空の間の下にて……
第壱の始まり
彼女と初めて逢ったのは……
とてもよく、真っ青に晴れ渡った……海の底でした。
彼方に……、キラキラと輝くモノがある……。
死海……。
地図には別の正式な名前が記されているが、この辺りでその名前で呼ぶ者は居ない。
海の水は、非常によく澄んでいる。いや、その透明度を考えると異常といった方が良いかもしれない。
視界の彼方まで延々と天の光が行き届き、まるで海面の下にあるもう一つの空中を飛んでいるような錯覚さえ覚える。
そしてその空中を、一体の……一人の海魔が進んでいく。
「はぁ……ヤ、になっちゃうわね。……もうっ」
緑がかった、ゆるくうねる青く長い髪の毛。それを纏うような、整った顔もも少し青みがかっている。
細く長くのびる下半身は、まるで蛇のようだ。
だが、上半身は人と変わらず、すんなりと伸びた両手には水掻きらしきモノも鈎爪らしきモノもない。
「あの船乗り、嵐が来るから帰った方がいいわよ。って、教えてやったのに。何が”化け物だー!”よ」
くるりと捻って一回転。長い髪が、絡まることなく少し遅れてうねる。
「まさか今頃、港の酒場で嵐が来たのを私のせいにして酒飲みまくってくだ巻いてないでしょうねぇ」
くるりと背泳ぎ。
遠くに……、キラキラと輝くモノがある…………
ちらり……とそちらを見るが、気にしない。正確には、気にする気が無い。気にしたくない。
周りには誰も居ない。
小魚も居ない、プランクトンさえも居ない。一見浅く見える深い海底にも、海草の類は一切生えていないし、サラサラとした底の砂を掘っても貝殻さえ出てこない。
生き物が一匹も居ないのだ。
見た目は美しく綺麗だが、この区画だけポッカリと穴が空いたように広がる海を、人も魔族も魚も恐れて近づかない。
「きれい過ぎるからかしらね……」
ぼーっとどこかを見つめながら、何ともなしに小さく呟く。
嫌なことがあると、ここに来て愚痴るのが彼女の習慣に成っていた。
最初は怖くて近づけなかったが、それでも好奇心に打ち勝てず徐々に近づき……今ではこの海の隅々まで知っている。
彼女には何故ここに一匹の生物も居ないかは解らなかったが、同時に何の危険性も無いことも知っていた。
今では、一番のお気に入りの場所だ。
「翼……?」
近くで、キラキラと輝くモノがある……
正面に向き直ると、光る筋を見つめる。
今度は気にしない事はしなかった。
ただの光りの加減かと思ったが、ほぼ死海の中央の辺りで光りのごとき翼が天に伸び上がっている。
……何かある?
彼女の記憶では、その辺りも他と同様まっさら砂が平坦に続くだけで、何か反射する石のような物すら無い。
昨日の嵐で船が沈んだ?
ありえない。嵐のあった場所とはかけ離れているし、人の船がこの海域に来るとはとても思えない。
……何だろう?
自分で気づいた時には、進路はそこへと変わっている。
光りの翼は、まるで彼女が近づくのを察知したかのように徐々に薄れていく。
消える……。間に合わない…………。
「………………」
そして、間に合わなかった。
翼の痕跡は、何もない。
見上げる。空は、いつものようにただの白い日差しを降り注いでいる。
だが……、見下ろした先。透明度が高いためすぐそこに見えるが深い海底の先に、一人の少女が横たわっている。
死体……?
