1945年2月17日よりイラワジ河を渡ったインド第17師団は、第255戦車旅団を配属されて、南北2縦隊をもって21日、メイクテラに向かい突進を開始した。この師団は一個旅団を空輸用として後方に控置してある他、完全な車両編成に改編され、自走砲も増強された強力なものだった。
これに対する日本軍は、この方面に戦闘部隊を殆ど配備しておらず、イラワジ河畔〜メイクテラ間は事実上英印軍に開放されていた。
英印軍の進撃は快速に行われ、南縦隊は22日オイン(メイクテラ西方約80キロ)で日本軍歩兵1個大隊の抵抗を排除して前進を続け、北縦隊も24日、タウンタ(メイクテラ北西方約70キロ)を南及び西から挟撃した。
当時タウンタには日本軍の野戦病院があり、相当数の傷病兵を抱え、病院長は付近地域の防衛責任までも負っていた。英公刊戦史に、『明らかに病院の撤退援護の為、日本軍の後衛は断固として戦った』と述べているのは、その病院自体の奮闘であり、多くの犠牲者を出した。
その日のうちにタウンタは占領され、英印軍は次の躍進を準備した。また、この日の午後、タウンタ北方に進出した日本軍第53師団から、「戦車、トラック約二千両からなる敵が、メイクテラ方向に突進中」の緊急電報が発電され、受信した第15軍司令部(イラワジ河中流域の防衛を担任)は、急遽「メイクテラ会戦計画」を立案し、それに基づき各方面で悪戦苦闘中の諸部隊から兵力を抽出してメイクテラに転用する措置をとった。
全ては、粕谷部隊が、それらの増援到着まで、メイクテラを保持できるか否かにかかっていた。
26日、マライン(メイクテラ北西方約40キロ)で、臨時編成の警備大隊である天竜・木曽部隊が急流の如き大機甲部隊の阻止を図ったが、殆ど一撃のもとに突破を許し、損害を出しつつメイクテラ方向に後退した。最早、英印軍の目標は疑いようもなくなった。
メイクテラ防衛の責任者、粕谷第2野戦輸送司令官は、火急の戦備強化に努めた。第107兵站病院の入院患者中、戦闘可能な者約500名をもって安藤集成大隊を、また輜重部隊から輜重混成中隊を、また第2師団歩兵第16連隊の残留者から青葉部隊を編成して応急の配備につけ、27日にはマラインから後退してきた天竜・木曽両部隊を川上臨編大隊として1部隊に改編し配備した。これら臨時編成部隊の武器は、少数の機関銃を含む小銃が主体で、対戦車戦闘力は皆無に近かった。
一方これと並行して、約200名の重症患者の後送や、兵站病院勤務の日本赤十字看護婦、在留邦人の引き揚げを処置した。幸いにも、英印軍の近接までにこれを終了することができた。
メイクテラ付近には、前述したように5個の飛行場があり、航空関係の地上勤務多数と防空部隊があったが、これらには、他地域への転用が定められた部隊が多く、既に第15軍の指揮系統から外れていたのであっては、粕谷少将の猫の手も借りたい思いも、どうにもならなかった。従って約4千という多数の人員は居ても、戦力となる者は僅かであった。
27日夜、待望の増援第一陣である吉田連隊(第49師団の歩兵第168連隊。砲兵大隊配属)が到着し、翌朝までに主力をもって、市街地北方の三叉路付近に配備された。吉田連隊は、北進してくる親部隊の第49師団の指揮下に復帰し、英印軍機甲部隊の撃破に当たる筈であった。しかし師団との連絡はとれなかった。
28日、英印軍の激しい航空攻撃と、北側・西側に進出した砲兵の集中火が市街を蔽った。英印軍は戦車旅団を、メイクテラ北方を迂回して東から、第48歩兵旅団を北西から、第63歩兵旅団を鉄道沿いに西からと、市街を包囲するよう攻撃態勢を完成した。
日本軍は、この日、北飛行場で戦闘中の防空部隊、飛行場大隊が撤退し、市街地東北側の防備についた。到着早々の吉田連隊は、28日終日、三叉路付近で戦闘したが、夜になってこの地より撤して、主力を市街地西に転用して配備についた。
3月1日朝、第17師団長コーワン少将は総攻撃を命じた。激しい砲爆撃に続いて、英印軍の歩兵・戦車協同チームは攻撃前進してきた。日本軍は市街地外周で、建物や地隙等あらゆる地形地物と工事を活用して、健闘した。しかし損害は増加し、逐次街の中心部に圧迫された。
