林忠崇の戦い


 上総請西藩主林昌之助忠崇(1848年〜1941年)は、1867年に急死した父の後を継いで、数え20歳の若さで請西藩(現木更津市)1万石の当主となったが、間もなく将軍徳川慶喜が朝廷に大政を奉還すると、徳川氏重代の家臣を自認する忠崇は、徳川氏を逆賊と見なす西南諸藩(特に薩摩・長州)を敵と断じて、僅かな兵力をもって戊辰戦争の渦中に身を投じた。
 彼は、薩長こそ天朝(天皇と朝廷)を誤らせている元凶であるとし、「(薩長の暴政は)実(に)天道に背き、公明正大とは申し難し。これによりて今、徳川家(の)旧恩を思い、御危難を救いたてまつらんとする也」と声高に叫び、志を同じくする旧幕遊撃隊と同盟して、身分も領地も捨て去り、藩主自ら兵を率いて脱藩の挙に出たのである。
 今回は、彼らによる東海道の箱根関所占領と、それを巡る戦闘を扱う。

 2月12日、前将軍慶喜が新政府に対し恭順謹慎の意を表明した後も、忠崇は江戸に在って東西の形勢を観望していたが、東征軍の進撃の様子が関東にも伝わってくると、木更津周辺の人士の間にも動揺が広まった為、帰国の必要を感じた彼は3月7日に江戸を出発し、翌日には藩の「真武根陣屋」に入った。
 そこで忠崇は、新政府軍との一戦も辞さない覚悟、という胸中は明かさずに、前年10月21日に朝廷が出した命令に従っての上京の可否を藩士たちに論じさせてみることにした。
 すると、藩論は3つに割れた。即ち、「上京費用が足りず、捻出しようとすれば必ず領民を虐げることになる。民を虐げてまで上京するのは不本意だ」という上京反対論、「このまま無視していては不審に思われるだろうから、一度は召しに応じ、王臣たる身の証を立ててから、朝敵視されている徳川家の雪冤を命懸けで図ろう」とする賛成論、さらに「林家が領地を所有しているから上京せよといわれるのだ。ならばいっそ、領地を全て新政府に渡し、それと同時に徳川家の家僕になってしまえばよい」と考える破天荒きわまる発想であった。特にこの第3の論に賛同する藩士が多かったので、取り敢えずはその線で新政府に嘆願しようと決し、忠崇が東征大総督宛の嘆願書まで執筆したのだが、結局のところ、それを差し出すには至らなかった。
 というのも、「上京が先だ」とする議論が起こり、時を過ごす間に、請西藩を取り巻く政情が急変した為である。

 それは、4月13日に幕臣福田八郎右衛門を隊長とする旧幕府の歩兵約3000が、江戸を脱走して木更津へ現れた時に始まった。福田は徳川恢復への協力を上総諸藩に申し入れてきたが、請西藩にも17日、当の福田自身が陣屋にやってきて、忠崇に会見した。ここで忠崇は福田に対し「元より同意」と答え、藩士達もまた、意見の違いを捨てて挙藩一致し、戦争準備に取り掛かった。
 だが、いったんは同盟を約したものの、忠崇が様子を窺っていると、福田らは次第に横暴な態度を露にして、民家に入り金穀を巻き上げたり、「これからは上総諸藩に代わって我々が支配者になる」と公言した。これらの暴行を知った忠崇は失望を禁じ得なかった。ところが28日になって、やはり木更津に現れた江戸脱走の部隊があった。1866年に将軍の親衛隊である奥詰衆と旗本御家人の子弟から選抜して新設された「遊撃隊」の30余人である。遊撃隊は鳥羽・伏見会戦において最前線で戦った為死傷率が高く、400人弱の部隊が江戸に戻ってきた頃には100人程に減少しており、さらに退隠した慶喜に従って大半が水戸へ向かったこともあり、木更津にやって来たのは人見勝太郎と伊庭八郎を長とする36名であった。
 同日人見・伊庭の両名と会見した忠崇は即座に同盟の意を表明した。その理由について忠崇自身は、両名共に智仁勇相備えており、配下の兵士も命令に良く従う精鋭である、という意味のことを言っている。3人の会談は、そのまま作戦会議の様相を呈していった。そして決まったのが「速やかに房総の諸侯を連合し、兵を借りて伊豆・相模に航海し、小田原藩・韮山代官所に力を借り、大いに兵威を張り、東海道の諸侯を説き、従う者は力を合わせ、拒む者はこれを伐ち、怨を紀州和歌山藩・尾張名古屋藩・彦根藩に報ぜば、徳川氏の恢復難きにあらず」という戦略であった。
 因みに、和歌山・名古屋・彦根の三藩に遺恨を晴らすというのは、徳川御三家に含まれる前二者と、家康以来の譜代家臣で佐幕の筆頭と目されていた彦根藩井伊家とが、すでに新政府の東征軍に加わっていたからである。
 かくして、1868年閏4月3日の午前6時過ぎ、いよいよ林忠崇と59名の請西藩士たちは、遊撃隊と合体して、領民が見送る中、真武根陣屋から出撃することになった。

