1619年2月24日(太陰暦。以下同じ)、ヌルハチは本拠の興京老城にて明からの宣戦書を受け取ったが、それより十日前の同月15日に、彼は1万5千人の壮丁に400の護衛騎兵をつけ、サルフ並びにジャイフィアンの両山へ、城を築かせに遣わしていた。
この地は、西方からの来襲に対し老城を防衛する戦術上の緊要地形であったから、城を築いて来たるべき敵に備えることは、まさに当然の処置であったと思われる。
一方、朝鮮の援軍も加えて10万に達した明軍は四路相呼応して進撃すべく準備中であったが、清軍の大がかりなサルフ築城を見て、当面の総兵官(司令官)杜松は心中穏やかでなく、ついに事前の計画を無視して独断出撃を決意し、上官や途中で合流する筈の友軍とも連絡をとることなく、2月29日夜半、突如行動を起こして撫順関を出たのである。
杜松は配下の兵力3万2千を2梯団に分かち、自らは主力2万の兵を率いて先頭梯団となり、夜間35kmを疾駆して営盤に達し、3月1日未明フン川を渡河した。なお、残余の約1万は、重兵器や弾薬、糧食を擁し、主力より半日遅れて撫順を出発した。
ところが、解氷期にあたって増水しているフン川は、人馬の渡河も容易でなく、溺れた兵は夥しい数に上ったという。この時清の守兵400騎は、サルフの隘路口に伏せて明の先鋒の後尾から斬り込み、明軍を混乱させたが、杜松の主力が到着すると衆寡敵せず、ジャイフィアンに後退した。
杜松はサルフ山を占領して更に軍を2つに分けた。即ち、半部の1万を火器(火縄銃約2千丁)と共にサルフに止め、自分は残る1万を率いてジャイフィアンに攻めかかった。しかし清の1万5千はもとより戦闘員ではない。400の騎兵を助けて若干の抵抗を示したものの、明の大軍を防ぐことはできず、更に後退してジャイフィアンの東に接するチリンハダの崖に拠った。
つまり、この頃における明の左翼中路軍の態勢は3集団に分かれ、杜松自ら指揮する1万はチリンハダを囲み、火器を持つ1万はチリンハダと川を隔てたサルフの山上に残り、約1万の輸送隊は西方にあって追及中ということであった。
「杜松動く」の報は、3月1日8時頃に、ヌルハチの手元に届いた。そしてその直後、「明兵南路に進入す」という報告があったが、彼は冷静に次の如く諸王、諸大臣に命じた。
「南からの明兵は、おそらく我を牽制しようとするものであろう。それに対しては既に派遣してある500の我が兵に拒止させればよい。撫順関から来る西の大軍こそ敵の主力である。まずこれに当たることが急務である。これを破ってしまえば他路の敵は恐るるに足りない」
言下に大王以下のヌルハチの諸子は、それぞれ手兵を率いて城を出て西方に向かった。大王ダイシャンは2500の兵を率い、二王アミン、三王マングルタイ、四王ホンタイジ、ヌルハチの寵臣ダルハンヒヤが各1250、そしてヌルハチ自らは2500を指揮して総勢1万。城中には数百の男女を止めたのみで、まさに清の総兵力を挙げて西進したのである。
先を行く大王は、頻々と届く明軍の動向に対し、適切な指示を出しながら、14時サルフ山を望見するグレの野に到着した。興京老城からサルフ迄約60km、グレまでは50km、8時過ぎに老城を発進し、約6時間で50kmを機動したことになる。この神速な戦場機動は、全軍騎馬から成る清兵の、熟地において準備した機動であることは勿論であるが、「清軍の到着は夜」と予想していたであろう杜松の意表に出で、これを驚かすに十分であったに違いない。
しかし、大王も、全兵力の集結と、総指揮官たるヌルハチの到着を待たねばならず、その間に弟王達と協議した上で、次の如く指示した。
「チリンハダに拠っている先遣隊の400騎に、さらに1千を増加して、その頂上から衝きおろさせよう。その時右翼4旗(清軍は八旗兵と呼ばれ、それぞれ色違いの旗毎に部隊を成していた)の兵はそれと共に攻めるがよい。左翼4旗の兵はサルフの山頂にいる敵を監視せよ」
