縁切り鋏

 

天に向かって数本の杉が伸びている。

どれをとっても樹齢はゆうに百年を超え、直径は大人の男が両手を広げたくらいはあった。

見事な枝振りで、夏の青い空を杉の葉が覆い隠していた。

蝉時雨が降り注ぐ午後、寺の庭を一人の少年が、竹箒で掃いていた。

寺は大きなものであったが、古びており、本堂のあちらこちらの柱は角をなくしていた。

そこへ、白いセダンが一台やってきた。ゆっくりと停まった。

車からは、年の頃なら三十過ぎの女性が一人、降り立った。

グレーの服を着ていた。

背の高さは庭を掃いていた少年より少し低い。160センチくらいであろうか。

少年は箒の動きをとめ、女性を見た。

女性は、少年に何かを尋ねようとして、一瞬動きが停まった。

無理も無い。少年の容姿はあまりに整い過ぎていた。

濡れた黒曜石に似た瞳は、絹のような肌を持つ、ほとんど完璧に近い顔の印象を

より一層たかめていた。

この少年に見つめられ、心を乱されない女性など、この世に存在しないであろう。

数秒後、奇妙に張りつめた沈黙を破り、少年は口を聞いた。

「何かご用ですか?」

女性は呪縛が解けた様に少年に聞いた。

「縁切り寺はこちらですか?」

 

 田中恵子は出版社に勤務していた。

 仕事は総務課の事務、つまりは雑務であったが、パソコンも無難にこなし、

生来の几帳面さもあって、社内の評判は良かった。

課長の信頼もあり、

「彼女にまかせれば、まず失敗はない」

という評価を得ていた。

五年前に臨時職員として入社したのだが、ちょうどそのころ正職員が寿退社したため、

正職員として採用されなおしたのである。

容姿もなかなかで、二十歳そこそこの娘の様なみずみずしさはないものの、

年相応の魅力をもっていた。

男子社員にもウケがよかった。

既婚ではあるものの、飲み会に誘われる回数は、他の独身女性社員よりも多かったか

もしれない。  

そんな恵子にも悩みがあった。

 エリート街道を突っ走っていた、彼女の伴侶、田中晋一が、折からの不況をうけ、

北海道支社勤務を命じられたのだ。

人事異動とは名ばかりで、あからさまなリストラであった。

彼は、高すぎる彼自身のプライドから退職を申し出た。

 その日から、彼は少しずつ変わり始めた。

穏和な性格であった彼が、二人の子どもにあたりちらしはじめ、あげくには恵子にも暴力を振るうようになった。

 再就職を探しても、思うような働き場所はなかった。

いや、実際はあったのかもしれないが、彼の自尊心を満たす様な場所ではなかったのだ。  

恵子の給料で、一家四人、カツカツであったがそれでも食べていける状態ではあるのだが、

晋一の自尊心はずたずたであった。

 彼は次第に酒を飲むようになり、暴力をふるう回数が増えていた。  

幼稚園に通う次女は、あからさまに晋一を嫌い始めた。

原因が自分自身にあるとわかりきっているだけに、晋一は余計に荒れた。

 悪循環はどんどんエスカレートしていった。 ある日曜日、子どもたちが外に遊びに行っているとき、

昼間から酒を飲んで居間にひっくりかえっていた晋一が、台所で食器を洗ったいた恵子をいきなり後ろ

から羽交い締めにした。

「何をするの?」

恵子は驚いた。 晋一は恵子のスカートをたくし上げ、下着の中に手を入れて来た。

「ちょっと、止めてよ!」

身を翻し、晋一から逃げる。

嫌悪感があった。

晋一の口から漏れる酒臭い息がどうにも我慢ならなかった。

その気持ちが恵子の顔に浮かんでいる。

晋一は、恵子の顔に浮かんだ嫌悪感を敏感に察知した。

「おまえは、本当は俺が嫌いなんだろう?」

「どうしてそんな事を言うの?」

「職をなくして、新しい働き場所も見つからず、家では酒ばかり飲んで、子どもたちやお間に当たり散らす、

そんな男に愛想をつかさないはずはないもんな!」  

彼の目は赤く腫れていた。単に酒を飲んでいるからだけではなかった。  

再び襲いかかる晋一に、恵子はなされるがままであった。  

抵抗する気力もなかった。  すべての衣服をはぎ取られ、彼女の体の上で動く晋一を抱きしめる事もなかった。

 それは愛情の交換などではなく、一方的な強姦に近かった。

情けなかった。  もう、この男とは一緒にいたくない、そう思った。

次の日、恵子は二人の子どもを連れ、家を出た。      

 

