心に呼応し、躰は勝手に動き始めた。
 動きを束縛し、キスまで持ち込む方法としては及第点だろう。
 了解を得なかった時点かつ、彼女の気持ちの推移を無視した点で落第決定だが。
 気が付いたら抱きしめた時よりもさらに近い位置で彼女の瞳を覗き込んでいた。

 極自然な動きだった。
 両の手のひらで包んだ彼女の頬を熱がこもるまでゆっくり撫でて、驚く彼女の顔をこちらを向くように固定してから、宝石のような紅の瞳を真っ直ぐ見つめ、できるだけの笑顔を浮かべ…そよ風に揺れる空気がふわりと吹くように彼女の唇に自らのそれをかさねた。

 …何だか願いが叶ったような気がした。どんな願いかは分からないけれど。
 多分ボクにとっては彼女の唇はプリンより美味しかったのだと思う。
 次の日、彼女がボクの分までそれを食べていたから、そう思わないととても悔しい。

初出 2004年01月23日(金)
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