英印軍にも損害が出始め、日本軍の抵抗と地雷や地隙に妨げられて、攻撃の進展は遅かった。それでもこの日、東飛行場を占領し、市街地外周を完全に制圧した。夜になると、英印軍の戦車、歩兵は殆ど後退して、日本軍の夜襲に備えて円陣に入り、あとは時々、砲兵の擾乱射撃が行われるだけになった。
3月2日、前日にも増した砲爆撃が行われ、攻撃が再開された。日本軍は、英印軍の近接を待って、歩兵に銃火を浴びせ、戦車には野・山砲、高射砲等の射撃と肉迫攻撃をもって応戦した。
菊池大尉を長とする山砲兵第49連隊第2大隊主力は、市内の駅東南側付近の陣地に拠って、北方及び東方からの戦車に対し準備した。吉田連隊主力は朝から戦車約20両を伴うインド第63旅団の猛攻を受けた。頼みの野砲は、戦車数両をかく座させたが、遂に破壊された。午後2時頃遂に連隊本部及び第1大隊は、敵戦車のじゅうりんするところとなり、連隊長の吉田大佐は壮烈な戦死を遂げた。
市街地北部及び東部においても川上臨編大隊、青葉部隊共に損害続出し、逐次市内に圧迫され、惨烈な市街戦となった。吉田連隊、安藤患者集成大隊もまた大きな損害を被り、組織的戦力を喪失した。
英公刊戦史によれば、3月2日の部には、『地雷、正確な砲兵、迫撃砲火力と、要塞化した建物とは、作戦の進展を遅くし云々』と記述してある。また、中部ビルマ戦域担当の英印第14軍司令官スリム中将は、メイクテラ西飛行場に飛来し、第一線まで進出して、状況を把握し作戦の進展に自信を得たという。
2日夜、戦闘の一段落とともに、守備隊の大部は、南方及び東方に脱出した。
3月3日、快晴の下で、英印軍の市街地攻撃が再開された。菊池山砲兵大隊は、敵戦車を陣前250メートルまで引き付けて、タ弾(戦車に有効な成形炸薬弾。生産数も少なく、ビルマでは第49師団のみが保有していたという)を使い戦車2両を炎上させたが、他の戦車の砲撃で大部分の火砲を失ってしまった。川上大隊、吉田連隊第2大隊、青葉部隊、輜重混成中隊等の残存兵力は、なお陣地に拠って頑強に抵抗したが、戦車に追われて極度に狭い地域に圧迫された。
山砲大隊長 菊池大尉は残存ただ1門の火砲をもって戦ったが、午後、敵戦車3両の撃破と引き替えに粉砕されてしまった。重傷を負った菊池大隊長は、従容として後事を部下に託し、聞き取れぬ程のか細い「天皇陛下万歳」の声を最後に昇天した。
火砲無しと見るや、戦車の行動はいよいよ大胆になり、川上臨編大隊長も、戦車に肉迫攻撃を敢行して、壮烈な戦死を遂げた。粕谷少将の壕入口にも手りゅう弾が炸裂し、輜重混成中隊長 岩村大尉の壕も戦車に馬乗りされた。
夜に入って、銃砲声は止んだが、夜間引き揚げる筈の英印軍戦車、歩兵がなお一部残っており、あちこちで建物が燃え続けていた。安藤患者集成大隊と、第107兵站病院の防衛戦闘についても明らかにし得ないが、病院長 岡本軍医少佐以下多くの将兵が壮烈な戦死を遂げた。後方の安全な地に位置すべき兵站病院が、戦車の攻撃にさらされたことこそ、この戦闘の特色を語るものであろう。
粕谷少将は、最寄りの残存将兵数十名に対し、東方サジへの脱出を命じ、自らも英印軍配備の間隙を縫って脱出した。残存将兵は少人数に分かれ、それぞれ東方、南東方に脱出していった。
英公刊戦史によるこの戦いでの英印軍損害は、「半ダースの戦車と死傷約200」であった。インド・パキスタン公刊戦史には、この4日間の戦闘で、「日本軍は一人として助命を乞うような者は居なかった」「死守という命令を、文字どおり実行したことは疑いない」と述べており、またスリム中将が語った「守備隊はおそるべき防御を行なった」という言葉が、メイクテラ防衛戦を最も簡潔に要約している。
航空に、戦車に、火砲に、劣勢きわまる部隊が、千数百名の尊い人柱によって実現した最大限の抵抗であった。
第2野戦輸送司令部の一員としてこの戦闘に参加した岩原寛一少尉は、次のように述べている。
「メイクテラにあった諸部隊が、殆ど、なすところもなく潰乱したように伝えられたことは心外の至りである。吉田部隊をはじめ、後方部隊、患者までが、叶わぬまでも死力を尽くして戦ったことを、戦史に伝えることこそ、生存者の義務であると思う」