ピクリとも動かず目を閉じているが、死体というよりまるで眠っているように見える。
濃い茶色の動きやすそうな服、細く幾つかに束ねた長い黒髪。
歳は、十四、五だろうか……人間なら。
少なくとも形状は人間をしている。人型の海魔の類ではなさそうだ。
そーっと、水を揺らがせる事無く近づく。
だが、ほんのわずかな水の波紋に気づいたのか、少女はゆっくりと瞼を開く。
大きく、ハッキリと。
まるで打ち合わせでもしていたかのように、二つの視線が交差する。
いや、少女は海魔を見た訳ではない。たまたま瞳を開いたところに、海魔の瞳が来たのだ。
深い、海の底にも似た深い水晶のような瞳だ。その瞳からは、何の感情も読みとれない。
彼女は、困ったように少女に笑いながら片手を振ってみせる。
そんな……、乾いた空気がどれだけ続いたのか。
長かったような、短かったような。
ただ…不意に……
本当に唐突に、少女は今まで忘れていたように苦しみ始めた。
「ぜーっ。はぁーっ、はぁーっ、ぜぇぇーっ……」
「大丈夫?」
張り付いた海藻のせいで少し薄汚れて見える岩場の海岸に半端よじのばり、海水を吐いては荒く呼吸する少女に海魔が背をさすりながら心配そうに顔をのぞき込む。
「はい。何とか……」
多少荒いが、少しだけ間をおいた後、瞳を大きく開いてハッキリと返事する。
顔色も、今すぐ死にそうなほどは悪くないようだ。
日は高く雲も無い。冷え切った……というほどでもないが、冷たい体はすぐに温まるだろう。
「何で、あんな所で寝てたの?」
「いえ。寝てた訳では無いんですけど……。なんか落ち着くんで、苦しいの忘れてました」
「まぁ……、あそこは確かに落ち着くけど」
自分もそれであの場所に居たことを思い出し、なんともなしに同意する。
しかし、海中で陸上動物である人間が……
「助けてくださいましてありがとうございます」
塗れて張り付く髪の毛の先から滴を落としつつ、また、にっこりと微笑む。
「………………そう。ありがと…」
………………。
「……え…」
言ってから気づく、お礼を言われたことにお礼を言ってどうする?
だが、子供じみた屈託のなさがあり不思議とそう言ってしまう表情だった。
いや……、それとも…………
思いを閉じこめるかのように、奥歯を噛みしめる。
まぁ、確かに、考えてみると人からお礼を言われるような事をして、人からお礼を言われたのは初めてである。
ある意味、感動の瞬間である。
「そ……そ〜んな、事より。何であんな場所に居たのよ」
「海に落ちたんです」
海に……、落ちた…………。
岸からでは遠すぎる。ならば船だろう。しかし、まともでなくとも船乗りと呼ばれる人間が乗る船があの海域を通ると考えにくい。
すると……、ボートか何かであの場所へ…………。
あの場所へ……、一人でボートで行ったのなら……自殺?
そう言えば、さきほどからの屈託のない表情。単に覇気が無い作り笑いとも見えなくもない。
「アンタね。死ぬんなら、他の場所にしなさいよ。お気に入りの場所に、白骨なんてやーよ」
「死にませんけど」
「そう」
唐突な言動にもただキョトンとあっさり応え、海魔もあっさり引き下がり、あさっての方を向く。
「死には…ね………」
少女は少し、どこか悔しそうに口の中で呟き、慌てて表情を戻す。
もっとも、海魔の方は表情に正比例して今のやりとりの恥ずかしさに心臓がバクバク言っていて、そんな呟きを気にとめる余裕は無い。
自分はさっきから何をやってるんだか……。それでいて、不思議と嫌な気分にならないのが本当に不思議である。
「所で、街はどちらでしょうか?」
「街……?」
まぁ……、発言順序としてはそうだろう。だが、ここからは岩が張り出した地形的に街は見えないが、そんな離れた場所ではない。
この辺りの者なら、雰囲気で解りそうなものだが……
服装もこのあたりの者とは少し違う。案外、遠くから来たのかもしれない。
「………………ふむ」
「どうかしたんですか?」
「いえ、気にしないで……」
ちょっと肩を落として考え込む海魔にタイミングよく声がかかり、作り笑いとはいえ海魔はつられるように今日初めてニッコリと笑い返した。
ぽかぽかとした日差しの中、海岸沿いの道を街へと歩く。
遠目には絵画から抜き出したような光りを返す、街が近づく。
それは光が彩るまさに幻影で、近づいてみると家も堤防も薄汚れ、居並ぶ建物には老朽化の後が目立ったが、人々の歩く姿は絵からは感じ取れないような活気に満ちていた。
遠く海に目を運ぶと、波間にいくつかの白い小さな固まりの集団が浮いている。
ゴミ……とも見えなくもないが、波が大きくうねる次の瞬間美しい羽ばたきをきらめかせて飛び上がる。
街に振り返ると、黄色い光りを返す大きく角張った人工物の群が、緩やかに視界を上へ上へと登っていく。
そて、少し離れた緩やかに隆起した丘の頂上は、町並みとは一風違う鋭利とも優美ともとれる大きな固まりがある。おそらくは、この街の領主、いや、王の城かもしれない。
「リムゼム王の城よ。ホロウ城とかなんとか言ったわね」
