「蜜柑」

 

 

 

 縁側で空を見上げる。

 いつもよりも、高く抜けるような快晴の冬空。

 こんな空の色をよく覚えている。

 その日。

 私の日常は打ち破られたと言っていいかもしれない。

 

 

 

 ずっと見慣れた景色がある。

 白いベッドの向こうにある四角い窓のまた向こう。

 冴え冴えと蒼い空が遠く高く広がっている。

 時に空は表情を変えて、無機質な部屋にあっても四季の彩りを感じさせてくれた。

 部屋――病室には、私の他には誰もいない。

 朝夕の回診の他は二、三日に一度父か母が訪れるだけの部屋。

 けれど、寂しいと思ったことなどなかった。

 幼い頃からの、当たり前の日常だったから。

「うわー、白っろい部屋だなあ!」

 突如病室に響いたのは男の子の大声だった。

 うるさいな、と私は眉をひそめた。

 本ばかり読んで毎日を過ごしていた当時の私は、同年代の子供よりもよく言えば大人びた、悪く言えば頭でっかちな考え方をしていた。

 病室の静寂を完膚なきまでに破壊した侵略者は、敵対心を露わにする先住者に対して満面の笑みで攻撃をしかけてきた。

 ベッドの傍らの小さな棚にはとっくに入りきらなくなって、床から積み上げられた本の塔に飛びつくようにして、

「本がすっげえいっぱいあるなあ!」

「え、あ、ちょっ……」

 止める暇もあればこそ、本の塔は彼の手で突き崩された。

 倒壊する音と悲鳴とが重奏する。

 半ば本に埋もれるような格好の彼をベッドから身を乗り出して見下ろすと、いたた、と頭をさする彼と目が合った。

「ごめんごめん」

 歯を見せて笑う。

 全然悪いとは思っていないのは明らかだ。

 第一印象は最悪と言う他なかった。

 

 

 

 あの日のことを思い出すと、ついつい頬が緩んでしまう。

 あの頃、私は子供だった。

 今も子供だけれど、あの頃の私は本当に何も知らない子供だったのだ。

 

 

 

 部屋に自分以外がいる、というのは奇妙な感覚だった。

 回診にくるお医者様はほんの数分しかいないし、父母も半日いればいい方だったから。

 私のベッドの向いの、ずっと無人だったベッドには退屈を絵に描いたような男の子がいる。

 おとなしくベッドに横になっているなんてことはなく、無意味に手足をばたつかせてみたり、ベッドの下にもぐり込んでみたり、窓に顔を貼り付けて真下の様子を窺おうとしてみたり、一秒たりともじっとしていない。

 私は本を読みながら、時折、彼の行動を盗み見ては、また本へと戻った。

 いつもなら字の列を目で追うと、頭の中に情景が広がっていくのに、いくら読み進めても文字は文字のままだった。

 彼のせいだ。

 異物感とも言うべき不慣れな感触。

 ちらりと見る。

 あぐらをかいて枕を足で挟み、両手で殴りつけていた。

 間抜けな音が不安定なリズムを病室に刻む。

 大きな音というわけではない。

 けれど煩わしい音。

 もう少し静かにしてもらえないかな、と思った。

 思うだけで口には出せない。

「うりゃあっ!」

 彼の渾身の一撃をその身に受けて、枕は宙に舞った。 

 緩やかな放物線を描き、ベッドを飛び越え、力なく落下する。私の頭の上に。

「…………」

「あははははっ」

 謝りもしない。

 私は枕を払いのけ、彼を睨みつけた。

 彼はベッドから飛び降り、枕を拾って、

「悪い悪いっ! あははははははっ! そんなに怒るなよなー」

「謝りなさいよ……」

 押し殺した声で告げる。

「ん? おお。ごめんごめん」

「悪いと思ってないでしょ!」

「なんだよごめんって言ってるじゃんかよ」

「そんなの謝ったうちに入らない!」

「怒った! 怖っ!」

 彼は逃げ込むようにベッドに潜り込んだ。

 私はやり場のない怒りを持て余しつつ、あることを決めた。

 そして即実行に移した。

「なーなー、なんかして遊ぼうぜ〜」

 彼はベッドの上でばたばた暴れている。

「…………」

「おーい」

「…………」

 もう、相手はしない。

 いちいち構うから不快な思いをするのだ。

 無視していればいい。

 もともとこの部屋には私しかいなかったのだから。

 

 

 

 あれは私が悪かったのだろうか。それとも彼が悪かったのだろうか。

 少なくとも、彼は自分が悪かったと思っているだろう。今でも。

 では、私は……?