 出発後、約1週間に渡って近隣諸藩から兵を借りた一行は、10日になって安房館山藩老公稲葉正巳が用意してくれた和船に乗り、伊庭八郎が来援を依頼した旧幕府海軍所属の軍艦大江丸に曳航されて、12日には無事、伊豆の真鶴へ到着した。ここで人見や伊庭と相談した結果、忠崇が小田原城に出向いて、同じ譜代藩である小田原藩大久保家に協力を求めることになり、彼は早速、数名の供を引き連れて小田原入りした。
 しかし藩主大久保忠礼は、彼らに会おうとはせず、家老に面談させておいて、いざ協力を求められると「まだ佐幕の為決起すべき時期が来ていない。しかし武器・金穀は望みのままお贈りしよう」と逃げ口上をうってきた。だが、若い忠崇は、小田原藩家老の言い分を真に受けて、差し出された物資や金を素直に受け取って、14日朝に小田原城を去ってしまったのである。
 続いて彼らは幕府領の内に26万石の所管地を持つ韮山代官所を訪れて協力を要請したが、当主の江川太郎左衛門は少年であり、しかも朝廷に召し出されて今は上京中なので同意できない、と留守の者に告げられ、断念を余儀なくされてしまった。
 こうなると、軍議は当然のこととして、次の行動を如何すべきかというテーマになる。その結果、甲府城に入って、そこを拠点にしようということになり、一行は閏4月16日に韮山を出発して20日に甲斐の黒駒(甲府まで16km)に到着したが、途中16日夜に徳川御三卿のひとつ田安慶頼の使者が現れたので、忠崇は「脱走挙兵の趣意書」を江戸の官軍大総督府まで届けてくれるよう依頼し、10日間は黒駒を動かないと伝えた。この間に、忠崇らは東海道筋の諸藩に、名古屋・彦根が徳川の分家或いは家臣でありながら出兵して宗家を討たんとしている非道を訴え、同盟を請うゲキ文を発した。これに伴って参加してくる諸藩の同志も増えて273名(非戦闘員を含めて442名)になった為、隊を5軍に分けてそれぞれに隊長を任じることにした。人見は第1軍隊長、伊庭を第2軍隊長とし、忠崇は請西脱藩士のみの第4軍隊長である。以降、この混成部隊を「遊撃隊」と呼ぶ。
 しかし、月末まで待ってみても、趣意書の回答は得られなかったので、当初の予定通り甲府城を奪取しようということで、5月1日、全軍出動して甲府城を目指したところ、甲府城代である沼津藩主水野忠敬の使者が現れて交渉となり、その結果遊撃隊は甲府進撃を中止して沼津へ向かうことになった。

