| 工藤 | 湊さんの小学生の頃の様子を少しお話しください。 |
| 湊 | 大阪で生まれ、5歳の時に東京へ行き、東京の小学校へ行きました。渋谷で住んでおり、近くにドイツ大使館やトルコ大使館がありました。親がトルコ大使館で働いている子供とも遊びました。髪の色の変わっている子だと思いました。その子は、日本語が上手でした。 ドイツ大使館の車が通るとわかりますので、ヒトラーに対する右手を胸の前で横にしてから右斜めに突き出すことをしました。三国同盟が、どうかとも知りませんでした。 |
| 工藤 | その手の動きは、私の中学の体育祭での入場行進でもさせられました。あれは、あの頃、オリンピックの入場行進でもされていたように思います なぜ、やっていたのでしょうね。 |
| 湊さん | 確かに、言われて気がつきましたが、東京オリンピックの時ありました。だけど、僕らにまで、どのようにして浸透していたのかはわかりません。何の訳もわからずやっていたけど、一つは、格好良さだったと思う。 |
今回お話をお伺いした「湊喬」さん
| 工藤 | 知らず知らずのうちにやっていたことがこわいですね。 |
| 湊 | 格好良さというものが統一性をもたらすのに効き目があるのかもね。 |
| 工藤 | 人間心理というものはそうかもしれませんね |
| 湊 | 皇居遥拝も、東を向いて、一斉に頭を下げるでしょう。私の行っていた小学校は、900人ぐらいいて、一斉に頭を下げていましたから、今から思えば、異様です。 |
| 工藤 | それは、毎朝でしたか? | 湊 | 毎朝です。校長の指示で一斉に。でも、君が代は、無かった。日の丸掲揚も無かった。いつも掲げてあったのかも知れないけど。あと奉安殿がありました。奉安殿というのは灯篭のようなもので、きれいな扉が付いていて、何かの式の時は、校長先生が、白い手袋をして開けておられた。中には、教育勅語が入っていた。 |
| 工藤 | 中学の頃は、どうでしたか? |
| 湊 | 中学に昭和17年に入りました。その年の5月に父が亡くなり、その前の4月18日に初めてアメリカに空襲を受けました。 |
| 工藤 | それは、東京ですか? |
| 湊 | 東京です。B25というノースアメリカンのミッチェルという飛行機で、航空母艦から、飛んで来た。確か10数機だったと思う。超低空飛行で来たものだから、みんな気づかなかった。私は、たまたま土曜日で学校から帰っていて、田んぼの中の道を歩いていました。私は、飛行機に関心がありましたから、向こうから、超低空の飛行機があったから、変わった飛行機やから、あれと思ってマークを見たら、アメリカのマークだから、これはどういう事だと思った。後で聞いたら、爆撃されたと聞きました。 |
| 工藤 | 中学の頃はどうでしたか? |
| 湊 | 中学は、戦時色一色でした。以前は、黒っぽい紺色の詰襟の学生服だったのが、私が入る頃には、草色のカーキ色になっていました。帽子は、自衛隊が作業の時にかぶる戦闘帽になっていました。ズボンも、すそがぴらぴらしないようにゲートルを巻いていました。学校へ行ったら、軍事教練がありました。銃の形をした木の棒を持たされて、走ったり、伏せたり、分列行進をしました。中学1年の終わりの頃から、銃剣術の真似事をしていました。棒をつけて相手の胴を突くことです。 各学校に退役将校が、配属されていました。もういいかげんな年取っておじいちゃんみたいな宮浦という陸軍准尉が来て、軍服を着て。 |
▲小さい頃の湊さん| 工藤 | 准尉ってなんでか? |
| 湊 | 准尉は少尉の下。位は、たいしたことはないけどそんな時代になったものだから、呼び出されて来た訳ね。口やかましいおっさんだった。それが、にらみを利かしている。こちらは、半分バカにしていたけど。私は要領がいいものだから、『湊は、茶目な奴やな』と言われていたけど、しまりのない教官だと思っていた。そんな事が、中学の2年までです。一人、物凄い国粋主義の先生が来たけど、それには、私もちょっとは引っ張られ、なるほどな、日本もこういう時期だから、こう考えなければいけないんやなと多少は考えた。だけど、お国の為なんて、まだまだそう深く考えていなかった。中学3年になる時、なぜ、広島へ行ったかというと、中学1年の時に父親が亡くなったので経済的問題や、戦況悪化を考え、広島の親類から、母親に広島に帰って来たらと言われ、母は、広島が実家ですから、広島へ引越しました。 |
▲1936年7才。小学校入学の時| 工藤 | 東京と広島の中学は違っていましたか? |
| 湊 | 昭和19年4月、入ってから、1ヶ月ぐらいは、勉強させてくれた。後は、学校の勉強をさせてもらえなかった。郊外の工場へ働きに行った。その前にも、市内の工場へ手伝いに行ったり、工兵隊の馬のかいばの整理に行った。だから、学校へ行くといっても週に3回は、勤労動員に行くわけね。だから、ばらばらやし、そんな中で学校の先生も何を教えていいのか、わからなかったやろね。その頃に、幅を利かしていたのが、軍人教官で、二人いた。6月位からは、広島には、三菱重工の造船と造機があって、造機は、ボイラータービンを作る所。朝7時から、夜7時まで。朝6時に家を出て、7時に点呼があった。乗り物に乗ってはいけなかった。服も支給がなかった。 戦争が悪化し、工員がどんどん徴兵され、少なくなった昭和19年の終わりか、20年になってから、電車に乗っても良くなった。それまで、学生は昼間しか働かさなかったのが、夜勤も始まった。昼は、朝7時から夜7時まで。夜勤は、夜7時から朝7時まで。夜勤は、仮眠しても良いとなっていたが、場所もなく、鉄板を熱く焼いて、たたいたり伸ばしたりする場所があり、そこの釜の火を落とした近くに行くと、ぬくいので、その辺でごろ寝をしていた。 |
| 工藤 | 朝6時に家を出る時は、それまでに食事をすましていたのですか? |
| 湊 | そうやね。取っていた。 |
| 工藤 | その頃の住まいは、広島市内ですか? |