大きな本堂に、先ほど庭を掃除していた少年と、老僧が一人座っていた。  

その向かいに田中恵子が正座している。  

少年と老僧の背後には、大きな仏像があり、田中恵子と仏像は、二人越しに向かい合っている。  

本堂の中を風が通りすぎる。

夏の午後であるというのに、それほど蒸し暑くなかった。  

外の蝉の鳴き声が、本堂の中にまで響いている。

クマゼミの鳴き声の中に、ツクツクホーシの声が二割ほどまざっていた。  

 

「それで、この縁切り寺にきなさったというわけじゃな」  

白い髪に白いひげの小柄な老僧は、田中恵子にそう言った。  

「はい。この寺には、人と人との縁を切れる鋏があると聞きました。」

 「確かにある。しかし、あんたの決心は本物なんじゃろうな?」  

「私の気持ちは決まっています」

 「うむ、わかった」  

住職は少年の方を見て、何かを取ってくるように命じた。  

少年は本堂から奥に入り、しばらくして両手に漆塗りの箱を持って帰って来た。

 住職はその箱を受け取り、蓋を開けた。  

中には朱の布があり、何かを包んでいた。 包みを開けると、ものものしい鋏があった。

「これが縁切りの鋏じゃ。これは、目に見えない物を切る力があっての。ひとと人との縁とは、目に見えない

糸でつながっておる。それをこの鋏は切る事が出来るのじゃ。ただし、中途半端な気持ちで使うと、使った本

人に災いをもたらすのじゃよ」

住職は、鋏を恵子に渡した。 ずっしりとした、大きな鋏であった。

所々に飾り彫りが施されていた。

「またの、一度この鋏で切った縁と言う糸は、もう二度とつながる事は無い。よろしいな」

「はい」

恵子は手に取った縁切り鋏を大きく開いた。

「よいか、おまえさんと、ご亭主との縁の糸はここにある」

住職は、何もない空間を左手の二つの指で摘む動きをした。 そして、右手で指さす。

「ここじゃ。ここを切るんじゃ」

恵子は大きく鋏を広げた。

 

晋一と知り合った頃の事、

二人の子どもが生まれた時の事、

多くの思い出が一瞬にして恵子の脳裏を横切った。

彼女は目を閉じた。

そして、住職の指した、恵子と晋一との糸を切った。

 

ばちん、と本堂の中に鋏の音が響いた。

「ありがとうございました」

田中恵子は一礼して、車に乗り込んだ。

その顔には清々しささえあった。

「縁を切って、本当に良かった。もうこれで、新しい人生をやっていけそうです」

そう言い残し、恵子は寺を後にした。

蝉時雨が、恵子の乗った車にも染み入りそうであった。

本堂に戻った少年は、恵子が使った縁切り鋏を手に取り、不思議そうに見ていた。

「この鋏、人と人との縁を切る事ができるのですね」

住職が、白いひげの下から、黄色い歯みせて笑った。

「しかし、僕の霊感がおかしいのでしょうか、この鋏を見ても、さわっても、魔力も霊力も感じません」

「月也よ、おんし、この挟みを見るのは初めてかの?」

「はい」

「月也よ。この鋏はな、古いだけで、おんしが言うとおり、何の霊力も持ってはおらん」

「え?」

「縁とはの、自分で切るものなのじゃよ。あのおなごは、ここにあると儂の言うた、ご亭主との縁の糸を、

挟みではなく、自分の心で切ったのじゃ。もう気持ちは揺らぐことはあるまいて」

 

蝉時雨は一層その音を増し、木々の間から零れる夏の陽差しは、大きく西に傾いていた。