 私はいいきっかけだったと思っている。今では。

 

 

 

 翌日。

 朝から彼は静かだった。

 布団に包まったまま、顔も出さない。

 寝ているのだろう。

 静かでいい。

 私はそれ以上彼に注意を払うことなく読書に没頭した。

 それからどれくらいの時間が経っただろう。

 お昼ごはんが近付いても、彼はいまだに布団の中だった。

 いくらなんでもおかしすぎる。

「ねえ」

 流石に心配になって声をかけてみたのに、返事はない。

 寝ているのか。それとも具合が悪いのか。

 思い出すのは、発作で苦しかった時のこと。

 たったひとりの病室で、泣いていた。

 ナースコールを押す余裕もなかった。

 誰もいなくて、助けを求めることもできなくて。

 このまま死んでしまうのではないかと思ったくらいだ。

 嫌な記憶が現実を捏造する。

 彼も、そうなのかもしれない、と。

 布団の中で辛いのを、苦しいのを堪えているのかもしれない、と。

 そう思うと、気が気ではなかった。

 私はベッドを下りて、向かいのベッドへ近付いた。

「だいじょうぶ?」

 丸くなった布団がピクリと震えて、私は慌てて手を引っ込めた。

 どうしよう。

 もう一度声をかけようか。それとも先生を呼んだ方がいいだろうか。

 その時だった。

 逡巡している私の前で、布団が勢いよくはだけた。

「え?」

 布団の下から現れたのは満面の笑みを浮かべた彼の顔。

「あははははははっ。ひっかっかったひっかっかったー」

「…………」

「いやもう、遅いってーの。もっと早く来いよなー。途中で諦めそうになったじゃんかよー」

「…………」

「どう? びっくりした? あははははっ!」

「…………か」

「ん?」

「ばかっ!」

 ぱぁん、と驚くほど大きな音がした。

 私の手が彼の頬を打ったのだ。

「ってえなあ。冗談だ……ろ……?」

「…………ばかぁ……」

 私は泣いていた。男の子を叩いたのもはじめてなら、男の子の前でこんな風に涙をぼろぼろ零すのもはじめてだった。

「ぅえっ……ちょっ、ええと、泣くなよ…………頼むから……あ、うぅ……、もう、どーしたらいいんだよっ」

 彼がじたばたしているのを他人事のように見ながら、私はただ泣いていた。

 涙の理由はよく分からない。

 単純にびっくりしたからなのか。

 騙されたことに腹が立ったのか。

 彼が無事だったことにほっとして気が緩んだからなのか。

 分からないし、分かろうとも思わない。

 

 

 

 この一件から、攻守が交代した。

 騒がしい、と忌避していたものが、賑やか、という楽しいものに変わったのもこの頃か。

 思い出すと、笑わずにはいられない。

 

 

 

「なあなあ」

「…………」

 彼の気持ち悪い猫撫で声を無視してページをめくる。

「まだ怒ってる?」

 彼は眉を八の字にして、私の顔を見上げている。

 ベッドの脇の床に座って、肩からかけた布団を体に巻きつけるようにしている。

「…………」

「聞いてる?」

「…………」

「ううぅ」

 ずっとこんな調子である。

「ごめん。ごめんて」

「…………」

 またページをめくる。全く読んでいないけれど。

 彼の情けないうめき声とページをめくる音が交互にする。私は無言。

「機嫌直してくれよぅ」

 彼はそんな風に言うけれど、私の機嫌はもはや悪くなんてない。

 私の一挙一動にいちいち反応する彼がとても面白かった。

 噴き出しそうになるのを我慢するのに苦労する。

 今まで読んできた本の中にあった「男は女の涙には敵わない」という言葉の意味はこういうことなのかな、と思う。

 ちらりと一瞥すると、彼は怒っているような、それでいて申し訳ないような、そしてどうしていいのかわからないとでも言いたそうな顔をしていた。

「……許して欲しいの?」

 と、私が問うと、こくこくと頷いた。

 その仕草が妙に可愛いくて、それだけで許してもいいかな、と思った。

「もう、二度とあんなことしないって、私を泣かせたりしないって、約束して」

「おう」

 彼はにっこりと笑って、右手を突き出してきた。

 小指を立てた握り拳。

「指切り」

 と、彼は言った。

 私はおずおずと彼の小指に自分の指を絡めた。

 指の温もりが伝わってくるよりも早く、彼は盛大な勢いで手を上下に振り回したのだった。

 

 

 