| 湊 | 原爆が落ちた時は、平和公園から、1.2キロね。今も記録に残っているけど。 |
| 工藤 | 原爆ドームから、どちらですか? | 湊 | 南南東。 |
▲小学1年生(7才)| 工藤 | 原爆の日は、作業に出ていたのですか? |
| 湊 | 作業に出ていた。その工場が市内では危ないというので、郊外にもっていかないかんということで、荒地を切り開いて、そこに工場を建てるということで、まずは、そこの整地作業。土方やね。それまでは、機械を触らせていたのが、土方に行っていたわけ。その場所が家から20キロ離れていたわけ。 |
| 工藤 | 歩いてですか?。 |
| 湊 | それは、電車でね。広島の家から、電車に乗って、今の西広島で乗り換えて、廿日市まで行って。宮島の手前。そこから、山の中に入った所で作業していた。 |
| 工藤 | 広島での町の中で、服装はどうでしたか? |
| 湊 | みんなモンペをはいていた。男の人は、まだ着物の人が多かったね。それから、例の国民服。背広よりも戦闘帽的、作業帽とカーキ色、緑色かかった洋服。私らは、服の色を変わらなかったけど、ボタンが金属から陶器や木になった。それを見ても、子供心にもわかるわね。わあ、こんなになって来た。 |
1941年(昭和16年) 13才の時| 工藤 | 食べ物も配給制ですか? |
| 湊 | 完全配給制。米は、小学5年の頃には、一日2合3勺、今では多いように思うけど、おかずが無いんだから。おかずは、せいぜい魚がついたらいい方で、漬物とおみおつけでしょう。後は、野菜がちょっとあればぐらいのことでしょう。 |
| 工藤 | 作業場での食事はどうでしたか? |
| 湊 | それは、もう軍需工場だから良かった。ご飯は、たっぷり食えた。だけど、おかずは漬物と魚と野菜の煮物だった。私は、家でもう一杯食いたいのを、親にそれまでと言われるのもあったのでそりゃ、うれしかった。ただ、私は家でのんびり育てられているもので、ちょっと食べるのが遅かったからね。最初行って、みんなで食べるのに10分しかなくて、何十人の学生が食べるわけね。次が来るからね。それが、食べきれんでね。三日ぐらい最初必死に飲み込むようにして食べるようになってね。食い物は、ありがたいなと思った。ところが、家に帰るとほそぼそとしたものでね。町には、食い物屋なんてなくて。どっかで、うどんを売るそうなと聞くと並びに行くのね。ここで、もうありませんという感じで。 |
中学1年 12才の時| 工藤 | 日曜日は休みでしたか? |
| 湊 | 日曜日は休ませてくれていた。だから、日曜日というたら、死んだように寝とったね。 |
| 工藤 | その頃、家の中はどうでしたか? |
| 湊 | 母親は、親戚に手伝いに行っていた。めしを炊く薪も配給で、近所で親戚がおって、風呂をもらいに行こうかというと自分らの薪を持って行っていた。親は苦労したと思うけど、自分は子供だから、そんなに深刻に思っていなかった。しかも、時々、警察ではないんだけど、教護連盟のおっさんの目を盗んで映画を見に行ったり。あの頃、映画を見に行ったのが見つかると、退学にはならなかったけど、停学でね。 |

| 工藤 | どんな映画でしたか? |
| 湊 | 新雪っていう映画。あれは、まだ普通のロマンス映画だったね。高峰三枝子なんかが出てきてね。だけど、見たことは無かったけど、その頃は、戦争ものが沢山出てきてね。19年になると私も中学3年になっていたから、新聞で勝った勝ったと言うてるけど、どんどんさがっていくやないか、おかしいで。おっさん連中も、こりゃ、おかしいでと町でも言うとるし。だから、もう勝てる気はしてなかった。もうどうなるんかなと思っていた。 |
| 工藤 | 広島原爆投下の前後の話をお願いします。 |
| 湊 | 私も全国の鉄道地図を持っとったから、今日はどこが爆撃された、今日はどこが爆撃されたと、そこに赤丸で爆弾のマークをつけとったんよ。もう、ほとんど真っ赤なんやね。どうして、広島はやられんのやと、それを思とって。豊後水道をあがってきて、真っ直ぐ真っ直ぐ行くと、広島湾に突き当たるわけ。そこで、爆撃するのに分かれて、終わるとまた、あそこに集まって来ると丁度いい目標地になるわけ。だから、必ず空襲警報が出ると広島の上空に来るわけ。今日は広島がやられるんかな、今日は広島がやられるんかなと、毎晩、思っていたわけ。そうなってくると、こっちも、母もそうだったけど、もうじたばたしてもしょうがないから、爆弾落ちて死ぬんだったらもうこのまま死んだらええわというもので、逃げもせず、外に出る用意だけしていたわけね。前の日が、日曜だったから、工場が休みだったので、行かずにいた。たまたま、あの頃は不便な時期だから、いろんな人がちょっと泊めてくれというようなことで、その晩、家族3人を含めて、6人おったんやね。前の日、例によって、空襲警報が出たかと思うたら、沢山のアメリカの爆撃機が来よってね。上空一杯飛ぶわけよ。もうその頃、日本の戦闘機は一機も出て行かんわけ。一機だけに珍しく高射砲が当たったのよ。それが、シューッと落ちて行って、途中で空中分解してバラバラになるのを見て、やったあと手をたたいたわけね。たまには、高射砲も当たるもんやなと思った。その晩、空襲警報が何べんもあったけども、ぐうすか寝ていた。原爆投下の朝、廿日市の現場に8時に集まればいいということで、家を6時25分ぐらいに出ないかんかったんや。空襲警報が出とって、今日は空襲警報なら行かれんなと思っとたら、6時20分頃に解除なって、おふくろに解除になったから行くわと言って、家を出てね、今の西広島へ行ったら、警戒警報も解除というから、ああ、今日は何にも無いわと現場へ行ったわけね。で、8時からの作業だから、まずは、ちょっと作業ができるような格好にして、8時になって朝礼をやって、皇居遥拝をやって、さあ、仕事にかかるかなと思った時、ピカッと光ったわけね、そこら中が。ほんまに写真屋さんが昔たいとったピカーッと光るやつ、そこら中真っ白に明るくなって。おっ、なんやというもんで。私は、あんな光いうたら、電気のショートしたんかなと思うた。どうやろ、30秒もかかったやろか。爆風が、わあーっっと来よってね。 |
