戦車第11連隊の戦い


 日本帝国陸軍戦車第11連隊(1940年3月1日編成)は、戦車第5連隊と同第9連隊から要員を抽出して満州国東安省斐徳で編成された。連隊は第2戦車師団の隷下に入り、日ソ戦に備えて東部国境の防衛に当たっていた。
 1944年2月10日、戦車第2師団の隷下を離れて、北千島への転進が決定。一部はパラムシル島、松輪島、得撫島に分散して駐留したが、主力は千島列島の最北端にある占守島に配置された。
 1945年8月9日にソ連が参戦。同15日、日本政府はポツダム宣言を受諾。18日、日本軍は既に武装解除の準備をしていたが、ソ連軍は不法にも占守島に砲撃を加え上陸してきた為、戦闘状態に陥り、連隊は全軍の先頭にたって奮戦した。
 今回は、占守島を舞台とした戦車第11連隊の短く激しい戦いを扱う。

 千島列島の内で唯一激戦が行われた占守島は、カムチャッカ半島南端のロパトカ岬と10Km余の海峡を挟んで相対し、島の長さ約30Km、最大幅約20Kmの平坦な島である。
 1944年5月10日に編成された第91師団を基幹とする北千島守備隊の兵力は、歩兵10個大隊、重軽火砲約200門を数え、総兵力は23000名であった(占守島に配備されていたのは約半数)。当時としては弾薬も比較的豊富に備蓄されていた。
 その指揮下に入った戦車第11連隊は、独立戦車第2中隊を加え、戦車64両(1式中戦車或いは97式中戦車改19両、97式中戦車20両、95式軽戦車25両)を保有していた。

 8月17日、第91師団長堤中将は、北海道・樺太・千島の防衛を統括する第5方面軍からの命令に基づき、「一切の戦闘行動停止。止むを得ない自衛行動を妨げず。その完全徹底の時期を18日16時とする」との終戦処理を指示した。戦車連隊でも、直ちに終戦処理に入り、戦車砲の取り外しや弾薬の信管取り外しなどの作業にかかって、武装解除に備えていた。
 ソ連側では同日5時、攻略部隊(計8363名、火砲218門)を搭載した船団を出航させた。上陸軍が航海を続けている間、第128混成飛行師団の航空機による爆撃とロパトカ岬からの長距離砲での砲撃が占守島に対して行われた。しかし、日本側の師団長や幕僚は、北千島の将来は米軍と強い関係があっても、ソ連とは全く関係ないものと信じ、ソ連軍が本格的な上陸作戦を行うなどとは疑ってもみなかった。それでも、万が一に備えて一部の部隊に対敵戦備につき、警戒を強化するよう処置した。
 18日午前2時頃、占守島北端の国端崎に設けられた監視哨から、「竹田浜に敵上陸開始。兵力数千人」の報告がはいった。ソ連軍の強襲上陸である。占守島北部の守備を担当する独立歩兵第282大隊の長、村上少佐は、既に配備についていた部下将兵に「射撃開始」を命令した。

 パラムシル島柏原にあった堤師団長に対する第一報は、占守島西部の千歳にいた歩兵第73旅団長杉野少将の報告であった。「敵は早暁2時頃、艦砲支援のもとに竹田浜一帯に上陸開始、目下激戦中、敵の国籍不明」という報告を聞いたある師団参謀は、国籍不明といっても米軍だと思ったそうで、後に相手がソ連とわかった時はびっくりしたという。
 軍使が来たのが手違いで戦闘に発展したのかということも、一応考えた。しかし、時間が時間であり、しかも何千人という兵力で、ロパトカ岬から支援射撃もやっている。こんな軍使の到来などあるわけはないというのが、師団の判断となった。
 堤師団長は、取り敢えず2時10分全兵団に戦闘準備を下令、2時30分戦車第11連隊長池田末男大佐に対し、工兵2個中隊を併せ指揮し、国端崎方面に急進してこの敵を撃滅するよう命令した。
 戦車連隊は、出撃の命令を受けると直ちに非常呼集をかけ、3時20分までに飛行場に集結した約20両をもって、連隊長車を先頭にそのまま国端崎方面に向かって急進した。
 5時、国端崎から14Km手前の天神山で小休止し、白鉢巻で戦車上に立ち上がった池田連隊長は、「上陸軍を一人残さず海に叩き落とすまで奮闘せよ」と大声で訓示した後、再び乗車前進を命じた。遅れていた一部も追及合流し、連隊の意気は盛んであった。

