アレクサンドロスの戦い


 西洋史における英雄を挙げるなら、アレクサンドロス(B.C.356〜B.C.323)、カエサル、ナポレオンの名が真っ先に浮かぶでしょう。
 しかるにカエサルは34才の時、アレクサンドロスの伝記を読んでいたところ、ふと、その伝記を閉じて泣き出したといいます。
「アレクサンドロスは、34才の時には既に、何もかも成し遂げていたではないか。なのに私は、まだ何もしていない」
 ナポレオンはナポレオンで、アレクサンドロスのように自由に戦えぬ自分の身分を嘆き、言いました。
「このちっぽけなヨーロッパなど、何とつまらぬ舞台であることか」
当時ナポレオンは25才、一介の砲兵士官に過ぎませんでした。
 カエサルにもナポレオンにも羨まれていたアレクサンドロスは、英雄の中の英雄といっても、過言ではないでしょう。
 そこで、この節には、アレクサンドロスの東征で最後の会戦となった「ヒュダスペス河畔の戦い」(B.C.326年)を掲げます。

 ヒュダスペス川はインド西方、パンジャブ地方を南北に貫くインダス川に注ぐ河川です。
アレクサンドロスはインドに乗り出す前に、土着の君主の一人、タクシレスの協力を取り付け、情報を得ていました。例えば、タクシレスと同じ土着の君主であるポロスが対立していること、どの民族を従え、どの都市を攻めるか、といった情報です。

 アレクサンドロスが攻撃してくることを知ったポロスは、雨期で川幅が800mまで広がったヒュダスペス川沿いに部隊を配置しました。さらに渡河点には戦象をおき、川を渡ることを困難にしました。
 対するアレクサンドロスの作戦は、理想的な渡河攻撃でした。ポロス軍より遠くで渡河を行いつつ、敵正面の対岸には一部の部隊を止めておき、雨期が終わるのを待って渡河しようとしていると、ポロスに思わせたのです。

 アレクサンドロスは、ポロス軍と牽制部隊が相対する地点より、20Km上流の中州付近を渡河点と定め、夜間渡河を行いました。
 対岸には、マケドニアの将クラテロスの指揮する牽制部隊(騎兵3000、歩兵8000)と、彼らと本隊渡河点の中間地点に、騎兵1000と歩兵5000から成る予備部隊を置き、アレクサンドロスは本隊(乗馬弓兵1000、騎兵4000、歩兵1万)を率い、中州を越えて渡河しました。
 夜が明けて、アレクサンドロス軍の動きを知ったポロスは、息子に騎兵2000と戦車(チャリオット)120台を与え、渡河の阻止を命じます。しかし、その部隊は、アレクサンドロス軍の反撃で、河畔の湿地帯に追い込まれてポロスの息子と兵400が戦死し、残余は潰走しました。

 その間、ポロスは主力(騎兵4500、歩兵3万、戦車300、戦象200)をもって、湿地帯を避けて、川と直角になる形で戦線を展開します。歩兵は中央、騎兵はその両翼に配置され、戦象が最前線に移動して30mで並びました。つまり、ポロス軍戦線の長さは、少なくとも6Kmということになります。アレクサンドロス軍は、中央に歩兵を、左右両翼に騎兵をおき、アレクサンドロス自身は右翼の騎兵を指揮しました。
 右翼の乗馬弓兵が正面のポロス軍左翼を襲い、マケドニア軍の攻撃が始まりました。そこでポロスは、右翼の騎兵に左翼を支援するよう、命じます。
 ポロス軍右翼の騎兵が移動を始めると、アレクサンドロスは自軍左翼の騎兵にこれを追わせ、側面と後方から突撃させました。
 混乱したポロス軍騎兵は戦象の群れに後退し、戦象が恐慌に陥って暴れ出すと、ポロス軍は大パニックを起こし、戦線も完全に崩壊してしまいます。
 頃合良しとみたアレクサンドロスは、中央の歩兵に前進攻撃を命じ、さらにクラテロスの牽制部隊が渡河して、ポロス軍後方より襲いかかるに及び、ポロス自身は負傷、軍も包囲されて壊滅してしまったのです。

 マケドニア軍の死者は、僅かに歩兵80、乗馬弓兵10、騎兵230、負傷者多数。ポロスは、歩兵2万、騎兵3000、全戦車と戦象の多くを失い、ついに降伏しました。

B.C.323年6月13日、33歳の若さで息絶えんとするアレクサンドロスに、家臣達は「後継者を誰にするのですか」と、遺言を求めました。それに対するアレクサンドロスの返事は・・・

「クラティロス(最も強き者を)!」