| 工藤 | どれぐらいの距離でしたか? |
| 湊 | 20キロ。光った後に、なんじゃいと見て、山間なんだけど空が見えたわけね。ぱっと空を見たら、シャーッと雲が飛んで行きよるんよ。一瞬、何か夢を見ているような気がしてね。なんで、あんなに雲が早く飛んでいく行くやろんかと思うて。その直後、爆風が、ばわーっと来たのね。ガラスは割れなかったんやけどね。皆、伏せろと伏せた。近くに爆弾が落ちたと思うて。それで、その近くに火薬庫があると聞いとったから、あれに落ちて誘爆したかなと考えておいて。そのうちに広島が見えんのだけど、 広島の方向、山越えに真っ黒いワアーッと煙が上がっていきよるわけよ。まさか、 広島とは思わんからね。すぐ、ここから、せいぜい1キロか2キロ離れた所あたりに 落ちて、それが燃えとるんかな。いつも工場から、学生の分だけ昼めしを運んできよる わけね。ところが11時になっても何も連絡が無いし、教師もどうしたもんかと考えて おったんやろ。12時過ぎて、昼めしになっても来んから、こりゃ、どうもおかしいで。 ここでおってもしょうがないから、皆揃って海岸べりまで降りよういうことになって。 ちょっと高台だったからね。 |
| 工藤 | その間は、作業はしていたのですか? |
| 湊 | いや、してなかった。次は、どうなるかということでね。 |
| 工藤 | じゃ、ボーッと待っていたんですか? |
| 湊 | 次の爆弾を落としに来よるんやろか?今のように携帯ラジオも無いわけだから、警報も入って来んし、空襲警報のサイレンも鳴らんわけだから。おかしいな、あれだけですむんだったら。1箇所2箇所爆撃されるのは慣れっこやから。ということで、広島全体がやられているなんて誰も思っていなかったわけ。もう、工場から、何か来るやろう来るやろうと待っとったわけ。来んし、12時過ぎて、昼飯も来んし、こりゃどうも、どうしようもないねということで、海岸べりまで降りよう言うて。で、海岸行ったら、広島湾だから海越えに見えるわけよ。広島全市から、黒い煙が上がっとったから、こりゃ、どういうことや、ということでね。こりゃ、とにかく様子がわからんから、それぞれの自分の家まで帰るしかしょうがないから。とにかく広島へ戻ろうということで。それから、歩いて行くうちに、みんなバラバラになるよね。今の西広島に行く途中から、向こうから来る人が焼け爛れた皮をぶら下げている人やら、目に何か刺さって血を流して、そのまま逃げて来る人やね、裸で来る人や。それを見て、こりゃ、また何事やと思うて。そうやって、まだ歩ける人は、真っ黒けになっていなかったけど。切り傷の人が多かったよね、特に目に物が刺さって逃げて来た人は手ぶらで。異常やね。それまで死体を見たことがないんやからね。行きよるうちに、もう、これがすごいのばっかり。着物が燃えただれた人が来るし。もちろん、皆、裸足よね。髪はバサバサで逃げて来よるし。それで、 西広島に入ったら、見渡すかぎり、真っ黒けの人ばかりで。 |
| 工藤 | そこまで、 どれくらいの距離を歩いて帰ってきたのですか? |
| 湊 | 16キロくらいかな。避難者は、向こうから逃げて来るわ。こっちは市内に向けて行くわで。逆方向でよく見えたわけ。ところが、みんな気が狂うたみたいになっとったからね。それで、西広島へ行ったら。さあ、橋を渡ろう思うたら、もう橋の上は、真っ黒けの人ばかりで、うごめいとるし、『兄ちゃん、助けて。』言うて、わしの足をつかんでくる人おるわけよ。それを払いのけてね。顔も目もわからんのよ。体が真っ黒けの炭みたい。魚を焼き過ぎると真っ黒になるでしょう。あの状態。で、そうやって、みんな、もう顔中焼け爛れとるから、唇は、ボテッと腫れとるし、目の上下腫れて見えんわけね。だから、『助けてくれ』というのはうっすら見えるんやろな。でも、橋の上いっぱい。それをほとんど半分、踏むようにして渡るわけよね。渡る橋、渡る橋皆そうなんよ。二つ目ぐらいを渡ったときは、まだ、その辺、ボンボン燃えとってね。道の両側が燃えてるもんだから、熱うって、通れんのよ。で、その頃、例のよく言う、黒い雨が降って来たんよ。それでね、自分も歩いていると、服から、段々湯気がたってきよるわけね。熱うてね。あ、こりゃ、いかん思うて。その辺、なんでか知らんけど。あ、そうか、水道管が破裂しとるから、水溜りが出来ておるわけね。それで、その水を自分の服にピヤーッとかけてね。帽子もピシャピシャやって。また、歩いて入ったりしてね。歩いて行きよると電柱が、いっぱいあるんだけど、電柱の途中が焼けてね。線に引っ張られ、跳ね上がったりしよるわけよ。その火花が飛んできたりするからね。気をつけて歩いとって、わしの家まで、橋を五つぐらい渡るんかな。それで、市役所広島電鉄の停留所の辺まで行ってみたら、そこから私の家まで200メートルも離れとらんのやけどね。もう、火の海でね。見渡す限り、そこから向こうがね。そこから先、ほとんど熱くて行けんわけよね。あ、これは、どうしょうもないね。すると、何でか、学校の先生がおって、 『湊の家は、どこじゃ?』 と言うから、 『富士見町です。』 『あ、富士見町は、だめじゃ。で、おまえ、どこか行くあて、あるんかい?』 と言うてくれたから、 『いやあ、宮島まで戻れば、親戚がありますから。』 『帰れるか?』 また、そこから、廿日市まで歩いて帰ったんよ。だから、往復。 |
| 工藤 | 湊さんは、時計を持っていませんよね? |
| 湊 | あの頃は、時計を持っている学生なんか、おらんわな。 |
| 工藤 | 時間の感覚なんて、わからないですよね。 |
| 湊 | 感じからいくと、おそらく3時頃には、自分の家の状態を見たんじゃないかと思う。で、それから、また歩いて歩いて。ほんとうは宮島まで帰るつもりだったんだけど。途中、廿日市まで帰って来て、知り合いの大学の先生がいることを思い出し、あそこを訪ねて行こうということで。あそこに行った時は、もう真っ暗だったからね。8月の真っ暗だから、8時頃かな。それで、行ったら、 |