 こうして私と彼は友達になった。

 ひとりではない、というのは嬉しくて楽しくて、心地良いものだった。

 今は余計に、そう感じる。

 

 

 

 彼はどうして入院しているのか分からないくらい元気だった。

 いつでも病室の中を駆け回っていた。

 ひとりでいる時には広いと思っていたのが嘘のように、とても狭く感じられるくらいに。

 私はベッドの上からそんな彼を眺めているのが常だった。

「これ貰っていい?」

 私が返事をするより先に、彼はベッド脇のテーブルから蜜柑を幾つか手に取っていた。

 食べるのかな、と思ったけれど、そうではなかった。

 彼は馴れた手つきで蜜柑を次々と宙に放り投げた。

 取っては投げ、取っては投げを繰り返す。

 知らず、吐息が漏れた。

「お手玉上手ねえ」

 私の言葉に彼は大層不本意そうな渋面を作って見せた。  

「お手玉じゃないよ」

 お手玉にしか見えないのだけれど。

「これはジャグリングって言うんだよ」

 何か彼なりにこだわりがあるらしい。

 それはそれとして、とにかく、すごいなあ、と感心した。

 しばらくそうやってジャグリング(?)をしてから、ひとつずつ順番に手で受け止めて、最後のひとつを口にくわえた。

 手で取った蜜柑を私に返しながら、

「はい」

 とくわえたひとつを顔ごと突き出してきた。

「それはいらない」

 私が言うと、彼は笑って、

「じゃあ貰う」

 嬉しそうに剥いて食べた。

 蜜柑が好きだ、と彼は言った。

 あんまり食べ過ぎると、母さんに怒られるんだ、と笑っていた。

 それから、彼はジャグリングの他にも色々なことをして見せてくれた。

 トランプや他のこまごましたものを使った手品。

 そのどれもが、今思うと子供だましもいいところの代物だったけれど、

 私にはとても不思議なものに思えた。

 その代わり、と言うのが適切かどうか、私は彼に本を貸してあげた。

 彼はあまり本を読むタイプではなかったけれど、私が勧める本だけは頑張って読んでくれた。

 興味を持とうとしてくれるのが嬉しかった。

「ここの漢字、何て読むんだ?」

「はい」

 私が漢和辞典を差し出すと、彼は決まって嫌な顔をした。

「教えてくれよー」

「それじゃ勉強にならないでしょ」

「うぇっ。これ勉強だったの?」

「あ!」

「なに?」

「食べながら本読まないで」

「あー、ごめんごめん」

 笑っている。

 適当に謝る癖は相変わらず。

 けれど、そんなに嫌じゃない。はじめはあんなに嫌だったのに。

 彼は服の裾で指を拭いて読書を再開。

 少し読み進むと、また何か食べて、また私が注意する。

 何度注意しても同じことだった。

 

 

 

 だから彼に貸した本は微妙に汚れている。

 縁側に座る私の傍らにあるハードカバーもそうだ。

 横から見るとところどころに染みがついている。

 彼の微かな痕跡が、ひどく愛おしい。

 

 

 

 ある日、彼の友達がお見舞いに来た。

 五人。

 男の子も女の子もいた。

 彼の学校の友達のようだった。

 私は黙って本を読むフリをして、盗み見ていた。

 みんな笑っていた。

 明るい笑い声が響くたび、私は耳を塞ぎたかった。

 うるさい。

 聞きたくない。

 そんな顔は見たくなかった。

 そんな、楽しそうにしている顔は、見たくない。

「ちょっと外に出てくる」と彼が言った時、心底ほっとした。

 外出は私も彼も許されてはいない。

「センセーには内緒にしておいてよ」

「わかったわ」と頷く。これは彼のためなんかじゃないと気付きながら「気をつけてね」と言った。

「おう」

 嬉しそうにする彼をなるべく見ないように、

「いってらっしゃい」

 と手を振った。

 ちゃんと笑えていた自信は全く無い。

 外に出るのをとがめなかったのは、彼のためじゃない。

 私がこれ以上、騒がしさに耐えられなかったからだ。

  

 

 

 誠に狭量なことだとは思うけれど、時折、気まぐれに顔を見せる彼の友達が私は嫌いだった。

 友達が来ている時、私はひとりになってしまうから、というのも勿論あった。

 何より彼が本当に楽しそうにしているのを見るのが嫌で嫌で仕方なかったのだ。

 

 

 