海魔が視線に気づいて解説する。
そこそこ大きな街のようだ。だが、王城があるとなるとこの国の首都。そう考えると少し小さい気もしなくもない。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫、大丈夫」
街の入り口辺りの防波堤の一角に佇み、心配そうに少女の言葉が漏れ、海魔が余裕で笑む。
この一角は漁港なのか、小さめの細長い漁船らしき船が何艘も係留されている。
遠くには、大きな船も見えるが、漁船ではないようだ。装飾からして客船かもしれない。別の港にあってこの大きさということは、そうとうの大きさなのだろう。
案外、外洋貿易船かもしれない。
別に具合が悪いわけではない。だが、海魔の足取りは重い。
陸上なせいか、二本足なせいか、ただ単に歩く速度が遅いのだ。
少女は、なんともなしに周りを見回す。
あまり身につけた服装は綺麗とはいえないが、行き交う荷物を運ぶ男も女もどことなく微笑みを浮かべてる。
「平和ぼけねぇ〜」
海魔が、何か紛らわせるかのように、車止めの杭に片手をかけて呟く。
どこからもって来たのか街娘のような木綿のシャツに少し高そうなカーディガンを来ていた。長いスカートから伸びた足は、サンダルをひっかけている。
端麗な容姿が加わると、ちょっとお嬢様っぽくも見えなくもない。
魔物の中でも、海魔が得意とする言われる変化能力らしい。緑ががかった髪は濃いグレイに染まり、肌もそのまま肌色に成っており、見た目だけで海魔と気づく者はまず居まい。
まぁ、海魔そのままで立つていても、遠巻きに白い目で過ぎ行くだけで、別にいきなり化け物とか叫んで斬りかかられる心配は無いのだが……
街中を探せば、人間以外の住人とも何人かは出会えるだろう。だが、人々の不信感漂う瞳にさらされるのはいい気分ではない。
それにしても、こうして人に化けて着飾っていれば、向こうから笑いかけられる事もあるのが却って腹立たしい。
ただ、服は着なれた感じがするが、歩きなれないらしく少し急ぐとすぐにもつれて転びそうになる。サンダルも、時々スッポ抜けそうな妙な動きを見せている。
十数歩ごとに、少女は海魔の足の動きを目で追っていた。
「わたしが、ついて来てくれませんかって無理言ったから」
「いいって、いいって」
あの後何のかんの話している内に、街へ一緒に行ってくれとしつこくせがまれ、勢いに負けてしまったのだ。
だからって、来てから謝られても困る。
それに、最初から全く行く気が無かった訳でもない……
「私も久しぶりに来たかったんだから、構わないわよ」
だから、いつの間にか海魔の方が来たかった事にしてしまう。
解ってはいるのだが、ついついそう言ってしまう。
と、何かザワメキ。
海魔と少女がそれぞれ違う方へ向き直る。
海魔の視線の先には、船乗りらしき数人の男達。なかでも、二十歳前半のいくら気候がよいとはいえ暑いわけでもなかろうに、半袖をさらに肩までまくり上げて腕の筋肉を誇示するような男へと向けられていた。
言うまでもなく、海魔の瞳には微笑みなど無い。
「あのゲスったれ……見ない顔だと思ったけど、この港のモンだったの……」
海魔の脳裏には、昨日自分をバケモノと呼んだ船乗りの顔が指名手配写真よりハッキリ映っていた。
「……あん?」
どうやらこちらの視線に気づいた……訳ではないのだが、騒ぎに見回し結果的にこちらの視線に気づいた船乗りが海魔を見つけ軽くヘタな口笛を吹く。
そして、仲間の船乗りとなにやら話し込む。
どうやらいい女が居たとかなんとか話しているらしいが、昨日の海魔という事には気づかないらしい。いくら、人間に化けて肌の色も違うとはいえ、顔の自体の作りは全然変わっていないというのに……。
ハッキリ聞こえた訳ではないが、その会話に海魔の眉がつり上がる。
そして、何を思ったのかこちらに向かってその男が踏み出し……
「あ、危ない」
ドゴガッ!
ベシッ
ゲシッ
フミフミッ!
少女の少し間の抜けた言葉もむなしく、向こうの通りから駆け出してきた一団にブッ飛ばされた上見事なまで踏まれる。
その一団は、全員フード付きのマントとマスクで顔を隠しており、一人は子供くらいの布袋の包みを抱えている。
一団は何事もなかったかのように通り過ぎ……
いや、突然驚いたように止まる。
マントの一団の前に立つ、一人の黒髪の少女。
手には、どこかで拾ったらしい長めの棒を持っている。
ちょうど石造りの道の上をうねるように背後から潮風が吹き、ちょっとばかりカッコイ。
言うまでも無く、先ほどまで隣にいた少女だ。海魔が目を離した隙に、棒を拾って回りこんでいたらしい。
そう言えば、声は隣からの物ではなかった。
「さてはアンタ達、人さらいでしょ。袋の中から子供の声が聞こえたわよ」
ぎくっ……
男の何人かが、あっさり”子供の声”と言う部分に反応して仲間がもつ布袋に顔を向ける。
にゃっ……
少女が満面の笑みを浮かべる。
子供の声など、耳に自信がある海魔にも全く聞こえていない。
明らかなかまかけだが、どうして解ったのか……?
