清子・夏 3 

 

清子は地方公務員の娘だ。おやじさん偉いのかいと聞くと、偉いという。どれくらい偉いと聞くと、黙っている。県知事かいと聞くと、笑って首を振る。副知事?くびを振る、局長か部長と聞くと、黙ってこたえない。当たりか、というとやっぱり黙って答えない。

その親から仕送りをとめられた清子は生活に追われていた。アルバイトはなんでもした。ただ長期縛られる仕事はしなかった。自由でいたいのだ。

彼女は相変わらず無口だ、次の土曜日に仕事場に現れても格別に変った態度をとらない。寺西君のフランス語は、彼女がみてやった。私より遥かにできる。発音もいい。さすがに仏文科だ。

料理人としては、食材や香辛料、メニュウもレシピも覚える事は沢山ある。寺西君は古本屋からフランス語の料理辞典を買ってきた。清子は横に座って寺西君に辞典の料理写真のフランス語の解説を訳してやる。彼は熱心にノートをとっていた。まるで、仲の良い姉と弟だ。


暗い喫茶店の照明の中を、清子が奥のほうからゆっくり歩いてくる。


わたしは清子をぼんやり見ながら綺麗な子だと、おもった。

冷房病除けのとっくりの黒いセーターのせいだ。白い顔がいっそう白く浮かびあがって見える。

彼女は私の目をみながら、カウンターの私のところにきた。

私のほうがどぎまぎしてしまった。オーダー伝票を置きにきただけなのに。


「仕事の後、あえるかな?」私は、小声できいた。彼女は、首を横にふった。駄目か、残念。仕方ないや、彼氏とでも約束してるんだろう。

清子に彼氏がいると考えるのは、当然の推理だ。彼女が勘当同然に親から仕送りを止められ、大学を中退したのも、きっと男の問題が絡んでの事なのだろう。彼女は、否定も肯定もしない。でも、ほかに何か県の局長だか、部長が娘の行跡に腹を立てることがあるだろうか。

いつもと同じ朝が来て、いつもの引継ぎをして店をでる。まるで無限地獄だ。人間は永遠にこんなことをやってるのか。

先に帰った清子が隣のビルのくぼみでまっていてくれた。私達は新宿駅まで一緒に歩いた。彼女はいつもと逆方向の御茶ノ水え人に逢いにゆくという。 何のようか、誰とあうのか聞きたかった。でも聞く勇気がなかった。もう、このゲームは清子のものだ。好きになったほうが負けだ。


どうせ、今夜の10時になれば、また仕事場で会えるのだ。私達は新宿駅の隣どうしのホームで電車を待った。オレンジ色の東京駅行きの中央線が先にホームに滑りこんできた。彼女は、車内のガラス窓から小さく手を振った。


今年は、田舎にかえらなかった。この夏は毎日、もぐらの生活だ。一日が矢鱈に短い、仕事から帰って前の日に炊いたご飯に、おなじく前の日の残り物の味噌汁をかけて食い、寝転んで大衆小説雑誌や時代小説雑誌を読みながら眠くなったらそのまま寝る。目がさめると、いつも夜だ。大抵、そろそろアルバイトに行く時間になっている。目が覚めても、まだねむい。いつでも、だるい。こんな生活をしていたら、病気になってしまう。いや、すでに病気になっているんだ、きっと。
ボロアパートの学生たちも、ほとんど田舎に帰ったらしく物音がしない。横になりぼんやり、久美ちゃんの事を考えたり、清子のことを思い浮かべたりしていた。

暑い昼間に、いくらカーテンを引いて部屋を暗くしても、熟睡できるわけがなかった。ああ、海にでも行きたいなあ。青い海でも一日中眺めてりゃ、気分も変わるだろう。太陽に肌をさらし、潮風にふかれていりゃ、体内にはびこった黴も乾燥しきってしまう。旅か、旅もいいな。知らない街がいい、どこか遠くの海岸がいい。何も考えないで、日に当たらなくちゃ。日に当たりながら、てくてく歩かなくちゃ。だらだら汗をだして、体中の湿気を追い出すんだ。就職のことも、女のことも、世の中の出来事も、思い出も田舎の家族のことも、すべて捨て去って歩いたり、泳いだりしたい。


またいつものように土曜日がきて、日曜日がきた。清子もいつも通り仕事にきていた。
彼女のことは相変わらず謎だ。わたしは清子の事を何もしらない。それなのに、好きになってしまった。
あの雨の朝、清子とわたしは裸で抱き合った。しかし、それが何なんだろう、二人の間に何か新しいものが生まれたのだろうか。
手が届きそうでとどかない。今となっては、清子と一緒の職場にいるのが辛く感じることもあった。


