大伴吹負の戦い


 大伴吹負(おおとものふけい。?〜683年)は、武門の家柄として天皇家に仕えてきた武門の名族、大伴氏の出身である。
 大伴氏は、5世紀末から6世紀初頭にかけて、大伴金村が現れ、天皇の即位すら左右する程の権力を握ったが、6世紀中盤の欽明天皇朝に、対朝鮮外交上の失策を非難されて朝廷を辞し、大伴氏の勢力も全く衰えてしまった。
 彼の子孫に当たる吹負は、天智天皇の近江朝廷に仕えていたが、671年、天皇が崩御して皇弟の大海人皇子が吉野宮に去ると、病と称して兄の馬来田と共に倭(やまと。奈良県)の自宅へと帰ってしまった。その明年、馬来田は大海人皇子の東国への脱出に従ったが、吹負は僅か数十の騎兵をもって、倭京駐屯の近江朝廷軍を駆逐し、倭の諸豪族を糾合して、大海人皇子より将軍に任じられた。
 その後、難波・近江両面からの攻勢を受け苦戦するが、東海道方面からの援軍を得て、近江軍を撃破した。
 今回は、672年に勃発した、大海人皇子と大友皇子(近江朝廷)の皇位争いである壬申の乱における、倭での一連の戦闘について扱う。

 6月下旬、美濃入りした大海人皇子らが、全般の戦略計画を練りつつ、諸国の兵の集結を待っていた頃、倭では吹負が一族や同志を集めて倭京(明日香村)奪取の準備を整えていた。当時近江側は倭京を拠点として兵を動員していた為、吹負らの寡兵では正面から攻撃しても、とても勝利はおぼつかない。であるから、採り得る方策はひとつ。つまり、奇襲である。
 29日、吹負は策を実行に移した。彼は、近江側の倭京留守司の一員である坂上熊毛に、密かに内通(寝返り)の約束を取り付けておき、数十の騎兵を率いて百済(北葛城郡広陵町百済)の自宅より出撃した。
 まず同志の秦熊(はだのくま)を単騎で近江側軍営に乗り入れさせ、「高市皇子(大海人皇子の長男)が大軍を率いて、東国から来たぞ」とふれさせた。これで兵士たちが動揺したところに、吹負の本隊が突入し、坂上熊毛らも呼応した為、倭京並びに近江側が徴発した倭の兵(5000人前後か)は、刃に血塗らずして吹負の手に入った。
 吹負の倭京占領によって、何れに加担すべきか去就に迷っていた倭の中小豪族も、一斉に大海人側に立つことになり、倭の向背は決した。
 7月1日には、彼ら諸豪族は、吹負の指揮のもとに一軍を編成して、近江大津宮(滋賀県大津市)に向かい北進を開始するに至っている。

 北進を開始したその日のうちに、吹負の部隊が稗田(大和郡山市)に達すると、河内(大阪府)方面から倭に向かって、近江側の壱岐韓国(いきのからくに)が指揮する大軍が殺到しつつあるという情報が届けられた。近江側ではこれよりさき、大海人側に内応する動きをした河内国司来目塩篭(くめのしおこ)を討ち、韓国の軍をもって倭京の奪回を狙ったらしい。
 これに対して、吹負は即座に次のような処置をとった。即ち、それぞれ3〜400人の部隊を割いて、河内と倭を結ぶ主要道、つまり大和河谷の竜田、穴虫峠の大坂、竹内峠の石手道を守らせ、主力は大津宮より南下してくる近江軍と交戦しようとした。
 かくして3日、吹負の軍は乃楽山(奈良市北方の丘陵)に着陣した。また、荒田尾赤麻呂や忌部子人(いんべのこひと)らを遣わして、倭京を防衛させることにした。
 そして4日、吹負の軍は木津川を越えて来襲した大野果安(おおののはたやす)の近江軍と乃楽山にて激突した。戦況は吹負側に利あらず、吹負も身をもって辛うじて南方に走った。果安の軍は、追撃して倭京に近い八口(未詳)まで進んだものの、吹負が派遣した赤麻呂らの備えが堅く、これを抜くことができなかったという。
 一方、河内・倭国境の竜田守備に派遣された坂本財(さかもとのたから)らは座して敵を待つことなく、進んで高安城を攻め、1日の夕刻にはこれを手中に収め、2日には更に前進して衛我河(石川か)を渡り、壱岐韓国の軍と交戦した。
 しかし、財の部隊は少兵力であったために戦は不利で、退却せざるを得なかった。4日、韓国の軍は諸道を東へ併進し、守備にあたった吹負側の部隊は何れも撃退され、近江軍の倭進入を許すことになった。