| 湊 | 『わあ、どうした?』 ということで、まずは、取りあえず、被災証明を取らないかんということで。それで、町役場が出しとるから、それをもらい、それを見せて、むすびを二つもろうたわけね。 町で炊き出ししとるやつね。で、もちろん、先生の家だって配給で食べているわけやからね。人に食わせる物が無いから。それで、くたびれて、すぐ、寝てしもうた。ところが、 その先生、浜辺に行って、一晩中、広島を見とったらしいで、 『夕べ、一晩中燃えとった。』 という話でね。その頃、こっちもあんまり深刻に考える気になってなくてね。 「さあ、どうしょうかな、母親と妹、死んだら、葬式どうするんかな」 と、馬鹿なことを考えて。で、ひょっと思い出して 『とにかく、家の跡を見に行かないかんわ。』と いう気になりましてね。五日市に大阪から疎開してきた伯父がおったから 『まてよ、あそこに行ったら、伯父がおるかもしれんから。』 一度も行ったことがないけど。地番でも覚えていたんかな。そこの家を朝早く、7時半ぐらいに出たんかな。全部、歩きでね。あれも、不思議なことや。そこの娘さんとパタッ偶然会ってね 『生きとったん』と言うことで、 その伯父の家まで連れて行ってもらった。それが、また浜から、20分ぐらい歩く山の 中腹なんよね。 『おまえ、生きとったんか。おまえの家は、誰も生きとるまい。』 と言う話で。その伯父さんは、まだ若かったから 『わしも、一緒に行こう。』と、言うことでね。 伯父さんも元気で、そこからでも、広島まで16キロはあるからね。二人で、とことこ 歩いて行って、西広島まで行って 『おまえ、どうする?』 『私は家の焼け跡を見て、確認して来ます。』 伯父も、他の親戚もいるので 『こっちへ、行くわ』 と分かれた。 行く途中が、また大変なことでね。真っ黒けの人が、そのまま落ちているしね。 夏のことだから、汚い話だけど、口とか、鼻とか、耳とか、尻の穴とか、 体の中のガスが膨張するでしょう。あぶくが、バワッと出るわけね。そんなん、ばっかりね。それを見ながら、もう、何ともないよ。そうなったら。それで歩いて、爆心地の近くへ行ったら、あの頃は、馬が動力でしょう。馬が、いっぱい死んどるわけ。みんな、 腹が裂けてね。中の臓物が、みんな飛び出してね。目は、飛び出しとるし。舌は、 飛び出しとるし。結局、爆風がバワーッ当たると、その圧力で体の中が、へしぁげる みたいになるから、臓物がバーッと噴出すわけ。人間も、そうなんよ。目も飛び出しとるし、口から舌が飛び出しとるし、でも、それを見てもなんともないのああいう場所では、 ひょっと見たら、アメリカ兵だろう、外国人の若いのが一人、裸にされて、 くくり付けてあったのよ。もう、死んどったけどね。それは、火傷してなかった。 ざまあ見ろと、わしは思うたよ。それは、本当に思うた。それから、自分の家の焼け跡に 行ってみたら、近くの川べりに、その辺で出た死体が並べてあったんよ。近くの幅 5、6メートルの小川、もちろん、その頃当時は護岸していないから、地道で、 真っ黒のがずらっと並んどったわけね。見たけど、真っ黒やから、男か女か、わからんわけ。 しょうがないから、股のところを見てね。これは男や。これは男や。それじゃ、 おふくろは、おらんわということで。そして、自分の家のところが、ペシャンとなって、 全部焼けてるもんやからね。ちょっと、そこらを見るんだけど。死体が無いしね。 風呂場のタイルみたいのだけが、ちょこっと残とって、一升瓶も溶けて流れたようになってて。 こりゃ、ここにおらんのなら、調べようがないから思うて。それから、町の中、今の福屋という百貨店がある。三越のすぐ、そばやけど。あそこへ行ったら、1階が足の踏み場も ないほど、死体と負傷者の置き場ね。当時は、あそこしか百貨店が無かった。 今も建物が残っていてて、今も百貨店をやってる。あそこも、死体置き場になっていると いうので、ずうっと見るんだけど、こりゃ、わからせんわと思うて。フロアだけでも、 百そこらではないもんね。そこへ行ってから、広島駅まで行ってみて、広島駅の中も コンコースが死体でいっぱいで、足場の踏み場がなかって。 |
| 工藤 | それは、8月7日ですね。 |
| 湊 | そう、ぐるぐる歩いたわけ。だから、取りあえず死体のある所を見てみるかということで。考えてみたら、百も二百もあると思わんからね。それを見たら、
こりゃわからんし、しかも顔が真っ黒けやしね。結局、そんなところを渡り歩いとったんかな。
その時、見たら、一人一人の手足を持ってまとめて、焼け残った木を持ってきて、
燃やしとったんやね。広島駅と福屋を回ったのは覚えているんだけど。あと、
どこを回ったかを覚えてないんだけど。また、陽が落ちてくるから、帰らないかんわと、
また、そこから、とことこ10何キロ歩いて、親戚に帰って。
また、あくる日、叔父さんと弁当を持って、広島市内を探しに行くわけね。こっちも
単純だよね。死体が無いから、どこかに逃げたなと考えたわけ。じゃ、どこか
で生きてるんだろうかという気になりだしてね。そうしたら、どこを探したら、
ええかな思うて。 どこをどう歩いたのか、もう一つわかってないんやけどな。
あ、そうそう、一箇所一箇所、全部徒歩やから、時間がかかるでしょう。それで、
広島の南の端の宇品(うじな)の方へ、赤十字病院があるから、そこへ避難しているかも
わからんなと思うて、行って。行ってみたら、丁度、その日に泊まっていたうちの
一人の女の人が、そこに入っとたんよ。それで、その人に聞いたわけね。 『いや、お母さんと、けいちゃんは、逃げちゃったんよ』 と言うて。その人は、押さえつけられて、おふくろに 『助けてくれ』 と言ってたらしいけど、 『今、誰か呼んで来るからね。』 言うてから、それきり、おらんようになったいうわけね。 |
