柳川夏子は、最近体調を崩していた。
喘息気味であり、学校を休む日が増えていた。
彼女の事を、今井陽子は心配していた。中学三年の夏休み前である。学期末テストも多く、今の欠席は成績に直接響く。
夏子の成績は、上の中であった。休みがちでなかったら、間違いなく学年トップクラスにあるであろう。
陽子の成績は夏子ほどではなかったが、まあまあいい方であった。
陽子は小さい頃からの夏子と仲が良かった。姉妹のいない陽子にとって、夏子は友人であり姉妹の様な存在でもあった。
ただ、心配なのは、夏子の病気である。陽子にとっては、家族が病気になっているのに等しいのだ。だいたい、夏子の家族は病弱な家系であった。夏子には弟と妹がいたが、二人とも喘息の発作が元で無くなっていた。弟は3年前、妹は昨年、突然の発作を起こし息をひきとっていた。
陽子は気が気ではなかった。一番の親友が、病気で死んでしまったらどうしよう、そう思うと夜も眠れない。
そんなとき、ある噂を耳にした。
夏子の妹や弟がつぎつぎに無くなったのは、あの家に悪霊がついているからなのだと。
陽子は、一念発起した。
自分で貯めた郵便局の貯金をおろし、ある寺を訪れた。
「虚空寺」
彼女が住む神幸町の山手にある大きな寺である。
古びた寺には白髪の老僧と、天使と見まごうばかりの美少年が住んでおり、いかなる厄災や魔も祓うと評判であった。
虚空寺の本堂に、老僧と少年が一人、そして陽子が座っていた。
老僧は小柄で、ふわふわとした白髪が伸びている。髭も白く、陽子は水墨画の仙人を連想した。少年は十六、七の華奢な、それはそれは美しい顔をしていた。瞳は濡れた黒曜石を思わせ、驚くほど大きかった。唇は血のように紅く、夜の闇を絹糸にした髪が広い額にかかっていた。その顔立ちは神の造形に近い。
少年にみとれ、呆然としたのもつかの間、白髪の老僧に、少女が封筒を差し出した。
白い封筒には「お布施」と書かれていた。
「私の友達が、悪霊にたたられているのです。どうか、祓ってはいただけないでしょうか?」
「悪霊とな?」
老僧が怪訝そうな顔をする。
少年の顔を見た。
「月也よ、どう思うかの?」
少年の名は月也(つきや)というらしい。
少年は、ほんの少し顔を傾いだ。
老僧が少女に言う。
「悪霊というもの、取り憑かれたものの周辺にいる者まで、影響を及ぼすものなのじゃよ。話をきけば、そなたもご友人のそばにいるのであろうから、儂らからすれば、そなたからも微弱な悪霊の"気"を感じるハズなのだが、それが無いのじゃ」
「と、いうと?」
「儂らの管轄外ということじゃな」
「そうですか・・・・・・」
少女の落胆の声に、老僧は不憫になり、
「ううむ、いや、ひょっとしたら、儂らの感じぬ何かがいるのかもしれぬ。のう、月也よ行ってくれぬか?」
「お師様・・・」
月也は少し驚いて老僧の顔を見た。
「ありがとうございます!」
陽子は飛び上がって喜んだ。
「夏子、もう大丈夫だからね。月也さんが、悪霊を祓ってくれるからねッ」
ベッドに横になった夏子の手を握り、陽子が言った。
月也は部屋の四方を見回した。風水的にも、霊幾何学的にも、月也のカンに触るものは無かった。家全体にも悪相は何も無かった。
ただ、夏子という少女の"気"は極端に落ちていた。
「ね、夏子、お母さんは忙しいの?」
「うん。看護婦って大変らしいのよね」
「でも、病気やお薬に詳しいから、心強いんじゃない?」
「そうね。いつもそばについて、処方したお薬をこの湯飲みで飲ませてくれるの。ちょっと甘えちゃう」
夏子は幸せそうな顔で笑った。小さい頃離婚した両親。一緒にいた幼い弟と妹は相次いでこの世を去り、夏子にとって頼れる唯一の存在は母親一人なのだ。
「いいなぁ。うちの母さんなんか、仕事ばっかりで忙しいから、ろくに話しも出来ないのよ」
陽子は口を尖らせて、それでも笑いながら、夏子に言った。
月也は、夏子の病状に霊的な要因が無いことを確認した。やはり、彼女の体質らしい。
「色々見ましたが、悪霊は取り憑いていないようですね」
月也は様々な霊的角度からこの家を見たが、異常の無いことを陽子に告げた。
「そうですか・・・・・」
陽子はがっかりしたような、安心した様な笑顔を作り、言う。
「夏子の病気、悪霊のせいじゃないって。よかったね」
「もう、陽子は心配性なんだから」
「夏子さんの病気が良くなる様に、僕がちょっと"おまじない"をしましょう」
月也は夏子のベッドの横に座ると。呼吸を整えた。
身体の中で気を練る。
呼吸によって大気から取り入れたエネルギーを身体の中に巡らせ、増幅させ、濃縮させる。それを肩を伝い、肘を伝い、そして指先に集める。
「あ、指先が光ってる」
夏子が声を上げた。
「え、どこ?見えない」
陽子が不可思議そうに言う。
月也は指先に集めた"気"の玉を夏子の額に当てた。
光の玉は吸い込まれるように夏子の額の中に入ってゆく。
「うわぁ、すごい。身体が元気になるのがわかる!」
夏子は上半身を起こし、細い腕で力瘤を作ってみせた。
「コラ!夏子!急に無理するんじゃないよ」
叱り口調の陽子も嬉しそうだ。
「僕の中で練った気を、夏子さんに移しました。人間の身体は、気と質から出来ています。僕の気で、貴方の"気"だけが強くなったのです。質、つまり肉体は弱ったままですからそんなに無理はしないでくださいね。でも、気を強くしてやれば、質である肉体の回復も早くなります。じき、よくなるでしょう」