「チッ……」
何かくぐもった声を吐き、全員がマントの下で何かをつかむ。おそらく、剣と見て間違いない。
回りで遠巻きながら、次々と人が集まってくる。
フードの下で、男達が周りを見回す。
さすがにここで剣を抜くのは、なるべく控えたいらしい。
「アンタ達、その子を置いていったら見逃すわよ。こっちも、放っておくわけにはいかにないけど、わざわざ無茶してとっ捕まえようなんて気はないから」
横から海魔が割ってはいる。
数より、複数の方向から制止された事で、ますます動揺が走る。
と……、ヤジ馬の壁の間を押しつぶされそうになりながら、もう一人マント姿が現れる。
こちらも前の一団と同じような服装だが、マントの色が違い、しかも子供のように背が低い。
そして……
「あ……!」
海魔が抗議の叫びをあげる。
あれだけの人数に踏まれても、たいしてダメージがなかったらしく起きあがろうとしていた男を、とどめの蹴りにはベスト・ポジションだというのに避け駆け抜け……
とすっ……
それに反応してマントの男投げた布袋を、空中で受け止める。
「解ってないわ、あの子」
首を振りグッと拳まで握ってしまう。
まるで、それが合図だった。
身軽になった男達は、唯一人垣が出来てない港の方へ一斉に駆け出し、小舟に乗り込む。
少女が追うが……
ダンッ
ガラガラガッシャン……
……マントの男の一人が立てかけてあった材木を倒して塞ぐ。
「……」
気のせいでなければ、見事下敷きになったようだが……
軽い材木だったようだから、頭でも打たなければ死ぬことは無いとは思うが……
あまりモロに喰らったせいか、材木を倒した男が何かほうけてる。
「……っ、のっ」
材木を押しのけ、少女が立ち上がる。見事なぐらい無傷のようである。
あの水圧で平気だっただけあってかなり丈夫だ。
マントの男は更に呆れたようだったが、ハッとして駆け出し係留綱を切った仲間の小舟に飛び乗り海へ漕ぎ出す。
「あー、あー!」
少女が何か去りゆく小舟を指さして叫ぶが、どうしようも無い。船はあるが、自分たち二人が漕いだのでは全然追いつけないだろう。
いや、指さしてるのは小舟ではない。その手前の海魔だ。
もしかして……追えと?
さすがにそこまでは出来ない。第一、別に目の敵にされているという訳では無いが、海魔とバレてはこちらの方が却って何か言われかねないし、今後この姿でも街へ入りにくい。
困ったように目をそらす。そらした視線の先に、一人残った小さなフード突きマントと、抱える布袋が佇んでいる。どうも、荷物の方が抱えて居る方より大きいようだ。
ぺこり
視線に気付いたらしく、一礼。
それから、向き直って少女の方にも一礼。
それが済むと、今度は無事人垣を抜けて駆け去って行く。
何が起こったか解っていないせいか、今度はそっせんして人垣は道をあけていた。
姿が見えなくなると、まるで打ち合わせしたように人垣が消え、今更ここから離れた方がよいと思ったのか、さきほどより辺りの人影がまばらになる。
とぼとぼと少女が海魔に近寄り、カランと棒を落として脇へ転がす。
「はぁ……、さっそく役に立てると思ったのに」
「そ〜そ〜。ところで、私はサティア」
近くの小料理屋に入り、注文が終わった途端不意に海魔が言う。
小料理屋の中は海風で痛んだ外装と違い、意外と広く小綺麗で、外の通行人よりは身なりの良さそうに感じる客が数人遅い昼食と談笑を交わしていた。
「イゼル。わたしは……」
パッと即答して少女の表情が止まる。突然の自己紹介にあっさり対応しておいて、その後で止まると言うことは……
続きを言いたくないのか……。 まぁ、サティアの方も事細かに生い立ちを話すつもりなど毛頭ない。
「ここまで来たけど、あんたどうするの?」
サティアがサイフの中の金貨を確認する。かなりの数だ。全部海で拾ったものらしく、後バケツで二杯くらいは持ってるらしい。
サティアはその拾った服と拾った金でたびたびこの街に遊びに来ているらしい。すると、この店はサティアのお勧めなのだろうか。
「初めて入るけど、雰囲気はよさそうね」
違ったらしい。
返事を促すように軽くサティアが見回した後、イゼルが少し思い切ったように言う。
「役に立つ仕事! ……ってありませんか?」
「役に立つ……仕事?」
何となく真剣な表情に押されて、考える前に反復する。
仕事……を探すのは当然だろう。人間は、それがないとお金が手に入らない。
しかし……、役に立つ?