| 工藤 | 家の下敷きになって?。 |
| 湊 | そうそう、おふくろも、下敷きになっとたんやからね。みんな、そうなんやからね。
おふくろは、自力で出たわけ。妹も、どこにいるのかわからんのが、どこかで、
『ギャーッ』と泣いているのを聞きつけて。これを出すのに30分や40分かかったらしいのよね。妹を出して、次に女の人と思うたけど、女の人の上に大きな材木が乗ってたらしんよ。 これは、おふくろに聞いた話やけど、 『誰か来て、誰か来て。』言うたらしいけど、 そんな状態で、誰も来やせんわね。それで 『ちょっと、待っとってね。人を探してくるからね。』言ううちに、ポツポツ、そのあたりが燃え出すわけね。まず、爆風で、バンッと吹っ飛んで、建物が壊れて、その熱線で、あちこち火がついたわけやから。で、 ポコポコ火がついてきて、これは、もう駄目やと思うて、私は、『ごめんね』と手を 合わして逃げたと、おふくろは、言うわけね。その女の人に、ひょっと、おうたわけね。 で、これこれで逃げちゃった、言うから。ああ、これだったら、どこかで生きとるんやな思うて。 |
| 工藤 | その女の人は? |
| 湊 | 何とか、逃げられたんやね。いよいよとなったら、力が出るんかも知らんけど。私の家におった人は、即日、みんな生きて、どこかに逃げたわけ。その人に聞いて、それなら、どこかで生きとるな思うて。じゃ、また日が暮れるから、帰らないかんな
思うて。また、とことこ歩いて帰りよって、今の西広島の駅のところで。その頃は、
かろうじて、列車が動とったんやけどね。でも、負傷者しか乗せんちゅうわけ。元気な
奴は乗せんいうわけ。で、その列車が出るのをボーと見とったら。そこに、ずらっと
行列が並んでおるのに 『お兄ちゃん! 』 いう声がするから、誰が言うてるんかなと見たら、私の妹やね。それで見たら、顔中、包帯して、目も見えんぐらいしておるんだけど。 横に、おふくろがボオッと立っていて。ああいう時は、ほんまに、おかしいもんやね。 映画にあるように抱きおうて、泣くちゅう事はないわね。 『ああ』 それだけ。それで、 『おまえら、どこへ行くんや?』 『宮島。』 『わしは、五日市の伯父のところにおるから、そこに行ったら、ええが。』言うて あの時、どうやって、落ち合ったんやろな。わしが、もしかしたら、道順を教えたんかも知れん。 だから、ほんまにラッキー。6日に爆弾が落ちて、7日、一日探して、8日、一日探して、 その夕方、おうているわけやからね。そこへ連れて行って、そしたら、狭い部屋に私ら3人、 向こうの家族が5人、よう生きとったいう話で。で、おふくろを裸にしてみたら、背中が、 アザだらけでね。結局、つぶれた時に打撲をやっとるんよ。妹は、顔傷だらけで、酷いもので、 顔中包帯を巻いた。今も残っている。母親の話によると、着物はぼろぼろになっとるし、 履物が無いので、裸足で。しかもまだ燃えてないから、そこら中、ガラスが飛び散っていたらしいわ。で、その上をどんどん走って逃げたらしいわ。 |
| 工藤 | 妹さんを連れてですか? |
| 湊 | そうそう。妹も、母親が見た時、は血が噴出しとったらしいわ。それで、おふくろが自分の着物を破って、そこを押さえて、抱いて逃げたということらしい。 |
| 工藤 | 妹さんは、当時、何歳ですか? |
| 湊 | 8歳。それで、逃げていると、後で、わかったんだけど、B29が、爆撃の後の状況の確認に来たわけ。そうすると、また空襲警報が出るわけ。なんか、そこらの田んぼの中に伏せたとか、蓮池に伏せたとか、言うとった。 |
| 工藤 | 湊さんの家の周囲には、田んぼがあったのですか? |
| 湊 | 家の周りは、家ばかり。でも、歩いて10分も行けば、田んぼがいっぱいあったわけ。
だから、いわゆる、市街地らしいのは、わしの家の周辺一角だけ。ほいで、逃げてたら、
川があって、川を渡ろうとしたら船がおって 『乗せてください』 言うたら、何と、わしが、さっき言うた、真っ黒けの人が、いっぱい乗っとって 『これ以上乗ったら、沈みますけん。』 と、言うとるから、また、あきらめて橋を渡って逃げた言うんですよ。ほいで、逃げて行って、大河(おおこう)という場所があって、そこの小学校があったんで。その頃には、 すでに救護所みたいのが出来とったんかな。それで、そこに飛び込んで行ったらしいですよ。救護所、言うても建物があるわけでなし、校舎が吹き飛んでるわけやから。で、穴掘った塹壕に、むしろをひいてもろうていたらしい。で、おふくろなんか、わりあい早く行ったもんで、そんなにしてもろうたけど、後から、なんぼでも、どんどん来たらしい。で、一晩中、みんなうめいとって 『助けて、助けて。』 言うとったけど。それで、水をあげたりしたんだけど、水をやったら、いかん言われたり。はしから、バタバタ死んでいく。おふくろは、それを見ているわけ。で、あくる日になって、多少、兵隊も来たらしいから。軍医も、おったらしいね。あくる日も、そんな状態が続いとって、そのうちに、そんなにケガしているわりに、わりあい気持ちが元気だったんやろね。妹が、 『畳の上で寝たい。』とか、 言い出したらしんよ。ほいで、8日の日 『そんなに子供さんが、言うとるんなら、そうさせて、あげなさい。』 言うことで、そこを出て来たらしのよね。 それで、西広島で、わしとポコッと会うたわけ。暑いので、芋の大きな葉があるでしょう。あれを帽子代わりにしてね。何か、あれのツルか何かで、頭にのしとったんやな。私の原爆いうたら、時間的には、短い。 |
| 工藤 | 9日以後は、どうなったんですか? | 湊 | 今度は、親戚の消息とか、自分の家の焼け跡を見に行かないかんし。とにかく、 鍋釜何も無いわけよね。何か、ないかな思うて自分の焼け跡家まで行ってところが、 完全に焼けとって、何も無かったよね。だけど、あの時、良かったのは、自分の家の焼け跡に行って、金属の物、こりゃ、ええわと持って帰って、ポケットに入れとったら、そこの部分だけが火傷した奴がおったからね。だから、放射能が残ってたわけよね。後で、その話を聞いて、うちには、そんな物が無かって良かったなあ、いう話をしたわけね。そんなわけで、毎日、広島へ通いよったわ。そのうち、一週間ぐらいして、毎日、下痢でね。 |