そんな、わたしのきもちを知ってか知らずか、寺西君にフランス語で注文を出したりしている。まったく、やつはすっかり姉さん気取りだ。
寺西君も清子お姉さんにすっかり甘えて、悩みごとをうちあけている。
あいつの彼女は同じ郷里から出てきた同級生だ。川崎の電気メーカーの工場で働いていた。
寺西君の彼女は日曜日が休みだから、二人は週に一回あっているようだが、最近うまくいってないようだ。
逢っていても、楽しくないというのだ。彼女の方から付き合いを辞めようといわれているらしい。 清子お姉さんが、悩みをきいてやっている。その清子も時々ぼんやりしてうな垂れている。

なにを悩んでいるのか。


「俺、明日からすこし休むことにしたんだ。さっきマネージャーに休みたいって話をしたんだ。」
わたしは、新宿駅までいつものように清子と歩きながら云った。
マネジャーは困る、絶対に困ると突然声を荒げて怒った。
わたしは、おやじが脳卒中で倒れて入院したと、とっさに嘘をついた。マネージャー腕を組み、参ったな、脳卒中か。うーん参ったぞこりゃ。なんて云いながら、ノートを取り出しアルバイト学生のローテーションを組替えてみたり、関東近県の帰省中の学生に電話をしはじめた。

とにかく、私の突然の休みは、すんなりきまった。脳卒中とは、いい病気を思いついたもんだ。
マネージヤーの親父が今年の正月に、脳卒中で死んだという話を、彼自身この前していたのだ。
清子は、くすくす笑った。「田舎に帰るの?」清子がきいてきた。


わたしは、ただ休みたかっただけだった。どうした訳か、田舎に帰るということは全く考えていなかった。
田舎のお袋と、親父、そして妹達のことを一瞬思い浮かべた。
そして、久美ちゃんのこともかんがえた。


「田舎でなく、どこか知らないところにいきたいんだ。」
どこか、遠いところ,知らない町、見慣れてない山、初めて見るみる風景、ひろい海、果てしなくひろがる大海原、そしてさんさんとふりそそぐ夏の太陽。どこかの岬、そうだ岬に行くつもりさ。

わたしは、清子に支離滅裂なことをいっていた。

新宿駅の構内に入る時、清子が、わたしも一緒に海えいっていいかといいだした。 彼女の黒目が急にきらきらひかりだしていた。

彼女は、また東京方面の中央線に乗り込み、こっち側のドアのガラスごしに手をふった。そして、ガラスに1と0の数字を書いた。その日の夜10時、東京駅で待ち合わせる事にしたのだ。

彼女は今夜の突然の旅立ちにわくわくして、頬が少女の様に紅潮していた。

わたしは急いでアパートにかえって、溜めていた部屋代を大家さんにはらいにいった。それと、巣鴨の先輩に電話してお金をかりた。旅の支度は、鞄ひとつと着替え一組、それに靴下だけもっていけばいい。それに歯ブラシと髭剃りもいる。


夜、私達は東京駅でおちあった。清子はつばのある麦藁帽をかぶってきた。少し破れている。からし色のボストンバックを手に提げいた。中身が少ないからペチャンコだ。黒いTシャツに洗いざらしのデニムのスカートを佩いていた。

清子は普段まったく化粧をしない。それがうすく口紅を引いていた。
私達は、最終から一本前の各駅停車の門司港行きにのった。清子もゆくさきは遠くなら何処でもよかった。遠くの岬のある町。御前崎じゃ、近すぎる。伊良湖岬はどうだろう。清子はもっと先がいいといった。

最終前だから、酒臭い勤めがえりのサラリーマンが多かったが、横浜,大船を過ぎると通路にたっていた客も殆んど降りてしまい、がらんとしてしまった。


私達は四人掛けのボックス席を自由につかえた。清子は汽車の中でも、麦藁帽をかむっていた。窓を開けて、肘を窓枠にかけて外の流れてゆく夜景をながめていた。でも、外の景色はまったく見えないのだ。真っ暗闇の中を遠くの家の明かりや、国道の街灯がゆっくり後方に動いていっていた。


私は清子の口紅をぬった唇をじっとみていた。彼女はわたしの視線にきずいて、にっこりした。口紅が変かしらといった。わたしは、首を横にふった。わたしはどぎまぎしていまって、うまく喋れなくなっていた。綺麗だよとか、大好きだよとかいいたかった。でも、何故だか、いえなかった。彼女の笑顔に、微笑み返すのが精一杯だった。



「海がみえるわ。」と清子がいった。わたしも外を覗いてみると、ただの暗闇だった。なにも見えない、町の明かりも見えない。ただただ、暗いばかりだ、月もでていないし星もでていない。でも、しばらく暗闇をみていると、かすかに潮のにおいがしていた。そして、海とおぼしき方角がわずかに明るいような気がした。彼女には間違いなくはっきり海がみえているのだろう。彼女は、わたしより海をみたいのだから。


清子は窓を閉じ、わたしの横にならんですわり、足を前の座席に投げ出した。麦藁帽子を顔の上に載せ、わたしの肩に頭をあずけ私の体に腕を廻して寝息を立てはじめていた。

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