 遊撃隊は沼津でも歓待を受け、それを素直に喜んでいたのだが、一方、大総督府では彼らの行方を追い続けており、5月6日には3人の軍監を小田原と韮山、沼津に派遣した。目的は無論、遊撃隊の実情調査である。この内、軍監の一人和田勇の沼津到着はいつしか、遊撃隊員の知るところとなり、岡崎脱藩者からなる第3軍の一部が、和田襲撃の機会を狙いはじめた。
 次いで5月15日となり、旧幕臣を中核とする彰義隊が上野の山に篭って薩長軍と開戦したが、その日のうちに壊滅してしまった。しかし17日、江戸に偵察の為送り込んでいた第1軍の兵士が人見勝太郎に報告したのは、「上野で戦争が起こり、江戸市内は大騒乱」というところまでで、まだ勝敗は伝わらなかった。この情報の遅れが、結果として遊撃隊を激発させることになる。
 18日夜或いは19日未明、岡崎脱藩の松田宇右衛門ら数名が、和田の宿泊している旅館に潜入し、和田勇と思い込んで供の者を一人殺害するという事件を起こした。和田は沼津城に逃げ込んだ。
 同じ頃、人見たちの第1軍と、元岡崎藩士からなる第3軍も、彰義隊が奮戦している内に東西呼応して蜂起しなければと決心して、箱根関所の占領を目指し独走を始めたのである。忠崇が人見たちの独断専行に気付いたのは19日の午前10時頃だったが、衆議すると「抜け駆けは軍法に違反するが、一軍が敗れることは全軍の敗北に繋がる」との意見が多数を占めた為、総力をもって第1軍、第3軍を追求することに決まったのであった。

 同日夕方、遊撃隊主力は人見たちと合流を果たすのだが、先行した部隊は、既に関所守備の小田原藩兵(約300名)と戦端を開いていた。当初小田原藩側が「大総督府の軍監が小田原にいるので関所を通すわけにはいかないが、戦いもまた望まない故に、間道を案内するからそこを通行されたい」と申し入れたのに対し、人見が拒否の態度を示した為、関所内より砲撃を受てついに人見たちも応戦を余儀なくされたというわけだった。
 一方は関所に篭り、他方は箱根の宿場内に散開しての銃砲撃戦だから、中々勝敗は定まらなかった。
 小田原藩側は関所から兵を出し、家並みに放火して遊撃隊の盾となる建造物を焼き払おうとした。それに対し遊撃隊は地元民への迷惑は最小限にしようと考えて、消火にも人数を割きながら戦いつづけたのである。これは投降者の虐殺や略奪行為などの犯罪行為が目立った一連の戊辰戦争にあっては、まことに珍しい行動といえよう。
 さて、いつ果てるとも知れなかっ箱根関所争奪戦は、翌20日の午前4時過ぎに小田原藩側から休戦を申し入れてきたことで幕となった。戦いのさ中に小田原藩の藩論は一変して佐幕と決し、関所守備の隊長は関所内に迎え入れることにした。こうして遊撃隊は人見の目論見通り、一日で関所を手に入れることができたのであった。また、箱根宿の住民もこれを祝って贈物をしてくれたというのは、遊撃隊の消火活動を地元民達が感謝していたことを示すものとして興味深い。
同日未明、小田原藩軍を督戦すべく、小田原から箱根に向かった軍監の中井正勝は、人見の放った遊撃隊士に斬られ、もう一人の軍監三雲種方は海路江戸へ逃れた。さらに小田原城下でも佐幕派の小田原藩士2名が、滞在中だった軍監の吉井顕蔵を斬っていた。
 その日の内に遊撃隊は小田原藩主大久保忠礼に招かれて、小田原城に入城した。

 何故小田原藩が藩論を佐幕に変えたかという問題だが、木更津入りした福田率いる旧幕兵が、その粗暴さによって人心を得られなかったように、小田原入りした新政府軍軍監たちも、朝廷の権威をふりかざし居丈高な態度に終始したものらしい。
 しかし遊撃隊が箱根を奪取し、天下の形勢を観望するうちに、箱根失陥の報は小田原より脱出した三雲種方によって江戸へ伝えられ、23日、大総督府は参謀の穂波経度を問罪使とし、その下に長州・津・鳥取・岡山の4藩兵からなる問罪軍を編成して小田原に急行させた。
 この時、所用で江戸に在った小田原藩士が、急いで藩に帰り彰義隊の壊滅と問罪軍の編成を伝えると、藩主はこのままでは滅藩処分にでもされかねないと考えたか、再び新政府への帰順を決めて、自分は寺に入って謹慎してしまった。これはおそらく24日の出来事で、25日に伊庭八郎らが小田原藩と協同して江戸へ進撃する打ち合わせの為箱根から城内に姿を見せた時、藩の重役は既に、曖昧な言動で応えるばかりだった。のみならず、小田原藩側は金1500両(現代の金額にして約1100万円)や食糧、兵器、弾薬などを贈って一時を糊塗しようとした。それを見た伊庭八郎は、「堂々たる11万石中、また一人の男児なきか」と嘆いて箱根の宿へ戻っていった。
 生憎この日、人見勝太郎はまだ江戸湾品川沖にいる旧幕軍艦開陽丸に加勢を求めにいっていて、不在だった。すでに伊庭と林忠崇も相呼応すべき彰義隊が一日で壊滅したことを知っていたが、最早退くに退けぬ形勢に立ち至っている。軍議の結果、遊撃隊は湯本に降りてそこに本陣を置き、第1軍と第2軍はさらに小田原寄りに進出して山崎(小田原の西4km、早川左岸)に布陣することになった。
 同じ25日の内には、問罪軍が小田原に到着し、小田原藩に、恭順の証に独力で遊撃隊を攻撃するよう命じたので、戊辰箱根戦争はいよいよ大詰めを迎えたのである。