| 工藤 | 8月15日頃ですか? |
| 湊 | そう、そんなもん。毎日、大した物、食ってないのにな、思いながら。それは、今だに原爆の後の症状ということで、健康診断があったら、書くようにしているけどね。まあ、その時は、そんなこと思うてないからね。それで、いつまでも、その人の家におるわけにはいかんしね。そのうちに、焼け出されとって、これも助かっとった、あれも助かっとった。で、五日市の小学校をつこうて、救護所にしとった所があって、そこに伯父と伯母が来たりね。これが、また酷いやけどをしとってね。切り傷も酷かった。 |
| 工藤 | 8月15日は、どうされていましたか? |
| 湊 | その日も確かね、伯父と二人で親戚を訪ねて、広島へ行ってたんですよ。それで、私の記憶が、はっきりせんのだけど、なんか、天皇の放送があるとか言うて、みんな聴いたらしんだけど。わたしは、全然、そんな事わからんから、一日、広島を巡り歩いて、五日市の伯父の家に帰ったら、戦争に負けた、いう話で。こっちは、負けたいう感覚も、もちろんあるけど。爆弾のショックの、すぐ後やからね。だから、戦争がどうなったこうなったというよりも、取りあえず、毎日が必死だったからね。そんなもんで、そんな事を言われても、全く感動も無くてね。だから、よく話しに出るけど、戦争がすんで、ほっとしたとか、これで明るい夜がくるとかいう、感覚は、全く無かった。喜びも無ければ、落ち込みもせんかったわけね。だから、皇居の前に行って、土下座して、天皇に謝ったちゅう感覚は全く無かって。こっちは、毎日毎日必死やからね。どないして、やっていこうかでね。ですから、敗戦の時の記憶って全く印象に残っていない。 それで、とにかく、自分の住む所。伯父の家だって、いつまでも世話になっとられんし。別の伯母と、その連れ合いの伯父の家も完全にやられて、伯父夫婦も酷いケガしてるもんだから、さっき、言った五日市の小学校を救護所していた所で治療を受け取ったんだけど。もう、こんなにしとるわけにはいかん言うて。その伯父さんという人は、昔から広島におった人でね。その知った人が、西広島に家があるいう事で、探してきてくれたらしい。 ところが、そこへ行ってみたら、何とまあ、建具は吹っ飛んでるし、柱・屋根と壁が残ってるぐらいのもんでね。おばあさんと若い女の人がおって。そこも、そこのご主人が、広島へ出て行ったきり、わからんという家だったんですよ。そこを伯父が探してくれて、取り合えず、狭い所でおったら、嫌われるから、被災した者だけでも、向こうで住もうやという事で、そこへ行ったわけね。ただ、不思議な言うたら悪いけど、米だけはあったんよ。その時点でもね。米だけは、食えとったんやな。そこへ行ったら、おばあさんにしても、娘さんにしても、放心状態やね。そこの家に、とにかく寝る所が出来たいう事で。ところが、さっきも言うたように建具が無いんだから、寝とっても、お月さん見えるしね。風が、すうす通る所だった。布団も、何も無かった。まだ夏だったからね。親子3人、抱きおうて寝りゃ、いけるわっちゅな事で暮らしとったわけ。 そんな家だから、雨が降るとね、家の中がジャージャー漏れになるわけ。こんな家だったら、雨が降ったら、家の中でも、傘ささないかんなっちゅうもんで。 こっちなんか、傘もっとらんからね。 そんな状態で、そこに住んどってね。8月いっぱいぐらい辛抱しとったかな。それで、米はあるんだけど、おかず類が無くて。伯父が、畑の横にあるようなものを取ってきてくれ、食べた。その点、こっちは子供だからね、 気楽なもんで。で、ある時、何か、煮て食べたら、何か口の中が、おかしくなってね。 これは、何んじゃ、いう事があってね。結果、何だったかも、わからんのだけど、 中毒せんと。 その頃には、あんまり広島市内には行ってなかったんじゃないかと思うよね。 そこでいるうちに、伯父さん母親らが段取りしてくれたんでしょう。宮島が、 元々出て来たところだから。あそこは、昔から、海水浴の場所だから、夏に人に貸す 別荘みたいのがあるわけよ。今のリゾートみたいのがね。 『それなら、そこを、あんたら使うか。』 ちゅことで。父親の実家も、母親の実家も宮島の旧家だから、そういった友達が、いっぱいおったわけよね。 それで、そこへ行こういうことで、伯父伯母と、そこの息子と、私のところが3人と、 嫁さんと子供を亡くした伯父さんと。それだけが、 『まず、そこへ行こうや。』ということで。 その嫁さんと子供を亡くした伯父さんも、自分の兄を頼って宮島に逃げて来たんだけど、 もう、その人も酷い火傷で、その火傷が、白血球が少ないから、腐ってくるわけね。 どんどん下に腐っていくもんだから、上に残ったかさぶたを取らんないかんわけね。 取って、そこを綿か何かで拭きとってはいくんだけど、それをやると、また下から、 腐って、膿んでくるわけね。そのお兄さんの嫁さんが、うるさいわな。 『くさい、くさい。』と、言うことでね。伯父さん小さくなって住んでたわけよね。 だから、戦災で焼かれたもん同士、一つ屋根の下で住めば、ええわと言うことで。 それで、別荘という所。宮島でも、裏の方ね。鳥居の方でなくて、裏の小さな漁師町が あって、その海岸べり。波打ち際みたいな所でね。それだけ、引越して行って、 暮らしだしたんだけど。もちろん、電気は無いしね。明かりいうたら、無いから、 松の削ぎというの、松の細く切ったやつね。それを、山に入って、取って来てね。 それに火をつけて、たやさんように一日中、燃やし続けておくわけよ。そやから、 一日のマッチの配給3本じゃからね。何べんも使われんわけよ。それで、一遍つけたら、 大事に大事に燃やし続けるわけね。で、夜の明かりが無いから、消したら、真っ暗けよね。 