そこで、ダルハンヒヤの率いる1旗1250騎の兵を増援に出したところへ、ヌルハチが到着した。16時のことである。
さて、グレに到着したヌルハチは、諸王、諸大臣達に「明軍は二手に分かれている。汝らはまずとちらを攻撃しようと議したか」と問うと、大王は答えて「チリンハダの味方が苦戦している。敵将杜松は攻囲軍の中にある。まずこれを破るために、右翼4旗の兵を遣わそうと思う」といった。ヌルハチはそれに対して、
「それも良かろう。しかし私は先にサルフを攻めたい。火器部隊さえ叩いておけば、あとは何万の明兵がいようと、恐るるに足りない。敵はまだ我が主力の到着を知らず、火器の配備もしていない。願ってもない好機ぞ。左翼4旗はサルフに向かい突撃せよ。右翼の兵はジャイフィアンを監視し、サルフの敵が敗走するのを待ってこれを攻撃せよ」と、攻撃重点の変更を命じた。
流石にヌルハチの指示は明快で、諸王が疑問を抱く余地もない。
彼は左翼部隊に右翼の1旗を加えてサルフに向かわせた。ダルハンヒヤの率いる1千余騎は既にチリンハダに派遣されており、ヌルハチは四王と共に、自分達のバヤラ兵(親衛隊)と残った2旗を掌握して予備となったのである。
時に1619年旧暦3月1日17時、日没までには2時間余を残し、更に同程度の長さの薄明の時間があり、サルフ山付近における主力の決戦は、杜松の予期に反して、この日のうちに火蓋を切って落としたのである。
大王、二王、三王に率いられた5旗6千余の騎兵集団は、サルフ山頂の明軍目掛けて怒涛の突撃を開始した。この時の模様を清側史書は次のように伝えている。
「そこでこの5旗の兵が進んだが、敵がサルフの山頂に設営し砲、小銃を幾重にも並べ終わって待ち受けていたのにも拘らず、少しもためらわず全く止まることなく進み、山頂に到るや否や、直ちに射斬り突入して一瞬にして皆殺しにし、忽ち通り過ぎて河を渡って眺めると(後略)」
まさに電撃的という他ない戦い振りだが、恐らくはこれがほぼ事実であったろうと思われる。サルフの明軍は下馬兵約1万であり、6千余もの大部隊による騎兵襲撃に圧倒された狼狽の様は想像に難くない。
しかも大将は陣中になく、頼みとしていた火器も折からの小雨と清軍の急襲の為に殆ど用をなさない(火縄銃故に、湿れば不発が増えるし、1分に2〜3発程度の発射速度では騎兵の突入スピードに対応し切れない)となれば、彼らが瞬時に清軍の馬蹄に蹴散らされたのもやむを得ないことであった。
サルフの敵を屠った5旗の兵は、勝ちに乗じてフン川を渡り、ジャイフィアンの杜松軍の背後に襲いかかった。と見るや、それまで待機していた2旗の兵も、逸りに逸る四王を先頭に蘇子河(フン川の支流)の流れを乗り切って明兵の側面に攻め込み、明軍を東西に二分した。
同時にダルハンヒヤの率いる1千余の兵は、400の先遣隊を併せ、チリンハダから衝き下がって明兵を崖下へ追い落とした。今や攻守所をかえ、杜松以下の明兵は三方からの清軍の猛攻のもとにさらされることになった。さしもの勇猛をもって鳴る杜松も、おそらく何が何だかわからないうちに、部下もろとも命を落としたことであろう。
清側史料に曰く、「大明の兵の倒れたるもの、山野に縦横に拡がり、屍、兵器の河を流れるもの、氷砕くるが如く、血海河になりたりき」と。
明軍は文字通り、潰滅したのである。
かくして、緒戦において明軍を潰滅せしめたヌルハチは、余裕をもって他路の敵に当たり、これに尽く勝利を収めた。
この大会戦より僅か2年程度で、彼は遼河以東の70余城を全て手中にし、それは正に、明討滅の基礎となったのである。
そのきっかけが、サルフ山での大勝利であったことは、最早多言を要しないであろう。