夏・清子のこと 1


久美ちゃんは夏休みに入ると、黙って一人で帰省してしまった。
私は東京に残ってアルバイトに汗を流していた。
新宿の深夜喫茶でボーイになった。
夜10時から、朝の7時までだ。仕事は楽なものだった。
12時過ぎになれば、客もあまり入れ替わらないし、オーダーもポツリポツリあるくらいだ。
店は広かったが、普段は、カウンターに私ひとり、
あと奥の狭い厨房にコックの寺西君の二人だけで、十分だった。
土日だけは、三人でやった。
清子は土曜と日曜日だけバイトにきた。
W大の二年生という話だが、まったく無口な子だった。
わたしは、暇になるとレジのカウンターの影でいつも本を読んでいた。
大衆小説の雑誌が殆んどだった。
清子がカウンターの中を覗いて、山田風太郎、くノ一忍法帖のタイトルを見てスーと奥に行ってしまった。


明けがたに、食事がでる。いつも寺西君の作ったカレーだ。

これが中々美味い、ポークと野菜をじっくり煮込んだ本格的なカレーだった。
わたしは寺西君と一緒にみた映画の話をしたり、フランス語の基礎を寺西君に教えてた。
彼はフランスでコックの修行をする夢をもっていた。まだ、18歳になったばかりだ。
清子は話に加わらない。カレーを食べ終わって、ご馳走様といったきり、
私たちの皿とスプーンをさっさと洗い場に運びこみ、コーヒーの支度をしてだしてきた。
私は、コヒーを飲みながら、寺西君に映画と小説で仕入れたフランスの話を続けた。
清子は相変わらず黙って、横でコーヒーをのんでいた。
話し掛ければ、うなずいたり、首を振ったりする。
一寸影がある、フランソワーズ・アルヌールの雰囲気だ。


朝がきた。
六時半を過ぎるとぼちぼち早番のバイトの学生とマネージャーや社員の店員が来る。
店内の掃除をバイトの学生と清子達がやっている間に、
わたしはマネージャーと伝票とお金の受け渡しを済ませ、着替えて外にでる。

ウオー、眩しい。朝からアスファルトが光ってやがる。
紀伊国屋の前の交差点を渡り、国鉄の新宿駅に向かう。
今日もあつそうだ。 私のすこし前に、何時の間にか清子が歩いている。
うつむき加減で人波に当たりそうになっても気にしてない。
あぶねえ奴だ。考えごとでもしているのかしら。


久美ちゃんに手紙を書いた。でも、返事がこない。

電話をしたいけど、妙子先生がでたら困る。久美ちゃんとは、あの日以来一度も会っていないし、話もしていない。


わたしは、時々薄くらい深夜喫茶のカウンターの中でぼんやりしていた。
昼と夜の逆転した生活に疲れ始めていた。
昼間は暑くてよく眠れないのだ。

また土曜日がきて清子が出勤してきた。清子も相変わらず無口だ。
寺西君だけが元気だ。
明けがた、客の出入りも注文も切れた頃、また三人で食事だ。
例によって、カレーだ。そして、フランス語のレッスン。
清子は手際よく食器を片ずけ、コヒーをもってきた。

「あの、さっきの動詞の変化だけど、違うと思う。」いきなり、ぽつんといった。
私は、寺西君の辞書をめくった。たしかに、間違えておしえていた。
「君は仏文科か、こりゃ参ったな。
俺は第二外国語でちょこちょこっとかじっただけだもん。
これから君が教えてやれよ。」
清子はすこしわらった。でも、教えるでも教えないでもなく、肩をすくめた。
まったく、アルヌールの雰囲気そのままだ。
清子には訛りがない、東京の子なのかな。
聞いてみるが、首を横に振る、じゃ神奈川、違うか。
千葉県か、やはり外れた。清子は、また笑った。
埼玉県ですと、自分から答えた。


清子が来るようになって、四週目の日曜日だった。
その夜は、十二時すぎから突然かみなりが鳴りだし雨が降り出してきた。
激しい雨だった。客はさすがにやってこない。
明けがたのいつもの食事とコーヒータイムの後も、
寺西君は厨房から出てきて、故郷の信州の山里の思い出ばなしをしたり、
わたしも山陰の海と山の迫った古い町の話をした。
清子は黙ってきいていた。清子は故郷の話も、学校の話もしない。
でも、ときどき微笑んだりするようになった。

朝になっても、雨は止まなかった。
いつものように早出組にレジを引き渡し、店をでる。
寺西君は店の前のバス停だ。傘なんか役に立たない雨だ。

紀伊国屋の裏のビルの入り口で、清子がズブ濡れになって空をみていた。
馬鹿な奴だ、傘を持っていない。わたしも清子の横に並んで雨宿りだ。
半袖のブラウスが肌にぴったり張りついている。細い肩から鎖骨も、スリップの紐もあらわだ。
胸元は、華奢な体つきとは不似合いなほど豊かに盛り上がっていた。
「タクシー代かしてくれる?」清子が聞いてきた。
行き先を聞くと、東中野だ。じゃあ、俺が途中で降ろしてやるよ。
私は小鳥のように濡れそぼった清子とタクシーに乗り込んだ。

道が川のようになっている。
フロントグラスをワイパーが壊れそうな機械音をだしていそがしく左右に動くが、
滝のような水でろくに前が見えない。自動車の屋根をたたく雨音も異様だ。
清子が何かいった。でも、聞き取れない。
なに、なんて云ったの。
わたしは清子に、大声できいた。

清子は、わたしのアパートに寄ってみないかってきいたのよ、といった。

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