ただ、漁師町だから、朝、つんで帰って来たら、買えるわけやし。お金の方は、 とりあえず、被災者に見舞金が出てるから。それで、やるような事で、やってたんでしょう。 その宮島の浜にも、死体がいっぱい流れ着いたらしんよ。広島から、どんどん川を 伝って流れ出たのがね。私が行った頃にはなかった。宮島の裏の方にも軍隊がおって、 弾薬置き場にしとったわけ。それで、兵隊も、皆逃げて誰もおらんもんで。 そこへ行ったら、大きな箱にロウね。ロウソクのロウをいっぱい積めた箱があってね。 誰も見ている奴がおらんから、わしと伯父と従兄弟と3人で、かつぎに行って、 とって帰って、これだったら、ロウソクが出来るやろうちゅうような事でね。 布をよって、竹をとって来て、それにロウを詰めて、ロウソクを作ったら、 ええんじゃってな事をやってね。だけど、石綿と違うから、すぐ燃えるでしょう。 まあ、そんな馬鹿な事をしよったんやけど。 その頃に、浜辺にいっぱい箱に入って弾薬の信管が流れて来たんよ。ほいで、 漁師の子供も、それをカチャッとやって、海に放り込むと、ボンッと爆発するわけ。 魚が浮くでしょう。それを捕るというのがあったわけ。ほいで、私も、そんな事を 聞いておいとって、私も遅発信管、こんな性分だから、どんなになってるんかなと 思うてね。探ってみよって、押さえてみたら、ピンがあって押し切れんのよ。 ピンがあるから、押し切れんのやとおもうて、そのピンを、わざわざ抜けるように して、抜いて、パチンと、やったのよ。ほいで、ちょっと火花がパチンと飛んでね。 ありゃ、なんかな思うたら、シューと煙がでだしたのよ。これは、いかんわと思うて、 パーッと遠くへ、ほったのよ。だから、藤野さんが、気の毒でしょうがないわけよ。 だから、あれが瞬発信管だったら、藤野さんのような目におうとるんやろな思うて。 |
| 工藤 | 死んでしまったかも、わかりませんね。 |
| 湊 | そうそう。それを見て、妹が、あれは原爆のすぐ後やから、そういう音には怯えておるもんだから 『ワアー』と、泣き出してね。母親には、怒られるわねしたんだけど。 それを知って、あれは信管やと思った。それからは、危ないから、 こんなもん、いらわれへんわと。それは、軍隊が占領軍が来たら、あぶないもんで、 全部、海に捨てたわけね。それが、また潮の流れの関係で浜に流れ着いたわけね。 広島には、結構行ってたんよ。それが、何でか、わからんけど。行きよったら、 私のおった広島市立中学の生き残りは、10月10日だったかな、西広島の、これこれいう、 お寺に集合せいいうて。それも、ラジオも何も無いから、張り紙をしてあるわけよ。 それを見て、あ、そうかと思うて、行ったわけ。だったら、3年・4年は、郊外に 作業に行っとったから、ほとんど残とって。それを、さぼった奴は死んどったんやね。 ところが、1,2年全部合わしてもね。20人ぐらいしか、おらんかったわけよ。で、 彼らは、建物疎開ね。町の中の道路を拡張するために、指定された建物壊すための 作業に行ったわけ。で、現場集合は、朝8時やから、作業前に集まったところへ、 原爆が落ちたわけ。全部一ころやね。みんな、真っ黒けになって死によったわけ。 その状態を見て、ありゃー、思うたんだけどね。広島市内に、私が爆弾直後に行ったら、 学生なんか胸に名前とか、学校名が墨で書いてあったでしょう。その墨のところだけが、 焼けてね。他の白いところだけが残っている状態だったよね。それでも、まだ、 そんなに、かわいそうという感じが出てこないのね。10月、そうやって、学校を 再開するんだけど。校舎は、もちろん、あらへんし。 |
| 工藤 | 宮島にいたんでしょう。 |
| 湊 | 一番の連絡船に乗って、汽車に乗って広島へ行って。 |
| 工藤 | 通っていたんですか。 |
| 湊 | 通い。私なんか、まだ、いい方やった。宮島は近いから。一人は、もう、汽車で半日かかるような所でおってね。彼らは、一日おきに学校に出てきよるわけ。週一回とかね。学校にしてみりゃ、もう勉強どころじゃないんだけど。そうでもせにゃ、格好がつかんやったやろね。小学校の一室を借りてやるんだけど、そこも半分壊れたような校舎だから、雨が降れば、ジャージャー漏るしね。だから、あの時は勉強と
いうようなもんでなかったね。若い教師が来たりしたら、反対に生徒の方が騒ぎまくってね。大分、荒れとったんやね。まあ、そんなんで行ったり、行かんかったり。 学校も、そんな調子で、あくる年の3月まで行ったんだけど。こっちは、 学費が続かんし、ね。学校はそんな調子だし、一日も、はよう働かないかんし思うて。 あの当時は、中学4年でも卒業できたわけ。それで、4年で卒業してもうて。その、 あくる日から、広島へ行っては、勤め先を探した。一応、履歴書まで書いてね。最初に 行ったところが、印刷会社でね。明日から、来てくれと言われ。出て、考えてみたら あれ、一番の船で出て来ても朝7時半の開始に間に合わんと気がついて。履歴書を 返してもろうてね。今度は、保険会社の手伝いみたいのが書いてあって、でも、 保険会社が何か、わからんのよね。ほんで、しょうがない思うて、ここでも、行った ろう思うて行ったら、採用する言うわけね。まだ、17そこそこの若造を。行ってみたら、 社員が、みんな戦争に行って、人手不足やから、なんなと引っ張り込んどったわけよね。 昭和21年の4月からは、そこの会社に勤めたわけ。当時は、広島市の郊外にあって、 草津いう町の町民会館みたいもんで、そこの中に机を並べてね。その会社の広島支店を やっとったんよ。そこで、こっちは、そろばんも何も出来んかったやけど、こんな事に なるんだったら、そろばんも習わなちゅう事でね。事務の手伝いみたいな事をしていた だけど。その会社が、やっと、その年の暮れに、広島の元の位置に仮小屋みたいな 事務所を建てたんだけど。 電車は、もちろん窓ガラスは無いし、冬に雪が降ったら、運ちゃんにモロにかかるし。 当時、汽車に乗るいうたら、通勤用の客車は、ほとんど無かったからね。だから、 無蓋(ムガイ)貨車って知ってる?、屋根の無い、石炭や木材を積んだりする。あれを 繋いで来よるわけ。あれに人間が乗って行くわけよね。時には、箱になって、ドアを ドンと閉める貨車。あれに入れられて。 |