 翌26日、小田原藩は出兵し(兵力未詳。おそらく1大隊(256名))、藩士は内心不本意ながら昨日までの友軍を討つことになった。小田原藩の背信行為のため怒りに燃える遊撃隊は、ほぼ同等の兵力でありながら、戦意に勝る分だけ小田原藩兵を圧倒した。
 だが、優勢は長く続かなかった。後方に控えていた問罪軍(2500人との説あり)は、余りに戦果が挙がらないので、ついに加勢を始め、日没近くに山崎の陣地に突入してこれを占領した。
 この戦いのさ中に、第2軍隊長伊庭八郎が重傷を負った。共に戦っていた第3軍隊長和多田貢の証言によると、午後2時頃、問罪軍が戦闘加入して四面皆敵となり、伊庭は包囲を脱して三枚橋に至った。この時追撃してくる敵兵を、彼は味方と見誤り、不用意に近付いてみるとそれは敵部隊であり、腰に銃弾が命中したところに敵が走り寄って伊庭の左手首を斬った。続けて襲いかかった敵数人を片手で斬り倒し、三枚橋に仁王立ちすると、敵兵は驚いて、最早近寄ろうとしなかったという。阿修羅の如きこの姿はやがて江戸へ伝えられ、「八郎は百人斬り。しかも片手でやった」という噂と化して、徳川びいきの江戸っ子たちの血を騒がせることになる。
 明けて27日、遊撃隊は全軍関所に入って、今後の方針を検討した。箱根の西、三島口からも5藩兵からなる第2問罪軍が迫っていたから、彼らに時間はない。忠崇も一時は死を覚悟したが、「此処に憤死するは、是大節に死するを知らざるもの。如かず、海に航して…再挙を謀らんには」との意見があって、全軍退却に決定し、正午より箱根から間道を降り、午後4時には熱海へ着いた。不在であった人見も、遊撃隊が退去した直後に戻ってきたが、宿場の者たちが本隊の移動ルートを教えてくれた為、無事熱海で同志たちと再会することができた。
 およそ撤退行には、混乱と騒動が付きものである。遊撃隊の場合、そうはならず粛々と熱海に退くことができたのは、箱根宿の者たちに対する金銭の支払いが見事な程完璧だったためかも知れない。
 遊撃隊は、旧幕府の運送船長崎丸に乗って6月3日、小名浜港に到着したのである。

 この戦いで、遊撃隊の戦死者は32名。小田原藩及び問罪軍のそれは28名である。この後も忠崇らは東北戦争の終結する9月まで奥州で戦い続けた。既に請西藩は領地を没収され、忠崇も一介の私人となってはいたが、最後まで譜代大名としての誇りは失わなかった。
 今や彼らの戦いは歴史の大きな流れの中に飲み込まれ、知る人も多くはない。しかし、木更津を訪れれば、請西藩真武根陣屋の跡地はなおも「お林」と忠崇の姓に尊敬の接頭語を付けて呼ばれ、この地を去って戊辰戦争に赴いた一行は「上総義軍」、即ち大義の為に決起した武士たちであったと語り伝えられていることがわかるだろう。
 それが、300藩中唯一の、徳川家再興のため決起脱藩した熱血大名がいたことの証である。