米国同時多発テロによって亡くなられた方々のご冥福をお祈りすると共にご家族の皆様、被害に遭われました方々には一日も早くご回復なされますよう心よりお祈り申し上げます。
アメリカの報復準備は着々と進んでいるということだ。TVでは偉そうな学者や研究者、ジャーナリストの解説を繰り返し報道を続けている。それらを見続けている私は少し中東情勢や背後にある宗教問題に以前よりは確実に詳しくなっていることだろう。そんな中、注目されているのが「報復処置」の時期や規模、作戦である。
米国がテロの首謀者と睨んでいる、オサマ・ビン・ラディン氏。彼らが潜伏するとされているアフガニスタンはかつてソ連との戦線の際に、その特異な地形により長きに渡り攻撃を仕掛けたが結局の所、退くことになったということだ。すなわち、米国による陸地戦の可能性は極めて低いらしい。そして、同じ理由からミサイル攻撃の中でも空爆を選ぶことになるだろうとの味方が強まっている。これは、何を意味するかと言えば、関係ない民間人が巻き込まれるということである。
また、ラディン氏の正確な潜伏先も解ってはいないため、近隣諸国への飛び火も考えられる。今朝のニュースでは、米国が標的とする国は、イラン・イラク・アフガニスタンの三ヶ国。そして、一番の被害を被る可能性があるのが、隣国のパキスタンである。内陸地であるアフガニスタンに攻撃を仕掛ける為にはその手前であるパキスタンの出方が米国には鍵だった。尤もパキスタンが強力を拒否した場合は、テロに荷担したとして攻撃を仕掛けるつもりだったのは言うまでもないだろう。その中でパキスタンは苦渋の決断を迫られたわけだ。どちらかと言えば反米よりのパキスタンが協力せざるを得なかった理由としては、全世界が反テロ側にあることによって米国対ではなく、全世界(反テロ)対になってしまっているからだろう。これでは、パキスタンは踏んだり蹴ったりだ。
一部報道ではラディン氏の関与否定声明が流れている。しかし、ここまで来てしまっては米国には正に「馬の耳に念仏」状態であろう。また、米国の名誉に賭けても「報復」無しで終わらすことは出来ないだろう。だが、ラディン氏が首謀者であろうがなかろうが、血で血を洗う以外に方法はないのだろうか?それで本当に全てが終わるのだろうか?このまま「報復措置」を行えば、反米感情はますます根深く残るのではないだろうか?
あの衝撃的な映像が全世界に向けて流れた日から、2週間...否、3週間になろうとしている。N.Y.も立ち直り初めてはいるらしいが、依然、観光や産業といった所へのしわ寄せは大きい。昨夜には、小泉首相も渡米し現地の視察に訪れたという。そして、オサマ・ビン・ラディン氏からの声明も発表された。
声明は「パキスタンのイスラム教徒の同胞に、パキスタンとアフガニスタンを侵略しようとする米国の十字軍を全力で阻止するよう呼びかける」また、「我々は今、揺るぎないジハード(聖戦)の途上にあることを確信する」として、「アラー(イスラム教の唯一神)の名のもと」でのイスラム教徒の結集を求めた。
事態は1歩ずつ何かに向かって進み続けている。イスラム教徒は全世界に数多くの信者がいるいう。それは、もちろん日本にもいるのだ。ただし、そのイスラム教徒の中にラディン氏と同じイスラム原理主義者がいるということを間違ってはいけない。しかし、ラディン氏の声明を読む限り、米国対イスラム教という解釈に捉えられる。やはり、米国はラディン氏がテロの首謀者という確固たる証拠を提示しなくてはならないのではないか?もちろん、ラディン氏側としてもアリバイ証明をしないと行けない気がする。だが、果たして公正な判断を下せるような第三者、或いは、第三国というものは存在するのだろうか?
私としたら、これ以上の血が流れないことを祈りたい。同じ時間を共有するもの同士、それだけは避けて欲しい。確かに、顔も名前もどのような性格の人物かは解らないし、それが私の友達でも知り合いでも血の繋がりもない、所謂、赤の他人だとしてもだ。私が毎日、仕事をしたり、友達と食事をしたり、買い物をしている、その同じ時刻に、同じ歳の何処かの国の人が同じ人間の手によってその人生を終わらせているだなんて考えたくもない。
生まれたところが違うから、運が悪かったから。そう言ってしまえばそうかもしれない。では、自分がそうなった場合にそれで納得できるのか?例えば、「もっとお金持ちの家に生まれたら良かった」「もっと美人に、賢く生まれたかった」それらは、そう思った後に自分がお金持ちになるぐらい働くとかキレイになるように工夫するとか、少しでも知識を増やして賢くなれるようにすることは可能だ。少なくとも0%ではない。しかし、「もっと平和な国に生まれたかった」と思うことには何もしようがない。全然、次元が違う問題だ。それでも、まだ「運が悪い」で片づけられることなのだろうか?子供には何も罪がない。子供にも人権がある。持つべき夢がある。これは、大人の罪で責任なのだ。だから、これから起ころうとしている争いを少しでも止める方法を考える必要があるのではないか?
血を流してまで得るものとは何だろう?死んでまで何を訴えるというのだ。まして、死んでまで得たものがあるというのだろうか?しかも、顔も見たことのない人や信ずる宗教の為に。私には神が「お前ら死んでも良いから、俺を奉れ」なんて言っているとは思わない。そもそも神に感謝する日々こそが信仰であって、神に見返りを返すことが信仰ではないと思うのだが。どの宗教であろうと、自ら死んでいくものを喜ぶ神など神ではないのではないか?
こう考えると日本の神様信仰は実に理に適っている。日本人は無宗教と言うが、本当はその考えや信仰が日常生活に非常に馴染んでいるから、それを宗教と思わないだけであるように思う。私も宗教とかは詳しくは知らないのだが、例えば「いただきます」や「ごちそうさま」なんていう挨拶も、食事を作ってくれた人、食材を作ったり取ったりしてくれた人、また、それら全てを作り、育んでくれている神様に対する感謝の気持ちである。残さずに食べるというのも一緒だろう。
少し前述とは異なるが、子供の頃、テレビの昔話でこんな話があった。
その昔、一人の老人が行き倒れになっているのをウサギと狸(だったかな?)が見つける。2匹は老人に話しを聞くと、酷くお腹が空いて動けないという。そこで、2匹は老人の為に食べ物を探しに行く。暫くして、狸は沢山の食べ物を持ってきて老人に与えた。ところがウサギは何も持っていない。すると、狸は「お前は酷いヤツだ。この老人の為に何一つ食べ物を見つけてこなかったのだから」と罵った。それを聞いたウサギは「一生懸命、探したけれど何も見つからなかった。だから、責めて...」と言うと同時にたき火の中に身を投げ出し、自分を食べてくれと言った。これを見た老人は大変、嘆き悲しんだ。実は老人は神様で、哀れなウサギの魂を天に返したという。
かなり抜粋してだが、大まかな内容はこのような感じだったと思う。これに対しては、様々な解釈があるだろうと思う。しかし私は、ウサギがそのような行動に出ると神様は全く予想していなかったのだと思う。そして、やはり神様は自分の為に命を投げ出す行為を良くは思って居らず、嘆き悲しむモノだということだろう。
やはり、血を流してまで得るものなんて何もないのだ。少なくとも残された者にとっては。
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