| 工藤 | 湊さんは、国鉄で通っていたのですか?広島電鉄ですか? |
| 湊さん | 国鉄。あの頃、鉄道いうたら、ほとんど国鉄でね。
満員の時なんか、屋根の上まで乗った事はないけど、車両と車両の間で、両方に足を
かけてやってみたり、機関車の前のところを掴んで乗ってみたりは、してましたよね。
それが、当たり前のような気になっとったから。 今でこそ、宮島口から、広島直通の広電が走っているでしょう。あの頃は、全部、 西広島駅で乗り換えだったんだよね。 その会社で、22年の夏前まで、働かせてもらった。 |
| 工藤 | いつまで、宮島におられたのですか? |
| 湊さん | あくる年の21年の7月まで。それから、広島の郊外の海田市(かいたいち)、広島の二つ手前の駅ですけどね。そこに1年住んでた。 |
| 工藤 | なぜ、そこに住んだのですか? |
| 湊さん | 宮島で、被災した者同士、住んでいたんだけど、ある程度、落ち着いてくると、おふくろと、あっちとは兄弟とはいうものの、段々ややこしくなってくるわけよ。母親は、もう、こんなところで、という気持ち、また友達に頼んでおいといて。友達の嫁ぎ先、
亭主と二人で、子供がおらんかって、 『うちへ、来んさい。』と、いうような事で、そこへ行ったわけ。もう、あの当時、 全然、抵抗なかったけど、そのご主人という人が、韓国人だったわけ。日本名に しとったけどね。 自分では、なんか学校へ行きたい思うて。父親の友達なんかが、 学費を出したるから、言うてくれた時期もあったんですけど。それは、断って。 そのうちに母親も、何とか食う道を探さないかんいうわけで。戦時中から、知りおう とった京都の父親の友達の人が、京都で呉服屋やうとって、広島だったら、呉服を 持ってってね。呉服を売れば、たこう売れるから、それをやらんかちゅ話でね。物は、 こっちから渡して後払いで、ええから、そっちで売りなさいいう事で。それを、 やらしてもらうようになったわけ。ところが、今のように、宅急便で送るわけには いかんから、取りに行くわけよね。広島から、京都まで、汽車で行くわけ。その汽車が、 寿司詰め超満員でしょう。ほとんど300パーセントぐらい。私は、経験あるけど、 出入り口から乗れんから、窓から飛び込むわけよね。中の奴は、 飛び込まれたら 困るから、押し返すわけよね。そんなにして行き帰りしとってね。 22年の夏頃になると、同居しとったら、なんとなく、おかしい雰囲気になってくるわけよね。そこのご主人は、体のごっつい人でね。もう本当に優しい人でね、その人は 好きやった。ところが、母親と友達の、そこの奥さんと、もう一つ仲が良くないから。 で、そんな言うてるうちに、京都の人が、いっそ京都に来たらどうやちゅう話に なってね。ほいで、 『いや、家も無いから。』 その人が、 『家を借りているから、屋根裏でも、いいじゃないか。』 と、言う話でね。 『ほいっじゃ、広島も75年、草もはえんちゅう話だから、行こうか。』 ちゅうことでね。 それで、いよいよ広島を引き上げたけど、もう、布団一重ぐらいのもんでね。品物いうたって。 |
| 工藤 | 『昭和20年8月15日から、始った下痢は、いつまで続きましたか? |
| 湊さん | 約1ヶ月ぐらいね。 |
| 工藤 | それは、自然に終わったのですか? |
| 湊さん | そう。 |
| 工藤 | 湊さんの被爆による症状は、それだけですか? |
| 湊さん | それだけ。だから、それも、別に原子爆弾の影響と全く考えていなかったから。自分では、戦後ずうっと、わしら、原爆の症状が全く無いと思うとった。 |
| 工藤 | 湊さんは、広島に落とされたのが、原爆だったことを、いつ知りましたか? |
| 湊さん | (しばらく考えて)はっきり、記憶にないね。 被爆者援護法というのを国が作って、その調査に乗り出して、被爆手帳を公布し始めての話。 |
| 工藤 | いつごろですか? |
| 湊さん | 昭和35年ぐらいからとちゃう?。 |
| 工藤 | それは、自分が、被爆者でなかろうかというのは、自主申告ですか? |
| 湊さん | 廿日市の先生の所へ行った時、役場で受けた罹災証明が、その後、ずっと証明してくれた。今でも、ぼろぼろになっているけど、持っている。 どっちにしても、広島の、みんなの死に方を見て、それから、その後、髪の毛が 抜けたりして死ぬ人。私の伯母みたいに、どっこも傷してないのに、ゲエゲエ吐いて、 死んだ人。これは、何か、おかしなもんだ。だから、私ら、あれは毒ガス言いよった わけね。あるいは、子供心にも、殺人光線みたいに。とにかく、何か得体の知れん 奴じゃという事はあったわけ。自分では、そんなに深刻に思うてなかったけども。 ピカにおうた人いう事で、もちろん結婚なんかは、敬遠されるわけね。 原子爆弾ちゅう名も、占領軍も極力押さえとったのが、私も持っとるけども、戦後、 初めて、原子爆弾の記録写真を出したのが、朝日新聞だったわけね。小さな パンフレットでね。それを見て、こういう事だったんか、いう事がわかったわけ。 確か、昭和29年頃ですよ。 |
| 工藤 | 最後に、社会でもいいですし、政治でもいいですから、言いたいことは、何ですか? |
| 湊さん | まあ、やっぱり、この頃、よくわかるのが、喜納昌吉さんの 『すべての武器を花に』って言うでしょう。やっぱり、あれやと思うわけ。結局、 武器を持つ者が、武器の無い者を押さえるんですよ。だからね、お国の為にと 言うけれどね、私ら、身に染みて知っているのは、国の軍隊は絶対に国民を守って くれんちゅう事。『すべての武器を花に』の一言に尽きる。 |
| 工藤 | 貴重なお話、ありがとうございました。 |