マドンナの思い出 1
ことの始まり
中学二年の時だった。俺達のクラスにマドンナが転校してきた。新学期の始まりの日、昭和二九年の四月の事だった。
新しいクラスが編成されて、新しい担任教師がはじめて俺たちの名前を呼び、顔と名簿を見比べてながらクラス全員を点呼した。半分以上の奴等が小学校と、中学一年を通じて何処かで同じクラスだったり、廊下や登下校時や街中に見かける顔見知りだ。
教師は、最後に相沢ゆうこの名前を呼んで教壇の横に立たせて、新たな転校生を紹介した。マドンナだ。俺が、つけた綽名だが、この綽名は誰も知らない。
マドンナは俺たちの中学に突然舞い降りてきて、あっという間にクラスの人気者になってしまった。はじめの印象は、ごく普通の子、色白で口数の少ないおとなしい女の子、いつもアイロンのあたった白いブラウスを着て来る転校生。はじめは格別に皆の関心を集める存在では無かった。
どこにでもいる普通の女子中学生だった。
新学期が始まって事件はすぐおきた。
4月の末に英語だけの実力テストが行われた。
どうせ青ガエルの時間つぶしのテストで、もっともらしい呼び方をつけて抜き打ちでやるのだ。ともかく、そこでやつはいきなりクラスの一番になったのだ。
それからすぐに、国語も社会科も良く出来ることがわかってきた。で、クラス中の注目が一挙にマドンナに集まったのだ。
それまでの、クラス一番で級長の狩野といい勝負になってきた。狩野、またの名はガリ野は英語では完全に負けていた。
ほかの科目でなんとか其の差をうめていた。ガリは数学がずば抜けてできた。メガネザルという綽名もあったが、俺たちは敬意をもって痩せているから、ガリにした。決してがり勉のガリではない。
あの時代、昭和20年代の終わり頃に女子が男子生徒を押しのけて実力テストで上位に入ることは驚くべき事件だった。それも転校して来て、最初のテストでの事だったので,一層印象的だった。
Y市立M中学二年六組の事件だったのである。
相沢ゆうこは、確かに良く見ると額の広い聡明そうな顔をしていた。それにいつも口元に笑みをたたえて人に好かれる顔だった。だから女子生徒に妬まれることもなく、自然にクラスに溶け込んでいった。
一重まぶたの切れ長の眼がよく動いて、利発で活発な性格を物語っていた。事実クラスに馴染んでくると、いよいよやつは本領を発揮し始めた。
走ること、跳ぶことが得意だったのだ。これには、クラスのやつらは、英語のテストよりもっと驚いた。やつは体育の時間の体力測定で50メートル走と立ち幅跳び、垂直跳びで学年で一番になったのだ。二年生の女子162人で一番だ。
相沢ゆうこはクラス担任のシャープ兄の強引な勧誘で、陸上部に入部させられた。
おれたちの担任は陸上部の顧問をやっていて、部員不足に頭をいためていた。そこえ、相沢がひょっこり現れたのだ。相沢が入れば、リレーメンバーを陸上部だけで組める。シャープ兄は大喜びだった。
市立中学陸上大会でも万年最下位から脱出できる。伝統のないM中学の陸上部ときたら弱すぎて人気が無く、シャープ兄は部員獲得にいつも苦労していたのだ。
俺は野球部員だった。
補欠の外野手だ。試合に代打で時々出してもらえるだけだったが、三年生がぬけてしまう夏以降には、新チームの正外野手の座はほぼ約束されていた。
俺たち野球部は校庭の一番いい場所を我が物顔に使って練習していた。
バレー部もバスケット部も片隅でやっていた。テニス部なんか校舎の裏だ。
野球部の外野は、陸上の走路と重なり合っていた。俺の守備位置は砂場に近かったので、自然おれと相沢のやつは、放課後の運動場で顔があってしまう事も多かった。
しかしその頃のやつはまだ、おれの中では一寸気になるクラスメートの一人という程度でしかなかった。
其の頃、俺は小学校からの同級生だった飯田喜美代だとか倉持信子が、良いかなと思っていた。飯田は家も近所で、家の姉ちゃんと飯田の姉ちゃんが友達だった。
あいつが小学校時代から、俺に気があるのは判っていた。女と言う奴は、まったくませていやがる。
倉持の事は最近、気になっていたのだ。例えば、放課後に校舎の外周をランニングしていて、二階の音楽室をひょいと見上げると、あいつがこっちをみている。はじめは、偶然だと思っていた。しかし違うらしい。どう考えても俺を待ち伏せしてみている。俺が二階を見上げると、ガラス窓にスッツと隠れる。
倉持が放課後音楽室でピアノを弾いたりしてるのは今までも良くあった事だ。いつも乙女の祈りとかいう曲だった。他の曲を聴いたことが無い。あいつ、もしかして俺に対して祈ってるのか、困った奴だ。
倉持は、合唱部のピアノ伴奏を受け持っている。ピアノを弾けるのは、M中であいつしかいないのだ。それで先生に頼まれて伴奏をやっているらしい。シロ君が倉持のことが好きなのは、シロ君の口からいつか直接聞いてた事がある、だいぶ前のことだが。この際、シロ君との三角関係はめんどうだから、倉持信子はやめておかなければならない。中学生として、彼女にするならなるべく面倒な女はやめておこう。近寄らないことだ。
今の俺にとっては、倉持信子でも飯田喜美代でもどっちでもいいこと。
今の俺は野球だ。女は、とにかくぐちゃぐちゃ面倒くさいもんだ。
相沢が陸上部に入ったので、放課後もあいつの面倒を見なくちゃならなくなった。全く面倒くさい。よけいな気を使わせやがる。
「おい、あぶねえぞ、相沢。球が飛んでくるぞ。陸上部はもっと隅のほうでやれよ。」
あの野郎、俺に気が有るんじゃないかと思うくらい、俺の近くで熱心に練習している。砂場で跳躍の練習をやると、どうしてもレフトの俺とぶつかりそうになる。其の都度、相沢に大声で注意してやらなくてはならない。面倒な奴だ。
クラスの男どもの中にはやつに関心を抱き、ひそかにあいつの関心を引きたくて教室でも廊下でも、微妙な雰囲気の変化がおきている。でも、あいつの周りを遠巻きにして見ているだけだ。だが、俺は奴らとは違う。無視だ。俺には女より野球だ。相沢のことなぞ、ぜんぜん気にならない。
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