 ところで、大海人皇子は倭京の掌握を確実にするため、2日の時点で紀阿閉麻呂(きのあへまろ)を将とする大軍(1万以上)を伊勢経由で倭に向かわせていたのであるが、4日に乃楽山で大敗した吹負は、阿閉麻呂の援軍の急速な進出を期待したか、墨坂(宇陀郡榛原町の西)まで後退し、そこで阿閉麻呂の主力から分遣されて急行してきた置始兎(おきそめのうさぎ)率いる騎兵1000の部隊と出会い、これに同行して金綱井(橿原市西南部か)に至り敗兵の糾合に努めた。
 兵備を整えた吹負軍は、7日か8日に西へ進み、前述した国境の守備隊と戦いながら倭に進入してきた壱岐韓国の近江軍と、当麻(北葛城郡当麻村)の葦池付近で交戦してこれを撃破した。この頃、阿閉麻呂の率いる倭派遣軍の主力が、続々と倭入りして倭京周辺に集結しつつあったので、吹負はそれらの兵を、倭を縦貫する上中下の3道(上道は桜井市〜天理市〜奈良市東部、中道は明日香村〜耳成山東〜奈良市大安寺辺、下道は橿原市八木〜大和郡山市〜奈良市法華寺町)に分けて北進した。
 おそらく10日頃、吹負自らが当たった中道を、近江側の将犬養五十君(いぬかいのいそきみ)の部隊が進んできて村屋(磯城郡田原本町蔵戸)に留まり、精兵200をもって吹負の本陣を衝いた。本陣には僅かな兵しかおらず、苦戦していたが、同じ頃に上道の箸陵(桜井市の箸墓古墳)付近にて置始兎や三輪高市麻呂らの部隊と近江側の大野果安の軍が衝突し、兎らの軍が勝利して、中道の近江軍の退路までも遮断したので、中道にあった五十君の近江軍も敗走し、これをもって倭から近江朝廷の勢力は一掃されたのである。
 勝利を得た大海人側は、その後倭の平定に若干時を費やしたらしいが、吹負は22日に難波に進出して河内を制圧し、西日本の国司たちに、大海人皇子に従うよう命令を発した。また、その他の諸将は上中下の3道を分進して、山前(京都府乙訓郡大山崎)に至り、大津宮と西国との交通を遮断した。

 吹負が難波へ向かった22日、主戦線である南近江では瀬田川を挟んで、高市皇子率いる大海人軍と大友皇子直率の近江軍の主力同士で決戦が行われた。結果は、激闘の末近江朝廷側の大敗となり、大友皇子は僅かな従者と共に戦場を脱して西走を図ったが、倭から北上した軍に遮られたか、23日それを断念し自殺した。
 かくして約1ヶ月にわたった戦乱は大海人皇子側の完勝に終わったが、そのきっかけは吹負の奮戦によって得られたのであった。彼が倭において挙兵し、例え敗北しようとも不屈の闘志をもって戦い続けたからこそ、近江朝廷側は大兵を倭方面に投入せざるを得なくなり、近江戦線で大海人皇子側が破竹の進撃を続けた要因となったのである。
 些か功をあせったきらいはあるものの、大伴の武名を辱めぬ吹負の積極性と、倭で果たした役割は、大いに賞揚されてよいであろう。