役に立つといっても、人のため自分のため、色々ある。何より、この思い詰めたような表情は何なのか?
「役に立つ……ねぇ…………」
仕事より、こちらがキーポイントだろう。
「さっきもそんな事言ってたけど、正義の味方したいわけ」
「いえ、正義の味方じゃなくても」
しばし見つめ合い、二人して苦笑い。世知辛い世の中である。
「冗談はさておき、ボランティアって事?」
「ボランティアは最近、人聞きが悪いから……」
「それもそうね」
世知辛い世の中である。
難しい……
思わず腕組み。
結局の所、サティアはこの街の者ではない。いまこの街である仕事など聞かれてもさっぱり解らない。
「まぁ、悪事じゃない限り。大抵の仕事は世のため人のためになるわよ」
「自分のためには?」
む、難しい……
「人それぞれってヤツね……」
誤魔化しの笑いを浮かべ、厨房に視線を逃がす。
忙しそうに見えないのだが、料理は遅い。
ガタン……
荒々しい音……と共に、厨房ではなく店のドアが開く。
一人の男が逆光の中現れ、店内をキョロキョロ見回す。
と、サティアに目を留めるとツカツカと歩み寄る。
先ほどフードの一団に踏まれた男だ。
こちらからは見えないが、背中にはまだ幾つかの足形が残っている。
「おい!」
「アンタ、この辺りでいい仕事しらない?」
「パーミッダさん所が、後二・三人荷運びを探してたが……」
「パス。趣味じゃないわ。何かもめ事は?」
「そ……」
男が何か言いかけ、ハタと止まる。
「この街は平和ですから、もめ事なんてそうそうありませんよ」
やっと料理を持ってきた給仕が、そう言って料理を並べる。
「いや、ホーロウ城では最近幽霊が出るとかで、内々の騒ぎになってるってもつぱらの噂だぜ」
何か言いかけた男がまた会話につられる。
「幽霊……。そんなモノが出たからって何で騒ぐのかしらね」
ひょいと、フォークとナイフで器用にエビのボイルをむくと、口の中にほおりこむ。
「エビの殻は栄養あるんですよ」
「ふっ、そんな行儀の悪い事はしないわ」
そして、ライスを見事にフォークの裏に乗せて口へ運ぶ。
マナーとしてはともかく、こんな場末の小料理屋でやると何か変。だが、当人はいたくご満悦のようである。
「しかし幽霊ねぇ、アレーネ様の幽霊だったら……国王様も案外喜ぶかもしれませんけどねぇ……」
「確か、何年か前にお亡くなりになった王妃様ね……」
給仕の台詞に、サティアがスープをかき回しながら聞いた知識を総動員する。
「あの、この人の話も聞いて上げたら?」
ふと、視線だけ上に上げてイゼルが男の顔をのぞき見る。
ぱぁぁ〜っ。完全に気勢をそがれるは無視されるはだった男が、顔を輝かせその瞳を見返す。
「あんた……。いい人だな」
目尻に涙なんぞまで浮かべ、感激のあまりイゼルの手を両手で握る。
それからスッとサティアに向き直って、一つ深呼吸。
「ごちそうさまでした」
ピタ
サティア……では無く、イゼルがそう言ってカタンと立ち上がり。男が、一瞬だけ軟体動物のようにうなだれ止まる。
「どこ行くの……?」
何時追い抜かれたのか……。食べる速度に自信があった訳ではないがサティアが目をパチクリさせつつ、最後のサラダをかき込んで立ち上がる。
イゼルは、スタスタと後も振り返らずに戸口へ向かう。
「ホーロウ城ですよ。その幽霊騒ぎって言うの見てみます」
「あ、コラコラ」
まだ、スープが残っていた事に気付き立ったまま一気のみすると、多めに金貨を置いて追い掛ける。
パタム
「お客さん、注文は……」
やり場のなく立ちつくす男は、その声すら天使のささやきに聞こえたと言う。
つづく……(予定)