三家和
カッパブックスから出ていた、五味康祐の「麻雀教室」というかなり古い本の中で紹介されていたエピソードである。ある老雀士が三家和を見切って捨てた後、どうして三家和であることが分かったのかと尋ねる五味氏に「どうしてかは自分でも説明できないが、三索と九筒が通れば六索で三家和であることは分かっていた(牌の種類は適当)」という返事が返ってきたという話。
私がこの本を読んだのは、ピンクレディーが流行っていた頃だが、当時、既にこの本の内容には古色蒼然たる印象を受けていたのを思い出す(初版は1966年)。が、読後20年以上も経った今ごろになって、さすが作家兼占師の書いた本と言うべきか、エピソードのいくつかが、滋味深い味わいと共に思い出されたりするのである。
若い頃は、演繹こそ科学であると思っていた。ミス・マープルよりはエルキュール・ポアロの方が「優れている」と思っていた。その頃は上のエピソードも「世の中にはたいした人がいるなぁ」という程度のものであった。
が、年と共に自分でもある種の予想の根拠がこれに近い感覚であることが多いと感じるようになってきた。自分としては根拠ありなんだが、人に話すと「経験と勘」と片付けられてしまいそうな仕事上のdecisionというのが結構多いように思うのだ。ちょっと大げさに言うと、全くのあてずっぽでも無く、厳密な推論から導き出された結論でも無い、これくらいの「予測」が科学の進歩を支えているとも思う。後に厳密な検証は当然必要になるが、「進歩」の本質はその検証仮定ではなく、「跳躍」部分にあると言えるからだ。
また、科学だけではなくビジネスの世界においても同様のことが言えるように思う。完全に証明された命題で、多数が参入してしまっているビジネスにはうまみが乏しい。全くのあてずっぽに投資していてはいくらお金が会っても足りない。ある程度のもっともらしさを持った思い付きをどうスクリーニングして、どうリソースを回すか、あたりが経営センスを問われる部分なのだろう。起業家がVCにプレゼンをしに行く際の肝となるValue Propositionというのは、まさにこの「跳躍」の部分に当たる。昨今の市場を取り巻く環境で、創業者利益の話をするのは旗色が悪いが、「進歩」に貢献した見返りとしての「創業者利益」というのは(90年代末期の相場が妥当かどうかは大いに議論の余地があるとしても)ここに正当性の根拠があるのだろう。
というわけで(ってどういうわけだ^^;)、そういう根拠無き根拠で適当な予測を書いている場合(にも関わらず、なぜか結構自信がある場合^^;)に今後(三家和)という注釈を付けることにした。って、そんな注釈をつける事例が本当に出てくるのか?<自分
2001/11/5
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