 5時30分、連隊は前進を再開し、島の北端に近い大観台を過ぎて、6時20分頃、村上大隊の指揮所がおかれた四嶺山南麓台地に進出した。既にソ連軍約1個中隊が山を越えていたが、連隊長はこれを突破して四嶺山頂に進出する決心をした。
 池田連隊長は師団、旅団の両司令部に「連隊はこれより敵中に突撃せんとす。祖国の弥栄を祈る」と打電し、6時50分、攻撃を開始して所在の敵を撃破しつつ南斜面を駆け上がり、7時30分頃には山頂に到達した。山頂から見下ろした敵歩兵の第一線は停止し、動揺の模様が望見される。敵戦車出現の報告はない。敵砲兵の威力も濃霧の為制約されると連隊長は判断し、「一挙に敵を圧倒して、水際に撃滅する」ことを決心した。
 7時50分、連隊長は身を乗り出して日章旗を打ち振り、攻撃前進を命じた。連隊の攻撃隊形は左から第4中隊、第3中隊、第1中隊、連隊本部、第6中隊、第2中隊の順に展開していた。約40両の戦車が連隊長の統一指揮のもとに敵中に突入したのである。それは、さながら運用教範の実演の如く見事な隊形であった。
 それもその筈。その教範はキ戦車隊教練規定というもので、戦車学校の教官であった池田中佐(当時)が編纂したものだったのであるから。

 連隊は、南斜面より上ってくるソ連兵の群れに突撃を敢行した。しかしながら、視界約20mの霧が、死角の多い戦車に不利をもたらした。本来ならば、戦車は歩兵と協力して初めて実力を発揮できるのであるが、急な出動で協力できる歩兵がいない為、不慣れな工兵を随伴したが、協同不十分なまま押っ取り刀で飛び込んで行ったのである。
 一旦は混乱して潰走しかけたソ連軍だったが、前線の指揮をとっていたアルチューシン大佐は、8時30分頃までに全対戦車火器(13mm対戦車ライフル約100挺と45mm対戦車砲4門)を日本軍の逆襲正面に結集して激しく反撃した。欧州戦線では陳腐化した対戦車ライフルだが、装甲の薄い日本の戦車相手で近距離なら、かなりの威力を発揮した。
 濃霧の中で出会い頭に敵弾を受け、炎上する車両が続出したが、連隊は戦い続けた。キャタピラで、備砲で敵兵を叩き続けた。やがて四嶺山南東の高射砲が砲撃し、南麓から駆け付けてきた竹下少佐の歩兵大隊も軽戦車を先頭に攻撃を開始。耐え切れなくなったソ連軍は、遺棄死体100以上を残して竹田浜方面に撤退した。
 戦車連隊の損害も少なくなく、戦車27両が撃破され、池田連隊長以下96人が戦死した。だが、その代償と引き替えに、連隊はソ連軍の内陸部への侵攻を阻止したのである。

 その後、各地で小戦闘を交えながらも、現地の日ソ両軍間で停戦交渉が成立し、8月21日午後、堤師団長とソ連軍司令官グネチコ少将が会同して降伏文書の正式調印が行われた。
 占守島戦全体における最終的な損害は、日本軍約800人、ソ連軍は約3000人に達した。
 ソ連政府機関誌「イズヴェスチャ」は「占守島の戦いは、大陸における戦闘よりはるかに損害は甚大であった。8月18日はソ連人民の悲しみの日である」と述べている。
 以上に述べた日本軍将兵の善戦が、ソ連軍の計画していた北海道占領作戦を断念させたのである。これらを、無駄な戦い、戦死者は犬死にと一概に否定し去るだけでは、歴史を一面的にしか見ないことになろう。