アテルイの戦い


 アテルイ(?〜802)とは、奈良時代末期〜平安時代初頭にかけて活躍した胆沢(岩手県南部)の蝦夷(「えみし」と読む。古代東北住民を指す)集団を率いて、数次に及ぶ律令政府の征討軍に抵抗し続けた、勇者と呼ぶに相応しい人物でした。
しかし、彼の戦歴は、史料の残り方が片寄っているため、様相が判明する戦はわずかです。そこで、この節には、判明する戦例から、789年(延暦8年)の北上川河畔における戦闘を掲げます。

 過去の征討で大した戦果をあげられなかった、桓武天皇を戴く政府は、事前に準備を充分に整えた上で、紀古佐美(きのこさみ)を征東大使とする4万の軍を陸奥(東北地方太平洋側)に投入します。
征討軍は789年3月9日、多賀城(宮城県多賀城市)に集結し、分かれて蝦夷の拠点、「川と原野が極めて広い土地」と謳われた胆沢の地へと攻め入りました。まさしく国家の威信を賭けた大攻勢といってよいでしょう。

 しかし征討軍の指揮官達は戦意が低く、3月28日以来、衣川の北岸に滞留したまま、軍を動かそうとしなかったので、政府は厳しく軍状についての報告を求めてきました。

 そこで5月25日頃、前・中・後の三軍よりそれぞれ精兵2000人ずつを選りすぐり、衣川営の東から中・後軍併せて4000人が北上川を渡りました。
蝦夷側の総指揮官であるアテルイの本拠(岩手県江刺市南東13Kmの大萬館跡か)覆滅が目的でした。
 渡河して北上すると、蝦夷軍300人が政府軍を阻んだが、多少戦って退却します。それが作戦であったのでしょう。政府軍は進路上の蝦夷集落を焼き払いながら、更に北へ向かいました。

 一方、前軍は北上川西岸を北上し、巣伏村(岩手県水沢市の四丑橋付近か)辺りで東に渡河し、中・後軍と合流する手筈になっていたのですが、対岸の蝦夷軍(500人位か)に渡河を妨害されて果たせずにいました。
 その頃、中・後軍は蝦夷軍800人と戦っており、その激しい抵抗に政府軍が浮き足立って退くと、400人程の蝦夷軍が川の東の山から現れ、政府軍の退路を絶ってしまいます。
腹背に敵を受け、進退侭ならなくなった政府軍は、慌てふためいて混乱に陥り、我がちに活路を北上川に求めました。

 かくして、この渡河作戦で、政府軍はどれほどの打撃を被ったのでしょうか。
部将を含む戦死者25人、北上川に投じて溺死した軍士実に1036人、負傷者約2000人、武器防具をかなぐり捨てて裸で泳ぎ帰った者1257人。
死傷率は投入兵力の約50%にも達していますから、古代の戦闘としては、甚大な損害を受けたわけです。
 この最前線に陣を張り、政府軍の出鼻を強かに叩いて勇名を轟かせたのが、胆沢の酋長アテルイでありました。
また、この戦いにおける蝦夷軍の総兵力は、およそ2000人(人口の約10%?)と推測されます。そして、その損害ですが、炎上集落14ヶ村(家屋800戸)、死者89人(負傷者を含めると1割に達しようか)というほどのものでした。

こうして、アテルイに、散々に叩きのめされ戦意を喪失してしまった古佐美ら政府軍司令部は、早々に撤退を決め、軍を解散して、都へと帰ってしまいました。

 胆沢の制圧とアテルイの打倒は、数年の時と、1人の将軍・・・坂上田村麻呂の登場を待たなければならないのです・・・。