コルテスの戦い


 フェルナンド・コルテス(1485〜1547)は、ヨーロッパ人が海外に乗り出した大航海時代の冒険者である。彼は1504年、19才の時にスペインを出て新大陸に渡り、エスパニョラ島に落ち着いた。だがコルテスが32才になった1517年、スペイン人の冒険者グリハルバがもたらした西方の大国に関する決定的な情報が、コルテスの運命を大きく変えた。
 1519年4月22日、彼は遂に西方の未知なる国メキシコに上陸し、彼の地を支配するアステカ王国との接触に成功したのである。
 今回は、コルテスがアステカ王国の息の根を止める戦いとなった、首都テノチティトラン攻防戦を扱う。

 1520年6月30日の「悲しき夜」に、アステカ軍に首都より追い出されたコルテス軍は、7月12日打ちのめされつつも同盟インディオのトラスカラ族領に到着した。それから再度の出発まで、彼は様々な準備を整えたが、その中でも最大の仕事は、13隻の1本マストの小帆船を造ったことだった。テノチティトラン(現在のメキシコシティー)は当時テスココ湖上の島に築かれた都市であり、コルテスは、テスココ湖の水上の主導権を握る者が、結局は全体の戦局の優位を手に入れると確信していた。
 1520年12月28日、コルテスは、45騎に80名の小銃手、射手を含む450の歩兵、8門の大砲の先頭に立って、失地回復の遠征の途についた。トラスカラ族は、1万の大兵力を割いてあとに従った。

 最初の目的は湖東岸の大都会、テスココ市だったが、コルテス達がやってきた時には、住民も山地などに避難していて既に無人の街と化していた。
 テスココの街に落ち着くと、コルテスは湖畔のアステカ系都市を次々と攻略していった。さらに年がかわった1521年の3月、トラスカラから解体された帆船の輸送が始まった。トラスカラ人が労働力を提供したが、10Km近くその列は続いたという。
 4月になると帆船は全部湖上に勢ぞろいし、メキシコ湾岸のスペイン側根拠地、ベラ・クルスから増援も到着して、650の歩兵、84の騎兵、180の小銃手及び射手の閲兵式が行われた。帆船には25人ずつが乗り組まねばならなかったから、325名がこれに割かれ、従って陸上攻撃軍の兵力は600名弱ということになった。
 また、アステカ側の防御兵力は首都に5〜6万、残存周辺都市に3〜4万であったと推定される。

 そして陸上軍は3隊に分けられ、南岸を廻ってイスタパラパを占領し、そこから堤道を北上して首都に攻め入る一隊と、イスタパラパの対岸のコユアカンを占領し、イスタパラパの堤道に合流する一隊と、西からタクバに廻って、「悲しき夜」にスペイン軍の逃げた堤道を逆行し首都に入る一隊が編成された。トラスカラ軍の兵士も三分されて、それぞれの隊に所属させられた。総指揮をとるコルテスは、船隊に乗り組むこととなった。
 5月20日から31日の間に作戦は開始された。コユアカンとタクバは瞬く間に占領された。イスタパラパの攻略は難航し、それを支援する為出動したコルテスの船隊とアステカ軍のカヌー部隊との水上戦が行われたが、スペイン側の勝利に終わった。
 三方の堤道から攻め込む各隊は、同時に首都を攻撃する手筈になっていたが、南からの2隊が堤道を迅速に確保したのに比して、タクバの堤道を進んだ一隊はアステカ軍の激しい抵抗に遭って、一進一退の戦況が1ヶ月近くも続いた。その間にコルテスは、全く手をつけていなかった、北のテペヤカクから首都に通じる堤道を攻撃させたが、ここでもアステカ軍は頑強で、結局スペイン軍は押し戻されてしまった。
 6月30日、コルテスは南と西からの総攻撃を命じ、自らは南からの一隊を率いて首都に突進したが、アステカ軍の抵抗は殆ど無く、コルテス隊は西からの別動隊との合流地点である、島の北側にあるトラテロルコ市場の広場へ急いだ。この湖上の島には無数に運河が張り巡らされており、特に首都中心部とトラテロルコの間には幅広い運河が流れていた。
 コルテス隊がその運河を渡って市場へ向かうと、曲がりくねった路地や家屋等に隠れていたアステカ軍が猛然と襲いかかり、コルテス隊は大損害を出して退却、別動隊もまた撃退されて総攻撃は失敗した。
 この時アステカ軍の指揮をとっていたのが、青年王クワウテモクであった。

 更にクワウテモクは、占星術によって、7月末から8月初めにかけてスペイン側の運勢が落ち目になると判断した。このことは忽ち敵味方のインディオの間に広まり、アステカ軍は士気を高揚させ、反対にスペイン側のインディオの意気を阻喪させ、彼らの大部分を戦線から離脱させる結果となってしまった。アステカ軍は勢いに委せて猛攻撃を繰り返した。
 ところがスペイン軍は狭い堤道の幅一杯に銃砲を並べ立てて迎撃したので、アステカ軍の猛攻も尽くその火力の前に撃退されてしまったのである。
 自分達の魔術=宗教的な知識に生活の根をおろしているアステカ人にとって、予言と予兆の外れたことは、大きな精神的ショックとなった。一方のコルテス軍には復帰するインディオや新たに参戦する部族が続出して、その数は10万を越えたと云う。
 スペイン軍の攻勢が再び始まった。コルテスは、クワウテモクに降伏勧告の軍使を送ったが、彼は頭からはねつけた。クワウテモクの態度は実に英雄的だった。いい加減な妥協よりは決定的な勝利か玉砕を選ぶ、というのが彼そしてアステカ全族の決意だった。
 クワウテモクと、その率いる全てのアステカ人の固い決意を知った時、コルテスは首都に対する徹底的な攻撃を行う覚悟を決めた。今まで、首都の入り組んだ町並みを利用したアステカ軍のゲリラ戦に悩まされてきたコルテスは、首都の南端から、一軒一軒建造物を完全に破壊して、その屑で運河を埋め、平坦地を少しずつ広げていって、敵を島の北東に追い詰めることにした。

 この徹底的な破壊戦法は功を奏した。数万のアステカ族はとうとう島の北東の一角に追い詰められてしまった。最早食物も水もなく、飢えと渇きにたまりかねて、湖の塩水を飲み、のたうち廻って苦しみながら死んでいく者も少なくなかったが、クワウテモク王は、度重なる降伏勧告にも、絶対に首を縦に振らなかった。
 クワウテモクは本土で抵抗を継続しようと、8月13日、隠し持っていた50隻のカヌーに主だった部下を乗せて、脱出を図った。しかしスペイン軍は直ちに気がついて、その船隊を追跡した。ガルシア・オルキンという者の指揮する帆船が、クワウテモクのカヌーに追いついて、王とその妃を捕虜にした。
 コルテスがクワウテモクを接見する場が設けられると、そこで王は言った。
「私の務めは終わった。力尽きました。だが私は降伏したのではない。力づくで捕虜にされたのです」
 そして、コルテスが腰に差していた短剣を指さし、激情をこめて、「私を殺してくれ」と伝えた。だがコルテスは王を抱擁しながら、その勇気を誉め称え、「あなたの一体何が非難に価しようか」と言った。
 以上が、アステカ王国最後の王クワウテモクの敗北の情景である。首都包囲戦が始まってから、75日目だった、とコルテスはスペイン国王宛の報告書に記している。コルテスの生涯の絶頂は、1521年8月13日だったといって過言ではないだろう。