マドンナの思い出 2
■ 市立M中学校の教師達 ■
俺たちの中学は、敗戦後急激な人口増加に対応して、市が慌てて作った新設中学だった。
昭和20年の空襲で郊外にあった軍需工場が、爆撃で徹底的に破壊されたようだ。その跡地は、戦後も鉄骨剥き出しのまましばらく放置されていた。俺たちが小学校低学年の頃は、まだ草ぼうぼうの原っぱだった。背高泡立ち草やぶたくさ、オオマツヨイ草などが茂っていた。錆びた鉄柱には、葛や昼顔がからみついていたし、地面は雑草がびっしり生い茂って、足元がみえないので危なかった。金属片やガラス片が思わぬ所に飛び出していた。
俺達が小学生の時に鉄屑拾いがはやっていたことがある。朝鮮で戦争がはじまったせいか。アカや真鍮を屑鉄屋に持っていくと小遣い銭になるので、町内の遊び仲間と一緒に近所のガキ大将に連れられてこの工場跡地に拾いに来たことがあった。有刺鉄線の柵を乗り越えて、進入したがめぼしい収穫は無かった。
噂によれば、アカの管や厚板が持ちきれ無いほど出てきたらしい。でも、良く考えてみればそんな宝を掘り当てた奴が、人に喋るわけが無い。
ガキ大将の昇ちゃんは、透明のガラスの破片みたいな物をひろって、ズボンにこすりつけ盛んに鼻にもっていっていた。飛行機ガラスだそうだ。俺たちも、変わりばんこに飛行機ガラスを貸して貰って、昇ちゃんの真似をしてみると甘い香りがしてきた。
俺は、黒ずんで折れ曲がって裂けてた金属片をみつけた。唾をつけて指でこすると、白っぽい地肌がでてきた。これは、もしかして銀じゃないかなと思った。昇ちゃんは、俺の手からそれを摘まんでポイと叢に捨てた。「馬鹿だな、焼夷弾の破片だろう。」
結局、あの日は薮蚊に手足が腫れあがる程さされて飛行機ガラスの破片と錆びだらけの鉄の丸棒三本だけだった。
帰り道、跡地あたりの番長が不良グループの仲間と歩いてくるのにぱったりでくわしてしまった。不良の番長は土佐犬をつれていた。やつらはでかい中学生ばかり三人と獰猛な犬、俺たちは中学生は昇ちゃんだけ、あとの三人は小学生ばかりだった。
番長が犬の首輪を放して、けしかけてきた。そしたら、昇ちゃんが俺の鉄の丸棒を取って、唸り声を上げて向かってくる犬の頭を思い切り引っ叩いた。犬はご主人を置いてキャンキャン悲鳴をあげてにげた。昇ちゃんは、次に錆びた鉄棒を振り回して番長の横ッ腹に一撃をくわえた。
野郎は一メートルも飛んでひっくり返った。俺たちの勝ちだった。あの時以来、俺は工場跡に行ったことがなかった。だから、M中学に入学して校庭と校舎を見たとき、あまりの変り様におどろいた。
工場の廃墟の隅に、古い木造の工場の寮が一棟だけ奇跡的に焼け残っていた。それは、くず鉄拾いに来た時のままだった。
戦後その寮は、そのまま大陸から引き上げてきた人達の住宅になっていた。俺が中学に入学した時も、校庭の隅に木造の寮はそのまま残っていて、住んでいる人たちがまだいた。
市は、工場の鉄骨とコンクリートの残骸を一部片つけて、工場の基礎は残したまま上に土を盛り、平らに整地して急いでコの字型の木造二階建ての校舎が建てた。すべてが、突貫工事で急いで仕上げられたのが、俺たちのM中学だった。だから、校庭にレンガが浮き出たり赤錆た鉄材が飛び出ているところもあった。
校庭の周囲には、昔の工場時代の名残の欅の巨木が並んでいて、春は若葉が一斉に萌えだし、夏は涼しい木陰をつくってくれた。どの樹も恐らく樹齢百年は超えていたのだろう、聳え立つ立派な樹だった。そして、幹の周りに太い根が何本も土から盛り上がっていて、俺たちのベンチ替わりになっていた。
新設中学ということで、教師たちは皆若かった。中学設立の際にかき集められた教壇にたつた経験のない先生たちが多かった。校長のゴリは背の高い老人で威厳があった。生徒たちに教える授業は持たなかったが、補修授業のようなかたちで土曜日の午後、希望者に論語を教えていた。
ゴリはGHQの教育方針に表立って反対はしなかったが、論語を教えることは曲げなかった。
ゴリは新しい校歌を、戦争犯罪人として公職を追放されていた万葉集の研究者で歌人のS・Nに歌詞を依頼し、作曲を学徒出陣した音大卒の新進気鋭のA・Yにいらいしたと言う事だった。勿論、当時そんなことは俺たちの知るところでは無かった話だ。
俺はシロ君に誘われて、ゴリの漢文クラブにも入っていた。部員は五、六人しかいなかった。野球の練習のない雨の時や、練習休みの真冬はゴリから孔子の話を聞くのが好きだったし、面白かった。孔子や、その弟子たちはいろいろ苦労したらしい。ゴリは一見怖い顔をしていたが、低い良く響く声で四、五人しか聴いていないのに、結構真剣に喋っていた
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