気持ちよく、背伸びした夏子の手がサイドボードの上にあった湯飲みに当たり倒れた。
月也は反射的にその湯飲みをとめた。
「?」
月也は不思議そうに、夏子がいつも薬を飲む湯飲みを見た。
「どうかしましたか?」
「あんたがあんまりはしゃぐからびっくりされたのよ」
月也は湯飲みを置くと、陽子と一緒に夏子の家を出た。
「今日はありがとうございました」
陽子はぺこっと頭を下げた。
「僕は何もしていませんよ」
「いえ、おまじないをしてもらったじゃないですか」
「あれは、夏子さんの自己治癒力を高めただけの事です。時間はかかりますが、きっと良くなると思いますよ」
「よかったぁ」
「羨ましいですね」
「え?」
「そうやって、お友達を心から心配できる。あなた達のお互いの関係がですよ」
「腐れ縁ってやつかな」
陽子は頭を掻いた。
月也は寺に帰り着くと事の次第を老僧に説明した。
「そうかそうか。月也の気を送り込んだのなら、その夏子ちゃんとやらも、近々元気になるじゃろう」
「ただ、気になる事がひとつ」
「なんじゃ?」
「夏子さんが使っている湯飲みを持った瞬間に、イヤな感じがしたのです」
「ほほう。イヤな感じとな」
「それが、僕にもよくわからないのですよ。霊的なものでも無かったのですが」
「その湯飲みとは、夏子ちゃんがいつも使っているものなのか?」
「そうらしいのです。なんでも夏子さんの母親が看護婦で、彼女のために薬を処方して飲ませてあげるそうです」
「-------------------------------」
「お師様?」
「月也よ、お前はとんでもない魔物を見逃しておるかもしれんぞ」
「見逃す?」
「よいか月也、あちらの世界から来たもの達を消去するちからを儂らは持っておる。じゃが、本当に恐ろしいものは、魔ばかりではなかろう。儂らにもどうにもならん魔、それは人の心の奥底に住むものじゃよ」
「母親は看護婦なのであろう?徐々に弱りつつある我が娘を何故家に置いておく必要がある?まず医師にみせ、入院させるのが道であろう」
「それでは、まさか?」
「おそらくはな。多分、その夏子ちゃんには、多額の生命保険がかけてあるはずじゃ」
「我が子を殺すのですか?母親が我が子を・・・・何故」
「金じゃな」
月也は走った。寺を出て、宵闇の中、夏子の家までの最短距離を走る。
それは道路ではなく、木々の枝であり、ブロック塀の上であり、屋根であった。
夏子の家に着いたときには、宵闇が真の闇に喰われたあとであった。
赤い回転灯が、彼女の家の玄関を照らしていた。
近所の人達で人だかりが出来ていた。
その中に、陽子がいた。
「月也さん、夏子が、夏子が・・・・」
「---------」
「もう、息をしてないって。そんな事ってある?月也さんだって、おまじないしてくれたよね、なのに、どうして」
救急車に、担架に乗せられた夏子と、それに付き添うように夏子の母らしき女性が乗り込んだ。
夏子の葬儀が行われたのは二日後であった。
うなだれる陽子の肩を軽く抱き、月也は夏子の眠る部屋へ入った。
親戚と思われる人達が数名、祭壇の左右に座っていた。向かって左には、喪主である夏子の母親がいた。
陽子は、棺の窓から見える夏子の顔を見て、小さく嗚咽した。
赤く腫れた眼から、また一筋涙が流れた。
何かが天井から陽子の背に落ちてきた。
それは小さな虫であった。
黒い甲羅を持った、虫。
「これは」
甲羅には、苦悶に歪む人の顔に似た紋様が浮かび上がっている。
月也はそれを指で摘むと、軽く念を込めた。
虫は「ぎゅ」と声を上げると煙の様に消滅した。
障気が結晶化しているのだ。それが、月也の目には虫として見えるのである。
無論、月也以外の人間には見えない。
ぽた、ぽた、と、また虫が落ちてきた。
月也の身体にも、何匹かの虫が這う。
彼にしても、滅多にない経験であった。これほどまで多量の障気が凝縮し、一箇所に集まるなど。
ぎ、ぎ、ぎ、ぎ。
ち、ち、ち、ち。
天井を見上げると、びっしりと無数の虫が這っていた。
葬儀に来ている人達の背にも、虫は落ちる。
が、その虫達は、ぞろぞろと、ある一点だけを目指して動いていた。
夏子の母親である。
じ、じ、じ、じ。
きち、きち、きち。
(月也さん)
声がした。
(わたし、知っていたの)
夏子の声である。
(あかあさんが、私に飲ませているのが、毒だって。)
(おとうとも、いもうとも、そうだったの。)
(だから、こんどは私の番だってわかっていたの)
(ほんとうは、おかあさんはあたしたちのことすきだっていうこともしっている)
(だから)
(だから)
(おかあさんも、つれてゆく)
月也が感じた夏子の意思は拡散し、障気へと戻る。
無数の虫は、黒い塊になり、夏子の母にはい上がった。
小さな虫が、夏子の母の鼻から入ってゆく。
小さな虫が、夏子の母の口の中へ入ってゆく。
「陽子さん、出ましょう」
月也は陽子を連れて外に出た。
陽子を自宅まで見送り、月也は振り返った。
夜の闇の中、渦巻く障気が、竜巻の様に夏子の家に落ちていた。
(せめて来世では仲の良い親子に)
月也は夜の闇に向かって、印を結んだ。