 入院生活が長くなるにつれ、彼の友達が訪れる回数は減っていた。

 一週間おきが十日おきになり、一ヶ月おきになった。

 友達がお見舞いに来ても、彼はだんだんと笑わなくなっていった。

 そんな彼を見ながら、私は内心で悦んでいた。

 彼も私と同じになった、と。

 私には彼しかいない。

 彼にも私しかいないのだ。

 それが嬉しかった。

 そして、それでいいのだと、思った。

 

 

 

 ずっとふたりでいられるなら、それもよかったのかもしれない。

 いや。

 いいわけはない。

 ずっと、なんてありはしないのだから。

 

 

 

 別れは唐突にやってきた。

 私の退院が決まったのだ。

「私、退院するんだって」

 半ば他人事のように彼に伝えた。

 実感がなかったのだ。

 ずっと、この白くて暗い、狭くて広い部屋で生きてきたのだ。

 今更ここから出られると、出て行けと言われても、困る。

「そっか」

 彼は少しだけつまらなそうな顔をした。

 寂しかったのだろうか。

 怖かったのだろうか。

 でも最後は笑顔で送り出してくれた。

「元気でな」

 

 

 

 彼をひとり残して病室を出ることに胸が痛んだ。

 彼と離れるのが嫌だったし、彼が一人になってしまうのはもっと嫌だった。

 あの病室にひとりきり。

 もはや友達も来ず、私もいない。

 彼はどうして最後まで笑っていたのだろうか。

 

 

 

 彼からは定期的に手紙が届いた。

 元気にやっているか。

 学校は面白いか。

 友達はできたか。

 私は返事を書いた。

 元気だと。

 学校は楽しいと。

 友達は沢山できたと。

 

 

 

 嘘で塗り固められた手紙を沢山書いた。

 

 

 

 私が退院したのは病気が治ったからではなかった。

 手の施しようがなくなったからだ。

 最後は家で一緒に過ごしたいという両親の希望をお医者様が認めたのだ。

 彼はそのことを知らない。

 私が元気でいると思っている。

 私は手紙を書かなくなった。

 彼からの手紙は絶えることがない。

 でも、もうこれ以上は、書けない。

 

 彼にこれ以上嘘をつきたくなかったから。

 彼に死ぬことを悟られたくなかったから。

 

 腰かけた縁側から見上げる空はどこまでも蒼かった。

 あの病室の窓から見える空と同じはずなのに、違う色に見えるのは何故だろうか。

 傍らに置いた一冊のハードカバー。

 詩集だ。

 適当に開いたページが汚れていた。

 不意に泣きそうになって、本を閉じた。

 慌てて閉じた本の起こした小さな風が頬を撫でる。

 微かに鼻腔をくすぐるのは蜜柑の香りだった。

 彼が好きな。

 蜜柑の。

 香りだ。

 また泣きそうになって、本を傍らに置いた。

 空を見上げると、蒼く滲んだ空にぽっかりと、白銀色の雲がひとつ重く、軽く、流れていた。

 私の溜息も白く重く、庭に落ちた。

 

 間もなく、縁側にも出られなくなった。

 あれほど好きだった本を読む気にもならない。

 終わりが近づいていることを自覚して。

 みっともなくも最後に望むのは。

 

 彼にもう一度、会いたい。

 

 手紙を書きかけて、やめた。

 嘘で塗り固めた手紙を書いて。

 その嘘も途中でやめにして。

 最後の最後で何を調子のいいことを。

 

 会いたい。

 でも会えない。

 

 偶然の邂逅すらないこの部屋で私は後悔を抱いて眠る覚悟をした。

 目を閉じて、両親には申し訳ないけれどもう二度と目覚めないでいいとさえ、思った。

 

 蜜柑の香りがする。

 枕元に置いた本からだろうか。

 違う。

 もっと鮮明な、蜜柑の。

 気がつくと、襖が開いていた。

「久しぶり」

 蜜柑を親指に突き刺して、

「浮いてるみたいに見えるだろ」

 滲んだ視界の真ん中で、彼が笑っていた。

「濡れた手で本、持たないでね」

 

 

(了)

 

 

 

 

超蛇足:

 

作中の登場人物に関しては、

私=ルカ

彼=レン

のイメエジで書いています一応。ただしどっちも子供です。特にルカ。

普通の人は曲を聴いたら、PV作ったり歌ってみたりするんだろうなあ、と思うのですが、歌詞と曲の雰囲気を膨らませて(拡大解釈とも言う)、短編を書いてみたりしました。こういう話を書いたことがないので短編なのにえらいこと時間がかかってしまいましたですよ。

自分以外の創作物に影響やら刺激やらを受けること大なり、な自分としてはこういうモノの作り方もありかなあ、と。